MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
再利用係
入館証は、スタークが言ったとおり、本当に届いた。
白いカードの表に、エドワード・エルリックの名前。肩書きの欄には「再利用係」とだけ印刷してある。裏には、廃棄場の区画番号が小さく並んでいた。
「ふざけてんのか、これ」
「ジャーヴィスに作らせた。ふざけてはいない」
スタークは、エスカレーターの手すりに肘をついて、あくびを噛み殺した。後ろからバナーが、紙コップを二つ持って降りてくる。ニューヨークの空は、もう十日前の煙を忘れたように晴れていた。
エレベーターを三つ乗り継いだ先の、窓のない作業場で、スタークが足を止めた。
「ここだ」
扉が開いた。
天井の高い倉庫に、スクラップの山があった。折れた梁。潰れたエンジン。車のドアが何十枚も、色別に積んである。壊れたロボットの腕が、棚の上から五本、行儀よく並んでこちらを向いていた。
エドは、息を吐いた。
「……多いな」
「だろう。全部が僕のじゃない。折れた梁や車のドアは、先週の瓦礫の山から、業者に運ばせた。ロボットの腕は、僕の失敗作だ」
「なんでそんなもんを」
「片付けを頼みたい。ここにある物を、使える材料にしてくれ。金属は金属に、ゴミはゴミに。ただ、その前に実験だ。梁もドアも、君の手仕事を見るための材料に取っておいた。順に渡すから、やれるか、やれないかだけ言ってくれ」
スタークは、棚から無造作に物を取って、エドの前の台に置いていった。
一つ目は、折れた梁の山だった。エドは、手袋を外して、左手を当てた。鉄の構造が、指の中に流れ込む。圧延の跡。ところどころ入った亀裂。
〈どう、兄さん〉
〈ただの鉄だ。質は悪くねえ〉
両手を打ち合わせて、梁の山に叩きつけた。
青白い稲妻が走って、折れた梁が縮み、真っ直ぐな角材に組み変わった。端がきれいに揃っている。
バナーが、紙コップを持ったまま近づいた。屈んで、角材の断面を指でなぞる。
「層がある」
「うん?」
「断面に、薄い層が重なってる。何枚もだ。さっきの梁にはなかった」
「錬成跡だ。やると、残る」
「ということは、見れば錬成した物かどうか、分かるのか」
「分かる。近くで見て、慣れてればな」エドは、角材の端を叩いた。「誰が作ったかまでは、分かんねえけどな」
スタークが、鼻で笑った。「見る人間が見れば、か。覚えておこう」
二つ目は、潰れた車のドアと、街灯の柱の一部だった。エドは、どちらも数秒で組み直した。
「単純な構造なら、何にでもできる」
三つ目は、焼け焦げた電動モーターだった。コイルが固まって、ケースが歪んでいる。エドは、手を当てて、眉をひそめた。
「巻き線が潰れてる。元の巻き方が読めねえ。このままじゃ無理だ」
スタークは、棚から同じ型のモーターを取って、台に置いた。「これは動く」
エドは、動く方にも手を当てた。巻き線の本数、ケースの合わせ目、軸受けの形が、指の中に流れ込む。通信機の時と同じだ。単純な構造は、読めば分かる。
焦げた方に両手を叩きつけると、稲妻と一緒に、ケースが真っ直ぐに戻った。巻き線が組み直されて、軸が回る。
「動いた」スタークが、軸を指で弾いた。「速い。じゃあ、これは?」
四つ目は、黒く焦げた金属の掌だった。掌側に、見覚えのある円形の部品がはまっている。
「リパルサーだ。僕のスーツの掌。こっちも、動く見本がある」
エドは、動く方に手を当てて、顔をしかめた。
「……読める。形は全部読める。けど、この真ん中の部品が何で、何のためにあるのか、分かんねえ。基板の配線も、なんでこの回路なのか分かんねえ」
「読めるのに、作れない?」
「触れば、構造は読める。俺のやり方だ。他のやつは知らねえ。でも、読めるだけじゃ駄目なんだ。何でできてて、なんでそうなってるか分かってなきゃ、再現できねえ」
「待て。どうやって読んでる。何が、どう見える」スタークが、身を乗り出した。
「錬成は、分解して、組み直す。その分解のところで止めると、中身だけが流れ込んでくる。形、厚み、中の隙間、材料の詰まり方。傷や歪みの場所も。図面が、頭の中に広がるみてえな感じだ」
「寸法は」
「ミリまで分かる。でも、教えてくれんのは形だけだ。名前も知らねえ物質は、分からねえまま使うことになる。分からねえまま組んだ物は、まともには動かねえ」
「なるほど」顎に手を当てて、続けた。「だが、格納庫では、僕のスーツの凹みを直したろう」
「あれは外側だけだ。元の層の順番を、そのまま辿れたから戻せた。作り方は、今も分かんねえ。中身は、別だ」
「だから、中身は、すぐには直せないということか」
「今は直せねえ。あの中身を、俺は知らねえ。でも、一つずつ紐解いて、ちゃんと理解すりゃ、直せる。時間はかかるけどな」
「材料にしたら?」
「素材ごとになら、分けられる」エドは、少し考えて続けた。「真ん中の部品は、何でできてるか分かんねえから、塊のままだ。分けるだけならできるが、今すぐリパルサーには戻せねえ」
スタークは、指で台を叩いた。「ってことは、設計図を渡せば、すぐ作れるのか?」
「時間はかかるけど、できる。……見せてくれんのか!」エドは、身を乗り出した。
「見せないが?」
「今の流れは見せる流れだったろ!」
「そんな流れは、なかった」スタークは、涼しい顔で紙コップを傾けた。バナーが、また肩を震わせた。
五つ目は、細い鉄の棒を片側だけ壁に固定した、試験用の台だった。棒の先は、空中に伸びている。
「ここに腕を作れ。長さは三メートル」
エドは、台の前に立った。作るのは簡単だ。両手を合わせて、棒に叩きつけた。稲妻が走って、鉄の棒が、細長い腕になって伸びていく。
三メートルの先で、腕は自重で、ゆっくり折れた。
スタークが、腕組みをした。
「折れたな。根元が細いし、支柱もない」
「ああ。この棒の量で三メートルに伸ばせば、どこかが細くなって折れる。どこで折れるか、見たかった」エドは、折れた先を拾い上げた。「この量じゃ足りねえから、足りねえ分は根元の固定具から引っ張って、根元を太く、先を細くして、斜めの梁で吊る。やってみる」
言った通りに作り直すと、腕は三メートル先で止まって、揺れもしなかった。
スタークは、腕の根元と、壁の固定具を見比べた。「固定具が痩せてる。最初の棒一本分の鉄で、この太さの腕は作れない」
「触ってる場所から引っ張られる。作る分の材料は、どっかから持ってくるしかねえ。無から有は作れねえ。何かを得るなら、同じだけ何かを払う。等価交換ってやつだ」
「魔法みたいにはいかないわけだ」
「魔法じゃねえ。科学だ」
「科学?」
「物を知って、バラして、組み直す。手順も理屈もある。願えば出てくるもんじゃねえ」
「それなら、僕の領分だ。……質量保存か。話は早い」スタークは、タブレットに数字を打ちながら言った。「材料を増やせないなら、問題は一つだ。限られた鉄を、どこに置くか。応力がかかる根元に厚みを置いて、梁は中空にして、トラスで組む。同じ量でも、長さは倍取れる。君はそれを経験と勘で配分してる。計算すれば、触る前に決められる」
「壁につながってりゃ、だいたい持つ」
「つながってない場所は?」
エドは、折れた腕の断面を見た。
「……あの街の、あの足場も、勘だった」
「そう。運が良かっただけだ」
「うるせえ。……教えろ」
スタークは、タブレットから顔を上げた。
「その勘は、どこで身につけた。学校か」
「学校は行ってねえ。師匠に叩き込まれたのと、本と、あとは旅先で、壊しながら覚えた」
「独学で、この理解か」スタークは、少し黙った。「大したもんだ。……僕の推薦でMITに行くか。色々学べるぞ」
「冗談じゃねえ。そんな暇ねえよ。先にやることがある」
「冗談じゃないんだが」
「余計に悪い!」
***
昼前に、スタークは、六つ目の実験に取りかかった。
台の上に、小さな金属の塊が置かれた。鈍い灰色で、手に取ると見た目より軽い。
「これは?」
「僕が昔作った合金だ。形じゃない。これを、別の合金に変えられるか」
エドは、塊に手を当てた。
指の中に、形は流れ込んでくる。粒の並びも、詰まり方も分かる。けれど、何が混ざっているのかが、読めない。
「……中身が分かんねえ。何が、どれだけ混ざってるのか」
「形は変えられても、中身は変えられないか」
「ああ。鉄とか、銅とか、知ってる物質なら、別の合金にも変えられる。ただ、これは何でできてるか分からねえ」
「試してみろ」
「いいのか」
「結果が欲しい」
エドは、両手を合わせて、塊に叩きつけた。
青白い稲妻が、途中で弾けた。
火花が散って、塊が割れた。指先から手首まで、しびれが走る。
「エド!」バナーが駆け寄った。
「大丈夫だ。……失敗しただけだ」エドは、左手を振った。
「失敗すると、反動が来るのか」
「中身が分かんねえ物の、中身を変えようとすると、跳ね返る。形を変えるだけなら、出ない」
バナーは、エドの手首を取って、脈を測った。
「わざとやらせたんじゃないよな、スターク」
「結果が欲しいと言ったのは僕だ。悪かった」スタークは、割れた塊を拾って、掌で転がした。「でも、これで分かった。君は、知らない物の中身は変えられない。逆に言えば、知れば変えられる。君の伸びしろは、知っている物の数だ」
「……分かってる」
エドは、そっぽを向いた。バナーが、小さく笑った。
***
廃棄場の扉が、開く音がした。
「トニー」
ペッパーだった。書類の束を抱えて、ヒールの音を響かせて入ってくる。
「サインが五件、溜まってるの。今すぐ」
スタークが肩をすくめるのを無視して、ペッパーは、エドの前で足を止めた。
「改めて、はじめまして。エド君」
「あ、はい。……この前、通りで」
「あれは挨拶じゃないわ」ペッパーは、微笑んだ。「実は、あなたの話は、ずっと前から聞いていたの。ウィンリィから」
「……あいつ、何て」エドは、嫌な予感がして、一歩下がった。
「去年の冬から、毎週、メールが来るの。義肢のことの相談。それから、あなたの話ばかり。『あいつは、すぐ無茶をする』って」
「あいつ、そんなこと」
スタークが、ゆっくり振り向いた。
「待て。ウィンリィって、君の従妹の義肢屋か。……担当、って」
エドは、顔を覆った。
「……聞くな」
スタークは、口の端を限界まで上げた。「恋人か、と聞いた時、君は『幼なじみだ』と言ったな」
「幼なじみだ!」
「顔が赤いぞ」
「赤くねえ!」
バナーが、紙コップを落としかけた。
「笑うな! バナー!」
ペッパーは、書類を抱え直して、少し真面目な顔になった。
「ウィンリィは、夏に、うちの見習いに来るの。その前に、あなたが無茶をして怪我をしていたら、私が怒られるわ。トニーに腕と脚を診てもらいなさい。うちのサービスよ」
エドは、深く息を吐いた。
「……分かった。ちゃんと見せる」
「口実ができたな」スタークが、にやりと振り向いた。
「うるせえ!」
「よろしい」
ペッパーは、スタークの腕を取って、廃棄場の出口へ引っ張っていった。
扉が閉まる直前、スタークが振り返って、人差し指を立てた。
「エド。診察は明日の朝だ。逃げるなよ」
「逃げねえよ!」
扉が閉じた。
廃棄場に、バナーとエドが残った。バナーは、タブレットを開いた。
「午後は、僕の番だ。知っている物の数が伸びしろだという話が、生き物にも応用できるのか、聞かせてほしい」
エドは、手袋を嵌め直した。廃棄場の奥に、まだ手つかずの山がいくつもある。
「その前に、一個やる」
「何を」
「机だ。メモを取るなら、いるだろ」
エドは、近くの鉄屑に手を当てた。稲妻が走って、屑が縮み、低い机と丸椅子が二つ、組み上がった。脚の長さが、きれいに揃っている。
バナーが、感心して机の縁を撫でた。
「層が、揃ってる」
「当たり前だ」
エドは、丸椅子にどんと腰を下ろして、バナーの顔を見上げた。
「それで、何から聞きたい」
***
午後の廃棄場は、天井の換気扇の音だけが回っていた。
バナーは、丸椅子に座って、タブレットに何かを書き込んでいた。エドは、机の上の鉄屑を、いじりながら待っていた。
「傷は、読めるそうだね」
バナーが、顔を上げずに言った。エドの指が止まった。
「誰から聞いた」
「スタークからだ。君は、コールソンの傷を、手で確かめていたと」
「……ああ。槍の跡が、傷に残ってた」
「直せないのは、どうしてだと思う」
エドは、鉄屑を机に置いた。
「読めても、直し方が分かんねえからだ。壁は止まってるし、多少ミスっても大して響かねえ。でも人の体は動いてる。元がどう組み上がってるのか、俺は知らねえ。知らねえまま手を出して、ひとつでも間違えりゃ、取り返しがつかねえ。だから、直せねえ」
バナーは、タブレットから目を離さずに、独り言のように呟いた。
「……生き物は、読んでいる間にも中身が変わる。血は巡って、細胞は入れ替わる。個体差もある。読み終えた端から、古い情報になる」
「ああ。同じ傷は、二つとねえ」
バナーは、頷いた。
「そこが、僕の専門に近い話になる。細胞は、元の形を覚えているんだ。傷ができたら、周りの細胞が、そこに戻ろうとする。再生は、その力を引き出す話だ」
「引き出す」
「ただ、僕が研究していたものは、引き出しすぎて、別の物になった。緑色の」
バナーは、自分の掌を見た。エドは、何も言わなかった。
〈兄さん。この人も、自分の体で、取り返しのつかないことをしたんだね〉
〈……ああ〉
「だから、君に聞きたい」バナーは、顔を上げた。「君の目に、人の細胞は、どう見える」
「読めねえ。細胞は小さすぎる」エドは、正直に言った。「読めるのは、骨とか筋とか、手で触れる大きさの形までだ」
「学べば、読める範囲は広がるのか」
「たぶん。知ってる物ほど、細かく読める。……けど、医学は手を付けてねえんだ」
「どこまで」
「ほとんど、何も。神経の繋ぎ方を、幼なじみの仕事を見て、ちょっと知ってるくらいだ。それ以外は、避けてきた」エドは、鉄屑を握った。「昔、人の体で、やっちまったことがある。それ以来、医者の本を開くと、手が止まる」
バナーは、それ以上は聞かなかった。タブレットの端を、指で叩いた。
「分かった。無理には聞かない。ただ、君の力が、人の体を読めるのなら、いつか学ぶ価値はある。ただし、生きている人に試すのは、まだ早い」
「人には、やらねえ」エドの声が、思ったより硬く出た。「失敗した時のことを、知ってる」
「分かった」バナーは、すぐに言った。「それなら、無理に学ばなくていい。生き物の側は、僕が引き受ける」
「引き受ける?」
「弟さんの体のことだ。どんな体なら、弟さんが生きていけるか。細胞の再生や拒絶反応なら、僕も研究してきた。医学の側から、僕が探す」
エドは、バナーの顔を見た。冗談を言っている顔ではなかった。
「……あんた、本気で付き合う気か」
「僕は、自分の問題のために、君の力を知りたい。君は、弟さんのために、知りたい。目的は違うが、今日は同じ机に座れる」
エドは、少し黙ってから、小さく頷いた。
***
夕方、スタークが、紙袋を二つ提げて降りてきた。
「飯だ。二人とも、昼から何も食べていないだろう」
机の上の鉄屑を押しのけて、ハンバーガーを三人で分けた。スタークは、エドの顔を見て、包みを開く手を止めた。
「一つ聞く。ずっと気になっていた。君は、何のためにその力を身につけた」
エドは、ハンバーガーを置いた。〈兄さん、話そうよ〉とアルが言った。エドは、息を吐いた。
「母さんが死んだんだ。俺が八つの時。弟と二人で、母さんを取り戻そうとした」
スタークは、何も言わなかった。バナーも、紙コップを置いた。
「失敗した。俺は片脚を持ってかれた。弟は、体を丸ごと持ってかれた」
「腕は」スタークが、エドの右腕を見た。
「その時に、持ってかれた。弟を助けようとして、必死だった。気づいたら、弟の魂が、俺の中に残ってた。なんでそうなったのかは、俺にも分かんねえ。……体は無いのに、声だけ残ってる」エドは、自分の胸を指で叩いた。「アルフォンス。今も、ここにいる。よろしくってさ」
「待て」スタークが言った。「魂まで、錬成の対象になるのか。朝の科学の話は、どこへ行った」
「人が死ぬと、体重が二十一グラム減るって話があるだろ。あれが魂の重さだって」
「あの実験は再現されていない」バナーが、小声で言った。
「再現されてなくても、重さがあるなら、科学だ」
「屁理屈だ」スタークが言った。
「屁理屈でも、やれちまったんだ。理屈は、あるはずなんだ」
「……そうか」スタークは、少しだけ黙った。「それで、バナーを探していたのか」
「ああ。弟の体を、元に戻す方法を探してる。医学は避けてきたけど、避けてたら、一歩も進めねえ」
バナーが、静かに言った。「自分の中に、もう一人いる。……その感じは、少し分かる。僕のほうは、言うことを聞いてくれないが」
「アルは聞く。たまにな」
〈たまには、余計だよ〉
バナーが、小さく笑った。
スタークは、ハンバーガーの包みを、指で畳みながら言った。
「分かった。協力する」
「は?」
「ここの廃棄場は、好きに使え。工房にも入れてやる。リパルサーも見せてやる。設計図は、見せないが」
「そこは見せろよ!」
「見せない。ただし、弟さんの体の機械の部分なら、僕が監修する。組むのは、君の幼なじみだ」
「医学の側は、僕が持つ」バナーが言った。
「……じゃあ、弟をその体に入れるのは」エドは、拳を握った。「それは、俺がやる」
「分担だな」スタークは、紙袋の裏に、ペンで三つの欄を書いた。機械。医学。残りの一つは、空欄だった。「ここは、君が埋める」
「ありがとう」エドは、小さな声で言った。それから、慌てて付け足した。「……今のは、弟の分だ」
〈兄さん、僕からもありがとうって言っておいて〉アルが、後から言った。
エドは、聞こえなかったふりをして、ハンバーガーにかぶりついた。
***
夜、エドは、ホテルの部屋の机に、ノートを広げていた。
表紙の角が丸くなった、分厚いノートだった。同じようなノートが、鞄の底にあと三冊ある。一冊目は、日本の師匠のところで書いた。字が、今よりずっと大きい。二冊目からは、旅の途中で、汽車の中でも、安宿の机でも、頁の端まで詰めて書いた。構造の図。反応の式。読んでも分からなかった本の題名と、その横に、赤い字で「後で」。
今日の頁を開く。梁。車のドア。街灯。電動モーター。灰色の合金。リパルサー。順に書き出して、合金の隣に、丸を付けた。その横に、小さく書き足す。「応力の計算、スタークに習う」。
〈兄さん、それ、何の丸〉
〈次に分かるようにする物〉
〈リパルサーは?〉
〈スタークに聞く。弟の体の、機械のとこだ〉
エドは、前の頁を何枚かめくった。二年前の頁には、鋼の組成と、歯車の噛み合いの図が並んでいる。その前の頁には、師匠の家で覚えた基本の式が、子供の字で並んでいる。ところどころ、辞書を引いた跡がある。
〈そのノート、もう四冊目だね〉
〈ああ。今日の分は、一番書くことが多かった〉
アルの声が、少しだけ笑った。
〈兄さん、今日は楽しそうだったね〉
〈楽しくねえ〉
〈嘘〉
エドは、ペンを置いた。窓の外に、停電の明かりが一つ二つ、戻ってきている。
〈……ちょっとだけな〉
〈うん〉
携帯が震えた。画面に、ウィンリィの名前。
『ペッパーねえさんから聞いたわよ』
出るなり、声が飛んできた。
「何を」
『明日、スタークさんに腕と脚を診てもらうんですって?』
「断れなかっただけだ」
『診てもらうのはいいけど、勝手に直させないでよ。見るだけ。直すのは私』
「分かってる」
『来月、そっちに行くから。ソケット、全部私が組む』
電話が切れた。エドは、携帯を握ったまま、天井を見上げた。
〈兄さん、耳が赤い〉
〈うるせえ!〉
エドは、ノートの合金の丸の隣に、もう一つ書き足した。
「ウィンリィに礼」
それから、それを線で消して、もう一度、小さく書いた。
「礼は、直接言う」