MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
ウィンリィ
12月19日、朝の7時から、エドは三回、三つ編みを結び直していた。
タワーの上の階の、角の部屋だった。夏から、エドはこの客室に住んでいる。隣の部屋は、ウィンリィのために空けてあった。窓の外では、雪が斜めに流れていた。机の上には、ノートが四冊。その横に、油差しと布と小さな工具が、使い込んだ順に並んでいる。週に1度の整備は、ここで自分でやっていた。
〈三回目だよ、兄さん〉
〈ほどけてたんだ〉
〈昨日から数えると、九回目〉
〈数えんな〉
エドは、ゴムを噛んだまま、最後に強く引いた。
『エドワード様』天井から、ジャーヴィスの声がした。『一階の受付から連絡です。ミス・ロックベルが、タクシーで到着されました。荷物が多く、受付の者が困っているとのことです』
「多いって、どれくらい」
『工具箱が二つ、旅行鞄が二つ、段ボール箱が三つです。工具箱の片方だけで、22キロあります』
「……あいつ、どうやってタクシーに入れたんだ、それ」
エドは、上着をつかんで部屋を出た。
***
一階のロビーは、すっかり直っていた。磨き直された大理石の床に、窓の雪明かりが映っている。その真ん中に、黒いコートの女の子が、旅行鞄と段ボール箱の山を従えて立っていた。一番上に、角の潰れた工具箱が載っている。
髪が、少し短くなっていた。
「遅い!」
ウィンリィは、挨拶より先に怒鳴った。声がロビーの端まで響いて、受付の男が肩をすくめた。
「そんなに待たせてねえだろ」
「受付の人が、箱を持ち上げようとして、腰をやりかけたの。さっき3回謝ったんだけど」ウィンリィは、受付のほうをちらりと見て、声を落とした。「エドからも謝っといて」
「なんで俺が」
「ここに7か月もいるんでしょ。顔なじみのあんたが言ったほうが、角が立たないから」
ウィンリィは、鼻を鳴らして、それからエドの頭のてっぺんから足元までを見た。見終わるのに、思ったより時間がかかった。
「伸びた」
「だろ」
「3センチでしょ。スタークさんの診断、メールで来たもの」
「ああ、送るって言ってたな。全部」
「脚が合ってないことも、書いてあった。すぐに見るわよ! 廃棄場、自由に使っていいってメールにあったでしょ。どこ?」
「下だ。……部屋に荷物置いてからでいいだろ」
「後! 腕が先!」
ウィンリィは、工具箱を片手で提げて、反対の肩に旅行鞄を掛けた。
「残り、お願い」
「へいへい」
エドは、残りの旅行鞄と段ボール箱を台車に積み、エレベーターに運び込んだ。
扉が閉まる。エドがボタンを押すより早く、ジャーヴィスが行き先を決めて、エレベーターが静かに下り始めた。
「今、勝手に動いた」
「ジャーヴィスだ。ここのAIで、スタークの執事みたいなもんだ」
『はじめまして、ミス・ロックベル。お噂は伺っております』
「あ、はじめまして。ペッパーねえさんから聞いてます。何でもできる、すごいAIだって。エドがお世話になってます」
「俺の保護者かよ」
「帰るって言ったくせに」
ウィンリィは、階数の表示を見たまま言った。
「……言った」
「あの時、もう一回念押ししたのに」
「廃棄場の仕事が、抜けられなくてよ。バナーの論文も、スタークの課題も、一つ終わるとまた次が――」
「半年」
「……半年だな」
「メールの返事も遅いし」
「お前だって、課題が山盛りだって」
「言い訳しない!」
ごん、と音がした。ウィンリィの手に、いつの間にかスパナが握られている。エドは額を押さえた。
「痛ってえ! だから、悪かったって」
「悪いと思ってるなら、帰ってきなさいよ!」
「帰ろうとはしてたんだよ。その前に、お前が来たんだろ」
「冬休みだから来ただけ! あんたに会いに来たんじゃない! 部品の点検よ!」
〈兄さん、声が大きい〉
〈殴られたの、俺だぞ〉
ウィンリィは、スパナを工具箱に放り込んで、そっぽを向いた。耳の先だけが、少し赤かった。
「テレビで見たわよ。『六人目』って」
「やめろ」
「顔はほとんど映ってなかったけど、三つ編みですぐ分かった」
「だから、表には出ねえ条件なんだよ」
「まだ子供だもんね」
「お前も同じ歳だろ!」
***
廃棄場は、もはや廃棄場と呼べなかった。
折れた梁の山はなくなって、棚が増えた。ボルトと板と細い配管が、箱ごとに分けて並んでいる。台の上の工具まで揃っていて、ほとんど工房だった。
ウィンリィは、工具箱を開けた。中から、布に包んだ細い工具が、列を成して現れた。ばあさんの代から使っているものと、見たことのない新しいものが混ざっている。
「脱いで。上着と、右の袖と、左の裾」
「スタークと同じこと言うな」
「同じことしか言えないでしょ。診るんだから」
言ってから、ウィンリィの顔が、じわりと赤くなった。
「へ、変な意味じゃないからね!」
「何も言ってねえだろ」
エドは、上着を椅子の背に放って、座って、右の袖をまくった。鋼の腕に、天井の照明が映る。ウィンリィは、指先で肘の軸をなぞった。しばらく、何も言わなかった。
「うわ、何これ」
声が1段、高くなった。
「軸受けが、削れて金属粉が出てる。……自分で注油とか、してたでしょ。ちゃんと」
「してたさ。週に1回は。ここの工具と、ばあさんの油で」
「してたのに、この削れ方? どんな使い方したのよ!」
二発目のスパナは、今度は肩に入った。ウィンリィは、粉の混じった油を指で擦って、鼻に皺を寄せた。
「ただの機械じゃなくて、あんたの体なの。何回言ったと思ってるの。痛いでしょ、これ」
「別に」
〈痛いって、言ったほうがいいよ〉
〈言わねえ〉
〈じゃあ、ちょっとだけ、でいいから〉
エドは、口を結んだ。ウィンリィが、手を止めた。目を上げて、エドの胸のあたりを見た。
「アル。今、何か言った?」
エドは、返事をしなかった。ウィンリィは、待った。
「……ちょっとだけ、痛い、だとよ」
エドは、それだけ言った。
ウィンリィは、小さく息を吐いて、視線を手元に戻した。
「やっぱり! アル、ありがとう。こいつが言わないこと、これから全部教えて」
〈うん、任せて〉
アルの声が、少しだけ明るかった。エドは、舌打ちをして、横を向いた。ウィンリィは、勝ち誇った顔で軸受けを外しにかかった。手つきだけは、ひどく丁寧だった。
外した軸受けを、ウィンリィは光に透かした。内側の面が、鈍く曇っている。
エドは、横から手を伸ばした。
「貸せ」
左手で、外した軸受けの内側をなぞる。傷の並びが、掌に伝わってきた。
エドは、軸受けを見もせずに言った。
「削れ方、偏ってる。外側の輪の、同じ場所ばっかりだ。回すたびに、同じ向きに力がかかってる」
「同じ向き?」
「俺が殴る時の角度だ。右肘を内に絞って、振り抜く癖がある。設計の想定は、まっすぐ曲げ伸ばしだろ」
ウィンリィの手が、止まった。
「……それ、先に言いなさいよ。それなら粉の出方が説明できる」
「分かってて直さなかったの?」
「機構なら分かる。軸受けの形も、同じのを作れる。でも、神経に繋がる側は、俺にはよく分からねえ。角度を変えて、信号の取り方が狂ったら、動かなくなる」
「そう。そこは私の仕事。だから、ちゃんと私に見せに来るの」
「ジャーヴィス。この粉、成分は見られる?」
『顕微鏡台をお使いください。……鉄、炭素、クロム。高炭素クロム軸受鋼、SUJ2相当です。窒化処理の層は確認できません』
「やっぱり。ばあちゃんの頃の材料のままね。焼入れ硬度は」
『表面でHRC62前後です。ただし、転がり面に微小な剥離が出ています』
「摩耗というより、油膜切れの焼き付き手前ね。エド、油は何を使ってたの」
「ばあさんが送ってきたやつ」
「粘度は」
「知らねえよ」
「知らないで使ってたの!」
『参考までに』ジャーヴィスが言った。『軸受けに残っていた油を測定しました。40度での動粘度は約68cStです。冬場の室温では、粘りが強く、動きが重くなります』
「私が送った油は? 粘度32の、冬用」
「……部屋にある」
「使ってないの!?」
「ばあさんの油が残ってたから、使い切ってから替えるつもりだったんだよ。まだ封も切ってねえだけで」
「バカ! 使うために送ったの!」
ウィンリィは、スパナを振り上げて、降ろした。三回目は、さすがにやめたらしい。
ウィンリィは、笑いをこらえながら、指先で軸受けの縁をなぞった。
「冬は一段下げる。32で、窒化した軸受けに替える。……ジャーヴィス、持ってきた新品の表面処理、見てくれる?」
『拝見します。窒化層は均一で、剥離もありません。申し分ありません。ご自身で処理を?』
「ばあちゃんの炉を借りて」
『技術に敬意を』
〈兄さん、ジャーヴィスがウィンリィを褒めた〉
〈聞こえてる。俺は、半分も分からねえ〉
〈僕も〉
***
肘は、1時間で直った。
ウィンリィは、持ってきた新しい軸受けを嵌め、油を差し、継ぎ目に指を滑らせた。それから、床に屈んで、左脚の接合部を覗き込んだ。
「ここ、ずれてる。0.5ミリ。スタークさんの診断より、広がってる」
「見ただけで分かるのか」
「見ただけじゃ分からない。でも、歩き方を見てれば、分かる。ここを避けて足を出してる」
エドは、何も言わなかった。
「原因は何だと思う? ジャーヴィス」
『チタン合金の接合部と鋼のフレームの、熱膨張係数の差も、応力の一因です。ただ、主因は成長です。身長が約3センチ伸びたぶん、荷重の中心が前に出て、接合部が偏摩耗しています』
「私も同じ見立て。フレームを継ぎ足しても、重心は直らない。足首を2ミリ後ろへ、膝のピボットを上げ直す」
『その場合、神経接続のタイミングがずれます。現状の信号遅延は80ミリ秒。変更後は95ミリ秒前後になる見込みです』
「それ、私が補正する。ジャーヴィス、サンプリングを倍にして」
『承知しました。……ミス・ロックベル、あなたとの会話は、効率が良い』
「でしょ」
「ピボットのブロックは、削り出しだと半日かかるわね。旋盤を借りて――」
「要らねえ。寸法をくれ」
ウィンリィが、図面の数字を言った。エドは、棚から鋼の塊を一つ取り、台に置いて、両手を合わせた。青白い光が短く走って、塊は、掌ほどの部品に変わった。
ウィンリィは、ノギスを当てた。しばらく、目盛りを睨んでいた。
「……ノギスで0.01以内。私の旋盤より、上」
『光学測定では0.008です』ジャーヴィスが言った。
「勝手に測らなくていい!」
エドは、鼻の下を擦った。〈兄さん、にやけてる〉〈してねえ〉。自分の脚の話が、自分の知らない言葉で、正確に、真剣に語られている。そこへ自分の手が、一番速く答えを出せた。悪くない気分だった。
扉が開いて、紙コップを持ったバナーが入ってきた。ウィンリィは、手を止めて立ち上がった。
「初めまして。ウィンリィ・ロックベルです。論文のこと、エドから聞きました」
「ブルース・バナーだ。論文は、エドに渡してある」バナーは、エドを見て、苦笑した。「まだ読んでないんだろう」
「……まだ」
バナーは、台の上の新しい軸受けと、広げられた工具を眺めた。
「いい道具だ。手入れが行き届いてる」
「ありがとうございます。祖母の代からのもので」ウィンリィは、少し照れて笑った。
「夜は起きてる。分からない所は、下の研究室に電話をくれ。……邪魔をしたな」
バナーは、紙コップを持ったまま、静かに出ていった。扉が閉まると、壁の画面に、ジャーヴィスが、図面を一枚出した。
『ミス・ロックベル。閲覧の許可が出ています。試作42号機の関節図です。トニー様が、エドワード様の義肢担当の方には見せて構わない、と』
「私に?」
「あいつ、勝手に決めやがって」
「スタークさんに、ありがとうって伝えといて」
図面は、画面の上で、立体のまま回せるものだった。胴体と腕、脚が、それぞれ別の塊になっている。遠くから呼ぶと、飛んできて、体の上で組み上がる設計らしい。
「すっごい……!」
ウィンリィの声が、裏返った。図面に顔を近づけて、端から端まで舐めるように見ている。
「胴も腕も脚も別の塊で、呼んだら飛んでくる? 何それ、反則じゃない! 組み上がる時の順番は?」
指が、画面の線を追って勝手に動いている。
「落ち着け」
「落ち着いてる! ……でも、ここ」
ウィンリィは、画面の一点を指した。肩の付け根の、関節の裏側だった。
「電源の線を、ここ一本で通してる。しかも、熱が逃げる場所がない。動いてるうちに、溜まる。ある程度溜まったら、接続が飛ぶ」
「飛んだらどうなる」
「パーツが、バラバラのまま止まる。呼べば来るけど、組み上がらない」
エドは、画面の線を見て、肩の裏を指でなぞった。確かに、熱の逃げる道がない。
「電源の線を、二本に分ければいい。熱を逃がす通り道も、肩の裏に足す。……それで済むだろ」
『その指摘は、トニー様に転送しました』
「勝手に送るな!」
『お二人の見立てが一致していたので、送る価値があると判断しました。……トニー様から、音声メッセージが返ってきました。再生しますか』
「早っ」
エドは、眉を寄せた。昨夜から3件、エドが送った連絡は、まだ未読のままのはずだった。
『再生します』
スタークの声が、廃棄場に流れた。
『君は、お祖母さんに似て優秀だな。肩の電源線と放熱、僕が3か月見ないふりをしてた箇所だ。図面を見て、5分で当てた。気に入った。MITを出たらうちに来い。給料の話はペッパーとしてくれ。以上だ』
ウィンリィは、口を開けたまま、固まった。
「……今の、スタークさん本人?」
『はい』
「私に? 本当に?」
「落ち着け」
「落ち着いてる! 落ち着いてるけど、スタークさんが、私に!」
〈兄さん、顔が拗ねてる〉
〈拗ねてねえ〉
エドは、腕を組んで、そっぽを向いた。ジャーヴィスが、淡々と付け加えた。
『なお、エドワード様からの3件は、依然として未読です』
「俺のは読まねえのかよ!」
「あんたが、連絡のたびに文句書くからでしょ」
「書いてねえ! ……一回しか」
「ほら」
ウィンリィは、まだ頬を赤くしたまま、勝ち誇って笑った。エドは、舌打ちをした。悔しいというより、少しだけ胸の奥が、むず痒かった。自分が出した直し方には、一言もなかった。
「あいつ、聞かねえからな」
「聞かない人なの?」
「聞く時は聞く。ただ、今は――」
エドは、言葉を探した。ペッパーとマリブの家へ戻る前の日、台の上のスーツの数が、また増えていたことは、言わなかった。
「今は、忙しいんだ」
ウィンリィは、それ以上聞かなかった。ただ、画面の肩の付け根を、もう一度見つめた。
左脚の接合部は、夕方までに組み直した。歩くと、床が、半歩分だけ近くなった気がした。
***
夕食は、タワーの上の階の台所で作った。
作った、と言っても、冷凍庫の肉を焼いて、パンに挟んだだけだ。ウィンリィは、フライパンの焦げを見て何か言いかけたが、黙って皿を出した。エドは、三つ目のパンに手を伸ばした。
「食べすぎ」
「育ち盛りなんだ」
「牛乳は」
「いらねえ」
「ペッパーねえさんが、あんた用に冷蔵庫に入れといてくれたって。ジャーヴィスが言ってた」
「……頼んでねえ」
「飲まなかったら、ねえさんに言いつけるわよ」
ウィンリィは、笑いをこらえて、グラスにそれを注いだ。エドは、受け取って、一気に飲み干した。顔が歪んだ。
冷蔵庫の中には、ケーキの箱もあった。蓋に、ペッパーの字のメモが貼ってある。「ウィンリィ、ようこそ。クリスマスには、二人で食べてね。歓迎会は、私が戻ってから」。ウィンリィは、メモを読んで、そっと箱を閉めた。
食器を片付けたあと、ウィンリィは、エドの部屋の床に積んであるノートを見ていた。一番上の一冊は、表紙が破れかけている。
「あれ、全部、勉強?」
「ほとんどはな。後は、スタークの式を写したやつ」
「見ていい?」
エドが頷く前に、ウィンリィはもう手を伸ばしていた。頁をめくる。構造の図。反応の式。余白の、赤い字の「後で」。何頁かめくった所で、手が止まった。ノートの間から、封筒がはみ出していた。
「これは」
「バナーから預かった。細胞の再生とか、拒絶反応とか」
「読んだ?」
「……まだ」
弟の体のことが書いてあると思うと、頁を開く手が止まる。封筒は、7月の末から、ノートの間に挟まれたままだった。
ウィンリィは、封筒を見て、それからエドを見た。責める目ではなかった。
「神経の繋ぎ方なら、私、少しは分かるわよ。毎日見てるんだから」
「知ってる」
「読むわよ、付き合う。分かんないとこは、バナーさんに突っ込んで聞く」
「突っ込むのかよ」
「当たり前でしょ!」
二人は、床に座って、紙の束を広げた。
最初の十頁は、読むというより、字を追うだけだった。細胞。分裂。欠けた組織が元に戻る時、何が起きているか。分からない言葉は、エドが辞書を引き、ウィンリィが図を描き直した。
〈兄さん、この頁〉
〈どれだ〉
〈赤い印の所〉
エドは、アルに言われた頁を開いた。バナーの字で、余白に、短く書いてある。
「細胞は、増える信号と同じ強さで、止まる信号を持つ。止まる信号が壊れると、再生は止まらない。再生と腫瘍は、同じ道の、手前と奥」
「……再生は、止まらないと、駄目になるってこと?」
ウィンリィが、小さい声で言った。
「作るのは簡単なんだ。止めるほうが、難しい」
エドは、その行に、指を置いた。錬成と、少しだけ似ている、と思った。分解して、組み直す。組み直す側は、材料が足りなければ止まる。だが、体は、材料を自分で調達する。足りなくなったら、どこから持ってくるのか。
〈兄さん、また考え込んでる〉
〈……増えた分は、どっから出るんだ。食った分じゃ、足りねえだろ〉
〈それは、次の頁に書いてあるかも〉
次の頁は、翌日に回すことにした。ウィンリィが、あくびを噛み殺していたからだ。
ウィンリィは、足元の鞄を引き寄せて、中から、手のひらに載るくらいの小さな箱を出した。蓋は閉じたままだった。
「これは」
「まだ、見せない。クリスマスが終わってから」
「何だよ、それ」
「見たら、あんた徹夜で調べ始めるでしょ。だから、クリスマスが終わってから」
エドが手を伸ばすと、ウィンリィは、箱を胸に抱え込んだ。
〈ウィンリィ〉
アルが、静かに言った。エドは、それを口に出した。
「アルが、聞いてる。……いつか、使うものか」
ウィンリィは、少し間を置いて、頷いた。
「うん。いつか。試すだけだから。まだ、何も約束できないけど」
箱は、ウィンリィの膝の上で、小さく鳴った。何かの部品が、中で動いたような音だった。
〈……ありがとう〉
アルの声が、揺れていた。
***
夜になって、ウィンリィは、エドの部屋のソファで、膝を抱えたまま眠った。
エドは、毛布を掛けて、電気を一段落とした。ソファの端に、ウィンリィの靴が揃えて置いてあった。
〈兄さん〉
〈なんだ〉
〈ウィンリィ、緊張してたよ。ずっと〉
〈そうは見えなかったけどな〉
〈兄さんのこと、診てる間だけ、普通だった〉
エドは、答えなかった。窓の外の雪は、強くなっていた。
『エドワード様』
ジャーヴィスの声が、小さかった。ウィンリィを起こさない音量に絞ってある。
『トニー様から、音声通話です。出られますか』
「こんな時間に?」
『西海岸は、夜の9時です』
「……繋いでくれ」
雑音のあとで、スタークの声が入った。
『よう、再利用係。まだ起きてたか。ペッパーに言われて電話した。ウィンリィは無事に着いたか、ちゃんと食わせたか、だそうだ』
「着いた。寝てる。食わせた」
『僕は保護者じゃないんだがな。……肩の件は、ロックベルに礼を言っておいてくれ。直すのは後だ。今、手が』
「今、ってお前、いつもそれだ」
『いつもじゃない。たまにだ。……ところで、ペッパーのケーキは食ったか。冷蔵庫に、置いていったはずだ』
「クリスマスに二人で食え、って書き置きがあった。まだ切ってねえ」
『ペッパーらしい。戻るのは年明けだ。それまで、タワーは君に任せる。ウィンリィに、ジャーヴィスの使い方を教えて、それから、ケーキの箱には触らせるな、それから――』
声が、途切れた。
エドは、受話器代わりの画面を見た。真っ暗なままだった。向こうで、何かが倒れる音がした。金属が床に当たる、乾いた音。
「スターク?」
返事がない。息の音だけが、短く、速く、繰り返している。
〈兄さん〉
アルの声が、硬かった。
〈兄さん、息が……〉
「スターク。おい」
『……ああ』
声が戻った。かすれていた。
『悪い。ちょっと、走ってきた。階段を』
「嘘つけ」
『嘘じゃない。階段は、実在する』
「家に階段なんかあんのかよ」
『ある。一段だけ』
スタークは、笑った。笑い声が、いつもより高かった。
『大丈夫だ。切るぞ。おやすみ、再利用係』
通話が切れた。
エドは、しばらく、画面を見ていた。
「ジャーヴィス」
『はい』
「今のは、初めてか」
『お答えできません』
「何で」
『トニー様の体調に関する記録は、ペッパー様の許可なしに、第三者へは開示できません』
「じゃあ、答えなくていい。ペッパーさんは、知ってるんだな」
少しの間があった。
『……ペッパー様には、通話の直後に、私から連絡済みです』
エドは、目を閉じた。
〈兄さん、ペッパーさんに〉
〈……分かってる。朝、かける〉
エドは、ソファの上で規則正しく上下するウィンリィの肩を見てから、窓の外の雪に目をやった。
***
翌朝の電話に、ペッパーは三回目の呼び出しで出た。
『エド? まだ4時よ。何かあったの?』
「昨日の夜、スタークと話した。途中で、息が変だった」
少しだけ、間があった。
『……分かってる。ジャーヴィスから連絡が来て、すぐ行ったわ。ちゃんと寝かせた。あなたが気にすることじゃない』
「気にするだろ。スタークのやつ、ペッパーさんにまで黙ってんのかと思った」
『黙ってないわ。隠せる人でもないもの』ペッパーは、少しだけ笑った。『だから、あなたも抱え込まないで』
声が、柔らかかった。『ウィンリィは、どう? 今日、前から決めてた施設の見学があるでしょう。連れて行ってあげて。所長には、連絡してあるから』
「施設って、あの、義肢の相談のか」
『退役した兵士さんのための、リハビリ施設よ。義肢の相談を受けているの。あの子の勉強になるわ。あなたは、ウィンリィの手伝いをしてあげて』
電話が切れた。エドは、受話器を見て、鼻を鳴らした。
〈ペッパーさん、無理してた〉
〈してたな〉
***
施設は、タワーから地下鉄で40分の、河沿いの古い建物だった。
二階建ての灰色の壁に、手すりの付いたスロープが、縦横に走っている。ロビーでは、松葉杖の男が二人、コーヒーを片手に笑っていた。壁の掲示板には、クリスマス会の予定が貼ってある。サンタの帽子を被った車椅子の老人の写真が、ひどく楽しそうだった。
所長は、50代の女性の医師だった。
「ペッパーさんから聞いています。義肢の担当がウィンリィさんね。そちらは、お手伝いの子?」
「エドワード・エルリックです。助手です」
「ここでは、先に型を取ります。今日は、マーカスさんの番。左脚の膝下」
作業室で待っていたのは、30代の男だった。左のズボンの裾が、膝の下で畳まれている。マーカス・ウェルズ、と名札にあった。
「彼女が、新しい技師さんか」
「見習いです」ウィンリィが答えた。「今日は、型を取らせてください」
型は、石膏の包帯で取った。濡らして巻き、固まるのを待ち、外す。ウィンリィの手は、速くて、優しかった。マーカスの断端に触れる時、一度だけ、必ず名前を呼んだ。「いきます、マーカスさん」。
固まった石膏の筒が、台に置かれた。
「エド、お願い」
エドは、筒を受け取って、手袋を外した左手の指を、内側に滑らせた。誰かが見ていても、ただ型を確かめているようにしか見えない。実際は、掌が読んでいた。石膏の内側の形が、そのまま空洞になって残っている。
「この断端、膝の下で内側に5ミリ寄ってる。骨の向きかもしれねえ。真っ直ぐ作ると、擦れるぞ」
ウィンリィは、型を覗き込んで、ノギスを当てた。
「失礼します」ウィンリィは、マーカスの脚に触れて、確かめた。「……ほんとだ。本人の骨の向きね。型の取り方のせいじゃない。よく分かったわね」
「触れば分かる」
ウィンリィは、図面に捻れの数字を書き足した。マーカスが、エドの手元を見ていた。右の袖口から覗いた手首が、肌の色ではなかった。
「お前、それ」
エドは、少し迷ってから、袖を引き上げて見せた。鋼の腕が、蛍光灯を映した。
「右腕と、左脚。こいつが作った」
「作ったのは私の祖母と私」ウィンリィが、胸を張った。「整備は今、私」
マーカスは、しばらく黙っていた。それから、肩の力を抜いて、笑った。
「そうか。……なら、聞いてくれるか」
マーカスは、扉のほうを一度見て、声を落とした。
「ありがとう。試作品、楽しみにしてる。……でも、本当は、これに頼らなくてもいいかもしれないんだ」
「どういうことですか」
「友達が、ケンが、新しい治療を受けたんだ。手が、生えてきた」
ウィンリィの手が、止まった。エドは、振り返った。
「手が」
「右手の肘から先が、爆風でなくなってた。無料の治験なんだと」
「は?」ウィンリィが顔を上げた。
「説明会に行ったら、注射を一本打つだけで、数日で指が生えてきた、って」マーカスは、ポケットから、使い捨ての注射器を取り出した。「今日、技師さんが来るって聞いたから、持ってきたんだ。これが、そのもの。使用済みは回収すると言われたらしいが、ケンは元衛生兵でな。何を打たれたのか分からないのは嫌だって、こっそり持ち出した。『念のため、誰かに見てもらえ』って、俺に預けていったんだ。中身は、もう空だけど」
「見せてください」
ウィンリィが、顔をしかめた。「素手で触らないの」
「読むには、こうするしかねえ」
エドは、鋼の右手で受け取った。
プラスチックの筒の内側に、乾いた透明の膜が、薄く貼りついている。左手の人差し指で、膜に触れる。
その瞬間、構造が流れ込んできた。
〈兄さん〉
〈……待て〉
同じ形が、長く、長く、並んでいた。鎖のように繰り返される単位。その途中に、人の体の部品に似た形が、ところどころ混ざっている。意味は、分からない。ただ、並び方の癖だけが分かった。
切れ目らしいものが、見つからない。
エドは、膜の端から端まで、もう一度、指を滑らせた。
〈アル。昨日の頁の〉
〈うん。止まる信号〉
〈止まる信号に当たる所が、どれなのか、俺には分からねえ〉
〈バナーさんなら、分かるかも〉
エドは、注射器を握り直した。手の中が、少しだけ冷たかった。読みすぎた時の冷えとは違う。もっと細くて、嫌な冷たさだった。
「マーカス」
「ん?」
「ケンは、今どこに居る」
マーカスは、少しだけ眉を寄せた。
「それが、二日前から、連絡が取れないんだ。携帯も、切れたまま。治験の人たちが、経過を診るって連れていったきりでな」
談話室から、テレビの音が聞こえてきた。誰かが、音量を上げたらしい。
『――ロサンゼルス、チャイニーズ・シアター前で、爆発がありました』
ウィンリィが、息を呑んだ。マーカスも、エドも、談話室の方を見た。
画面には、黒く焦げた石畳と、折れた街灯と、群がる救急車が映っていた。サンタの帽子を被った人形が、道の真ん中に転がっている。
『重体の男性の一人は、スターク・インダストリーズの警備責任者、ハッピー・ホーガン氏と伝えられています』
「ハッピー」
「知ってるの?」
「名前だけ聞いてる。スタークの身内みたいなやつだ」
ウィンリィの声が、小さくなった。
エドは、談話室の入口まで歩いた。映像が、現場を舐めるように動く。街灯の根元が、内側から焼けたように、ねじ曲がっている。溶けた金属が、石畳に張りついている。爆風で吹き飛んだ折れ方ではない。
〈兄さん〉
〈ああ〉
〈火薬の跡が、ない気がする〉
〈……お前も気づいたか〉
エドは、左手の中の注射器を見た。切れ目の見つからない、並び。止まる信号、と書いてあった、昨夜の頁。内側から焼けたように歪んだ街灯。
三つは、まだ、一本の線にならなかった。ただ、掌の冷たさだけが、引かなかった。
「ウィンリィ」
「何」
「この注射器、バナーに見せたい。持って帰っていいか」
ウィンリィは、マーカスを見た。マーカスは、頷いた。
「ケンのだ。……あいつに、返してやってくれ」
エドは、注射器を布に包んで、上着の内ポケットに入れた。