MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
扉の手前で止まっていた足を、エドは前に出した。
床に開いた四角い穴から、冷たい風が吹き上がっていた。艦の外の、高い空の匂いがした。穴の縁で千切れたケーブルが、風に合わせて揺れている。
コールソンは、その手前に仰向けに倒れていた。上着は脱げて、少し離れた床に落ちている。シャツの胸の真ん中が、黒く濡れていた。
「出血が止まらん」フューリーが言った。片手で脇腹を押さえたまま、もう片方の手を、コールソンの胸に当てている。指の間から、赤いものが溢れていた。「エルリック。そこの上着を取れ」
エドは、床の上着を拾った。重かった。
「畳んで、ここに押し当てろ。強くだ」
「分かってる」
フューリーの手と入れ替わりに、エドは上着を傷に押し当てた。右の手袋の下で、布が、あっという間に温かくなった。
エドは答えずに、体重を掛けた。胸が、浅く上下している。脈が、布の下から押し返してきた。弱いのに、速かった。
エドは、上着の端をずらして、シャツの裂け目に、左手の指先を触れた。
何が、どこを貫いて、どこが切れているか。穴は、細かった。細くて、深い。背中から入って、胸の真ん中へ抜けている。その縁を、指がなぞった瞬間、指先の熱が、すうっと引いた。
槍だ。
艦のラボで握った、あの冷たさと、同じだった。エドは、手を引いた。
〈兄さん、今の〉
〈ああ。槍の跡が、傷に残ってる〉
傷の形は読めた。読めても、直し方が分からなかった。人の体の組み立ては、鉄とは違う。どこをどう繋げば元に戻るのか、自分は知らない。知らないものを錬成すれば、何ができるか分からない。母さんの時に、嫌というほど思い知らされたことだ。
〈兄さん。それは、駄目だよ〉
〈分かってるって〉
自分でも、声が尖っているのが分かった。エドは、左手を握りしめて、膝の上に置いた。指の先が、まだ冷えていた。
「……エルリック、さん」
コールソンの目が、開いていた。焦点が、エドの顔の少し手前で合った。
「しゃべんな」
「来て、しまいましたか」
「来たよ。見りゃ分かるだろ」
「間に合う、と、思っていました。私が」コールソンの口の端が、少しだけ動いた。笑ったのだと、エドは遅れて気づいた。「お恥ずかしい」
「恥ずかしがってる場合かよ」
「長官」コールソンの目が、エドから外れた。
フューリーが、顔を寄せた。
「聞いてる」
「すみません、ボス。逃げられました」
「しゃべるな。目を開けてろ。俺を見ろ」
「いえ。私は、もう上がりです」
「許可しない」
フューリーの声は、低く押し殺されていた。片方だけの目が、動かなかった。
コールソンが、また目を動かした。今度は、エドを見ていた。
「エルリックさん。ウィンリィさんに、お伝え、ください」
「自分で言え」
「謝りに、行くと、約束しました。守れなかった時は、と」コールソンは、短く息を継いだ。「行けそうに、ありません」
「だから、自分で言えって。生きて、自分で」
「それは、難しそうだ」
笑う、と、胸が動いた。その途端、顔が歪んだ。エドは、上着を押さえる手に力を込めた。布の下で、何かが、ぬるりと動いた。
「あなたに、決めてほしいと、言いました」コールソンは続けた。声が、細くなっている。「あなたが、決めた。それは、あなたのものです。誰にも、渡さないで。私の、せいにも、しないで」
「ふざけんな」エドは言った。自分の声が、掠れているのが分かった。「俺はあんたに借りがある。保護の話も、設備も、全部だ。借りは作るな、作ったら返せって、師匠に言われてんだ」
「厳しい、方だ」
「あんた、そういう時にだけ軽口、叩くんだな」
「ええ」コールソンは目を閉じかけて、また開いた。「数えなくて、いいですよ」
「数える」
「……そうですか」
コールソンの唇が、もう少しだけ動いた。
「あの人たちは、まだ、一つに、なれていません。何かが、要る。……あなたなら、見えるでしょう。人の、継ぎ目が」
「何がだよ」
答えはなかった。コールソンの目が、もう一度、フューリーへ戻った。
「いいんです、ボス。これは、うまく回らなかった。あの人たちに、何か……立つ……」
そこで、言葉が切れた。
目の焦点が、すっと遠のいた。唇が、何か言いかけた形のまま、止まった。上着の下で押し返していたものが、薄れた。薄れて、やがて、なくなった。
エドは、手を離さなかった。
離したら、確かめたことになってしまう。
「フィル」
フューリーが、そう呼んだ。エドは、初めてその名前を、その口から聞いた。
答えはなかった。フューリーは、しばらくの間、動かなかった。それから、コールソンの瞼に手を伸ばして、閉じさせた。その手の甲に、コールソンの血がこびりついていた。
通路の向こうから、走ってくる足音が聞こえた。ヒルだった。後ろに、担架を持った二人が続いている。
担架は、いらなかった。ヒルは、扉の手前で足を止めて、床の上のものを見て、それから何も聞かなかった。
「……ロキは」フューリーが言った。
「ロキは、バートンの機で艦を離れました。セプターも一緒です」ヒルの声は平らだった。平らにしてあるのだと、エドには分かった。「コールソンの武器で壁を撃ち抜かれても、立って出ていきました。ソーは檻に入ったまま、落とされています」
「ハルクは」
「艦外へ。戦闘機を壊して、そのまま落ちました。バナー博士の生死は、確認できていません」
エドの背中が、冷たくなった。
「バートンは」
「ロマノフが確保しました。意識があります。目が、戻っています」
その名前が出た時に、エドは、ようやく顔を上げた。
安堵が、胸に落ちた。落ちた先に、ぽっかり穴があった。穴の中に、安堵は、すぐに吸われて消えた。
「コールソンの遺体を、医務室へ」フューリーが言った。立ち上がろうとして、脇腹に手をやり、一瞬、顔をしかめた。「丁重にだ」
エドは、上着を持ったまま、立ち上がった。袖から、まだ温かい血が、指の間に染みていた。
ヒルが、エドの腕に触れた。
「エド。それは、私が預かるわ」
「……いい。後で、持ってく」
ヒルは、少しの間エドを見て、頷いた。
***
ナターシャが現れたのは、担架が通路の角を曲がった頃だった。
髪が乱れて、頬に擦り傷がある。両の拳に、赤く腫れた跡があった。何も言わずに、エドの隣に立って、担架が去った方を、同じように見ていた。
「聞いたわ」
「ああ」
「あなたの言った線を、探したの」ナターシャは前を向いたまま言った。「近くで見たら、本当にあった。目の縁に、細くて、青いのが。殴って、頭を打たせたら、消えたわ。それで、あの人は、私の名前を呼んだ」
「そうか」
「手柄を、あなたに分けるつもりはないけど」
「要らねえよ」
ナターシャが、横目でエドを見た。何か言うかと思ったが、何も言わなかった。代わりに、エドの手の中の上着を、見た。
「その血は、拭いておきなさい」
「分かってる」
「手袋もね。乾くと、革が固まって、動かなくなる」
「……分かってるって」
ナターシャは、それ以上言わなかった。エドの肩に、一度だけ、軽く手を置いた。置いてすぐに、離れた。
エドは、ひとり、通路に残った。
穴から上がる風が、まだ頬を撫でている。上着の布を広げた。内ポケットに、黒い手帳のようなものが入っていた。身分証だった。それと、ペンが一本。ほかには、何もなかった。
車のダッシュボードにあった、古いカード。サインをもらうのだと言っていた。エドは、ポケットの内側を、指でもう一度なぞった。ここには、ない。艦のどこかに置いてあるのだろう、と思った。
エドは、上着を畳んだ。畳みながら、頭の隅で、小さな引っ掛かりが、ひとつ、生まれた。生まれたけれど、形にならなかった。
***
三十分ほどして、エドは艦橋の隣の会議室へ呼ばれた。
長いテーブルがあって、スタークとロジャースがいた。スタークは鎧を脱いで、シャツの袖を肘まで捲っている。額に煤がついていた。ロジャースは、立ったまま、窓の外を見ていた。窓の向こうでは、片方の羽根が回り始めた巨大な艦体が、雲の中を進んでいる。
エドは、壁際に立った。誰も、どこに座れとは言わなかった。
「ソーは」ロジャースが言った。
「確認中だ」スタークが答えた。「落ちたのは、艦の下だ。彼なら、死にはしない。たぶん」
「たぶん、か」
「バナーについては、もっと『たぶん』が増える」
ロジャースは、窓の外を見たまま、頷いた。
扉が開いた。フューリーが入ってきた。着ていたコートは脱いで、シャツの脇腹に、新しい包帯が見えている。右手に、小さな紙の束を持っていた。
誰も、口を開かなかった。
フューリーは、テーブルの前で足を止めて、手の中のものを、天板に放った。
紙の束が、滑った。ロジャースの前で、止まった。
カードだった。
古い紙の、小さな札が、何枚か重なっている。端が擦り切れて、黄ばんでいる。その表に、血が付いていた。
「フィルの上着に入っていた」フューリーが言った。「あんたにサインをもらうつもりだったらしい。結局、もらえなかったな」
ロジャースは、手を伸ばして、一枚を取った。裏を返した。自分の顔が、そこにあった。血で、指が汚れた。
エドは、動けなかった。
上着に、入っていた。
違う。あの上着は、さっきまで、この手の中にあった。内ポケットには、身分証とペンしか入っていなかった。確かめたのは、自分だ。
血を見た。カードの端に付いた、赤いもの。指の腹で、ぬぐった跡だった。傷から噴き出る血は、噴き出した形に飛ぶ。飛んで、線になる。点になる。こんな、きれいに一方向へ引いた跡にはならない。
カードは、あの上着の中にはなかった。誰かが、あの人が死んだあとに、どこかから持ってきて、血をなすりつけた。いつ。誰が。聞かなくても、答えは見えていた。
フューリーは、続けていた。
「通信も、キューブの居場所も、バナーもソーも、今は何もない。頼りにしていた目を、一つなくした。当然の報いかもしれん」短く息を挟んで、「テッセラクトで兵器を作る計画があったのは事実だ。ただ、それに全部は賭けていなかった。もっと危ない方に賭けていた。アベンジャーズ計画だ。スタークは知っている。並外れた人間を集めて、何かもっと大きなものになれるか、見たかった。俺たちには戦えない戦いを、戦ってもらうために。フィル・コールソンは、最期まで、その考えを信じていた。英雄を、信じていた」
スタークが、椅子を引いて立ち上がった。もう聞きたくない、という歩き方で、扉へ向かった。
「古臭い考えだがな」フューリーは、その背中に言った。
エドの耳の奥で、さっきのコールソンの声が鳴った。
あの人たちに、何か……立つ……。
あの言葉の続きは、これだったのか。それとも、あの人は何も知らずに、ただ、そう信じていただけなのか。エドには、分からなかった。
息が、喉に詰まった。
怒鳴りたかった。テーブルの上のものを、全部ひっくり返して、あんたは死人を使うのか、と、叫びたかった。
叫べば、どうなるか。
ロジャースは、カードを握りしめている。出て行ったスタークの足音は、怒っていた。ここに集まった大人たちの腹の底に、火が灯ったのが、エドには分かった。フューリーの狙いは、当たっていた。
ここで俺が叫んだら、その火は、消えるかもしれない。
消えたとして、ロキは、止まらない。ニューヨークの人間が、巻き込まれる。
言わない。今は、だ。あの人の最後の言葉を、嘘にしたくない。エドは、握りしめた拳を、後ろに隠した。
扉を出る直前、スタークが、一度だけ振り返った。エドの顔を見ていた。短い間だった。眉が、わずかに動いた。何かを知っているのか、知らないのか、エドには判別がつかなかった。ただ、ラボでこの男に言われた言葉が、頭に浮かんだ。
隠してることを、隠してる。
エドは、目を逸らさなかった。逸らせば、認めたことになる。かといって、見返し続ければ、これも、答えになってしまう。まばたきを一度だけして、視線を、血のついたカードに落とした。
顔を上げた時には、スタークの姿は、なかった。
ロジャースが、カードを握ったまま、エドの方を向いた。
「君は、彼の最期に居たそうだな」
「居た」
「何か、言っていたか」
エドは、少し迷った。全部を言えば、さっき胸に生まれた引っ掛かりも、一緒に出てしまう。
「ウィンリィ……俺の義肢を整備してる奴に、謝りたいって。約束してたんだ。危ない場所に、俺を出さないって。守れなかった時は、謝りに行くって」
「律儀な人だ」
「そうだよ。どうでもいいとこで、律儀だった」
声が、思ったよりも普通に出た。ロジャースは、何か言いたそうに唇を動かして、結局、カードを胸の前で、持ち直した。
「君は、まだ子供だ。ここから先は、君が付き合う必要のない戦いだ」
声に、責める調子はなかった。言わずにいられない、という言い方だった。
「……誰がガキだ」エドは、小さく噛みついた。それから、カードを握るロジャースの指を見た。血で汚れた指を、拭おうともしていない。エドは、息を吐いた。
「……あの人にも、同じこと言われたよ。出さないようにするって」エドは言った。「でも、来るって決めたのは俺だ。人が死ぬのを見るのは、初めてじゃない。八つの時に、母さんを亡くした。二年前には、世話になった大人を。助けられなかった子供もいる。……前にやってた仕事でも、それなりに見てきた。数えたくねえけど」
ロジャースの手が、止まった。
「ガキ扱いが嫌なんじゃねえ。ガキでいられる時間が、とっくに終わってるだけだ。……止めてくれたのは、ありがたいと思ってる」
ロジャースは、しばらくエドを見ていた。それから、短く息を吐いた。
「……分かった。君が決めることだ。ただし、無茶はするな」
「内容による」
ロジャースの口の端が、ほんの少しだけ動いた。笑いかけて、やめた顔だった。
「……それなら、内容を先に言う。後で聞かなかったとは言わせない」
「言わせねえよ」
張りつめていた部屋の空気が、少しだけ、緩んだ。エドは、壁に背を預けた。目を閉じかけて、思い直して、開けた。
今は、緩んでいた方がいい。そう思った。
ロジャースが、カードを内ポケットにしまって、部屋を出ていこうとした。扉の手前で、フューリーが言った。
「エルリック。お前は残れ」
ロジャースは、エドを見た。エドは頷いた。扉が閉まった。
部屋に二人だけになった。フューリーは、窓の外を向いたまま、しばらく黙っていた。
「上着の中を見たな」
エドは、答えなかった。
「止血を、お前が代わった。ポケットに手が触れたはずだ」
「……身分証と、ペンだった」エドは言った。「カードは、入ってなかった」
「そうだ」
あっさり認められて、エドの方が、言葉に詰まった。
「ロッカーにあった。血は、俺が付けた」フューリーは言った。窓の外を向いたまま、声に抑揚がなかった。「ヒルにも、いずれ知れる。あいつは気づく」
「死んだ人間を使って、あいつらの尻を叩いたのか」
「ああ」
「あの人に、頼まれたのか」
「頼まれてはいない」フューリーは、そこで初めてエドを見た。「だが、止められもしなかっただろう」
エドは、握った拳を、体の横で開いた。閉じた。また開いた。
「あんたは、嘘で人を動かす。それは、分かった」
「分かった上で、残るのか」
「あんたのために残るんじゃねえ。俺が、決めたんだ」
「構わん」フューリーは言った。「理由は、何でもいい。ロキを止めるのに要るのは、手だ」
扉の方へ歩き出したエドの背中に、声が追ってきた。
「お前は、気づく目をしている。大人が隠したがることに」
「だったら何だよ」
「そういう目は、役に立つ。ただ、使う前に潰れる奴も多い。覚えておけ」
エドは、振り返らなかった。扉を開けて、通路へ出た。後ろ手に閉める音が、必要以上に大きく響いた。
黙っていたつもりだった。その沈黙が、最初から見抜かれていた。悔しさと、背筋の寒さが、一緒に来た。
〈あの人、最初から、兄さんに見せたんだよ〉
〈ああ。気づく奴かどうか、試したんだ〉エドは、通路の壁に、拳を一度だけ当てた。鈍い音がして、機械鎧の指が痺れた。〈くそ。最悪だ〉
***
医務室の端のベッドに、バートンは座っていた。
上半身を起こして、膝に肘をついている。額に、湿布のようなものが貼られていた。弓も矢筒も、ない。あの黒い装備から、病衣に着替えさせられていた。ベッドの脇には、外された拘束帯が垂れている。
エドが入ると、顔を上げた。
目の縁は、元に戻っていた。細い線は、どこにもなかった。灰色がかった、ただの目だった。
「……お前か」
声に、角があった。施設で聞いた、あの声だった。エドは、扉の手前で足を止めた。何を言うか、決めていなかった。
「ナターシャから聞いた」バートンが言った。「お前が、俺の目に線があると教えたって」
「教えたって程じゃねえ。見ただけだ」
「見ただけで、よく分かったな」
「入られた跡を、見たことがあった。それだけだ」
バートンは、少しの間、エドの顔を見ていた。それから、視線を落とした。
「全部は、覚えてない。ただ、お前が目の前に立った時のことは、覚えてる。撃てと言われた」
「言った」
「撃てなかった」
「だろうな。外し方で分かった」
「……お前、何歳だ」
「十五。もうすぐ十六」
「十五で、よく、あんな真似をするな」
「あんたも、あの施設で、同じことをしたろ。俺は、十五で庇われた。借りがあるんだ」
バートンは、小さく鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。
「借りの話は、あとだ」
「あとって、いつだよ」
「俺が自分で、数え終わってから」バートンは言った。「それより、フィルは」
エドの口の中が、乾いた。
ナターシャは、席を外していた。まだ言っていなかったのだ。それは、何となく分かった。言えなかったのか、エドに任せたのか。
「死んだ」
バートンの顔は、動かなかった。表情が、動かなかった。動かないまま、肩だけが、ほんの少し、落ちた。
「いつだ」
「三十……もう、一時間くらい前だ。ロキに、槍で」
「……そうか」
それきり、バートンは、床を見ていた。長い間、そうしていた。エドは、何か言おうとして、やめた。言うべきことが、見つからなかった。
「俺は、あいつに、ずいぶん借りがあった」バートンが言った。誰に向けた言葉とも、つかなかった。「施設に入った時も、その前もだ。返し損ねたな」
エドは、その言葉を、胸の中で繰り返した。
返し損ねた。
「さっき、数え終わってからって言ったろ。……もう、数え終わらねえじゃんか」
「ああ。数える相手が、いなくなった。残るのは、覚えてることだけだ」
「同じだろ、それ」
「違う」バートンは言った。「数えるのは、返すためだ。覚えてるのは、忘れないためだ」
エドは、返事ができなかった。
「行け」バートンが言った。「俺は、ここにいる。まだ、動けない」
「あんたに、動いてもらわなきゃ困る時が、来るかもしれねえ」
「その時は、動く」
それだけで、十分だった。エドは、バートンの顔を一度だけ見て、頷いて、扉を出た。
廊下の壁に、スタークが寄りかかっていた。
紙のカップを片手に持っている。湯気は、もう立っていなかった。中身を飲むでもなく、ただ持っているだけに見えた。
「そうか」スタークは、カップの縁を指で弾いた。「コールソンは、私のところに、書類を持って三回来た。毎回、私は聞かなかったことにした。三回目は、彼も諦めたのか、置いて帰った。あれは、礼儀ってやつだったんだろうな。無視される前提の」
「……そうなのか」
「そうだ。今になって、読んでおけば良かったと思ってる」
エドは、返事に困った。スタークの声は、いつもの調子だった。軽くて、早口で。軽いまま、一箇所だけ、音が低く沈んでいた。
「工房の約束は、取り消さない」スタークが言った。「君が先に生き延びれば、だが」
「それ、さっきも聞いた」
「大事なことは、二度言うことにしてる」
スタークは、カップを傾けて、中身が冷えているのに気づいたように、顔をしかめた。それから、エドを横目で見た。
「君は、顔に出るぞ」
「出てねえ」
「出てる。あの紙を見た時にな。何を考えたかは、聞かん。ただ、言いたくなった時は、先に私に言え。私は、聞かなかったことにはしない」
エドは、スタークの目を見た。冗談の影は、どこにもなかった。
「……何の話だ」
「そうか」スタークは、あっさり頷いた。「ならいい」
「拘置区画を見てくる。ロキが、なぜコールソンを選んだのか、考えたい」
「選んだ?」
「偶然には、見えなかった」
壁から体を離して、カップを廊下の隅のくずかごに、遠くから放った。縁に当たって、床に落ちた。スタークは拾わずに、歩いていった。
エドは、その背中を見送った。
〈言わないの?〉
〈言わねえ。まだな〉
エドは、落ちたカップを拾って、くずかごに入れた。
***
その後、エドは医務室の脇の洗面所で、手を洗った。血のついた上着は、洗面台の脇に畳んで置いた。後で、ヒルに渡す。
蛇口の水が、赤く、薄く、排水口へ流れていった。右の手袋を外すのに、時間がかかった。革が、血を吸って、固まりかけていた。
指の関節を一本ずつ動かして、機械鎧の接ぎ目に入り込んだ血を、爪の先で掻き出した。左手の指も、洗った。素手の指の間から、水が、冷たかった。
鏡の中の自分は、目の周りが赤かった。泣いたわけでは、ない。ただ、赤かった。
〈兄さん〉
〈なんだ〉
〈ヒューズさんの時と、似てるね〉
〈……似てねえよ〉エドは、水を止めた。〈あっちは、俺のせいだった〉
〈今日のも、兄さんのせいじゃないよ〉
〈分かってる〉
分かっていた。それでも、手の中にあった温度が、少しずつ冷めていく感触は、あの時のままだった。人は、同じようには、死なない。なのに、手のひらの方は、同じように、覚えている。
エドは、手袋を絞って、水を切った。濡れた革を、指に通した。冷たかった。それから、洗面所の扉に手をかけた。
借りは、返せる相手がいなければ、残ったままになる。
イズミの言葉が、頭に響いた。作ったら、返せ。
返す先が、いなくなった。ならば、残りを、どこへ返すか。
扉の向こうで、重い足音が、ひとつ、通り過ぎた。スタークだった。
***
拘置区画の廊下には、まだ血の匂いが残っていた。
ガラス張りの部屋の中央で、スタークが立っていた。檻の落ちた床の穴を、見ている。洗面所を出たエドは、足音の後を追ってきたのだった。
廊下の反対側から、ロジャースが入ってきた。
「フューリーのやり方は、気に入らない」ロジャースが言った。声は低かったが、固かった。「あの人の死を、人を集める札にした」
「ああ、気に入らない」スタークが、顔を上げなかった。「だから、あの男の笛で行進するつもりはない」
「分かる。だが、あの人が集めなければ、俺たちはここにいない。ロキは、もう動いている」
「それも事実だな。で、俺たちは、あの男が書いた筋書きの通りに動くわけだ。コールソンの死まで、筋書きの一行にして」
「そうは言っていない」
「言ってなくても、そうなる」
どちらも、間違ったことは言っていない。エドには、それが分かった。分かるから、余計に、胸の奥が煮えた。どちらの言い分も、あの人の死の上に乗っている。
「二人とも、合ってる」
エドが言った。二人が、同時に振り向いた。エドは、入口から数歩、中へ入った。
「フューリーは汚ねえ。あのカードは、嘘だ。俺は、あのおっさんを許してない」エドは、唇を噛んだ。「でも、あのおっさんの狙い通りに、今こうして全員が揃ってる。……悔しいけど、筋書きには乗るしかねえ」
「君は、乗るのか」ロジャースが言った。
「乗る。ただし、あの人の書いた意味のままじゃ乗らねえ」エドは、スタークを見た。「あんたは、使われるのが嫌なんだろ。なら、使われる前に、先に動け。あのおっさんの筋書きの、一行先を行け。そうすりゃ、使われたんじゃなくて、こっちが使ったことになる」
スタークの目が、わずかに動いた。
「あんたもだ」エドは、ロジャースに言った。「命令で動くほうが、楽だろ。でも今は、命令が汚れてる。だったら、あんたの判断で動け。あのおっさんの許可は、要らねえ」
「……」
「コールソンさんは、あんたたちが一つになるところを見たがってた。カードは嘘だったけど、あの人の願いは嘘じゃねえ。だったら、本当にしちまえばいい。そうすりゃ、あのカードの嘘も、本当になる」
廊下に、沈黙が落ちた。スタークが、短く笑った。笑いというより、息の漏れる音だった。
「……丸め込まれた気がするな。十五の子供に」
「ガキ扱いしたきゃ、後でしろ。今は、先を行く話だ」
「分かった」ロジャースが、静かに言った。「どうすればいい」
「ロキの、次の手を読む。あいつは、何をしたがってる」エドが、スタークを見た。「あんた、一番頭が回るだろ。怒るのは、後でいい」
スタークは、檻の穴に目を落とした。それから、ゆっくりと息を吸った。
「勝つだけじゃ、足りないんだ、あいつは。見られたい。自分が勝つところを、全員に」
「観客か」ロジャースが言った。
「そうだ。シュトゥットガルトは、予告編だった」スタークは、そこで言葉を止めた。「あの装置は……」
「キューブは、通り道がいる」エドが言った。ラボで読んだ時の、左手の冷たさが、まだ指に残っていた。「でかい力を一点に束ねるなら、束ねる受け皿と、それを途切れさせない動力がいる。置く場所は、勝手に決まらねえ。選んでるはずだ」
「大きくて、途切れない」スタークの顔から、血の気が引いていった。「……くそっ」
「どうした」ロジャースが言った。
「僕の家だ」
ロジャースが、眉をひそめた。
「スターク・タワーだ。あの自家発電なら、街の電力を食わずに、装置を動かせる。置くなら、あそこしかない。僕が、設計した」スタークは、拳を握った。「あの野郎、僕のタワーを、舞台にする気だ」
「確かか」
「確かじゃない。だが、ほかに思い当たらない」
ロジャースは、スタークを見て、それからエドを見た。何も言わなかった。言わないまま、頷いた。
エドは、息を吐いた。さっきまで、二人は別々の方を向いていた。今は、同じ一点を見ている。
***
格納庫は、まだ煙っていた。
壁際に、バートンが立っていた。病衣ではなく、黒い装備に着替えて、弓を肩に掛けている。いつの間に来たのか、エドには分からなかった。
片方の羽根が回り始めた艦の振動が、床から伝わってくる。
スタークの鎧は、格納庫の隅に、無残な姿で置かれていた。エンジンの回転に巻き込まれた肩と胸の装甲が、ひしゃげている。関節の一枚が、外れかけていた。
「溶接機を持ってこい」スタークが、技術員に言った。「本来は半日仕事だ。一時間で、無理やり通す」
エドは、ひしゃげた肩の装甲を見ていた。見ていたというより、目が離せなかった。ひしゃげた縁から、見たことのない層が覗いていたのだ。
「なあ。外側だけなら、俺が直せる」
スタークが、振り返った。
「外側だけ?」
「中は触らねえ。あんたの仕事だ。……でも、外装なら、溶接より早い」エドは、目を逸らした。「ついでに、その金属がどうなってるか、見てみてえってのも、ある」
「下心が丸見えだぞ」
「うるせえ」
スタークは、エドの顔を見た。それから、鎧を見た。短く笑った。
「いいだろう。外側だけだ。直せるなら、な」
エドは、ひしゃげた肩の装甲に、左手を当てた。
金属の声が、指に流れ込んできた。その途端、エドは息を止めた。
「……何だ、これ」
「どうした」
「軽いのに、硬い。しかも、層になってる。違う金属が、薄い膜みたいに、何重にも重なってる。こんな組み方、見たことねえ」エドは、手を離さずに言った。声が、勝手に弾んでいた。「どうやったら、こんなもん作れるんだ」
「ほう」スタークの目が、わずかに細くなった。「触っただけで、積層まで分かるのか」
「分かる。分かるから、直せる」
エドは、肩の装甲から左手を離し、両手を打ち合わせて、そのまま装甲に押し当てた。
光が、格納庫の薄暗がりを、青白く裂いた。ひしゃげた装甲が、波打つ。折れた骨組みが、継ぎ目から繋がり、元の形へ巻き戻っていく。外れかけた関節が、一枚ずつ、音を立ててはまった。
エドは、手を止めなかった。直すのは、外側だけだった。ひしゃげた装甲板と、折れた骨組み。傷んだ部分を、元の層の順番どおりに、組み直していく。中の回路や機構には、指一本触れなかった。あれは、この人の領分だ。
手を離した時、鎧の外装は、元の姿に戻っていた。掌が、じんと熱かった。
『トニー様』ジャーヴィスが言った。『外装の損傷、全て修復を確認しました。ただし、推進系は損傷したままです。出力は七割』
スタークが、口を開けたまま、エドを見ていた。
「……半日かかる仕事を、三分か」スタークは、直った肩の装甲を、指で叩いた。「いいか、よく聞け。うちの廃棄場には、捨てるしかなかったスクラップが山ほどある。それが元の合金に戻って、貴重な材料を何度でも使い回せるんだぞ。経理が泣いて喜ぶ。この億万長者の僕が、唸ってるんだ。今のうちに、誇っとけ」
「言っとくが、新しくは作れねえ」エドは言った。「ここにあるものを、組み替えてるだけだ。材料がなけりゃ、同じものは出せない。足りない分は、補えねえんだ」
「それでいい。壊れた物を、継ぎ目なしで戻せる。それだけで、世界中の工場が君を欲しがる」スタークは、にやりと笑った。「中は触ってないな」
「触ってねえ。あんたの仕事だろ、そこは」
「だな。中は私が見る。……まあ、七割あれば、ニューヨークまでは持つ。戦える状態じゃないがな。着いたら、タワーに新型がある」
エドが何か言い返す前に、スタークが笑った。短く、乾いた、本物の笑いだった。
「ジャーヴィス。この子供に、工房の入館証を作っておけ。廃棄場の山を、片っ端から片付けさせる。給料は、浮いた材料費から出す」
『かしこまりました、トニー様。経理部が泣いて喜びます』
その時、ロジャースの手首で、短い雑音が鳴った。艦の通信が、ようやく一瞬だけ戻って、すぐに切れた。
「通信は、まだ死んでる」ロジャースが言った。「向こうで、ばらばらになる」
エドは、周りを見回した。壊れたパネルが、床に散らばっている。配線、基板、細い金属線。
「待て」
エドは、しゃがんで、パネルの残骸に左手を当てた。基板の回路が、指の中に流れ込む。耳元に着けていた自分の通信機を外して、見本に並べた。艦の周波数も、これで分かる。
「通信機を作る」エドは言った。「五つだ。三十秒くれ」
「作る?」ロジャースが言った。
「向こうでばらばらにならねえようにだ。黙って見てろ」
エドは、両手を打ち合わせて、床に叩きつけた。散らばった残骸が、光の中で浮き上がり、小さな粒になって、一か所に集まっていく。粒は、形を結んだ。基板に付いていた小型の電池を割って、一つずつ、芯に仕込んである。耳に収まる大きさの、小さな機械が、五つ。
エドは、立ち上がって、手のひらに載せたそれを、順番に配った。一つは、自分の耳に残した。
最初は、バートンの前に立った。
「あんたからだ」
バートンは、手のひらの小さな機械を、見つめた。
「声が、一番長く、途切れてただろ」
バートンは、何も言わなかった。通信機を、耳に付けた。それから、ほんの少しだけ、目を細めた。
次は、ナターシャ。ロジャース。それぞれの手に、同じ小さな機械を、押し込んでいく。
最後の一つを持ったまま、エドはスタークの前で手を止めた。
「……あんたは、いらないか? ジャーヴィスがいりゃ、どうにでもなるだろ」
「ああ。周波数くらい、ジャーヴィスが三秒で合わせる」スタークは、エドの手の中の機械を見た。少し間を置いて、手を出した。「だが、君は僕の合金を読んだろ。なら、こっちも君の作った物を読ませてもらう。お互い様だ」
「……好きにしろ」
「そうする」
「周波数は、艦のと同じに合わせてある。向こうで、艦が落ちても、俺たち同士なら届く」
ロジャースが、通信機を耳に付けたまま、エドを見ていた。ナターシャも、見ていた。スタークも、機械を握ったまま。
誰も、口を開かなかった。さっきまで子供と呼んでいた相手が、いつの間にか、自分たちの命綱を握っていた。そのことに、全員が同時に気づいたような沈黙だった。
「……エルリック」ロジャースが言った。「君は、本当に」
言い切る前に、エドが言った。
「あんたらは、戦う相手のことしか言ってねえ」
ロジャースの口が、止まった。
「ニューヨークには、何百万人も人がいる。ロキは、その真上で舞台をやる。避難は誰がやる。艦と地上の警察は、繋がってねえだろ。逃げ道なら、足場でも橋でも、俺なら即席で作れる」
ロジャースが、短く息を吸った。
「……そうだ。市民の避難を、誰も考えていなかった」
ナターシャが、耳の通信機を指でつまんで、確かめるように押さえた。スタークは、受け取った小さな機械を、光にかざして、目を細めた。
ロジャースは、盾を背に付けた。ヘルメットを被った。そこにいたのは、ただ一人で盾を持つ男ではなく、人を率いる男だった。
「作戦を言う。スターク、先行してタワーを押さえろ。ナターシャ、バートンと俺は輸送機で続く。バートンは上から援護だ。エルリック」
「なんだ」
「君は、市民の避難路を作れ。足場でも、橋でも、通路でも。人が逃げられる場所を、君の手で作ってくれ」
「任せろ」
「無茶は——」
「約束できねえ」
「……それでも、頼む」
エドは、にやりと笑った。
スタークが、鎧の中で、肩をすくめた。
「いいチームだ。ようやく、チームらしくなった」
輸送機の前で、若い乗員が、一行の前に立ちふさがった。
「許可のない方は、ここから先は——」
「坊や」ロジャースが言った。「やめておけ」
乗員の目が、ロジャースの盾に落ちて、それから、スタークの鎧に移った。両側へ、退いた。
「あんたの許可は、俺にも要るのか」エドが、通りがかりに言った。
「……いえ」
エドは、輸送機のタラップを駆け上がった。
扉が閉じる直前、エドは、艦の奥を振り返った。拘置区画のある方角。あの人が最後にいた場所を、頭の中で一度だけ辿った。
拳を握った。借りを返しに行く。あの人に、そして、自分に。
エンジンが、吼えた。格納庫の扉が開いて、空が見えた。輸送機が、艦の下へ滑り出して、地平線へ向かって、一直線に加速した。
耳の奥で、雑音が弾けた。
『聞こえるか』ロジャースの声だった。
『大きくクリアに、キャップ』スタークが答えた。
『聞こえてる』ナターシャ。
『こっちもだ』バートン。
四つの声が、エドの耳の中で、重なった。まだ、ぎこちなかった。
雑音の向こうで、バートンが一度だけ咳払いをした。
エドは、窓の外を見た。雲の切れ間から、夕方の光が差していた。