MCU:Fullmetal Alchemist   作:ゴミ収集者

24 / 24
襲撃

矢が飛んできた。

 

耳の横で、空気が裂けた。

 

エドの左手が壁に触れている場所の、指二本ぶん横だった。乾いた音を立てて、矢尻が鉄に食い込む。羽根が、まだ震えていた。矢の根元で、小さな赤い点が、一つ、点滅を始めた。

 

〈兄さん、離れて!〉

 

エドは、考える前に両手を打ち合わせていた。掌の間で、光が弾ける。足元の鉄板が、悲鳴のような音を立てて、せり上がった。

 

壁になった鉄板の向こうで、爆発が起きた。

 

衝撃が、背中を殴りつけた。エドの体は、宙に浮いて、通路の反対側まで転がった。肩、腰、膝。順番に、床が叩いてくる。耳の奥で、キーンと高い音が鳴り続けた。鉄の焦げる匂いが、喉の奥まで入り込んだ。

 

起き上がると、さっきまで手を当てていた壁が、黒く抉れていた。エドが錬成した鉄の支えは、無事だった。ただ、手を離したせいで、棒の動きが見えなくなった。

 

「エルリック君!」ロジャースが叫んだ。「無事か!」

 

「無事だ! レバーを離すな!」

 

ロジャースは、片手でレバーを握ったまま、もう片方の腕に盾を構えていた。黒装備の男が二人、通路の左右から、ロジャースに銃を向けている。盾が、弾を弾いた。弾かれた弾が、天井に火花を散らした。

 

エドは、床に手をついたまま、顔を上げた。

 

バートンが、通路の中ほどに立っていた。弓は下ろしていない。次の矢を、既につがえている。

 

「バートン」エドは言った。「いまのは、わざと外したな」

 

バートンは、答えなかった。

 

「外すつもりのやつが、外した。だったら、中にあんたが、まだいる」

 

「道を空けろ」

 

バートンの声だった。施設で交わした短い会話の声を、エドは覚えていた。あの時の声には、角があった。今の声には、角がなかった。音の高さが、平らだった。

 

「空けねえ」エドは立ち上がった。「あんた、俺に言ったろ。倒れられると面倒だって。今は、あんたの方が倒れそうな顔してる」

 

バートンの目の縁で、青い線が、一瞬だけ、揺れた。

 

「空けろ」

 

「空けねえって言ってんだ」

 

バートンの指が、弦を引いた。

 

〈兄さん、また撃つよ〉

 

〈分かってる〉

 

エドは、足を一歩、横に滑らせた。バートンの目が、エドの動きを追った。追いながら、手は弦を引いたまま、止まっている。銃でも弓でも、遠くを狙う人間は、放つ前に息を止める。この男も、そうだろうとエドは踏んだ。

 

息を止めた。

 

エドは、両手を打ち合わせて、床に叩きつけた。

 

通路の鉄板が、一斉にめくれ上がった。床が、網目に割れる。割れた鉄が、蛇のようにうねって、細い鎖になり、バートンの足元へ殺到した。

 

バートンは、跳んだ。

 

足首を、鎖の先が掠めた。それでも、止まらない。壁を蹴る。一歩、二歩。三歩目で、天井の梁に腕がかかった。体が、ぐるりと回る。逆さになった目が、エドを見ていた。

 

矢が、放たれた。

 

風を切る音が、顔の前を通り過ぎた。次の瞬間、エドの足元で、床が爆ぜた。

 

「くそっ!」

 

エドは、横へ身を投げた。破片が、頬を切った。柱の陰に、肩から滑り込む。口の中に、鉄の味が広がった。熱い痛みが、頬の上を走っていた。

 

鎖の一本が、まだバートンの足首に絡んでいた。バートンは、体をひねって、鎖の輪の一つに、踵を叩き込んだ。ぱきん、と乾いた音がした。急ごしらえの輪だ。そこだけ、錬成が甘かった。鎖は、そこから二つに割れて、床に落ちた。

 

柱の陰で、エドは息を整えた。右腕の機械鎧が、爆風で軋んでいた。左手の指先は、まだ動く。傷はない。ただ、胸の奥に、重たいものがあった。

 

殺す気で撃っていない。それは、分かった。ただ、殺す気がないまま、手加減もしていなかった。あの目は、人の命を数に変えている目だった。

 

耳元の通信機が、鳴った。

 

『エド、聞こえるか。シャフトを押してる。補強が、いい仕事をしてる』スタークだった。

 

「よかった」

 

『ただし、あと数分で限界が来る。君の錬金術とやらが、持たなくなる前に終わらせる』

 

「分かった。そっちは任せる」

 

『君は、無理をするな』

 

「無理はするもんだ」

 

『それは、私の台詞だ』

 

通信が切れた。

 

ロジャースの怒鳴り声が、また聞こえた。男の一人が、盾に殴られて壁に叩きつけられた。もう一人が、銃を捨てて、ナイフを抜いている。

 

エドは、柱の陰から顔を出した。バートンの姿が、消えていた。

 

天井の梁に、外れた鎖が一本、ぶら下がっていた。その先の通気口の格子が、外れかけている。追いかけるには、狭すぎた。

 

ロジャースが、レバーを握ったまま、横目でエドを見た。

 

「さっき壁に何をした。あの光は、何だ」

 

「錬金術だ。物の形を変える」

 

「魔法のようなものか」

 

「まあ、そんなもんだ。ただ、手間はかかる」エドは、手のひらの煤を払った。「ソーの雷みたいに、勝手に出てくるもんでもない」

 

「手間がかかるものほど、頼りになる」ロジャースは言った。「戦場の道具は、大抵そうだ」

 

エドは、返事に困った。この人は、褒めるときも、真面目な顔をする。

 

エドは、舌打ちを呑み込んだ。その時、壁の向こうから、低い唸りが上がってきた。回転が、戻りかけている。

 

「見ろ」ロジャースが言った。「羽根が、動いてる」

 

欠けた羽根の根元から、赤い人影が飛び出してきた。装甲の隙間から、白い蒸気を噴いている。スタークだった。鎧の肩に煤をつけて、エドたちの頭上を、大きく旋回した。

 

『半分だ』鎧の中から、スタークの声が響いた。『あと半分は、手で直さなきゃ動かない。ロジャース、そこのパネルを開けて、緑の線を探せ』

 

「緑が、二本ある」

 

『太い方だ』

 

「どっちも同じ太さだ」

 

『……左だ』

 

ロジャースが、パネルを開けて線を引いた。火花が散って、唸りが一段、高くなった。

 

エドは、旋回するスタークの鎧を見上げていた。腕を振るたびに、肩や胸の装甲板が、隙間なく滑って動く。あれと同じものを錬成で作れと言われたら、何日かかるか分からない。可動部の一枚一枚に、理屈が要る。それを機械で、あの速さで動かしている。作り方を、見てみたかった。

 

〈兄さん、また顔に出てるよ〉

 

〈出てない〉

 

〈目が、キラキラしてる〉

 

〈してねえ〉

 

『エド』鎧の顔が、こちらを向いた。『この件が終わったら、私の工房に来い。君の錬金術とやらを、じっくり見せてほしい。見返りに、この鎧の関節を見せてやる』

 

「……いいのか」

 

『ただし、触るのは私が許可した所だけだ』

 

「約束だぞ」

 

『約束は、守る』スタークは言った。『ただし、君が先に生き延びたらだ』

 

通信が切れて、鎧は、エンジンの奥へ潜っていった。

 

エドは、緩んだ口元を引き締めた。バートンの消えた格子を、もう一度見た。

 

***

 

〈兄さん、どこに行ったのかな〉

 

〈ロキの檻だろ。あいつが艦に入った理由は、それしか思いつかねえ〉エドは、外れかけた格子を見上げた。〈ヒルが気づけば、封鎖が入る〉

 

〈追いかけなきゃ〉

 

〈ああ。行く〉

 

エドは、ロジャースを振り返った。

 

「レバーを離すなよ。俺は行く」

 

「一人でか」

 

「あんたはそこを離れられないだろ」

 

「それは、そうだ」ロジャースは、レバーを握り直した。「ただ、バートンは、君が思っているより、ずっと強い。さっきの動きを見たろう」

 

「見た」

 

「それでも、行くのか」

 

「あの人に、借りがある。返す機会は作るって、フューリーが言った。でも、それは待ってても来ねえ」エドは、肩をすくめた。「自分で作る」

 

ロジャースは、何か言いかけた。それから、盾を持ち上げた。

 

「分かった。危なくなったら、逃げろ」

 

「あんたに言われたくねえよ」

 

「確かに」

 

ロジャースは、笑った。エドは、通路の奥へ走り出した。

 

その時、足元が、揺れた。

 

床が、下から突き上げられた。壁が震えて、天井のパイプが外れかけた。遠くで、獣の咆哮が響いた。人間の喉から出る音ではなかった。

 

エドは、足を止めた。

 

〈兄さん〉

 

〈……バナーだ〉

 

〈下の機械室だ。さっき、ナターシャが連れていった〉

 

咆哮が、もう一度響いた。今度は、さっきより近かった。足元の格子の下に、機械室の吹き抜けが見えた。

 

緑色の、巨大な何かが、柱を引き抜いていた。人の三倍はある背中が、壁にぶつかるたびに、鉄が悲鳴を上げた。その手前を、小さな影が、パイプの間を縫って走っている。赤い髪が、一瞬だけ見えた。ナターシャだった。巨大な腕が、彼女のいた場所の壁を、叩き潰した。

 

あの背中が、昨夜、画面の前で目頭を揉んでいた人だとは、思えなかった。思えないのに、肩の落とし方が、同じだった。

 

〈兄さん、バナーさんが……〉

 

〈分かってる〉

 

エドは、バートンの消えた通路を見た。それから、足元の格子を見た。

 

〈……アル〉

 

〈うん〉

 

〈先に、下だ〉

 

〈いいの? バートンさんは〉

 

〈封鎖が入ってる。コールソンもヒルも、俺より先にあっちに着く。でも、バナーを止められる人間は、あそこにいねえ。ナターシャ一人で、あの腕は止められない〉エドは、格子の蝶番を左手で触って、組成を読んだ。〈それに、自分のせいで誰かが死んだら、嫌がるだろうさ〉

 

エドは、両手を打ち合わせて、格子を床に叩きつけた。格子が、階段に組み替わる。

 

エドは、下へ飛び降りた。

 

***

 

機械室の熱は、肌にまとわりついた。

 

巨大な配管が、天井を走っている。床の鉄板は、緑の足跡で凹んでいた。壁には、人の形の穴が一つ、開いている。誰かが叩きつけられた跡だった。

 

ナターシャは、その穴の前で、壁に背をつけていた。

 

「エルリック」ナターシャが、息を切らして言った。「どうして、ここに」

 

「あんたを助けに来た」

 

「必要ない」

 

「嘘つけ」

 

背後で、轟音がした。緑の巨体が、配管を引きちぎって、こちらへ向き直った。目が、白く光っている。

 

「バナー!」エドは叫んだ。

 

バナーは、エドを見た。それから、拳を振り上げた。

 

エドは、両手を打ち合わせた。

 

床から、鉄の壁が立ち上がる。バナーの拳が、そこへ突っ込んだ。

 

轟音が、機械室を揺さぶった。壁の表面が、波打つ。波が、エドの足元まで伝わってきた。膝が、勝手に折れそうになった。拳は、鉄の壁にめり込んで、そのまま、止まらなかった。ひびが入る。裂ける。壁は、紙のように、二つに裂けた。

 

破片が、顔のそばを飛んでいった。

 

〈兄さん! 壊された!〉

 

〈分かってる!〉

 

エドは、ナターシャの腕を掴んで、横へ飛んだ。裂けた壁の破片が、背中をかすめた。

 

バナーの動きには、癖があった。大きく暴れているようで、狙いは、いつも、小さく動くものだった。ナターシャが走ると、拳が追う。止まると、拳も止まる。考えて追っているのではない。体が勝手に、動くものを潰しにいっている。

 

〈兄さん、床だ! 足を止めよう!〉

 

〈おう!〉

 

エドは、床に手を叩きつけた。バナーの足元の鉄板が、泥のように沈んだ。巨体が、膝まで埋まった。一瞬、動きが止まった。

 

次の瞬間、バナーは、片足を引き抜いた。鉄の泥が、飛沫になって散った。

 

「嘘だろ」

 

腕が、横から薙いだ。

 

エドは、とっさに壁を立てた。立てた瞬間に、腕が壁に触れた。壁が、紙のようにへし曲がる。そのまま、エドの体ごと、持っていかれた。

 

床が、足の下から消えた。背中が、配管に叩きつけられた。肺の中の空気が、一息で全部、抜けた。視界が、白くなって、それから、色が戻ってきた。口を開けても、声が出なかった。

 

「エルリック!」

 

ナターシャの声が、遠かった。

 

エドは、床に手をついて、起き上がろうとした。腕が、震えていた。もう一度、立ち上がろうとして、膝が笑った。

 

〈兄さん、もう無理だ!〉

 

〈無理じゃねえ……〉

 

バナーが、エドを見下ろしていた。

 

白い目の奥に、何も見えなかった。診療所で、人の腕を診ていた人の目は、そこにはなかった。

 

「バナー」エドは、言った。声が、掠れていた。「俺だ。分かるか」

 

バナーは、答えなかった。拳が、持ち上がった。

 

〈兄さん!〉

 

天井が、割れた。

 

雷鳴が、轟いた。

 

白い光が、機械室の暗がりを、端から端まで貫いた。髪の毛が逆立つ。鼓膜が、一度、潰れるように鳴った。光の中から、ソーが降ってきた。ハンマーが、バナーの胸の真ん中に、突き刺さる。

 

巨体が、浮いた。

 

壁が、割れた。配管が、折れた。バナーの体は、鉄の壁を三枚突き破って、隣の区画へ、消えていった。後に、青白い火花だけが、ぱちぱちと降っていた。

 

土煙の向こうで、ソーが叫んだ。

 

「ここは任せろ!」

 

エドは、床に座り込んだまま、息を吐いた。

 

「……待ってたって言いたいとこだが、遅えよ」

 

「許せ。生憎、この艦には慣れておらんのでな」

 

ソーは、肩をすくめて、壁の穴の向こうへ走っていった。雷の音と、鉄が裂ける音が、交互に響き始めた。

 

エドは、自分の手を見た。まだ、震えていた。俺じゃ、荷が重かった。そう思うのは、悔しかった。悔しいのに、ほっとしている自分がいた。

 

ナターシャが、エドの腕を掴んで、立たせた。

 

「怪我は」

 

「ない。たぶん」

 

「無茶をしたわね」

 

「あんたに言われたくねえ」

 

「でも、あなたが拳を引きつけてくれたから、私は逃げられた」ナターシャは言った。「あれがなかったら、壁に潰されていた」

 

「……なら、いい」

 

ナターシャは、口の端を、ほんの少しだけ上げた。それから、壁の穴の向こうを、目で追った。

 

エドは、早口で言った。

 

「聞け。バートンの目を見た。青くて、縁に線が一周してる。入られた跡だ。その線が、揺れる時がある。俺が、あの人自身の言葉を返した時だ。『倒れられると面倒だ』って、あの人が俺に言ったやつ」

 

「線が、揺れる」

 

「ああ。あんたの方が、俺よりずっと付き合いが長いだろ。あの人が、あんたにだけ言った言葉とか、あんたにしか分からない癖とか、何でもいい。あんたの言葉なら、もっと揺れるはずだ。揺れた時に、あの人のままの何かを、ぶつけてみてくれ」

 

ナターシャの目が、見開かれた。

 

「それは、確かなの」

 

「確かじゃねえ。でも、あんたが一番、あの人のことを知ってるんだろ」

 

ナターシャは、エドの顔を見た。

 

「……あなたは、本当に、何者なの」

 

「ただの顧問だ。今は、それしか言えねえ」

 

壁の向こうで、重い音が、まだ続いていた。鉄が裂ける音と、雷の音が、交互に響く。

 

「バナーは、助かるのか」

 

「分からない」ナターシャは、答えた。目を、穴から離さなかった。「私も、彼のことは、まだほとんど知らないの。ただ、あの人が戻ってくる時に、一人にはしたくない」

 

「あんた、怖くないのか」

 

「怖いわ」ナターシャは、あっさり言った。「だから、離れない。怖いものから離れたら、もっと怖くなるから」

 

エドは、その横顔を見た。さっきまで壁に背をつけて、息を切らしていた人の顔だった。その顔が、いつの間にか、仕事の顔に戻っていた。

 

「俺は、バートンを追う」

 

「ええ。私も、あとから行く。彼の様子を見届けたら」

 

「……頼んだ」

 

エドは、走り出した。

 

***

 

機械室を出ても、通路の揺れは収まらなかった。

 

壁の警報が、赤く回り続けている。ソーが降りてきたおかげで、バナーの暴れる音は遠ざかった。エドは、拘置区画の標識を目で追いながら、足を速めた。

 

三つ目の曲がり角で、足が止まった。

 

通路が、半分に折れていた。エンジンの被弾で歪んだ床が、天井から落ちた梁に押しつぶされている。その下に、三人、倒れていた。制服が破れ、一人は意識がない。もう一人が、梁の隙間から手を伸ばして、エドを見た。

 

「待て、動くな。誰か、いないか。ここに——」

 

エドは、立ち止まった。

 

〈兄さん〉

 

〈……分かってる〉

 

〈放っておけないよね〉

 

〈当たり前だ〉

 

梁の下の床が、きしんでいた。一歩でも荷重が変われば、崩れて下の区画へ落ちる。エドは、梁に手を当てた。左手の指が、鉄の声を拾う。梁を持ち上げれば、支えを失った床が抜ける。先に床を固めて、それから梁を動かす。順番を間違えれば、三人が下へ落ちる。

 

「手を伸ばすな。そのまま、動かずにいろ」

 

エドは、両手を打ち合わせた。床板の裏に、鉄の筋が走る。きしみが止まった。次に、梁の根元へ手を当てる。梁を二つに割って、軽くして、三人の上から外した。

 

「立てるか」

 

「……足が」

 

「肩を貸す」

 

一人を肩に担ぎ、もう一人を引きずって、安全な通路まで運んだ。三人目を運び終えた時には、息が上がっていた。額の汗が、目に入って染みた。

 

「ありがとう。君は——」

 

「顧問だ。医務室は、左の突き当たり。そこは無事だ」

 

エドは、三人を残して走り出した。

 

〈兄さん、時間かかったね〉

 

〈放っておけるか〉

 

〈うん。放っておいたら、兄さんじゃないよ〉

 

エドは、答えなかった。ただ、胸の奥で、時計が早く回っている気がした。

 

耳元の通信機が、ざわついた。

 

『拘置区画の封鎖を維持できません。警備と連絡が取れません』ヒルだった。

 

『聞こえている』フューリーの声だった。息が荒い。『コールソン、拘置区画へ回れ。武器庫の武器を持っていけ』

 

『了解』

 

ほんの一瞬、通信が途切れた。次に聞こえたのは、フューリーの声だけだった。

 

『檻が、落とされた。ソーが、艦から落ちた』

 

エドは、足を止めかけた。

 

『……繰り返す。ソーが、艦外に出た。誰か、拘置区画へ』

 

〈兄さん〉

 

〈走れ。走るぞ〉

 

エドは、速度を上げた。封鎖の防火扉は、既に半分、押し上げられていた。誰かが、外から開けたようだった。その下をくぐって、拘置区画へ続く通路に入った。

 

通路の先に、人影が見えた。

 

三つ。

 

エドは、足を止めた。

 

バートンだった。

 

弓は、下げていた。矢は、つがえていない。背に、黒装備の男が二人、控えていた。三人は、こちらへ向かって、歩いてくる。急がず、迷わず、仕事を終えた足取りだった。

 

エドは、通路の真ん中に走り込んだ。拘置区画の入口と三人の間に、立った。

 

「止まれ」

 

バートンは、止まらなかった。

 

「止まれって言ってんだ」

 

「道を空けろ」

 

「ロキは、どうした」

 

「もう、済んだ」

 

声が、さっきと同じだった。平らで、角がない。

 

エドは、バートンの目を見た。青い虹彩の縁に、細い線が、一周している。近くで見ると、線は、細かく震えていた。

 

〈兄さん、揺れてる〉

 

〈ああ。ずっと、押されてる〉

 

エドは、両手を、体の横に下ろした。構えは、取らなかった。

 

「あんた、砂漠の施設で、俺を引き倒したろ」

 

バートンの足が、止まった。

 

「槍の前だった。俺が、動けなかった所を、横から。あんたが引かなきゃ、俺はあの槍に刺されてた」エドは言った。声が、勝手に、低くなっていた。「そのあと、あんたは、俺の襟を掴んで、何も言わなかった。俺は、礼も言えなかった」

 

バートンの目が、一度、まばたきをした。

 

「礼を言う。ありがとう」

 

返事はなかった。

 

二人の男が、バートンの後ろから、前に出ようとした。

 

「下がれ」バートンが、振り向かずに言った。

 

男たちは、足を止めた。この男たちの方が、バートンに従っているのだと、エドは気づいた。

 

「それから、もう一つ。借りだ。あんたに、返す」エドは言った。「借りを返すのは、これからだ。その前に聞かせろ。あんた、誰に何を撃とうとしてる」

 

「邪魔だ」

 

バートンの手が、背の矢筒に伸びた。

 

エドは、動かなかった。

 

〈兄さん!〉

 

〈待て〉

 

〈撃たれる!〉

 

〈撃たれねえ。まだ〉

 

バートンの手が、矢を抜いた。つがえた。弦を引いた。矢先は、エドの額の真ん中を向いていた。

 

エドの手のひらは、汗で濡れていた。両手を合わせれば、壁を立てられる。鎖で縛ることもできる。ただ、それをやったら、この人は、また矢で切る。

 

息を止める瞬間は、見える。

 

エドは、バートンの目だけを見ていた。縁の線が、細かく震えている。震えが、一瞬、大きくなった。

 

その瞬間、バートンの指が、弦から、わずかに浮いた。

 

エドは、両手を合わせなかった。

 

代わりに、一歩、前に出た。

 

バートンの目が、見開かれた。矢先が、エドの額に、触れた。

 

「撃てよ」

 

エドは、言った。

 

「撃てるなら、撃て。あんたが、本当に撃つ気なら、俺はここで死ぬ。でも、あんたは、撃たない。さっきの外し方を見たら、分かる」

 

指が、震えていた。

 

弦が、鳴った。

 

矢が、エドの頬の横を、風を切って抜けた。後ろで、壁に突き刺さる鈍い音がした。矢は、頬の肉を、髪の毛一本ぶん掠めていった。

 

エドは、バートンに向き直った。

 

バートンの目から、縁の線が、消えかけていた。揺れが、大きくなっている。唇が、動いた。

 

「……エド」

 

声が、低かった。角のある声だった。

 

エドは、息を吸った。

 

次の瞬間、バートンの目の縁が、また青く締まった。男の手が、次の矢を抜いた。

 

「くそっ」

 

その隙に、後ろの男の片方が、エドの肩に銃口を向けていた。

 

エドは、床を蹴った。壁際へ転がる。銃声が、通路に弾けた。足元の床に、火花が散る。立ち上がった時には、三人の姿は、通路の奥の暗がりに消えていた。追う足音も、聞こえなかった。

 

エドは、床に手をついたまま、息を吐いた。

 

拘置区画の入口は、すぐそこだった。

 

***

 

拘置区画の廊下は、静かだった。

 

受付の机の下で、警備の男が倒れていた。首筋に、小さな針が刺さっている。息は、あった。眠らされているだけだった。机の上には、飲みかけのコーヒーが、まだ温かいまま残っている。

 

エドは、男の脇を走り抜けた。

 

廊下の突き当たりに、ガラス張りの部屋があった。そこにあるはずの檻が、なかった。

 

床に、四角い穴が開いていた。縁に、千切れたケーブルが垂れている。穴の下から、冷たい風が吹き上がってきた。艦の外の、高い空の風だった。

 

その穴の手前に、人が倒れていた。

 

コールソンだった。

 

背広の上着は、床に落ちていた。シャツの胸が、赤く染まっている。傍らに、青い光を走らせた銃が転がっていた。引き金の部分が、焼け焦げていた。

 

フューリーが、そのそばに膝をついていた。

 

エドは、扉の手前で、足を止めた。

 

足が、動かなかった。

 

さっきまで、軽口を叩いていた人だった。ばあさんの前で頭を下げた人だった。結社に切られた自分を、保護と引き換えに、この艦へ迎え入れた人だった。

 

〈兄さん〉

 

アルの声が、遠かった。

 

〈……間に合わなかった〉

 

声に出したつもりはなかった。ただ、喉の奥で、そう鳴った。

 

フューリーが、顔を上げた。

 

その片方だけの目が、エドを見た。何も言わなかった。言わないことが、今は、何よりも重かった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

MCU世界で『ただいま』を言えない怪物(作者:お砂糖さらさら)(原作:MARVEL )

トニー・スタークが「私がアイアンマンだ」と公表し、世界が超人の存在に熱狂し始めた時代。▼その華やかな光が届かないニューヨークの「ヘルズ・キッチン」で、泥水をすすりながら孤独な死闘に身を投じる一匹の怪物がいた。▼その怪物の正体は、捕食と融合により対象に擬態する能力を持つ生体兵器。▼雨の廃ビルで致命傷を負っていた普通の少女エリン・マクカシーを貪り喰らい、彼女の人…


総合評価:344/評価:8.18/連載:52話/更新日時:2026年10月23日(金) 21:16 小説情報

仮面ライダーゼロワン ― Avengers: Age of Ultron ―(作者:吉野家)(原作:MCU アベンジャーズ)

飛電インテリジェンス社長・飛電或人と秘書型ヒューマギア・イズは、謎の空間歪曲に巻き込まれ、異なる世界へと転移してしまう。▼そこは、巨大企業スターク・インダストリーズが存在し、“アベンジャーズ”と呼ばれるヒーローたちが世界を守るニューヨーク。▼衛星ゼアとの通信は完全に途絶え、飛電インテリジェンスも存在しない。▼未知の世界で或人たちを待っていたのは、人類を守るた…


総合評価:328/評価:9/連載:3話/更新日時:2026年06月25日(木) 12:53 小説情報

ポケモントリオン兵導入によるボーダー隊員の反応(作者:ジャサス)(原作:ワールドトリガー)

▼『ポケットモンスター』の概念が存在しない世界で、たまたま前世の記憶がある開発室所属のエンジニアは、ふと思い立った。▼「トリオン兵でポケモンって作れるんだろうか?」▼そうして前世で得た技術まで注ぎ込んで、『ポケモントリオン兵』を作成。そうして生み出されたポケモントリオン兵はボーダーに正式に採用され、各隊に1体ずつ支給されることになる。▼※このエンジニアの出番…


総合評価:1573/評価:8.61/連載:16話/更新日時:2026年10月11日(日) 13:34 小説情報

臆病者だから鉄を着ます(作者:三世)(原作:ゼンレスゾーンゼロ)

▼ 『アイアンマン』に憧れた一人の少年は、気がつけば『ホロウ』と呼ばれる災害が存在する世界へ転生していた。▼ 工学の才能に恵まれ、平穏に生きようとしていた彼だったが、ある日突発性ホロウに巻き込まれてしまう。▼ 死にたくない──その一心で作り上げたのは、小さな太陽『アーク・リアクター』と鋼鉄の鎧。▼ これは鉄人に憧れた少年が、自らもまた『アイアンマン』となって…


総合評価:6652/評価:8.7/連載:13話/更新日時:2026年10月24日(土) 00:00 小説情報

マシュ(成り代わり)がMCUで生きる話(作者:なすび餅)(原作:MARVEL )

ヒドラの研究員(魔術師モドキ)によってデミ・サーヴァントとなった女の子がアベンジャーズに保護され、キャプテンアメリカの弟子みたいになる話。▼純粋だが無垢ではなく、誰かを好きになるし嫌いにもなる、マシュ(モドキ)が出てきます。▼ちゃんと両親から生まれたし、罪であろうと正解でなかろうとたぶんフルスロットルで進む子▼注意 成り代わりのため解釈違いをおこす可能性が高…


総合評価:928/評価:8.14/連載:3話/更新日時:2026年09月15日(火) 00:20 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>