MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
最初の瓶が割れた。
灰色のものが糸のように伸びて、エドの頬をかすめた。触れたところが、氷を当てられたみたいに痺れる。同時に、耳の奥で声が鳴り始めた。
『寒くないか』
『ただいま』
『エド、手を洗ってらっしゃい』
〈兄さん、聞かないで! 全部、ただの残りかすだ!〉
「分かってる!」
エドは棚の陰に転がり込んだ。背中に当たった木の板が、ばりばりと音を立てて割れる。瓶が次々に弾けて、灰色の筋が床を這った。囁きは重なり合って、もう言葉の形をしていない。波の音に近かった。
左の手袋を歯で引いて外し、素手を床の石に押し当てる。
構造が流れ込んでくる。石灰岩。継ぎ目は粗い。灰色の筋が触れた場所だけ、石の組成が崩れかけていた。
〈床が溶けてる〉
〈溶けてるんじゃない、食われてる。早いぞ、これ〉
エドは両の掌を打ち合わせて、そのまま床に手をついた。青白い光が走って、石の床が分厚い板になって立ち上がる。迫ってきた灰色の波が、その表面にぶつかった。
波は板の表面をなめるように広がり、行き場を探して左右へ割れた。
〈今のうちに出よう!〉
〈出口は、あいつの後ろだ〉
階段の下で、導師コーネロが立っていた。慌てた様子はない。右手の指輪を高く掲げたまま、むしろ感心するような顔でこちらを見ている。
「陣が、ありませんね」
エドは何も答えなかった。
「床に陣を描いた形跡がない。手を合わせただけで、その細い指輪の力で出せる量ではない。私の知る限り、そんな錬金術師はいません」
「知らねえなら、知らねえままでいろ」
「ええ。そうしましょう。あなたの素性は、結社の方々が興味を持たれるでしょうが、死人は話しませんので。私が聞く必要はありません」
導師は微笑んだ。指輪の光が強くなる。割れた瓶から這い出した灰色のものが、一斉に向きを変えた。エドの板ではなく、天井へ。階段へ。
「あなたの相手は、ここまでです。この瓶も、皆さんの印も、今夜のうちに全部、上の円へ集めます。結社の方々が来る前に、集会所ごと片付けるのです」
「集めて、どうする」
「解き放ちます。集まった残滓は、人が触れた物を溶かして膨らむ。屋根が落ちれば、古い建物の崩落事故です。信者も、地下の証拠も、あなたも、まとめて片付く」
「四十人もいるんだぞ」
「ええ。ですから、急いだほうがいい」
〈広間の真ん中の床にあった、あの灰色の円?〉
〈ああ。ただの飾りじゃなかったんだ〉
導師は階段を上がっていった。扉が閉まる音の後、鍵の音はせず、石の擦れる音がした。
〈兄さん、閉じ込められた〉
〈壊す〉
エドは立ち上がって、板の脇から階段を睨んだ。灰色の波は板を乗り越え始めている。
階段を駆け上がり、素手を扉に押し当てた。扉は、石の枠ごと一枚の岩に変えられていた。構造を読む。継ぎ目はない。ならば、継ぎ目ごと分解すればいい。
両手を打ち合わせて、岩に手をついた。光が走って、岩が砂のように崩れ、階段の上にぽっかりと穴が開く。
〈やっぱり、分解は一瞬だね〉
〈あんなの、脅しにもなってねえ〉
エドは崩れた石を踏み越えて、廊下へ出た。
***
大広間は、静まり返っていた。
蝋燭の火は燃えている。長椅子には四十人が座っていて、全員が目を閉じ、印を握っていた。眠っているように見えたが、様子が違った。首が傾いたまま、誰一人、瞬きの気配もない。
その手の中から、灰色のものが糸になって滲み出している。糸は床を這い、広間の中央に描かれた大きな円へ集まって、円の上で黒い塊に育っていた。塊は脈打ちながら、天井へ向かって膨らんでいく。
糸の一本が、長椅子の脚に触れた。木が灰色に濁って泥のように崩れ、長椅子がかしぐ。座っていた老婆は、目を閉じたまま動かなかった。
〈今の、溶けた〉
〈人が長く触れた物から先に食うんだ。生きてる人には、まだ染みない〉
「戻りましたか」
円の縁に、導師が立っていた。
「結構な数でしょう。地下の瓶の分も、もう届いています。こういう時のために、皆さんには毎回、印を持ってきていただいていたのです」
「てめえ」
「おい、起きろ!」
エドの声に、誰も反応しなかった。肩を揺すっても、頭が力なく傾くだけだ。
「無駄ですよ。祈りの時間、皆さんの意識は印の声へ沈みます。毎度のことです。今夜は、いつもより深く沈めました。もう、自分では上がってこられません」
導師は穏やかに言った。
「塊が天井に届けば、屋根が落ちます。眠ったまま、何も感じずに済みますよ。私なりの、最後の親切です。私は、届く直前に裏口から出ますが」
導師は指輪を円にかざした。黒い塊が、ひときわ大きく波打った。
「世の中は変わりました。鉄の鎧を着た男が空を飛ぶ時代に、死者の声くらいで誰も驚きません。おかげで、いい商売ができました。惜しいことですが、畳みます」
〈意識が、印の中の声に沈んでるんだ〉
〈円を潰せば止まる〉
「ああ、乱暴にはなさらないことです」
導師が、こちらの考えを読んだように言った。
「沈んだ意識は、印の声に掴まって浮いているのです。円を力任せに壊せば、その声ごと頭へ叩き戻される。四十人とも、二度と目を覚ましませんよ」
〈壊せない、ってことか〉
〈うん。時間をかけて、外していくしかない〉
エドは舌打ちして、走り出した。
導師が指輪を振る。黒い塊から、腕のように太い束が何本も伸びた。向かう先はエドではなかった。長椅子の人々だった。
「くそっ!」
エドは通路の真ん中で足を止め、両手を打ち合わせて床に叩きつけた。
石の床が波打って立ち上がる。長椅子の三列それぞれに、半円の石の殻が人々を覆った。束が殻にぶつかって削れ、粉を散らす。
〈三列とも、殻が張れた〉
〈当たり前だ〉
殻は束が当たるたびに削れていく。長くは持たない。導師は束を二本、三本と、殻の継ぎ目へ集め始めていた。
〈殻が削れてる〉
〈持つうちに、円を片付ける〉
走る間にも、殻のいくつかが崩れ始めた。黒い塊は、天井に触れかけている。
「全員を守りながら、間に合いますかね」
導師が、拍手のように指輪を鳴らした。
「ほら、塊が天井に着きますよ」
束が、一斉にエドへ向いた。
〈兄さん、来る!〉
「分かってる!」
エドは円へ走った。束が来る。足を止めて膝をつき、両の掌を打ち合わせて床に叩きつける。石の壁が立つ。一本、二本。立ち上がって、また走る。三本目は、肩をかすめて背後の長椅子を溶かした。
『エド』
頬に残った灰色の筋から、また、あの声がした。
足が、一瞬だけ、止まりかけた。
〈兄さん! 僕の声を聞いて。僕はここにいる。母さんは、ここにいない〉
「分かってるって、言ってんだ」
声は掠れていた。それでも、足は動いた。
円まで、あと五歩。
四歩。三歩。
導師が指輪を振り上げた。束が一斉に反転して、背後から迫る。
〈あと二歩だよ! 殻が、もう!〉
エドは最後の一歩を踏み切って、円の中心に素手の左を叩きつけた。
灰色の円が、掌の下で脈打った。顔料のように見えた線は、ひとつ残らず、導師が集めた残滓が固まってできていた。流れているものとは別物だ。構造が流れ込んでくる。印、指輪、円。四十人分の呼び声を、ひとつに束ねる回路。
力任せに壊せば、逆流する。だから、先に流れ込む向きを、床の石へ逸らす。それから、円の線を端から一本ずつ解いていく。
エドは両の掌を打ち合わせ、もう一度、円の中心に手をついた。
手の下で、線が白く戻っていく。一本。また一本。背後で、石の殻が割れる音がした。
〈殻が割れる!〉
最後の一本を、ただの石の床に戻した。
灰色の円が、中央から消えた。残滓は床の石に吸われ、黒い塊は円との繋がりを失って、ただの灰になって崩れ落ちた。人々には、一滴も届かなかった。
囁きが、ひとつずつ、遠ざかっていった。
『……ただいま』
『……寒くないか』
最後の声は、エドの耳には誰のものとも聞き取れなかった。広間の蝋燭が、同時に揺れた。
導師の指輪にひびが入った。金属の割れる音がして、導師が右手を押さえて膝をつく。薬指から、白い煙が上がっていた。
「……あり得ない」
導師の声から、柔らかさが抜けていた。
「陣もなしに、これだけの構造を。あなたは、何者です」
「ただの見習い技師だよ」
エドは床から手を離した。息は上がっていたが、足は震えていなかった。腹の底だけが、急に空っぽになったように感じた。
「あんたは、結社が連れてく。そこで好きなだけ喋れ」
燭台を一本引き抜いて床に立て、素手の左で触れて構造を読んだ。両手を打ち合わせて燭台に手をつくと、鎖つきの二つの輪ができた。導師の両手首に嵌めて、鎖の端を長椅子の脚に繋ぐ。導師は抵抗しなかった。ただ、ひび割れた指輪を見つめていた。
床に落ちていた左の手袋を拾って、はめ直す。石の殻は、錬成を解いて元の床に戻した。
広間のあちこちで、人が目を覚まし始めていた。鎖につながれた導師を見ても、誰も何も言わなかった。目を逸らす者が多かった。
***
夜が明けるまで、エドは広間の隅に座っていた。
目を覚ました人々は、泣いた。声が聞こえなくなったと言って泣いた人もいたし、何も覚えていないのに涙だけが止まらない人もいた。若い夫婦は、互いの肩にもたれたまま一言も話さなかった。杖の老人は、握ったままの印を、いつまでも離さなかった。
誰もエドを責めなかった。誰も、礼も言わなかった。それが、少しありがたかった。
空が薄くなり始めた頃、広間の扉が開いた。川沿いの少年が、寝間着に上着を引っかけただけの格好で飛び込んできた。母親のいない家で、朝を迎えたのだろう。通路を走り、長椅子の端でうつむいていた女の前で止まる。
「母さん」
女は顔を上げた。目が赤かった。
「どうしたの、こんな時間に。風邪をひくわよ」
少年は答えずに、女の腰にしがみついた。女は戸惑いながら、少年の頭に手を置いた。
「ごめんね。母さん、ここのところ、ずっとぼんやりしてたでしょう」
少年が頷く気配だけが、エドのところまで届いた。
エドは視線を外した。取り上げた、と考えるのは簡単だった。それでも、あの子の手は、あんな強さで母親を掴んでいる。
結社には、教会の電話から連絡を入れた。診療所の電話は、待合室に声が届く。出発前に叩き込まれた緊急連絡用の番号だった。相手は驚きもせず、『昼前までに人が行く』とだけ言って切った。慣れた応対だった。
〈息が上がってる。声も変だよ〉
〈腹が減っただけだ〉
〈今の、大きかったよ〉
〈今回は、仕方ねえだろ〉
〈次は、あんな無茶はしないで〉
〈次なんてあって、たまるかよ〉
弟は、それ以上言わなかった。
電話から戻ると、ローズは広間の隅の長椅子で、まだ座っていた。
手には灰色の円盤を握っている。表面は冷たくなっていた。さっきから、誰が声をかけても返事をしなかった。
エドが広間を出ようとして、その前を通りかかったとき、ローズが呟いた。
「聞こえないの」
エドは足を止めた。
「あの人の声。昨日までは、寝る前に必ず聞こえたのに」
「……」
「これから、どうやって生きていけばいいのよ」
円盤を握る指が、白くなっていた。涙が膝に落ちて、染みを作る。
エドは振り向かなかった。視線だけが一度、ローズの膝に落ちた。膝を抱えたまま、動かない足。
「そんなこと、自分で考えろ」
ローズの肩が、びくりと揺れた。
「立って歩け、前へ進め。あんたには立派な足がついてるじゃないか。何にもすがる必要なんてない」
それだけ言って、エドは広間の扉へ歩き出した。左の足音だけが、わずかに硬かった。
背後で、長椅子の軋む音がした。振り返らなかった。
〈兄さん〉
〈なんだ〉
〈ううん。……いま、長椅子の軋む音がしたね。ローズさん、立ったんだと思う〉
〈……そうか〉
扉の取っ手を握った右手が、手袋の下で、かすかに軋んだ。エドは足を止めずに、扉を押し開けた。
***
診療所に戻って顔を洗うと、冷たい水が目の奥まで染みた。
〈寝たほうがいいよ〉
〈点検の報告書が、まだ残ってることにする。徹夜した理由が要る〉
〈……言い訳に使うんだね〉
〈使えるもんは使う〉
エドは作業服に着替え直して、報告書の束を持って階段を降りた。
待合室では、ハリス院長が古いラジオを調整していた。
「おや。寝ていないのかね」
「報告書が残ってますから」
「顔に書いてあるよ。眠いのと、腹が減ったのと」
院長は笑って、棚から固いパンと、昨日の残りだという煮込みの鍋を出した。エドは遠慮せずに食べた。
ラジオは、雑音の合間に朝のニュースを流していた。
『……スターク・インダストリーズ社は、新型エネルギー装置を巡る議会の質問に対し……』
「またこの会社か」
院長が眉を寄せた。
「ここ数年、こんなのばかりだ」
〈すごい世の中になったね〉
〈俺は、見たことねえけどな〉
「あれが当たり前になると、人は何でも信じるようになる。死んだ人の声が聞こえると言われても、聞こえるのかもしれない、と思ってしまう」
院長はラジオのつまみから手を離して、窓の外の教会を見た。
「集会に通っていたのは、私の患者さんたちでね。止めてあげられなかった。私は、医者なのに」
「俺は、点検に来ただけですから」
「そうだったね。夜に出ていく点検があるとは、知らなかったが」
院長は笑って、それ以上は聞かなかった。
「今朝、診療所に三人来たよ。声が聞こえなくなったと泣く人もいたし、憑き物が落ちたような顔の人もいた。私は、あれが一番の薬だと思うがね」
エドは返事をしなかった。パンを大きくちぎって、口に押し込んだ。
結社の車が着いたのは、その日の昼前だった。
エンジンの音に気づいて表へ出ると、黒塗りのセダンが二台、診療所の前の広場に並んで止まるところだった。先頭の車から、背の高い男が降りた。
黒い髪を無造作に撫でつけた、二十代の終わりに見える男だった。仕立ての良い黒いコートの下に、深い色のスーツ。靴は、田舎町の砂埃で汚れるのを気にもしていない。後ろの席から、金髪を後ろでまとめた女が降りて、長い鞄を肩に掛けた。
広場の人々が、遠巻きに見ている。
「君が、財団のエルリック君か」
男はエドの前で立ち止まった。上から下まで一度、眺めた。
「報告は聞いている。……思ったより、小さいな」
「あ?」
〈兄さん、だめ、だめ!〉
「今、なんつった」
「いや、失敬。財団の技師が、もう少し体格のいい人物を想像していた」
「てめえ」
エドが半歩前に出た。それを、金髪の女が音もなく遮った。肩の鞄を持ち直しただけで、動きは一つもなかったが、エドは足を止めた。
「大佐。そのへんで」
「失礼した、リザ。大人気なかったね」
男は肩をすくめて、手袋をはめた右手を差し出した。
「ロイ・マスタングだ。財団の調査課の者だ。少し、場所を変えようか」
広場の人々の目が、まだこちらにある。大佐は教会の脇の路地へ顎を向けた。エドは差し出された手を取らず、黙ってついていった。リザが、半歩遅れて来る。
路地は狭く、昼前の日が壁の上半分にしか届いていなかった。人通りはない。
「改めて。会では、焔の錬金術師と呼ばれている」
「焔……名簿で見た名前だ。あんたが」
「会うのは初めてだな」
「大佐ってのは何だ。軍でもねえのに」
「元軍人でね。二年前に辞めた」
「大佐は大佐です。癖は抜けません」
リザが、表情を変えずに言った。
「焔」
エドは鼻を鳴らした。大佐は気を悪くしたふうもなく、続けた。
「こちらは副官のリザ・ホークアイだ。今回の事後処理は、私が引き受ける。導師は?」
「広間だ。両手を鎖で長椅子に繋いである。指輪は割れた。もう何もできねえよ」
「聞いている。感謝する。ここからは、こちらの領分だ。町の人間への説明も、こちらで済ませる」
大佐は路地を出て、集会所へ向かって歩き出した。リザが、半歩後ろをついていく。擦れ違いざま、彼女がエドを見た。
「まだ顔色が悪いですよ。少し休みなさい」
リザはそれだけ言って、大佐の後を追った。
***
三十分ほどして、大佐が集会所から戻ってきた。
「少し付き合ってくれ。報告の前に、確認しておきたいことがある」
一台目の車の後部扉を開けて、顎で示す。エドは眉を寄せたが、結局、乗り込んだ。運転席は空だった。リザは集会所の前に残って、人払いをしている。
革の座席が妙に柔らかくて、落ち着かなかった。
「広間を見てきた。円が跡形もない。階段の扉は砂、地下の板は一枚岩だ。派手にやったものだ」
「必要だったから、やったんだ」
「責めてはいない。導師と話した。君は陣を使わなかった、と言っている。陣は、どこに描いた?」
「床に最初から描いてあった。流れを逆にして、解いただけだ」
大佐はエドの顔を、一秒ほど眺めた。
「そうか」
それだけだった。追及はなかった。
エドは考えた。この男は、陣なしの錬成を見ていない。知っているのは、導師の話だけのはずだ。それなのに、どこまで知っているのかが分からない。大佐は消えた円の跡を見てきたはずだった。それでも、言葉を継がなかった。
「忠告しておく。最近は、世間が目敏くなっていてね。鉄の男が名乗りを上げて以来、上は何でも隠したがる。君の力は目立つ。頭に入れておきたまえ」
「俺のせいかよ」
「誰のせいでもない」
大佐は前を向いたまま、続けた。
「導師は、元会員だ。三年前に除名された。別の町の診療所に頼まれて、患者に出す薬の調合に錬金術を使った。人に使ってはならないものを混ぜて、患者が一人死んだ。それきり行方が分からなくなっていた」
「見失ってた? 結社が?」
「全員に目を届かせるのは無理だ。大半は本業を持っているからな」
「導師は、指輪を持ってた。除名された奴が、なんで持ってる」
「いい質問だ。道具は、除名の時に回収する決まりになっている。回収漏れか、新しく手に入れたのか。それも調べる」
エドは、左の手袋の中で指を握りしめた。
「地下の瓶の中身に、心当たりはあるか」
エドは答えなかった。大佐も、答えを待たなかった。
「人体錬成に失敗した後、陣の中に残るものがあると聞く。導師が集めていたのは、それによく似ている。普通は数時間で崩れるが、保存して加工すれば声を返す。こんな使い方は、私の知る限り初めて見た。瓶も、皆の印も、こちらで回収する」
「あんたの知る限り?」
「導師が、自力でたどり着いたとは思えん。指輪に刻まれた陣も、素人の仕事ではなかった。誰かが教えたんだ。出所は、こちらで調べる」
エドは膝の上で手を握った。誰かが、あの夜と同じものを、他人のために作っている。そう考えると、胃の底が冷えた。
大佐はそれ以上何も言わず、車を降りた。
〈誰かが教えた、って〉
〈聞こえてた〉
〈心当たりは?〉
〈あるわけねえだろ〉
エドは座席に背を預けた。ポケットの円盤は、もう温まらなかった。
***
導師が連行されたのは、日が傾き始めた頃だった。
集会所の裏口から、黒い車に乗せられた。手首の鉄の輪は外されず、指輪のひびも直されなかった。導師は最後まで何も言わなかった。窓越しにエドと視線が合ったとき、わずかに口の端が上がっただけだった。
灰色の長衣の青年は、見つからなかった。夜明け前に、裏口から出ていったという。大佐は、行方を探すとだけ言った。
エドは広場の端から、それを見ていた。
〈終わったね〉
〈……ああ〉
〈ローズさんも、元気になるといいね〉
〈そうだな〉
広場の向こうを、ローズが歩いていくのが見えた。川沿いの少年の母親と並んで、何か話している。ローズはエドに気づいて、足を止めた。
「ありがとう」
口の形だけで、そう言ったのが分かった。エドは左手を肩の高さまで上げて、すぐに下ろした。
俺は、あの人から声を取り上げた。導師が言った通りに。それでも礼を言われた。どっちが正しかったのかは、まだ分からない。
あの人は今、前を向いて歩いている。立って歩けと言ったのは、俺だ。あの言葉だけは、間違っていなかったはずだ。
〈兄さん〉
〈なんだ〉
〈今朝の言葉。立って歩けって〉
〈うるせえって言ってるだろ〉
〈僕にも、言ってくれたんだと思ってた〉
エドは、答えなかった。代わりに、ポケットに手を入れた。円盤は、ただの冷えた金属の板になっていた。大佐には、出さなかった。
〈捨てないの?〉
〈今は、いい〉
円盤をポケットの底に押し込んで、広場に背を向けた。
診療所に入りかけたところで、後ろから呼ばれた。
大佐だった。さっきまでの軽口は、顔から消えている。
「荷物をまとめてきたまえ。本部へ行く」
「は? 報告なら、ここで済むだろ」
「総裁が、君に会うと言っている。今夜のうちに連れてこいとの命令だ」
「総裁って、あの総裁か」
「他にいるなら教えてほしいね。会の一番上の人だ」
大佐の声は軽かったが、右手の手袋の指が、一度だけ強く握られた。
荷物といっても、鞄ひとつだった。エドが診療所を出ると、ハリス院長が戸口まで見送りに出てきた。
「また来なさい。次は、もっとちゃんとした煮込みを作っておく」
「あれ以上、どうやって」
「肉を増やす」
「……そりゃ、楽しみだ」
エドは背を向けたまま、手をひらひらと振った。
***
車は、夜の道を走った。リザが運転して、エドは後部座席に大佐と並んで座った。誰も話さなかった。窓の外を、街灯の間隔が少しずつ狭まっていく。
着いたのは、日付が変わる少し前だった。
丘の上に、白い石造りの大きな建物があった。正面の看板には、財団の病院の名が書いてある。夜間受付の明かりがついていて、救急車が一台止まっていた。誰が見ても、病院だった。
車は正面を通り過ぎて、裏手の別棟に回った。
エドは、この建物に入ったことがなかった。依頼書は連絡員が持ってくる。会う相手は、いつも現地にいる。書類の上の組織が、石と窓と明かりの形をして目の前にあるのが、少し妙だった。
別棟の入口で、大佐が札を見せた。廊下は長く、床は磨かれていて、白衣の人間と、背広の人間と、どちらにも見えない人間とが、すれ違いざまに大佐に会釈した。大佐は、その半分にしか返事をしなかった。
真理の会。表向きは医療と製薬の財団で、中では結社と呼ばれている。会員は数百人。大半は医者や教師で、会が配る指輪や手袋の触媒を動力に、小さな修理や調合ができるだけだ。量の大きな者は、財団の健康診断で見つかって会に保護される。血筋に偏りがあるらしいが、理由は大佐でさえ知らない。
戦いを任される者は十数人。彼らには二つ名が与えられる。大佐の焔も、エドの鋼も、その一つだった。鋼という名そのものは嫌いではない。気に入らないのは、会に飼われているような扱いのほうだ。
エドの右手の薬指にも、会の支給品の指輪がある。手袋の上から、細い銀の輪をはめていた。着けているのは、会に怪しまれないためだけだ。陣が要らないことは、届け出をしたイズミを通して、上の者が知っている。現場には伏せられていた。触媒まで要らないことは、弟のほか誰も知らない。理由は、自分でも分からない。
会の仕事は、禁忌の取り締まりだと書類には書いてある。人体錬成。扉を見た者は、誰でも一度は覗き込もうとする。二度と近づかないよう見張る。それが真理の会という名の由来だと。建前だな、とエドは思っていた。誰にも言ったことはなかった。
廊下の突き当たりに、階段があった。四階まで上がると、窓のない扉が一つだけあった。大佐は、扉の前で足を止めた。
「ここから先は、私も入らない。失礼のないように」
「あんた、案内だけか」
「命じられたのは、そこまでだ」
扉を叩いたのは、大佐だった。
「入りたまえ」
低く、よく通る声がした。
部屋は、思ったより狭かった。机と、椅子が二つと、壁際の本棚。窓際の机の向こうに、老人が一人座っていた。
髪は白く、背筋が伸びている。左の目に、黒い眼帯をかけていた。口髭の下で、人の良さそうな笑みが浮かんだ。
「初めまして、エルリック君。夜分に呼び立てて、すまなかった」
立ち上がって、右手を差し出してくる。エドはその手を握った。大きくて、乾いた、固い手だった。
「……エドワード・エルリックです。どうも」
「ブラッドレイだ。肩書きで呼ばれるのは好まんが、皆がそう呼ぶのでな。好きに呼びたまえ」
〈兄さん、敬語、変〉
〈うるせえ〉
「報告は読んだ。四十人、一人も欠けなかったそうだな」
「……仕事ですから」
「結構」
声は低く落ち着いていて、威圧するところがなかった。それが、かえって逆らいにくかった。
総裁は笑って、机の引き出しから白い封筒を一通、取り出した。表には、エドの名前だけが書いてある。封は、まだ切られていない。
「次に頼みたい町が、ひとつある。少し遠い。詳しくは、中に書いてある」
「あの。総裁から直接って、普通なんですか」
「ん?」
「いや、聞いたことなかったんで」
総裁は、小さく声を立てて笑った。
「君の話は、前から聞いていてね。気になっていたんだよ。……ああ、院長の煮込みは、うまかったかね」
エドは目を見開いた。
「どうして」
「報告書は、読むものだからね」
それだけ言って、総裁は封筒を差し出した。エドは受け取った。厚みはほとんどなかった。
「体には気をつけたまえ。ああ、それから。マスタング君」
扉の脇で、大佐が背筋を伸ばした。
「彼を、部屋まで頼む」
「は」
帰りの階段で、エドは封筒の端を指で押した。
「あんた、あの人が俺に会うって、いつ知った」
「今朝だ」
「普通なのか。現場の人間を、直接呼ぶのって」
大佐は、すぐには答えなかった。
「古参に聞いたが、総裁が現場の人間を直接呼んだ例は、長いこと一度もないそうだ」
「……あんたも、知らねえのか」
「私は、案内を命じられただけだ」
大佐の顎の線は、さっきの車の中より、少し固かった。
〈煮込みのこと、報告書に書いてあったと思う?〉
〈書くかよ。あの鍋の中身まで見てた奴がいたなら別だが〉
〈……いい人そうだったのにね〉
〈そうだな〉
エドは封筒を上着の内側にしまった。左の手袋の指先が、まだ少し汗ばんでいた。
***
同じ夜、別の部屋で、誰かが報告書の頁をめくっていた。
窓のない部屋だった。机の上の明かりだけが、紙の端を照らしている。書類には、町の名前と、導師の名前と、見習い技師の名前があった。担当者の走り書きの一行に、指が止まる。
陣なしで錬成。代償は軽い。
その人物は紙を持ち上げて、もう一度、その一行を読んだ。
短い笑い声が、小さく部屋に落ちた。