MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
クインジェットは、夜明けの空を飛んでいた。
窓の外は、白んでいた。雲の下に、黒い海と、その縁に細く光る陸が見える。操縦席にはバートンが座り、その隣にナターシャがいる。エドは、操縦席のすぐ後ろの座席で、赤いコートの襟を立てて丸くなっていた。ロジャースは、通路を挟んだ向かいの席で、盾の縁を布で拭いている。三度目だった。
エドは、耳の通信機に、指で触れた。雑音はない。
「寝たか」
バートンが、前を向いたまま言った。
「寝れるかよ」
「だろうな」
バートンは、操縦桿から片手を離して、指を開いて、閉じた。しばらく、何も言わなかった。エンジンの音だけが続いた。
〈兄さん。あの人の目、まだ少し赤い〉
〈ああ。見てる〉
「頼みが一つある」
「借りの話なら聞かねえぞ。数えてるのは俺だ」
「逆だ」バートンは言った。「もし俺の目がまた青くなったら、撃て。止める暇があるなら止めてくれ。ないなら、撃て」
エドは、座席の背の隙間から、バートンの横顔を見た。
「断る」
「おい」
「撃たねえ」
「止める暇がない時の話をしてる」
「だから、暇を作る。どうやるかは、知らねえ。でも作る」エドは、座席の背に頭を預けた。声が、自分で思ったより小さくなった。「あんたが戻ってきた時、嬉しそうな顔した人が、艦にいただろ。ナターシャが。あれを、俺は台無しにしたくない」
バートンは、返事をしなかった。操縦桿を握る指だけが、一度、止まった。
隣の席で、ナターシャが、座り直す音がした。
耳の奥で、ざざ、と音がした。
『聞こえるか』
スタークの声だった。風を切る音が混じっている。
『こちらスターク。タワーが見えた。……屋上で、何か回ってる』
「入る前に状況を送れ」ロジャースが通信機に指を当てた。「押さえろとは言ったが、一人で入れとは言ってない」
『分かってるよ、キャップ。スーツが七割だと、まっすぐ飛べない。ビルの谷間を二度ほど回り道した』
少し間があって、スタークの声が低くなった。
『セルヴィグがいる。装置を抱えて、止まる気がない。撃ってみたが、障壁に弾かれた。……スーツでは通れない』
「じゃあ、どうするの」ナターシャが言った。
『脱ぐ』
「は?」
『スーツを脱いで、歩いて入る。ロキは、僕に杖を向けたがるはずだ。時間を稼ぎながら、新型を呼ぶ。……ところでエド』
エドは、通信機を押さえた。
「なんだ」
『あの杖は、胸のこれに効くか。専門家の意見を聞きたい』
エドは、艦のラボで聞いた話を思い出した。胸の光は、破片を止めるために、外へ向けて引いている。
「杖は、触った人の一番開いた所に入る。押さずに探して、開いてる所から入る。あんたの胸の光は、内側に向いた口がない。外へ引いてるだけだ。だから、入れない……はずだ」
『はず、か』
「保証はしねえぞ。杖には触れたけど、あんたの体は触ってねえ。見ただけの話だ」
『十分だ』
通信の向こうで、金属の擦れる音が響いた。
「外れたら、彼は終わりよ」ナターシャが言った。
「分かってる」エドは言った。「だから、聞かれた時に、嘘は言えなかった」
ナターシャは、何も返さなかった。
通信機から、ロキの声が聞こえた。遠くて、少し反響していた。エドは、聞き取れる言葉だけを拾った。スタークの足音と、グラスの触れる音がする。『一杯どうだ』と、スタークの声が小さく言った。ロキの声は、苛立っていた。何かを言い返しているのに、スタークのほうが楽しそうだった。
それから、こつ、と軽い音がした。
間があった。もう一度、こつ。
『動くはずだ』ロキの声が、はっきり聞こえた。
『調子が悪いんじゃないか』スタークが言った。『そういうこと、あるよな』
バートンが、小さく息を吐いた。ロジャースは、通信機から指を離して、エドを見た。何か言いかけて、やめた。
次の瞬間、通信機が悲鳴のような雑音を上げた。
『っ、窓だ、窓——』スタークの声が、遠ざかった。『落ちてる、僕は落ちて——』
「スターク!」ロジャースが叫んだ。
返事は、風の音だけだった。それから、風の中で、がしゃん、と何かが噛み合う音がした。
『……来た。新型だ』スタークの声が、低く、静かだった。『ロキ。君が怒らせた相手が、もう一人いる。名前は、フィルだ』
エドは、息を止めた。
バートンの手が、操縦桿の上で、固まった。ナターシャは、何も言わなかった。後ろの席で、ロジャースが、盾の縁に当てた布を、そっと膝に下ろした。
『さあ、始めようか』
窓の外に、塔が見えた。ビルの群れの中で、一本だけ、先の尖った高い建物。その真上に、青白い光が噴き上がった。雲を突き抜けて、真っ直ぐに、空の高い所へ伸びていく。
光の先で、空が、割れた。
裂け目の向こうは、暗かった。夜よりも暗い、何もない色だった。その暗がりから、黒いものが、ぼろぼろとこぼれ出してくる。
「……あれが、全部、来るのか」エドは言った。
〈兄さん。向こう、暗いよ〉
〈ああ。門だ〉
〈あの扉とは、違うよね。あっちは白かった。こっちは、何もない〉
〈分かってる。同じもんじゃねえ〉
分かっていても、胸の奥が冷えた。扉の向こうの、あの白い場所を思い出した。同じ物ではない。それでも、開けてはいけない口を人が開けている、という眺めだけは、あの時と重なった。
『スターク。北東へ向かってる』ナターシャが、通信機に言った。
『パーク・アベニューを上がってこい。こっちで片付けて、そっちへ渡す』
バートンが、機首を塔へ向けた。
塔の上では、二つの人影が揉み合っていた。一人は赤い外套で、一人は緑の外套だった。ソーと、ロキだった。バートンが、操縦桿のスイッチに指をかけて、ロキに狙いを定める。
その時、ロキが、こちらを見た。
杖が、持ち上がった。
「来るぞ!」
光が、翼に当たった。機体が、ぐるりと回る。ロジャースが盾を床に突き立てて、体を支えた。バートンが歯を食いしばって操縦桿を引いたが、手応えがないのは、後ろの席からでも分かった。
エドは、計器のガラスに映ったバートンの顔を見た。目は、張った弦のようだった。けれど、青くはなかった。
「舵が死んでる」バートンが言った。「下は、通りだ。降りる場所がない」
***
エドは、シートベルトを外していた。床に手をついた。
床の金属が、指の中に流れ込んでくる。骨組みの位置、外板の厚み、翼の根元の継ぎ目。壊れ方が、手に取るように分かった。窓の外で、ビルの窓が、一枚ずつ大きくなる。高度が落ちていく。
この速さで腹から路面に落ちれば、外板なんて数秒で削れて、中身ごと潰れる。止めるには、勢いを何かに食わせるしかない。
バネだ。車の脚と同じで、鉄を曲がる形にして、縮ませて、少しずつ勢いを使い切らせる。
〈座席の骨組みは、細くて粘る鋼だ。あれをバネに〉
〈隔壁の鋼板を、関節に。天井の梁と外板の半分も回す。折れた翼は、爪に〉
〈分かってる。腹じゃなく、脚で降りる〉
「全員、何かに掴まれ!」
「何を——」ロジャースが顔を上げた。
「いいから!」
エドは、両手を打ち合わせて、床に叩きつけた。
青白い稲妻が、機内を貫いた。
座席の骨組みが、稲妻に包まれて、床の下でねじれた。細い鋼が、何重もの螺旋にねじり上げられて、太いバネになる。隔壁の鋼板と天井の梁がそこへ組み込まれて、膝の関節になる。それが四本。機体の腹が内側から膨らみ、四本の鉄の脚が、床を突き破って伸びた。折れた翼の鉄は、爪になって先端に集まる。猛禽の脚のような形だった。
通りが、窓いっぱいに広がった。路上に、乗り捨てられた車が並んでいる。人は、まだ出てきていなかった。
「右だ! 右に寄せろ!」
バートンが、操縦桿を押し込んだ。機首が、わずかに向きを変えた。歩道の広い側に、人影はなかった。
床が、突き上げた。
四本の爪が、路面に食い込んだ。耳の奥で、金属が悲鳴を上げた。脚が、膝のように曲がって、バネが縮む。縮む。縮みきったところで、機体の勢いが、ふっと半分になった。もう一度、脚が沈む。勢いが、さらに削られていく。座席が跳ねる。ロジャースの盾が、床を引っ掻いて、火花を散らした。
機体は、路面を三十メートルほど引きずられ、やがて、がくん、と止まった。
しばらく、誰も動かなかった。
エドは、床に手をついたまま、息を吐いた。耳鳴りがした。
「……生きてる?」ナターシャが、隣の席から言った。
「生きてる」ロジャースが答えた。盾を床から引き抜いた。「全員だ。……今のは、お前か」
視線が、エドに集まった。
「お前、今」バートンが、あきれたような顔をした。「床から、脚が生えたぞ。機体が、鳥みたいに降りた」
「地面に突っ込むより、マシだろ」
「『マシ』で済ませる話じゃないぞ」
ロジャースは、何か言おうとして、結局、短く言った。
「助かった。ありがとう、エルリック」
エドは、顔が熱くなるのを感じた。礼を言われるのは、苦手だった。どう返せばいいか、いつも分からなくなる。
「別に。……いいから降りるぞ! ぼーっとしてる場合じゃねえ!」
前の席でナターシャが、肩を揺らしたのが見えた。笑ったのだと思う。
***
後部のランプを下ろして、四人は降りた。大通りと大通りが十字に交わる、広い交差点の真ん中だった。四方に、ビルが壁のように立っている。
街が、止まっていた。
車の音も、人の声も、一度に消えた。その静けさの底から、低い唸りが響いた。腹の底に届く声だった。大きな影が、四人の上を、ゆっくり覆っていく。
エドは、顔を上げた。
さっき裂け目から降りてきた、胴の長い、魚のような化け物が、ビルの谷間を、頭上で通り過ぎていく。腹の下に、小さな影が、びっしりと貼り付いていた。それが、ぱらぱらと剥がれて、両側のビルの壁面に取りついた。壁を滑り降りてくる。窓に突っ込むものもいた。
悲鳴が、戻ってきた。
「スターク」ロジャースが、通信機に言った。「見てるか」
『見てる。見えてるのに、まだ信じられなくてね。バナーは来たか』
「バナー?」
『こっちの話だ。ジャーヴィス、柔らかい所を探せ』
ロジャースは、通りの先を見た。ビルの出口から溢れた人の波が、交差点に向かって押し寄せている。その頭上に、壁を降りてきた敵が、武器を向けていた。
「市民が先だ」ロジャースが言った。「バートンは上から援護。ナターシャは、あの角を押さえてくれ。俺は警官を捕まえる。エルリック」
「バスだ」エドは、通りの先を指した。横転した車体が見える。窓の中に、人影があった。「あそこに、人が詰まってる。俺が行く」
「一人でか」
「任せろ」
ロジャースは、一瞬だけ迷って、頷いた。
エドは、走った。
横転したバスの窓から、小さな子供が、親の手で次々と押し上げられていた。出入り口の扉が、歪んで開かない。男が一人、扉を引いて、顔を真っ赤にしている。びくともしなかった。
「どいてくれ!」
「無理だ、歪んでる! 工具もない!」
「いらねえ」
エドは、男を押しのけて、バスの横腹に両手を当てた。バスの鋼は薄くて、柔らかい。歪んだ扉の蝶番の形も、分かった。
両手を打ち合わせた。
青白い稲妻が、バスの全身を駆け抜けた。歪んだ扉の周りの鉄が、稲妻に撫でられて、形を変えた。外へ引き伸ばされる。扉は枠ごと縮んで消え、座席の間に広い口が開いた。縮んだ分の鉄が、地面へ伸びて、幅の広い階段に育つ。中の人が、一斉に顔を上げた。
「出ろ! 子供から! 押すな!」
窓の縁にしがみついていた男の子が、エドを見下ろして、目を丸くした。
「おにいちゃん、まほうつかい?」
「魔法使いじゃねえ。錬金術師だ」エドは、できたばかりの階段を、軽く踏んでみせた。「鉄の形を、ちょっと変えただけだ。ほら、怖くねえだろ」
男の子が、きょとんとして、それから、ふっと笑った。母親が、その子を抱え上げて、泣きながら笑った。
〈兄さん、上〉
〈見えてる〉
頭上を、もう一つ影が横切った。武器を抱えた敵が、ビルの縁から飛び降りてくる。上の階の窓から、ガラスが降ってきた。バスから降りた人たちの真ん中に、割れた板が突き刺さる。悲鳴が、一段高くなった。
交差点は、四方のどの道を向いても、敵が降りてくる。四方から人が集まってきて、逃げ場がない。このままここに詰め込めば、全員が撃たれる。降ってくる物に潰される。
道を空けても、足りない。
先に、頭の上を塞ぐ。
エドは、通りを見回した。バスの残り。路肩に乗り捨てられた車が、片側に十数台。持ち主は、もう逃げた後だ。反対側の車は、残しておく。街灯。信号機の柱。歩道の柵。
「どいてくれ! どいて! 全員、できるだけ中央に寄れ!」
エドは、人の波を掻き分けて、交差点の真ん中に出た。
「何だ、子供が——」
「いいから、寄れ! 上を塞ぐ!」
背の高い男が、反射的に下がった。つられて、周りが固まった。人の輪が、交差点の中央に集まった。
エドは、バスの残りに手を置いた。それから、路肩の車の屋根に。ボンネット、ドア、フレーム。それぞれの厚みと、鋼の質が、指に流れてくる。何十トンもある。足りる。
〈兄さん、柱を骨にして。街灯と信号機を曲げて、アーチに〉
〈それだ。板は、その骨に張る〉
エドは、両手を打ち合わせて、路面に叩きつけた。
青白い稲妻が、路面を四方へ爆ぜた。路面の下の配管と、街灯の根と、車の車輪を伝って、力が交差点の端まで届いていく。
バスの残りが、路肩の車が、その場でぐしゃりと縮んだ。縮んだ分の鉄が、稲妻の筋に引かれて、路面を這い、街灯と信号機の根元へ集まっていく。柱が、太く育った。木の幹のように、空へ伸びた。幹は四方で枝を広げ、頭上で絡み合って、傘の骨のような梁になる。梁の間へ、鉄の板が、一瞬で張り渡された。頭上の空が、一枚の鉄の天井に塞がれた。何台もの車だったとは、誰にも分からなかった。
かん、かん、かん、と音がした。降ってきたガラスが、鉄に弾かれた。敵の撃った光が、天井の外側を焼いて、跳ね返った。
交差点の上に、丸い鉄の天井ができた。
人々が、天井を見上げた。口を開けて、誰も、声を出さなかった。ほんの数秒の間に、空が、閉じたのだ。
「……今、何が起きた」
帽子を押さえた警官が、呟いた。隣で、さっきの男の子が、母親の腕の中から身を乗り出した。
「すごい!」
エドは、肩を回した。
〈兄さん、まだ行ける?〉
〈余裕だ。次だ〉
屋根の下に、人が溢れている。ここから出口へ誘導しなければ、屋根の下で押し潰される。
地下鉄の階段が、交差点の端にあった。入口の鉄格子は閉まっていて、人が詰まって押している。
「全員、聞け!」エドは、声を張り上げた。「上は塞いだ! 撃たれる心配はない! 地下鉄の階段まで、仕切りで道を作る! その道を通れ! 走るな、歩け! 押すな!」
エドは、残った歩道の柵と、屋根の端に余った鉄に手を当てた。両手を打ち合わせる。
柵と余った鉄が、伸びた。屋根の下の路面から、交差点の真ん中を起点に、細長い鉄のトンネルが育っていく。人の背丈の倍の高さで、天井は丸く、地下鉄の階段の入口まで一本に繋がった。残った街灯の頭が、稲妻に呑まれて縮み、トンネルの天井に等間隔で埋め込まれる。ぽ、ぽ、ぽ、と、白い明かりが、奥へ向かって順に点いた。
壁の外側にいた人は、トンネルの口へ回った。入口の鉄格子には、エドが掌を当てて打ち合わせた。稲妻とともに、格子が内側へ畳まれた。トンネルと階段が、繋がった。
最初の一人が、恐る恐る、道に足をかけた。それから、堰を切ったように、人が流れ始めた。転んだ女性を、前の男が引き起こして、肩を貸した。
エドは、道の入口に立って、足を止めさせない声を出し続けた。走るな。手を貸せ。子供を先に。
道の入口に立つエドの背中で、赤いコートが、屋根の下の暗がりに、くっきり浮いていた。
その時だった。
人の波の足元から、細い泣き声がした。
見下ろすと、女の子が一人、座り込んでいた。五つか六つくらいだった。片腕に、くたびれたぬいぐるみを抱えて、もう片方の手を、誰かを探すように伸ばしている。
「ママ」
その声に、エドの足が、止まった。
頭の中に、エリシアの声がよみがえった。ヒューズが死んだ夜、「パパは?」と聞いた、あの小さな声。誰も、答えられなかった。
〈兄さん〉
〈……分かってる。あの時は、何もできなかった〉エドは、拳を握った。〈今度は、手が届く。この子の「ママは?」には、俺が、答える〉
エドは、しゃがんで、女の子の目の高さに合わせた。
「ママは、どっちだ」
女の子が、人の流れの向こうを指した。青い上着が、見えた。
「よし。じゃあ、そこまで運ぶ。しっかり掴まってろ」
エドは、女の子を抱え上げた。思ったより、軽かった。右腕の義肢で支えて、左手で背中を押さえる。道を駆け抜けた。向こう側の青い上着が、振り向いて、叫んだ。
女の子の手が、母親の腕の中に渡った。母親は、何か言った。声が、震えて、聞き取れなかった。エドは、手を振って、背を向けた。
「行け! 早く!」
***
道の入口に戻ると、屋根の縁をくぐって、ロジャースが戻ってきた。後ろに、制服の警官を二人、連れている。年配の、偉そうなほうの警官が、屋根を見上げて、口を開けていた。
「この通りを任せる。建物の中の人は、地下か地下鉄から出して、通りから遠ざけてくれ」ロジャースが言った。「ここの人の流れは、この道が地下鉄に繋いである。入口には、彼が立つ。赤い服が目印だ。迷った人は、あそこへ集めてくれ」
警官は、屋根とエドを見比べた。
「この子供が、これを?」
「ああ」ロジャースが頷いた。
「冗談だろ」
「冗談じゃねえ。見りゃ分かるだろ」エドは、屋根を顎で指した。「歩いて通れ。それだけでいい」
警官は、しばらくエドを見ていた。それから、無線を取った。
エドは、屋根の隙間から、通りの隅へ目をやった。
さっきの敵の一体が、路面に倒れていた。バートンの矢が、胸に刺さっている。持っていた武器が、手を離れて、路面に転がっていた。
エドは、屋根の端を抜けて、その武器の前に、膝をついた。
〈兄さん、触るの?〉
〈手首までだ。槍みたいに冷えたら、すぐ離す〉
左手の指先を、そっと武器の柄に触れた。
何も、起こらなかった。冷たくも、熱くもなかった。金属と、見たことのない回路の層が、指の中に開いた。
エドは、息を止めた。
撃つ部品がある。狙う部品がある。動かす部品がある。考える部品が、見当たらない。
〈何か、聞こえる?〉
〈聞こえはしねえ。でも、受け口が一つだけある。外へ向いた口だ。自分で決める所がなくて、外から来るものを受けるためだけの〉
〈つまり、誰かが送ってる〉
〈……そうなる〉
エドは、倒れた敵の鎧の下も確かめた。同じだった。口がきけない。判断をしない。外から来る何かを待っている形だった。
受け口の向きが、全部、同じだった。
エドは、顔を上げた。割れた空の、黒い裂け目。たぶん、あの上だ。
通信機に、指を当てた。
「ロジャース! みんな聞け!」
『聞こえてる』
「こいつら、自分で動いてねえ。頭の中に入られて操られてるんじゃない。最初から、外から糸を引かれる形に作ってある。糸の先は、たぶん、あの門の向こうだ。大元がある。そこを断てば、止まるかもしれねえ」
通信の向こうが、静まった。
ロジャースが、すぐ近くで、足を止めたのが見えた。エドを見ていた。ナターシャも、遠くの角で、こちらを振り向いている。
『つまり』スタークの声が、割り込んだ。風の音がうるさい。『数じゃなく、頭を叩けばいいわけだ。で、その頭は、裂け目の向こう』
「確かじゃねえぞ。たぶん、だ」
『たぶんで十分だ。確かめる方法を考える。ひとまず、頭の隅に置いとく』
ロジャースは、通信機に指を当てたまま、少しの間、エドを見ていた。
エドは、気づいた。さっきまでと、目の向きが変わっていた。子供を庇う大人の目が、隣に立つ誰かを見る目になっていた。
「分かった」ロジャースが言った。「敵を減らすのは続ける。だが、目標を足す。市民を守りつつ、あの門に近づく道を探せ」
その時、頭上で空気が弾けた。
雷が、交差点に落ちた。眩しい光が、地面を這って、近くに降りていた敵の群れを一度に撥ね飛ばした。敵は、痙攣して、地面に倒れた。
光の中心に、ソーが立っていた。
「上は、どうなってる」ロジャースが言った。
「テッセラクトの周りの力は、破れない」ソーは言った。「ロキとの決着は、あとだ」
「並ぶなら、後ろに並べ」バートンが、屋根の上から言った。
いつの間にか、交差点の端に、小型の二輪を降りた男が立っていた。バナーだった。街を見渡して、小さく息を吐いた。
「ひどい眺めだな」
「もっとひどいのを、見てきたわ」ナターシャが言った。
「ごめん」
「謝らなくていい。むしろ、ひどいほうが助かる」
「スターク、バナー博士が来てくれたぞ。言ったとおりだ」ロジャースが、通信機に言った。
『なら、変身しろって伝えてくれ』スタークの声が、通信機から響いた。『そっちにパーティーを連れてく』
ビルの陰から、赤い鎧が飛び出した。その後ろから、胴の長い、魚のような化け物が、頭を振りながら追ってくる。
化け物は、通りの端で身を傾け、大通りに入ってきた。胴の幅は、ビルの五階分ほどあった。交差点に向かって、一直線に。乗り捨てられた車が、玩具のように跳ね上がる。
「あれが、パーティー?」ナターシャが言った。
「バナー博士」ロジャースが、バナーを見た。「今こそ、怒る時だ」
バナーは、笑った。
「僕には、秘密がある、キャップ」バナーは言った。「……いつも怒ってる」
その背中が、膨らんだ。服が裂けた。緑色の巨大な背中が、エドの目の前で、立ち上がった。咆哮が、交差点のガラスを震わせた。
緑の拳が、振り抜かれた。
化け物の鼻先が弾かれた。巨体が、くるりと一回転する。その柔らかい腹へ、赤い鎧から小さな弾が吸い込まれた。胴が内側から弾けて、路面を削りながら崩れ落ちた。ビルの窓という窓が、一斉に鳴った。
エドは、口を開けたまま、それを見ていた。
〈……一発だよ、兄さん〉
〈見えてる〉
ハルクの拳が、あの化け物を止めた。たった一発で。
胸の奥が、むずむずした。羨ましいのとは、少し違う。悔しいのに、近かった。
その時だった。
屋根の下の人々が、悲鳴を上げた。別の大通りの奥から、もう一つ、同じ影が降りてきていた。二匹目だった。こちらへ向かっている。屋根の下には、まだ人が残っている。地下鉄の階段の入口も、すぐそこだ。
ロジャースが、振り返った。ソーは、遠くで雷を落としている。バートンは屋根の上で、矢をつがえたまま、敵に追われていた。ナターシャは、角で銃を撃ち続けている。ハルクは、最初の化け物の残骸の上で、唸っている。
誰も、手が空いていなかった。
「エルリック」ロジャースが言った。「あれは——」
「俺がやる」
「一人でか」
「バナーが一発で止めたんだ」エドは言った。声が、勝手に大きくなった。「俺だって、やれる」
ロジャースは、一瞬だけ目を見張った。それから、頷いた。
「頼む。市民に当てるな」
「当てねえ」
エドは、走り出した。
屋根の端を抜けて、二匹目の来る大通りの先を見る。化け物は、ビルの谷間すれすれを、低く滑ってくる。高度が取れない。腹が、通りの上でたわんでいる。
あの腹は、柔らかい。さっき、スタークの弾が吸い込まれた所だ。
まず網で捕まえて、動きを止める。止まったところを、下から串刺しにする。
〈兄さん、次は大技になるよ〉
〈ああ。腹が鳴るのは覚悟してる〉
大通りの両側には、まだ車と街灯が残っている。路面の下には、配管。材料は、ある。屋根を組んで余った鉄も、まだ足元にある。
エドは、道の真ん中にしゃがんだ。両手を、路面に叩きつけた。
青白い稲妻が、路面と、その下の配管を伝って、大通りを走った。
路肩の車が、街灯が、その場でぐしゃりと縮んだ。縮んだ鉄が、通りの両側のビルの壁に取りつき、そこから、何百本もの鉄の綱が噴き出した。綱は、通りの上で交差して、幾重にも重なる。巨大な網が、通りを塞いだ。
化け物の頭が、網に突っ込んだ。網が伸びた。軋む。伸びて、伸びて、巨体を受け止める。化け物の勢いが、見る間に落ちていく。
「いまだ!」
エドは、網の下の路面に、もう一度、両手を押しつけた。残りの鉄を、全部、一本に注ぎ込む。
路面が割れた。その底から、一本の巨大な槍が、天へ向かって突き上がった。大木の幹を何本も束ねたような太さで、高さは、ビルの三階に届いた。切っ先は、網にぶら下がった化け物の腹の、真下にあった。
屋根の縁から、警官たちが、息を呑んで見ていた。「見たか、今の」
網にぶら下がった腹が、重みで垂れ下がった。腹が、槍の先に落ちた。
槍が、柔らかい腹を、下から貫いた。胴の真ん中を、背まで。化け物が、吼えた。網の中で、もがく。もがくほど、槍が根元まで食い込んでいく。やがて、動きが止まった。網にぶら下がり、巨大な槍に貫かれたまま、巨体が、ゆっくり傾いた。
エドは、歯を食いしばった。膝が、笑った。足の裏から、頭のてっぺんまで、力が抜けていく。
〈兄さん、動いてない〉
〈……ああ〉
屋根まで、あと二十メートルだった。
ごん、と地面が鳴った。土煙が上がった。化け物の巨体が、網と槍に吊られたまま、動かなくなった。ビルは、一棟も崩れていなかった。屋根の下の人たちは、誰も怪我をしていなかった。
エドは、路面に両手をついて、息をした。腹が、盛大に鳴った。
「……腹、減った」
〈兄さん、今のは、かっこよかったよ〉
〈うるせえ〉
屋根の上から、バートンの声が降ってきた。
「見てたぞ。子供の仕事じゃない」
「そう言うなら、あんたも手伝えよ!」
エドは、膝を払って、立ち上がった。ふらついた足を、無理に踏ん張る。
大通りの先に、三匹目の影が見えた。