MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
矢が飛んできた。
耳の横で、空気が裂けた。
エドの左手が壁に触れている場所の、指二本ぶん横だった。乾いた音を立てて、矢尻が鉄に食い込む。羽根が、まだ震えていた。矢の根元で、小さな赤い点が、一つ、点滅を始めた。
〈兄さん、離れて!〉
エドは、考える前に両手を打ち合わせていた。掌の間で、光が弾ける。足元の鉄板が、悲鳴のような音を立てて、せり上がった。
壁になった鉄板の向こうで、爆発が起きた。
衝撃が、背中を殴りつけた。エドの体は、宙に浮いて、通路の反対側まで転がった。肩、腰、膝。順番に、床が叩いてくる。耳の奥で、キーンと高い音が鳴り続けた。鉄の焦げる匂いが、喉の奥まで入り込んだ。
起き上がると、さっきまで手を当てていた壁が、黒く抉れていた。エドが錬成した鉄の支えは、無事だった。ただ、手を離したせいで、棒の動きが見えなくなった。
「エルリック君!」ロジャースが叫んだ。「無事か!」
「無事だ! レバーを離すな!」
ロジャースは、片手でレバーを握ったまま、もう片方の腕に盾を構えていた。黒装備の男が二人、通路の左右から、ロジャースに銃を向けている。盾が、弾を弾いた。弾かれた弾が、天井に火花を散らした。
エドは、床に手をついたまま、顔を上げた。
バートンが、通路の中ほどに立っていた。弓は下ろしていない。次の矢を、既につがえている。
「バートン」エドは言った。「いまのは、わざと外したな」
バートンは、答えなかった。
「外すつもりのやつが、外した。だったら、中にあんたが、まだいる」
「道を空けろ」
バートンの声だった。施設で交わした短い会話の声を、エドは覚えていた。あの時の声には、角があった。今の声には、角がなかった。音の高さが、平らだった。
「空けねえ」エドは立ち上がった。「あんた、俺に言ったろ。倒れられると面倒だって。今は、あんたの方が倒れそうな顔してる」
バートンの目の縁で、青い線が、一瞬だけ、揺れた。
「空けろ」
「空けねえって言ってんだ」
バートンの指が、弦を引いた。
〈兄さん、また撃つよ〉
〈分かってる〉
エドは、足を一歩、横に滑らせた。バートンの目が、エドの動きを追った。追いながら、手は弦を引いたまま、止まっている。銃でも弓でも、遠くを狙う人間は、放つ前に息を止める。この男も、そうだろうとエドは踏んだ。
息を止めた。
エドは、両手を打ち合わせて、床に叩きつけた。
通路の鉄板が、一斉にめくれ上がった。床が、網目に割れる。割れた鉄が、蛇のようにうねって、細い鎖になり、バートンの足元へ殺到した。
バートンは、跳んだ。
足首を、鎖の先が掠めた。それでも、止まらない。壁を蹴る。一歩、二歩。三歩目で、天井の梁に腕がかかった。体が、ぐるりと回る。逆さになった目が、エドを見ていた。
矢が、放たれた。
風を切る音が、顔の前を通り過ぎた。次の瞬間、エドの足元で、床が爆ぜた。
「くそっ!」
エドは、横へ身を投げた。破片が、頬を切った。柱の陰に、肩から滑り込む。口の中に、鉄の味が広がった。熱い痛みが、頬の上を走っていた。
鎖の一本が、まだバートンの足首に絡んでいた。バートンは、体をひねって、鎖の輪の一つに、踵を叩き込んだ。ぱきん、と乾いた音がした。急ごしらえの輪だ。そこだけ、錬成が甘かった。鎖は、そこから二つに割れて、床に落ちた。
柱の陰で、エドは息を整えた。右腕の機械鎧が、爆風で軋んでいた。左手の指先は、まだ動く。傷はない。ただ、胸の奥に、重たいものがあった。
殺す気で撃っていない。それは、分かった。ただ、殺す気がないまま、手加減もしていなかった。あの目は、人の命を数に変えている目だった。
耳元の通信機が、鳴った。
『エド、聞こえるか。シャフトを押してる。補強が、いい仕事をしてる』スタークだった。
「よかった」
『ただし、あと数分で限界が来る。君の錬金術とやらが、持たなくなる前に終わらせる』
「分かった。そっちは任せる」
『君は、無理をするな』
「無理はするもんだ」
『それは、私の台詞だ』
通信が切れた。
ロジャースの怒鳴り声が、また聞こえた。男の一人が、盾に殴られて壁に叩きつけられた。もう一人が、銃を捨てて、ナイフを抜いている。
エドは、柱の陰から顔を出した。バートンの姿が、消えていた。
天井の梁に、外れた鎖が一本、ぶら下がっていた。その先の通気口の格子が、外れかけている。追いかけるには、狭すぎた。
ロジャースが、レバーを握ったまま、横目でエドを見た。
「さっき壁に何をした。あの光は、何だ」
「錬金術だ。物の形を変える」
「魔法のようなものか」
「まあ、そんなもんだ。ただ、手間はかかる」エドは、手のひらの煤を払った。「ソーの雷みたいに、勝手に出てくるもんでもない」
「手間がかかるものほど、頼りになる」ロジャースは言った。「戦場の道具は、大抵そうだ」
エドは、返事に困った。この人は、褒めるときも、真面目な顔をする。
エドは、舌打ちを呑み込んだ。その時、壁の向こうから、低い唸りが上がってきた。回転が、戻りかけている。
「見ろ」ロジャースが言った。「羽根が、動いてる」
欠けた羽根の根元から、赤い人影が飛び出してきた。装甲の隙間から、白い蒸気を噴いている。スタークだった。鎧の肩に煤をつけて、エドたちの頭上を、大きく旋回した。
『半分だ』鎧の中から、スタークの声が響いた。『あと半分は、手で直さなきゃ動かない。ロジャース、そこのパネルを開けて、緑の線を探せ』
「緑が、二本ある」
『太い方だ』
「どっちも同じ太さだ」
『……左だ』
ロジャースが、パネルを開けて線を引いた。火花が散って、唸りが一段、高くなった。
エドは、旋回するスタークの鎧を見上げていた。腕を振るたびに、肩や胸の装甲板が、隙間なく滑って動く。あれと同じものを錬成で作れと言われたら、何日かかるか分からない。可動部の一枚一枚に、理屈が要る。それを機械で、あの速さで動かしている。作り方を、見てみたかった。
〈兄さん、また顔に出てるよ〉
〈出てない〉
〈目が、キラキラしてる〉
〈してねえ〉
『エド』鎧の顔が、こちらを向いた。『この件が終わったら、私の工房に来い。君の錬金術とやらを、じっくり見せてほしい。見返りに、この鎧の関節を見せてやる』
「……いいのか」
『ただし、触るのは私が許可した所だけだ』
「約束だぞ」
『約束は、守る』スタークは言った。『ただし、君が先に生き延びたらだ』
通信が切れて、鎧は、エンジンの奥へ潜っていった。
エドは、緩んだ口元を引き締めた。バートンの消えた格子を、もう一度見た。
***
〈兄さん、どこに行ったのかな〉
〈ロキの檻だろ。あいつが艦に入った理由は、それしか思いつかねえ〉エドは、外れかけた格子を見上げた。〈ヒルが気づけば、封鎖が入る〉
〈追いかけなきゃ〉
〈ああ。行く〉
エドは、ロジャースを振り返った。
「レバーを離すなよ。俺は行く」
「一人でか」
「あんたはそこを離れられないだろ」
「それは、そうだ」ロジャースは、レバーを握り直した。「ただ、バートンは、君が思っているより、ずっと強い。さっきの動きを見たろう」
「見た」
「それでも、行くのか」
「あの人に、借りがある。返す機会は作るって、フューリーが言った。でも、それは待ってても来ねえ」エドは、肩をすくめた。「自分で作る」
ロジャースは、何か言いかけた。それから、盾を持ち上げた。
「分かった。危なくなったら、逃げろ」
「あんたに言われたくねえよ」
「確かに」
ロジャースは、笑った。エドは、通路の奥へ走り出した。
その時、足元が、揺れた。
床が、下から突き上げられた。壁が震えて、天井のパイプが外れかけた。遠くで、獣の咆哮が響いた。人間の喉から出る音ではなかった。
エドは、足を止めた。
〈兄さん〉
〈……バナーだ〉
〈下の機械室だ。さっき、ナターシャが連れていった〉
咆哮が、もう一度響いた。今度は、さっきより近かった。足元の格子の下に、機械室の吹き抜けが見えた。
緑色の、巨大な何かが、柱を引き抜いていた。人の三倍はある背中が、壁にぶつかるたびに、鉄が悲鳴を上げた。その手前を、小さな影が、パイプの間を縫って走っている。赤い髪が、一瞬だけ見えた。ナターシャだった。巨大な腕が、彼女のいた場所の壁を、叩き潰した。
あの背中が、昨夜、画面の前で目頭を揉んでいた人だとは、思えなかった。思えないのに、肩の落とし方が、同じだった。
〈兄さん、バナーさんが……〉
〈分かってる〉
エドは、バートンの消えた通路を見た。それから、足元の格子を見た。
〈……アル〉
〈うん〉
〈先に、下だ〉
〈いいの? バートンさんは〉
〈封鎖が入ってる。コールソンもヒルも、俺より先にあっちに着く。でも、バナーを止められる人間は、あそこにいねえ。ナターシャ一人で、あの腕は止められない〉エドは、格子の蝶番を左手で触って、組成を読んだ。〈それに、自分のせいで誰かが死んだら、嫌がるだろうさ〉
エドは、両手を打ち合わせて、格子を床に叩きつけた。格子が、階段に組み替わる。
エドは、下へ飛び降りた。
***
機械室の熱は、肌にまとわりついた。
巨大な配管が、天井を走っている。床の鉄板は、緑の足跡で凹んでいた。壁には、人の形の穴が一つ、開いている。誰かが叩きつけられた跡だった。
ナターシャは、その穴の前で、壁に背をつけていた。
「エルリック」ナターシャが、息を切らして言った。「どうして、ここに」
「あんたを助けに来た」
「必要ない」
「嘘つけ」
背後で、轟音がした。緑の巨体が、配管を引きちぎって、こちらへ向き直った。目が、白く光っている。
「バナー!」エドは叫んだ。
バナーは、エドを見た。それから、拳を振り上げた。
エドは、両手を打ち合わせた。
床から、鉄の壁が立ち上がる。バナーの拳が、そこへ突っ込んだ。
轟音が、機械室を揺さぶった。壁の表面が、波打つ。波が、エドの足元まで伝わってきた。膝が、勝手に折れそうになった。拳は、鉄の壁にめり込んで、そのまま、止まらなかった。ひびが入る。裂ける。壁は、紙のように、二つに裂けた。
破片が、顔のそばを飛んでいった。
〈兄さん! 壊された!〉
〈分かってる!〉
エドは、ナターシャの腕を掴んで、横へ飛んだ。裂けた壁の破片が、背中をかすめた。
バナーの動きには、癖があった。大きく暴れているようで、狙いは、いつも、小さく動くものだった。ナターシャが走ると、拳が追う。止まると、拳も止まる。考えて追っているのではない。体が勝手に、動くものを潰しにいっている。
〈兄さん、床だ! 足を止めよう!〉
〈おう!〉
エドは、床に手を叩きつけた。バナーの足元の鉄板が、泥のように沈んだ。巨体が、膝まで埋まった。一瞬、動きが止まった。
次の瞬間、バナーは、片足を引き抜いた。鉄の泥が、飛沫になって散った。
「嘘だろ」
腕が、横から薙いだ。
エドは、とっさに壁を立てた。立てた瞬間に、腕が壁に触れた。壁が、紙のようにへし曲がる。そのまま、エドの体ごと、持っていかれた。
床が、足の下から消えた。背中が、配管に叩きつけられた。肺の中の空気が、一息で全部、抜けた。視界が、白くなって、それから、色が戻ってきた。口を開けても、声が出なかった。
「エルリック!」
ナターシャの声が、遠かった。
エドは、床に手をついて、起き上がろうとした。腕が、震えていた。もう一度、立ち上がろうとして、膝が笑った。
〈兄さん、もう無理だ!〉
〈無理じゃねえ……〉
バナーが、エドを見下ろしていた。
白い目の奥に、何も見えなかった。診療所で、人の腕を診ていた人の目は、そこにはなかった。
「バナー」エドは、言った。声が、掠れていた。「俺だ。分かるか」
バナーは、答えなかった。拳が、持ち上がった。
〈兄さん!〉
天井が、割れた。
雷鳴が、轟いた。
白い光が、機械室の暗がりを、端から端まで貫いた。髪の毛が逆立つ。鼓膜が、一度、潰れるように鳴った。光の中から、ソーが降ってきた。ハンマーが、バナーの胸の真ん中に、突き刺さる。
巨体が、浮いた。
壁が、割れた。配管が、折れた。バナーの体は、鉄の壁を三枚突き破って、隣の区画へ、消えていった。後に、青白い火花だけが、ぱちぱちと降っていた。
土煙の向こうで、ソーが叫んだ。
「ここは任せろ!」
エドは、床に座り込んだまま、息を吐いた。
「……待ってたって言いたいとこだが、遅えよ」
「許せ。生憎、この艦には慣れておらんのでな」
ソーは、肩をすくめて、壁の穴の向こうへ走っていった。雷の音と、鉄が裂ける音が、交互に響き始めた。
エドは、自分の手を見た。まだ、震えていた。俺じゃ、荷が重かった。そう思うのは、悔しかった。悔しいのに、ほっとしている自分がいた。
ナターシャが、エドの腕を掴んで、立たせた。
「怪我は」
「ない。たぶん」
「無茶をしたわね」
「あんたに言われたくねえ」
「でも、あなたが拳を引きつけてくれたから、私は逃げられた」ナターシャは言った。「あれがなかったら、壁に潰されていた」
「……なら、いい」
ナターシャは、口の端を、ほんの少しだけ上げた。それから、壁の穴の向こうを、目で追った。
エドは、早口で言った。
「聞け。バートンの目を見た。青くて、縁に線が一周してる。入られた跡だ。その線が、揺れる時がある。俺が、あの人自身の言葉を返した時だ。『倒れられると面倒だ』って、あの人が俺に言ったやつ」
「線が、揺れる」
「ああ。あんたの方が、俺よりずっと付き合いが長いだろ。あの人が、あんたにだけ言った言葉とか、あんたにしか分からない癖とか、何でもいい。あんたの言葉なら、もっと揺れるはずだ。揺れた時に、あの人のままの何かを、ぶつけてみてくれ」
ナターシャの目が、見開かれた。
「それは、確かなの」
「確かじゃねえ。でも、あんたが一番、あの人のことを知ってるんだろ」
ナターシャは、エドの顔を見た。
「……あなたは、本当に、何者なの」
「ただの顧問だ。今は、それしか言えねえ」
壁の向こうで、重い音が、まだ続いていた。鉄が裂ける音と、雷の音が、交互に響く。
「バナーは、助かるのか」
「分からない」ナターシャは、答えた。目を、穴から離さなかった。「私も、彼のことは、まだほとんど知らないの。ただ、あの人が戻ってくる時に、一人にはしたくない」
「あんた、怖くないのか」
「怖いわ」ナターシャは、あっさり言った。「だから、離れない。怖いものから離れたら、もっと怖くなるから」
エドは、その横顔を見た。さっきまで壁に背をつけて、息を切らしていた人の顔だった。その顔が、いつの間にか、仕事の顔に戻っていた。
「俺は、バートンを追う」
「ええ。私も、あとから行く。彼の様子を見届けたら」
「……頼んだ」
エドは、走り出した。
***
機械室を出ても、通路の揺れは収まらなかった。
壁の警報が、赤く回り続けている。ソーが降りてきたおかげで、バナーの暴れる音は遠ざかった。エドは、拘置区画の標識を目で追いながら、足を速めた。
三つ目の曲がり角で、足が止まった。
通路が、半分に折れていた。エンジンの被弾で歪んだ床が、天井から落ちた梁に押しつぶされている。その下に、三人、倒れていた。制服が破れ、一人は意識がない。もう一人が、梁の隙間から手を伸ばして、エドを見た。
「待て、動くな。誰か、いないか。ここに——」
エドは、立ち止まった。
〈兄さん〉
〈……分かってる〉
〈放っておけないよね〉
〈当たり前だ〉
梁の下の床が、きしんでいた。一歩でも荷重が変われば、崩れて下の区画へ落ちる。エドは、梁に手を当てた。左手の指が、鉄の声を拾う。梁を持ち上げれば、支えを失った床が抜ける。先に床を固めて、それから梁を動かす。順番を間違えれば、三人が下へ落ちる。
「手を伸ばすな。そのまま、動かずにいろ」
エドは、両手を打ち合わせた。床板の裏に、鉄の筋が走る。きしみが止まった。次に、梁の根元へ手を当てる。梁を二つに割って、軽くして、三人の上から外した。
「立てるか」
「……足が」
「肩を貸す」
一人を肩に担ぎ、もう一人を引きずって、安全な通路まで運んだ。三人目を運び終えた時には、息が上がっていた。額の汗が、目に入って染みた。
「ありがとう。君は——」
「顧問だ。医務室は、左の突き当たり。そこは無事だ」
エドは、三人を残して走り出した。
〈兄さん、時間かかったね〉
〈放っておけるか〉
〈うん。放っておいたら、兄さんじゃないよ〉
エドは、答えなかった。ただ、胸の奥で、時計が早く回っている気がした。
耳元の通信機が、ざわついた。
『拘置区画の封鎖を維持できません。警備と連絡が取れません』ヒルだった。
『聞こえている』フューリーの声だった。息が荒い。『コールソン、拘置区画へ回れ。武器庫の武器を持っていけ』
『了解』
ほんの一瞬、通信が途切れた。次に聞こえたのは、フューリーの声だけだった。
『檻が、落とされた。ソーが、艦から落ちた』
エドは、足を止めかけた。
『……繰り返す。ソーが、艦外に出た。誰か、拘置区画へ』
〈兄さん〉
〈走れ。走るぞ〉
エドは、速度を上げた。封鎖の防火扉は、既に半分、押し上げられていた。誰かが、外から開けたようだった。その下をくぐって、拘置区画へ続く通路に入った。
通路の先に、人影が見えた。
三つ。
エドは、足を止めた。
バートンだった。
弓は、下げていた。矢は、つがえていない。背に、黒装備の男が二人、控えていた。三人は、こちらへ向かって、歩いてくる。急がず、迷わず、仕事を終えた足取りだった。
エドは、通路の真ん中に走り込んだ。拘置区画の入口と三人の間に、立った。
「止まれ」
バートンは、止まらなかった。
「止まれって言ってんだ」
「道を空けろ」
「ロキは、どうした」
「もう、済んだ」
声が、さっきと同じだった。平らで、角がない。
エドは、バートンの目を見た。青い虹彩の縁に、細い線が、一周している。近くで見ると、線は、細かく震えていた。
〈兄さん、揺れてる〉
〈ああ。ずっと、押されてる〉
エドは、両手を、体の横に下ろした。構えは、取らなかった。
「あんた、砂漠の施設で、俺を引き倒したろ」
バートンの足が、止まった。
「槍の前だった。俺が、動けなかった所を、横から。あんたが引かなきゃ、俺はあの槍に刺されてた」エドは言った。声が、勝手に、低くなっていた。「そのあと、あんたは、俺の襟を掴んで、何も言わなかった。俺は、礼も言えなかった」
バートンの目が、一度、まばたきをした。
「礼を言う。ありがとう」
返事はなかった。
二人の男が、バートンの後ろから、前に出ようとした。
「下がれ」バートンが、振り向かずに言った。
男たちは、足を止めた。この男たちの方が、バートンに従っているのだと、エドは気づいた。
「それから、もう一つ。借りだ。あんたに、返す」エドは言った。「借りを返すのは、これからだ。その前に聞かせろ。あんた、誰に何を撃とうとしてる」
「邪魔だ」
バートンの手が、背の矢筒に伸びた。
エドは、動かなかった。
〈兄さん!〉
〈待て〉
〈撃たれる!〉
〈撃たれねえ。まだ〉
バートンの手が、矢を抜いた。つがえた。弦を引いた。矢先は、エドの額の真ん中を向いていた。
エドの手のひらは、汗で濡れていた。両手を合わせれば、壁を立てられる。鎖で縛ることもできる。ただ、それをやったら、この人は、また矢で切る。
息を止める瞬間は、見える。
エドは、バートンの目だけを見ていた。縁の線が、細かく震えている。震えが、一瞬、大きくなった。
その瞬間、バートンの指が、弦から、わずかに浮いた。
エドは、両手を合わせなかった。
代わりに、一歩、前に出た。
バートンの目が、見開かれた。矢先が、エドの額に、触れた。
「撃てよ」
エドは、言った。
「撃てるなら、撃て。あんたが、本当に撃つ気なら、俺はここで死ぬ。でも、あんたは、撃たない。さっきの外し方を見たら、分かる」
指が、震えていた。
弦が、鳴った。
矢が、エドの頬の横を、風を切って抜けた。後ろで、壁に突き刺さる鈍い音がした。矢は、頬の肉を、髪の毛一本ぶん掠めていった。
エドは、バートンに向き直った。
バートンの目から、縁の線が、消えかけていた。揺れが、大きくなっている。唇が、動いた。
「……エド」
声が、低かった。角のある声だった。
エドは、息を吸った。
次の瞬間、バートンの目の縁が、また青く締まった。男の手が、次の矢を抜いた。
「くそっ」
その隙に、後ろの男の片方が、エドの肩に銃口を向けていた。
エドは、床を蹴った。壁際へ転がる。銃声が、通路に弾けた。足元の床に、火花が散る。立ち上がった時には、三人の姿は、通路の奥の暗がりに消えていた。追う足音も、聞こえなかった。
エドは、床に手をついたまま、息を吐いた。
拘置区画の入口は、すぐそこだった。
***
拘置区画の廊下は、静かだった。
受付の机の下で、警備の男が倒れていた。首筋に、小さな針が刺さっている。息は、あった。眠らされているだけだった。机の上には、飲みかけのコーヒーが、まだ温かいまま残っている。
エドは、男の脇を走り抜けた。
廊下の突き当たりに、ガラス張りの部屋があった。そこにあるはずの檻が、なかった。
床に、四角い穴が開いていた。縁に、千切れたケーブルが垂れている。穴の下から、冷たい風が吹き上がってきた。艦の外の、高い空の風だった。
その穴の手前に、人が倒れていた。
コールソンだった。
背広の上着は、床に落ちていた。シャツの胸が、赤く染まっている。傍らに、青い光を走らせた銃が転がっていた。引き金の部分が、焼け焦げていた。
フューリーが、そのそばに膝をついていた。
エドは、扉の手前で、足を止めた。
足が、動かなかった。
さっきまで、軽口を叩いていた人だった。ばあさんの前で頭を下げた人だった。結社に切られた自分を、保護と引き換えに、この艦へ迎え入れた人だった。
〈兄さん〉
アルの声が、遠かった。
〈……間に合わなかった〉
声に出したつもりはなかった。ただ、喉の奥で、そう鳴った。
フューリーが、顔を上げた。
その片方だけの目が、エドを見た。何も言わなかった。言わないことが、今は、何よりも重かった。