MCU:Fullmetal Alchemist   作:ゴミ収集者

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チタウリ

クインジェットは、夜明けの空を飛んでいた。

 

窓の外は、白んでいた。雲の下に、黒い海と、その縁に細く光る陸が見える。操縦席にはバートンが座り、その隣にナターシャがいる。エドは、操縦席のすぐ後ろの座席で、赤いコートの襟を立てて丸くなっていた。ロジャースは、通路を挟んだ向かいの席で、盾の縁を布で拭いている。三度目だった。

 

エドは、耳の通信機に、指で触れた。雑音はない。

 

「寝たか」

 

バートンが、前を向いたまま言った。

 

「寝れるかよ」

 

「だろうな」

 

バートンは、操縦桿から片手を離して、指を開いて、閉じた。しばらく、何も言わなかった。エンジンの音だけが続いた。

 

〈兄さん。あの人の目、まだ少し赤い〉

 

〈ああ。見てる〉

 

「頼みが一つある」

 

「借りの話なら聞かねえぞ。数えてるのは俺だ」

 

「逆だ」バートンは言った。「もし俺の目がまた青くなったら、撃て。止める暇があるなら止めてくれ。ないなら、撃て」

 

エドは、座席の背の隙間から、バートンの横顔を見た。

 

「断る」

 

「おい」

 

「撃たねえ」

 

「止める暇がない時の話をしてる」

 

「だから、暇を作る。どうやるかは、知らねえ。でも作る」エドは、座席の背に頭を預けた。声が、自分で思ったより小さくなった。「あんたが戻ってきた時、嬉しそうな顔した人が、艦にいただろ。ナターシャが。あれを、俺は台無しにしたくない」

 

バートンは、返事をしなかった。操縦桿を握る指だけが、一度、止まった。

 

隣の席で、ナターシャが、座り直す音がした。

 

耳の奥で、ざざ、と音がした。

 

『聞こえるか』

 

スタークの声だった。風を切る音が混じっている。

 

『こちらスターク。タワーが見えた。……屋上で、何か回ってる』

 

「入る前に状況を送れ」ロジャースが通信機に指を当てた。「押さえろとは言ったが、一人で入れとは言ってない」

 

『分かってるよ、キャップ。スーツが七割だと、まっすぐ飛べない。ビルの谷間を二度ほど回り道した』

 

少し間があって、スタークの声が低くなった。

 

『セルヴィグがいる。装置を抱えて、止まる気がない。撃ってみたが、障壁に弾かれた。……スーツでは通れない』

 

「じゃあ、どうするの」ナターシャが言った。

 

『脱ぐ』

 

「は?」

 

『スーツを脱いで、歩いて入る。ロキは、僕に杖を向けたがるはずだ。時間を稼ぎながら、新型を呼ぶ。……ところでエド』

 

エドは、通信機を押さえた。

 

「なんだ」

 

『あの杖は、胸のこれに効くか。専門家の意見を聞きたい』

 

エドは、艦のラボで聞いた話を思い出した。胸の光は、破片を止めるために、外へ向けて引いている。

 

「杖は、触った人の一番開いた所に入る。押さずに探して、開いてる所から入る。あんたの胸の光は、内側に向いた口がない。外へ引いてるだけだ。だから、入れない……はずだ」

 

『はず、か』

 

「保証はしねえぞ。杖には触れたけど、あんたの体は触ってねえ。見ただけの話だ」

 

『十分だ』

 

通信の向こうで、金属の擦れる音が響いた。

 

「外れたら、彼は終わりよ」ナターシャが言った。

 

「分かってる」エドは言った。「だから、聞かれた時に、嘘は言えなかった」

 

ナターシャは、何も返さなかった。

 

通信機から、ロキの声が聞こえた。遠くて、少し反響していた。エドは、聞き取れる言葉だけを拾った。スタークの足音と、グラスの触れる音がする。『一杯どうだ』と、スタークの声が小さく言った。ロキの声は、苛立っていた。何かを言い返しているのに、スタークのほうが楽しそうだった。

 

それから、こつ、と軽い音がした。

 

間があった。もう一度、こつ。

 

『動くはずだ』ロキの声が、はっきり聞こえた。

 

『調子が悪いんじゃないか』スタークが言った。『そういうこと、あるよな』

 

バートンが、小さく息を吐いた。ロジャースは、通信機から指を離して、エドを見た。何か言いかけて、やめた。

 

次の瞬間、通信機が悲鳴のような雑音を上げた。

 

『っ、窓だ、窓——』スタークの声が、遠ざかった。『落ちてる、僕は落ちて——』

 

「スターク!」ロジャースが叫んだ。

 

返事は、風の音だけだった。それから、風の中で、がしゃん、と何かが噛み合う音がした。

 

『……来た。新型だ』スタークの声が、低く、静かだった。『ロキ。君が怒らせた相手が、もう一人いる。名前は、フィルだ』

 

エドは、息を止めた。

 

バートンの手が、操縦桿の上で、固まった。ナターシャは、何も言わなかった。後ろの席で、ロジャースが、盾の縁に当てた布を、そっと膝に下ろした。

 

『さあ、始めようか』

 

窓の外に、塔が見えた。ビルの群れの中で、一本だけ、先の尖った高い建物。その真上に、青白い光が噴き上がった。雲を突き抜けて、真っ直ぐに、空の高い所へ伸びていく。

 

光の先で、空が、割れた。

 

裂け目の向こうは、暗かった。夜よりも暗い、何もない色だった。その暗がりから、黒いものが、ぼろぼろとこぼれ出してくる。

 

「……あれが、全部、来るのか」エドは言った。

 

〈兄さん。向こう、暗いよ〉

 

〈ああ。門だ〉

 

〈あの扉とは、違うよね。あっちは白かった。こっちは、何もない〉

 

〈分かってる。同じもんじゃねえ〉

 

分かっていても、胸の奥が冷えた。扉の向こうの、あの白い場所を思い出した。同じ物ではない。それでも、開けてはいけない口を人が開けている、という眺めだけは、あの時と重なった。

 

『スターク。北東へ向かってる』ナターシャが、通信機に言った。

 

『パーク・アベニューを上がってこい。こっちで片付けて、そっちへ渡す』

 

バートンが、機首を塔へ向けた。

 

塔の上では、二つの人影が揉み合っていた。一人は赤い外套で、一人は緑の外套だった。ソーと、ロキだった。バートンが、操縦桿のスイッチに指をかけて、ロキに狙いを定める。

 

その時、ロキが、こちらを見た。

 

杖が、持ち上がった。

 

「来るぞ!」

 

光が、翼に当たった。機体が、ぐるりと回る。ロジャースが盾を床に突き立てて、体を支えた。バートンが歯を食いしばって操縦桿を引いたが、手応えがないのは、後ろの席からでも分かった。

 

エドは、計器のガラスに映ったバートンの顔を見た。目は、張った弦のようだった。けれど、青くはなかった。

 

「舵が死んでる」バートンが言った。「下は、通りだ。降りる場所がない」

 

***

 

エドは、シートベルトを外していた。床に手をついた。

 

床の金属が、指の中に流れ込んでくる。骨組みの位置、外板の厚み、翼の根元の継ぎ目。壊れ方が、手に取るように分かった。窓の外で、ビルの窓が、一枚ずつ大きくなる。高度が落ちていく。

 

この速さで腹から路面に落ちれば、外板なんて数秒で削れて、中身ごと潰れる。止めるには、勢いを何かに食わせるしかない。

 

バネだ。車の脚と同じで、鉄を曲がる形にして、縮ませて、少しずつ勢いを使い切らせる。

 

〈座席の骨組みは、細くて粘る鋼だ。あれをバネに〉

 

〈隔壁の鋼板を、関節に。天井の梁と外板の半分も回す。折れた翼は、爪に〉

 

〈分かってる。腹じゃなく、脚で降りる〉

 

「全員、何かに掴まれ!」

 

「何を——」ロジャースが顔を上げた。

 

「いいから!」

 

エドは、両手を打ち合わせて、床に叩きつけた。

 

青白い稲妻が、機内を貫いた。

 

座席の骨組みが、稲妻に包まれて、床の下でねじれた。細い鋼が、何重もの螺旋にねじり上げられて、太いバネになる。隔壁の鋼板と天井の梁がそこへ組み込まれて、膝の関節になる。それが四本。機体の腹が内側から膨らみ、四本の鉄の脚が、床を突き破って伸びた。折れた翼の鉄は、爪になって先端に集まる。猛禽の脚のような形だった。

 

通りが、窓いっぱいに広がった。路上に、乗り捨てられた車が並んでいる。人は、まだ出てきていなかった。

 

「右だ! 右に寄せろ!」

 

バートンが、操縦桿を押し込んだ。機首が、わずかに向きを変えた。歩道の広い側に、人影はなかった。

 

床が、突き上げた。

 

四本の爪が、路面に食い込んだ。耳の奥で、金属が悲鳴を上げた。脚が、膝のように曲がって、バネが縮む。縮む。縮みきったところで、機体の勢いが、ふっと半分になった。もう一度、脚が沈む。勢いが、さらに削られていく。座席が跳ねる。ロジャースの盾が、床を引っ掻いて、火花を散らした。

 

機体は、路面を三十メートルほど引きずられ、やがて、がくん、と止まった。

 

しばらく、誰も動かなかった。

 

エドは、床に手をついたまま、息を吐いた。耳鳴りがした。

 

「……生きてる?」ナターシャが、隣の席から言った。

 

「生きてる」ロジャースが答えた。盾を床から引き抜いた。「全員だ。……今のは、お前か」

 

視線が、エドに集まった。

 

「お前、今」バートンが、あきれたような顔をした。「床から、脚が生えたぞ。機体が、鳥みたいに降りた」

 

「地面に突っ込むより、マシだろ」

 

「『マシ』で済ませる話じゃないぞ」

 

ロジャースは、何か言おうとして、結局、短く言った。

 

「助かった。ありがとう、エルリック」

 

エドは、顔が熱くなるのを感じた。礼を言われるのは、苦手だった。どう返せばいいか、いつも分からなくなる。

 

「別に。……いいから降りるぞ! ぼーっとしてる場合じゃねえ!」

 

前の席でナターシャが、肩を揺らしたのが見えた。笑ったのだと思う。

 

***

 

後部のランプを下ろして、四人は降りた。大通りと大通りが十字に交わる、広い交差点の真ん中だった。四方に、ビルが壁のように立っている。

 

街が、止まっていた。

 

車の音も、人の声も、一度に消えた。その静けさの底から、低い唸りが響いた。腹の底に届く声だった。大きな影が、四人の上を、ゆっくり覆っていく。

 

エドは、顔を上げた。

 

さっき裂け目から降りてきた、胴の長い、魚のような化け物が、ビルの谷間を、頭上で通り過ぎていく。腹の下に、小さな影が、びっしりと貼り付いていた。それが、ぱらぱらと剥がれて、両側のビルの壁面に取りついた。壁を滑り降りてくる。窓に突っ込むものもいた。

 

悲鳴が、戻ってきた。

 

「スターク」ロジャースが、通信機に言った。「見てるか」

 

『見てる。見えてるのに、まだ信じられなくてね。バナーは来たか』

 

「バナー?」

 

『こっちの話だ。ジャーヴィス、柔らかい所を探せ』

 

ロジャースは、通りの先を見た。ビルの出口から溢れた人の波が、交差点に向かって押し寄せている。その頭上に、壁を降りてきた敵が、武器を向けていた。

 

「市民が先だ」ロジャースが言った。「バートンは上から援護。ナターシャは、あの角を押さえてくれ。俺は警官を捕まえる。エルリック」

 

「バスだ」エドは、通りの先を指した。横転した車体が見える。窓の中に、人影があった。「あそこに、人が詰まってる。俺が行く」

 

「一人でか」

 

「任せろ」

 

ロジャースは、一瞬だけ迷って、頷いた。

 

エドは、走った。

 

横転したバスの窓から、小さな子供が、親の手で次々と押し上げられていた。出入り口の扉が、歪んで開かない。男が一人、扉を引いて、顔を真っ赤にしている。びくともしなかった。

 

「どいてくれ!」

 

「無理だ、歪んでる! 工具もない!」

 

「いらねえ」

 

エドは、男を押しのけて、バスの横腹に両手を当てた。バスの鋼は薄くて、柔らかい。歪んだ扉の蝶番の形も、分かった。

 

両手を打ち合わせた。

 

青白い稲妻が、バスの全身を駆け抜けた。歪んだ扉の周りの鉄が、稲妻に撫でられて、形を変えた。外へ引き伸ばされる。扉は枠ごと縮んで消え、座席の間に広い口が開いた。縮んだ分の鉄が、地面へ伸びて、幅の広い階段に育つ。中の人が、一斉に顔を上げた。

 

「出ろ! 子供から! 押すな!」

 

窓の縁にしがみついていた男の子が、エドを見下ろして、目を丸くした。

 

「おにいちゃん、まほうつかい?」

 

「魔法使いじゃねえ。錬金術師だ」エドは、できたばかりの階段を、軽く踏んでみせた。「鉄の形を、ちょっと変えただけだ。ほら、怖くねえだろ」

 

男の子が、きょとんとして、それから、ふっと笑った。母親が、その子を抱え上げて、泣きながら笑った。

 

〈兄さん、上〉

 

〈見えてる〉

 

頭上を、もう一つ影が横切った。武器を抱えた敵が、ビルの縁から飛び降りてくる。上の階の窓から、ガラスが降ってきた。バスから降りた人たちの真ん中に、割れた板が突き刺さる。悲鳴が、一段高くなった。

 

交差点は、四方のどの道を向いても、敵が降りてくる。四方から人が集まってきて、逃げ場がない。このままここに詰め込めば、全員が撃たれる。降ってくる物に潰される。

 

道を空けても、足りない。

 

先に、頭の上を塞ぐ。

 

エドは、通りを見回した。バスの残り。路肩に乗り捨てられた車が、片側に十数台。持ち主は、もう逃げた後だ。反対側の車は、残しておく。街灯。信号機の柱。歩道の柵。

 

「どいてくれ! どいて! 全員、できるだけ中央に寄れ!」

 

エドは、人の波を掻き分けて、交差点の真ん中に出た。

 

「何だ、子供が——」

 

「いいから、寄れ! 上を塞ぐ!」

 

背の高い男が、反射的に下がった。つられて、周りが固まった。人の輪が、交差点の中央に集まった。

 

エドは、バスの残りに手を置いた。それから、路肩の車の屋根に。ボンネット、ドア、フレーム。それぞれの厚みと、鋼の質が、指に流れてくる。何十トンもある。足りる。

 

〈兄さん、柱を骨にして。街灯と信号機を曲げて、アーチに〉

 

〈それだ。板は、その骨に張る〉

 

エドは、両手を打ち合わせて、路面に叩きつけた。

 

青白い稲妻が、路面を四方へ爆ぜた。路面の下の配管と、街灯の根と、車の車輪を伝って、力が交差点の端まで届いていく。

 

バスの残りが、路肩の車が、その場でぐしゃりと縮んだ。縮んだ分の鉄が、稲妻の筋に引かれて、路面を這い、街灯と信号機の根元へ集まっていく。柱が、太く育った。木の幹のように、空へ伸びた。幹は四方で枝を広げ、頭上で絡み合って、傘の骨のような梁になる。梁の間へ、鉄の板が、一瞬で張り渡された。頭上の空が、一枚の鉄の天井に塞がれた。何台もの車だったとは、誰にも分からなかった。

 

かん、かん、かん、と音がした。降ってきたガラスが、鉄に弾かれた。敵の撃った光が、天井の外側を焼いて、跳ね返った。

 

交差点の上に、丸い鉄の天井ができた。

 

人々が、天井を見上げた。口を開けて、誰も、声を出さなかった。ほんの数秒の間に、空が、閉じたのだ。

 

「……今、何が起きた」

 

帽子を押さえた警官が、呟いた。隣で、さっきの男の子が、母親の腕の中から身を乗り出した。

 

「すごい!」

 

エドは、肩を回した。

 

〈兄さん、まだ行ける?〉

 

〈余裕だ。次だ〉

 

屋根の下に、人が溢れている。ここから出口へ誘導しなければ、屋根の下で押し潰される。

 

地下鉄の階段が、交差点の端にあった。入口の鉄格子は閉まっていて、人が詰まって押している。

 

「全員、聞け!」エドは、声を張り上げた。「上は塞いだ! 撃たれる心配はない! 地下鉄の階段まで、仕切りで道を作る! その道を通れ! 走るな、歩け! 押すな!」

 

エドは、残った歩道の柵と、屋根の端に余った鉄に手を当てた。両手を打ち合わせる。

 

柵と余った鉄が、伸びた。屋根の下の路面から、交差点の真ん中を起点に、細長い鉄のトンネルが育っていく。人の背丈の倍の高さで、天井は丸く、地下鉄の階段の入口まで一本に繋がった。残った街灯の頭が、稲妻に呑まれて縮み、トンネルの天井に等間隔で埋め込まれる。ぽ、ぽ、ぽ、と、白い明かりが、奥へ向かって順に点いた。

 

壁の外側にいた人は、トンネルの口へ回った。入口の鉄格子には、エドが掌を当てて打ち合わせた。稲妻とともに、格子が内側へ畳まれた。トンネルと階段が、繋がった。

 

最初の一人が、恐る恐る、道に足をかけた。それから、堰を切ったように、人が流れ始めた。転んだ女性を、前の男が引き起こして、肩を貸した。

 

エドは、道の入口に立って、足を止めさせない声を出し続けた。走るな。手を貸せ。子供を先に。

 

道の入口に立つエドの背中で、赤いコートが、屋根の下の暗がりに、くっきり浮いていた。

 

その時だった。

 

人の波の足元から、細い泣き声がした。

 

見下ろすと、女の子が一人、座り込んでいた。五つか六つくらいだった。片腕に、くたびれたぬいぐるみを抱えて、もう片方の手を、誰かを探すように伸ばしている。

 

「ママ」

 

その声に、エドの足が、止まった。

 

頭の中に、エリシアの声がよみがえった。ヒューズが死んだ夜、「パパは?」と聞いた、あの小さな声。誰も、答えられなかった。

 

〈兄さん〉

 

〈……分かってる。あの時は、何もできなかった〉エドは、拳を握った。〈今度は、手が届く。この子の「ママは?」には、俺が、答える〉

 

エドは、しゃがんで、女の子の目の高さに合わせた。

 

「ママは、どっちだ」

 

女の子が、人の流れの向こうを指した。青い上着が、見えた。

 

「よし。じゃあ、そこまで運ぶ。しっかり掴まってろ」

 

エドは、女の子を抱え上げた。思ったより、軽かった。右腕の義肢で支えて、左手で背中を押さえる。道を駆け抜けた。向こう側の青い上着が、振り向いて、叫んだ。

 

女の子の手が、母親の腕の中に渡った。母親は、何か言った。声が、震えて、聞き取れなかった。エドは、手を振って、背を向けた。

 

「行け! 早く!」

 

***

 

道の入口に戻ると、屋根の縁をくぐって、ロジャースが戻ってきた。後ろに、制服の警官を二人、連れている。年配の、偉そうなほうの警官が、屋根を見上げて、口を開けていた。

 

「この通りを任せる。建物の中の人は、地下か地下鉄から出して、通りから遠ざけてくれ」ロジャースが言った。「ここの人の流れは、この道が地下鉄に繋いである。入口には、彼が立つ。赤い服が目印だ。迷った人は、あそこへ集めてくれ」

 

警官は、屋根とエドを見比べた。

 

「この子供が、これを?」

 

「ああ」ロジャースが頷いた。

 

「冗談だろ」

 

「冗談じゃねえ。見りゃ分かるだろ」エドは、屋根を顎で指した。「歩いて通れ。それだけでいい」

 

警官は、しばらくエドを見ていた。それから、無線を取った。

 

エドは、屋根の隙間から、通りの隅へ目をやった。

 

さっきの敵の一体が、路面に倒れていた。バートンの矢が、胸に刺さっている。持っていた武器が、手を離れて、路面に転がっていた。

 

エドは、屋根の端を抜けて、その武器の前に、膝をついた。

 

〈兄さん、触るの?〉

 

〈手首までだ。槍みたいに冷えたら、すぐ離す〉

 

左手の指先を、そっと武器の柄に触れた。

 

何も、起こらなかった。冷たくも、熱くもなかった。金属と、見たことのない回路の層が、指の中に開いた。

 

エドは、息を止めた。

 

撃つ部品がある。狙う部品がある。動かす部品がある。考える部品が、見当たらない。

 

〈何か、聞こえる?〉

 

〈聞こえはしねえ。でも、受け口が一つだけある。外へ向いた口だ。自分で決める所がなくて、外から来るものを受けるためだけの〉

 

〈つまり、誰かが送ってる〉

 

〈……そうなる〉

 

エドは、倒れた敵の鎧の下も確かめた。同じだった。口がきけない。判断をしない。外から来る何かを待っている形だった。

 

受け口の向きが、全部、同じだった。

 

エドは、顔を上げた。割れた空の、黒い裂け目。たぶん、あの上だ。

 

通信機に、指を当てた。

 

「ロジャース! みんな聞け!」

 

『聞こえてる』

 

「こいつら、自分で動いてねえ。頭の中に入られて操られてるんじゃない。最初から、外から糸を引かれる形に作ってある。糸の先は、たぶん、あの門の向こうだ。大元がある。そこを断てば、止まるかもしれねえ」

 

通信の向こうが、静まった。

 

ロジャースが、すぐ近くで、足を止めたのが見えた。エドを見ていた。ナターシャも、遠くの角で、こちらを振り向いている。

 

『つまり』スタークの声が、割り込んだ。風の音がうるさい。『数じゃなく、頭を叩けばいいわけだ。で、その頭は、裂け目の向こう』

 

「確かじゃねえぞ。たぶん、だ」

 

『たぶんで十分だ。確かめる方法を考える。ひとまず、頭の隅に置いとく』

 

ロジャースは、通信機に指を当てたまま、少しの間、エドを見ていた。

 

エドは、気づいた。さっきまでと、目の向きが変わっていた。子供を庇う大人の目が、隣に立つ誰かを見る目になっていた。

 

「分かった」ロジャースが言った。「敵を減らすのは続ける。だが、目標を足す。市民を守りつつ、あの門に近づく道を探せ」

 

その時、頭上で空気が弾けた。

 

雷が、交差点に落ちた。眩しい光が、地面を這って、近くに降りていた敵の群れを一度に撥ね飛ばした。敵は、痙攣して、地面に倒れた。

 

光の中心に、ソーが立っていた。

 

「上は、どうなってる」ロジャースが言った。

 

「テッセラクトの周りの力は、破れない」ソーは言った。「ロキとの決着は、あとだ」

 

「並ぶなら、後ろに並べ」バートンが、屋根の上から言った。

 

いつの間にか、交差点の端に、小型の二輪を降りた男が立っていた。バナーだった。街を見渡して、小さく息を吐いた。

 

「ひどい眺めだな」

 

「もっとひどいのを、見てきたわ」ナターシャが言った。

 

「ごめん」

 

「謝らなくていい。むしろ、ひどいほうが助かる」

 

「スターク、バナー博士が来てくれたぞ。言ったとおりだ」ロジャースが、通信機に言った。

 

『なら、変身しろって伝えてくれ』スタークの声が、通信機から響いた。『そっちにパーティーを連れてく』

 

ビルの陰から、赤い鎧が飛び出した。その後ろから、胴の長い、魚のような化け物が、頭を振りながら追ってくる。

 

化け物は、通りの端で身を傾け、大通りに入ってきた。胴の幅は、ビルの五階分ほどあった。交差点に向かって、一直線に。乗り捨てられた車が、玩具のように跳ね上がる。

 

「あれが、パーティー?」ナターシャが言った。

 

「バナー博士」ロジャースが、バナーを見た。「今こそ、怒る時だ」

 

バナーは、笑った。

 

「僕には、秘密がある、キャップ」バナーは言った。「……いつも怒ってる」

 

その背中が、膨らんだ。服が裂けた。緑色の巨大な背中が、エドの目の前で、立ち上がった。咆哮が、交差点のガラスを震わせた。

 

緑の拳が、振り抜かれた。

 

化け物の鼻先が弾かれた。巨体が、くるりと一回転する。その柔らかい腹へ、赤い鎧から小さな弾が吸い込まれた。胴が内側から弾けて、路面を削りながら崩れ落ちた。ビルの窓という窓が、一斉に鳴った。

 

エドは、口を開けたまま、それを見ていた。

 

〈……一発だよ、兄さん〉

 

〈見えてる〉

 

ハルクの拳が、あの化け物を止めた。たった一発で。

 

胸の奥が、むずむずした。羨ましいのとは、少し違う。悔しいのに、近かった。

 

その時だった。

 

屋根の下の人々が、悲鳴を上げた。別の大通りの奥から、もう一つ、同じ影が降りてきていた。二匹目だった。こちらへ向かっている。屋根の下には、まだ人が残っている。地下鉄の階段の入口も、すぐそこだ。

 

ロジャースが、振り返った。ソーは、遠くで雷を落としている。バートンは屋根の上で、矢をつがえたまま、敵に追われていた。ナターシャは、角で銃を撃ち続けている。ハルクは、最初の化け物の残骸の上で、唸っている。

 

誰も、手が空いていなかった。

 

「エルリック」ロジャースが言った。「あれは——」

 

「俺がやる」

 

「一人でか」

 

「バナーが一発で止めたんだ」エドは言った。声が、勝手に大きくなった。「俺だって、やれる」

 

ロジャースは、一瞬だけ目を見張った。それから、頷いた。

 

「頼む。市民に当てるな」

 

「当てねえ」

 

エドは、走り出した。

 

屋根の端を抜けて、二匹目の来る大通りの先を見る。化け物は、ビルの谷間すれすれを、低く滑ってくる。高度が取れない。腹が、通りの上でたわんでいる。

 

あの腹は、柔らかい。さっき、スタークの弾が吸い込まれた所だ。

 

まず網で捕まえて、動きを止める。止まったところを、下から串刺しにする。

 

〈兄さん、次は大技になるよ〉

 

〈ああ。腹が鳴るのは覚悟してる〉

 

大通りの両側には、まだ車と街灯が残っている。路面の下には、配管。材料は、ある。屋根を組んで余った鉄も、まだ足元にある。

 

エドは、道の真ん中にしゃがんだ。両手を、路面に叩きつけた。

 

青白い稲妻が、路面と、その下の配管を伝って、大通りを走った。

 

路肩の車が、街灯が、その場でぐしゃりと縮んだ。縮んだ鉄が、通りの両側のビルの壁に取りつき、そこから、何百本もの鉄の綱が噴き出した。綱は、通りの上で交差して、幾重にも重なる。巨大な網が、通りを塞いだ。

 

化け物の頭が、網に突っ込んだ。網が伸びた。軋む。伸びて、伸びて、巨体を受け止める。化け物の勢いが、見る間に落ちていく。

 

「いまだ!」

 

エドは、網の下の路面に、もう一度、両手を押しつけた。残りの鉄を、全部、一本に注ぎ込む。

 

路面が割れた。その底から、一本の巨大な槍が、天へ向かって突き上がった。大木の幹を何本も束ねたような太さで、高さは、ビルの三階に届いた。切っ先は、網にぶら下がった化け物の腹の、真下にあった。

 

屋根の縁から、警官たちが、息を呑んで見ていた。「見たか、今の」

 

網にぶら下がった腹が、重みで垂れ下がった。腹が、槍の先に落ちた。

 

槍が、柔らかい腹を、下から貫いた。胴の真ん中を、背まで。化け物が、吼えた。網の中で、もがく。もがくほど、槍が根元まで食い込んでいく。やがて、動きが止まった。網にぶら下がり、巨大な槍に貫かれたまま、巨体が、ゆっくり傾いた。

 

エドは、歯を食いしばった。膝が、笑った。足の裏から、頭のてっぺんまで、力が抜けていく。

 

〈兄さん、動いてない〉

 

〈……ああ〉

 

屋根まで、あと二十メートルだった。

 

ごん、と地面が鳴った。土煙が上がった。化け物の巨体が、網と槍に吊られたまま、動かなくなった。ビルは、一棟も崩れていなかった。屋根の下の人たちは、誰も怪我をしていなかった。

 

エドは、路面に両手をついて、息をした。腹が、盛大に鳴った。

 

「……腹、減った」

 

〈兄さん、今のは、かっこよかったよ〉

 

〈うるせえ〉

 

屋根の上から、バートンの声が降ってきた。

 

「見てたぞ。子供の仕事じゃない」

 

「そう言うなら、あんたも手伝えよ!」

 

エドは、膝を払って、立ち上がった。ふらついた足を、無理に踏ん張る。

 

大通りの先に、三匹目の影が見えた。

 

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