MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
その夜、タワーの部屋で、エドは注射器を机の端に除けて、バナーの論文を開いていた。注射器の中身は、昨日、手で読んだ。同じ並びが長く続くことは分かったが、それが何を意味するのかは、読み取れなかった。
壁のテレビでは、マンダリンを名乗る男の声明が、また流れていた。ハッピーが巻き込まれた劇場の爆破も、自分たちの仕業だと言っている。
「ハッピーがやられたのは、スタークへの当てつけだろ。……あいつ、大丈夫なのか」
ウィンリィは、ソファで論文の写しを膝に広げたまま、画面から目を離さずに言った。
「大丈夫なわけ、ないでしょ。ハッピーさんが、あんなことになったんだから。……トニーさんのことだもの、何かする気よ」
〈スタークさんは、きっと動くよ。……僕たちは、僕たちのできることをしよう。次の頁、読もうよ〉
アルに言われて、エドは論文の続きに目を落とした。「増える分の材料はどこから出るのか」。その答えは、確かに次の頁にあった。
バナーの字は、図の下に、小さく書き込んである。
「再生は、代謝を押し上げる。新しい組織の材料は、体の貯えから出る。筋肉、脂肪、血中の糖。使った分の一部は、熱になって出ていく。再生が速いほど、熱も増える」
エドは、その行を二度読んだ。ケンの手が生えた分の材料は、どこから出たのか。食事で足りるとは思えない。
「……ってことは、増えた分が、熱になって……いや、熱で逃げてんのか」
口に出すと、自分の声が、少し硬かった。ウィンリィは、論文から顔を上げた。
「ケンさんって、マーカスさんの友達の……二日前から、連絡つかないんだっけ」
「ああ」
「その人、今……どうしてんのかな」
エドは答えなかった。壁の内線の受話器を取って、下の研究室の番号を押した。バナーは、四回目の呼び出しで出た。
『エドか。どうした、こんな時間に』
「見てほしいもんがある。今から行く」
『悪い、今夜は実験が止められない。電話で頼む』
エドは、ケンという名と、連絡がつかないことを伝えて、それから見たままを言った。同じ形が長く繰り返される単位があって、ところどころに人の部品に似た形が混ざっていて、切れ目の見えない並びだったと。受話器の向こうで、バナーが紙に何か書く音がして、ペンが止まるたびに、短い息が聞こえた。
『……止まる信号に当たる並びは、あったか』
「見えなかった。……つうか、あるのかどうかも分かんねえ。見えたとこには、無かった」
『君の読みだけじゃ断定は……いや、もしその通りなら、書き込まれるのは再生の指示だけだ。止める側が、いない』
「……止める側がいないと、どうなる」
『熱を逃がす速さが、出る速さに負けたら、体温は上がり続ける。……その先は』
『その先は……ケンさん、だったか。その人の体重が分かれば』バナーは、言いかけて、ああ、と息を吐いた。『そうか、連絡が取れないんだったな。……会えたら、診てみたい』
「ああ」
『明日、また電話をくれ。分かったことは、全部』
受話器を置くと、ウィンリィが、指で論文の端をなぞっていた。
「この注射器のこと、マーカスさんに言う?」
「まだ。ちゃんと確かめてからだ」
ウィンリィが、論文を閉じて、黙ってエドの横顔を見ていた。
エドは、注射器を布に包み直して、鞄の底にしまった。窓の外では、雪が止んでいた。
***
翌朝、地下鉄で40分かけて施設に着くと、談話室に、ツリーの飾りが増えていた。
今日は、マーカスの仮合わせの日だった。ウィンリィは、昨日取った型から自分で組んだ仮の義足をマーカスの断端に付けて、廊下の端から端まで歩かせていた。踏み込むたびに体が右へ逃げて、そのたびにウィンリィがしゃがんで、義足の角度を指で直す。壁際の長椅子に座ったエドは、それを横目で見ながら、昨夜の注射器のことを考えていた。
「どう? 痛くない?」
「……悪くないな。仮でこれなら、上等だ」マーカスは、照れたように笑った。「ケンにも、見せてやりたかったな」
「ケンから、まだ連絡ねえのか」エドは、声を落として聞いた。
「ああ。電話も、繋がらないままだ」マーカスは、笑いを引っ込めた。「あいつ、無茶する奴じゃないんだがな」
ロビーのほうで、悲鳴が上がったのは、その時だった。
エドは、長椅子を蹴って走った。受付の前の床に、20代の背の高い男が倒れていた。分厚いコートの下で体が震えていて、受付の女性が後ずさりしている。
「道を開けて!」所長の声が、ロビーに響いた。
所長が、廊下から走ってきた。膝をついて、男の首筋に手を当て、すぐに引っ込めた。
「熱い」
「ルイス!」
マーカスが、壁に手をついて、片脚を引きずるように近づいてきた。
「ルイス? ……おい、同じ階のルイスだろ。四日前から外泊だって聞いてたぞ。どうした」
男は目を開けたが、焦点が合っていなかった。左の手が、コートの袖から覗いている。
手首の先は、細くて、白かった。生まれたての指のように、爪が薄い。その指の付け根の皮の下が、燃え残りの炭みたいに、赤かった。
「逃げて、きた」ルイスは、歯の間から言った。「もう一本……打つって……明日で……ケンの隣の部屋、三日前の朝から、シーツが、焦げてて」
「ルイスさん、聞こえる? 喋らないで。体温を測るから」所長が、立ち上がった。「担架を! 氷を、あるだけ!」
誰かが走った。エドは、手袋を歯で引き抜いて、ルイスの肩に、素手の左手を当てた。
熱は、体のどこかに偏っていた。左手の先が熱いわけではない。確かに強い熱だが、出どころはもっと奥にある。胸の真ん中に塊があって、周りよりずっと熱いその一点から、波のように外へ押し出されていた。
指の隙間から、湯気のように、熱が立ちのぼっていた。掌の皮が、じりじりと焼ける。それでも、離さなかった。
人の体に手を当てて、中を探っている。それだけで背中の皮がざわついて、母の体の、あの夜の感触が、一瞬だけ戻ってきた。
〈兄さん〉
〈……分かってる。体の中には、手を入れねえ。触って、熱の出どころを探るだけだ〉
錬成するのは、外側だ。この体に、何も足さない。何も引かない。
担架が来た時、所長の手の体温計は、HIの文字を点滅させていた。上限を、とうに超えている。ルイスを毛布で包んで運ぶ職員の手は、厚い手袋の上から、湯気を上げていた。
「救急車は呼んだわ。着くまで、25分。雪で、道が混んでるって」
「間に合うか」エドは、言った。
「分からない」所長は、嘘をつかなかった。「人なら、とっくに死んでる熱よ。……でも、この人は、まだ息をしてる」
エドは、顔を上げた。ロビーの端から端を見た。タイルの床。壁際の水飲み場。廊下の奥、給湯室。
〈兄さん、何する気〉
〈熱を逃がす。水に浸ける〉
〈浴槽、ここに無いよ〉
〈作る〉
エドは、所長に向き直った。
「水槽がいる。金属のやつ。こいつが丸ごと入る、2メートルくらいの。……鉄、どっかにねえか。厚いの」
所長は、迷っている時間がないと見て、聞き返さなかった。
「地下のボイラー室に、使っていない古い鉄板が積んである。階段の奥。……鍵はこれ」所長は、鍵束を抜いて、受付の女性に押し付けた。「あなた、案内して。この子の言うとおりに開けて」
「は、はい。……でも、作るって、どうやって」
「いいから、早く」
***
ボイラー室には、古い鉄板が、壁に立てかけて積んであった。
エドは両手を合わせて、鉄板の山に押し当てた。青白い光が山を這い、鉄板が縮んで、床の上に、人が一人、首まで浸かれる長い浴槽の形が育っていく。両端には太い管がつき、出口は高い位置にあって、溜まった分だけが溢れる造りだ。足りない鉄は、鉄板の山を半分使って補った。
受付の女性が、口を開けたまま、鍵束を握りしめていた。
「水道に繋ぐ。冬だから、冷てえ」
エドは、水槽の端から管を伸ばして、天井の配管に突き当てた。接合部が青い光の中で一つの継ぎ目に変わり、水が来る。水は、反対の端の高い口から溢れて、床の排水溝へ落ちていった。
階段の上から、担架の音が降りてきた。
水槽の底に水が溜まり始め、ロビーの隣の食堂から、氷の袋が冷凍庫の分まで全部運ばれてきた。クリスマス会のポンチ用に買い込んであったらしい。ウィンリィが、その袋を片っ端から破いて、水槽に空けていく。
「服!」所長が叫んだ。「切っていい。下着だけ残して。ウィンリィさん、義足を」
ルイスの右脚には、義足が付いていた。膝下から、金属の棒が見える。ウィンリィは、迷わずその前に屈んで、固定具を外し始めた。
「ルイスさん、外しますよ! ちょっと我慢して!」
名前を呼んでから、手が動いた。ルイスは、答えなかった。
上着とズボンを切り裂かれ、下着だけになった体が水槽に沈められると、すぐに湯気が立った。氷は見る間に小さくなっていき、入口から新しい水が押し込まれるが、それでも水槽の水は、1分も経たないうちに温んだ。
所長が、コードのついた救急用の体温計の先をルイスに差し込んだ。表示が、HIのまま動かない。次の瞬間、先が、ぐにゃりと曲がった。「……溶けた。もう、測れない」
エドは、水槽の縁に両手をついた。ルイスの胸の真下だけ、水がごぼごぼと泡立っていて、底の鉄が、鈍い赤みを帯び始めていた。このままだと、水槽のほうが先に歪む。
ウィンリィが、床に放り出されたエドの上着から、携帯を抜いた。バナーの番号を押して、スピーカーにして、水槽の脇の床に置く。
『エドか。どうした』バナーの声だった。
「ルイスって奴が、熱を出してる。昨日話した、あの注射を打ったらしい。体温計は、振り切れて、溶けた。……どうすりゃいい」
『落ち着け。今は、どう対処してる? 状況を、順番に教えてくれ』
「水槽を作って、水に浸けてる。水道の水を、流しっぱなしにして。それでも、胸の下で水が沸いてる。底の鉄が、赤いんだ」
『……沸いた所は、泡が膜になって、熱を通さなくなる。たぶん、それで体が冷えないんだ』
「じゃあ、どうする」
『流してるだけじゃ、足りないんだな。……熱い所に、冷たい物を直接当て続けるしかない。氷を、胸の上に山積みにしろ。溶けるそばから足して、温まった水は流して捨てる。氷が溶ける時は、熱をごっそり奪うんだ。……氷は、錬成で作れないのか』
「……あ」エドは、一瞬、言葉に詰まった。「その手があったか。やる」
「それなら、いっそ全部、氷漬けにしちゃえば?」ウィンリィが言った。
『だめだ』バナーが、すぐ遮った。『皮膚が冷えすぎると、血管が縮んで、芯の熱が出てこなくなる。氷は、胸だけでいい。そこから溶けて、蒸気になる分を、足し続けるんだ』
「……分かった」ウィンリィは、唇を噛んだ。
エドは、水槽の出口から溢れる水に手を当てて、そのまま氷に変えた。氷の塊が、次々と床に転がる。ウィンリィが、それを抱え上げて、ルイスの胸の上に積んでいった。氷は、積むそばから湯気を上げて溶けていく。
エドが、焼ける痛みをこらえて、氷の隙間からルイスの胸に左の掌を差し入れると、脈が強く速くなっていて、さっきの塊が膨らみ始めていた。
「来る」
「何が」
「波。もうすぐ」
エドは、所長に目を向けた。
「氷を、切らすな。ありったけ作る」
所長が頷いた。受付の女性が、氷の袋を抱えて、階段を駆け降りてきた。マーカスは、階段の途中に腰を下ろして、上から回ってくる袋を、下へ手渡していた。ウィンリィがルイスの頭を支えていると、ルイスの目が、焦点を合わせた。
「あ……熱い……焼ける……」
「大丈夫。今、冷やしてる」ウィンリィの声は、驚くほど落ち着いていた。職人の声だった。「ルイスさん、聞こえてますか。私の声が聞こえたら、指を動かして」
白い指が、水の中で、わずかに動いた。
水槽の周りから、湯気が濃く立った。エドは、両手を合わせて、水槽の底に叩きつけた。熱い。普通の鉄なら、とうに歪んでいる熱だ。再錬成で、底の形を保たせる。ほどいて、組み直して、また熱が来る。合わせて、ほどいて、組み直す。
〈兄さん、持たなくなる〉
〈持たせる〉
氷の下の塊の熱が、少しずつ引いていく。エドは、顔を上げなかった。波が、潮が引くように引いていく。
所長が、予備の体温計を差し込んだ。「……測れる。43」
「41.5」
氷の袋が、何度も空けられていた。氷が尽きると、受付の女性が、外から雪をバケツで運んできた。ウィンリィが、足し続けている。手は、紫色になっていた。
「39.4」
誰も、何も言わなかった。
ルイスが、長い息を吐いた。
「……寒い」
所長が、体温計を持った手を、下ろした。
「……生きてる」
床の携帯から、バナーの声がした。
『……下がったか。下がっても、油断するな。また上がる。波は、一度じゃ終わらない』
「……ああ」
マーカスが、水槽の縁に、座り込んだ。ウィンリィは、ルイスの頭を支えたまま、エドを見上げた。唇が、震えていた。
エドは、水槽に背中を預けて、床に座った。水槽の縁に押し付けていた右腕が、肩まで熱を持っている。天井の配管を、水が流れる音だけが聞こえた。
***
救急車は、波が引いてしばらくして着いた。
救急隊員は、機材を広げてルイスの血圧と脈を取り、本部に無線を入れた。折り返しは、すぐに来た。
「動かすな、と言ってます」隊員が、所長に言った。「波の最中に車へ積んだら、車内じゃ氷水に浸けられない。熱が移ったら、燃えかねない」
「病院は」
「受け入れ先を探してますが、この熱の患者は前例がなくて、どこも渋ってます。……次の波が過ぎて、落ち着いてから、搬送を決めましょう」
所長が頷いて、書類に書き込んだ。
「原因は?」隊員が聞いた。
「承認されていない治験薬の、副作用らしいの」
隊員の顔が変わった。
「保健局と警察に、報告します。担当者が来るのは、明日の昼になります」
隊員は、夕方に引き上げた。
ルイスが目を開けたのは、夕方だった。
波が引いたあと、ルイスは水槽の隣の簡易ベッドに移され、毛布を掛けられていた。水槽には、水を張ったままだ。体重は所長が測り、ルイスは、ベルトの穴が二つ詰まった、と言った。ここ4日で、6キロ落ちていた。
「説明会は……ホテルの、会議室で」ルイスは、かすれた声で言った。「研究所、とか名乗ってて」
「何の研究所だ」エドが聞いた。
「再生医療の、グループ、だって。無料で。パンフに、電話番号が……」
「それ、まだあるか」
「捨てた。……あ、でも、ケンが、写真撮ってた気が」
「ケンは」エドは、ルイスの顔を覗き込んだ。「ケンの部屋は、どこにあった」
「知らない。……窓が、なかった。ずっと、地下みたいで」
マーカスの顔から、血の気が引いた。
「ケンの携帯、まだ繋がんねえんだ」
エドがルイスの左手を見ると、細い指はもう普通の肌の色に戻っていて、爪だけが薄く透き通っていた。
「手は、いつ生えた」
「注射して、2日目。朝、痛くて、目が覚めて、そしたら」
ルイスは、左手を握ったり開いたりした。
「利き手だったんだ。嬉しかった。本当に。……一本で終わりだって、言われてたんだ。脚は、次の分で、って。……でも、夜になると、熱が出て。昨夜なんか、食べたものが、全部すぐ消える気がして」
ルイスは、毛布の端を握った。
「スーツの人に、聞かれたんだよ。一番、取り戻したいものは、何ですかって。俺、爆風で持ってかれた、左手と右脚だって、答えたんだ。そしたら……取り戻せますよ、って」
「ケンも、同じこと言ってたな」マーカスが、低く言った。「……なあ、ルイス。お前、説明会に行ってたのか。なんで俺に、先に言わねえ」
「言ったら、止めるだろ。あんた」
「止めるさ」
「だから、言わなかった」
〈……ケンさんも、今、同じ目に遭ってるかもしれない〉
〈ああ。早く見つけねえと、間に合わなくなる〉
***
所長が、エドを給湯室へ呼んだのは、その少し後だった。
湯気の立つマグカップを二つ置いて、一つをエドの前に押した。
「ペッパーさんからは、お手伝いの子、としか聞いてなかったんだけどね」
「助手だよ」
「そう」所長は、自分のカップに口をつけた。「27年、医者をやってるけど、今日みたいなものは、初めて見た。あの熱で生きてる人も、それを冷やして止めた子も」
「作っただけだ。……言うなよ。今日のこと、誰にも。……頼む」
「言わないわよ。言っても、誰も信じないでしょうし」
「受付の人にも、頼む。マーカスと、ほかの入所者にも」
「それは、私から言っておく」所長は、エドの目を見た。「その代わり、教えて。バナーさんは、また上がると言ってたけど、あなたは、どう見る?」
エドは、カップの縁を見た。ごまかす気は、起きなかった。
「さっき触った時、胸の塊が、まだ残ってた。……また来る。次も、小さいとは限らねえ」
「次の波が来た時、あなたはここに居る?」
エドは、すぐに頷いた。
「いつまで?」
「……熱が収まるまでだ。何日かかるかは、分かんねえ」
所長は、残りのコーヒーを飲み干した。
***
バナーが着いたのは、夜の8時だった。
「悪い、遅くなった。雪で、地下鉄が止まってて」
大きな鞄を提げて、駅から走ってきたらしく、息が荒かった。ルイスの血を採って小さな試験管に分けてから、水槽のそばにしばらく立って、鉄の水槽を眺めていた。
「ルイスの体に触った時、何か分かったか」
「胸の真ん中に、塊があった。周りよりずっと熱い一点だ。そこから、波みたいに外へ押し出されてた」
「一点か。……体の貯えを、そこで一気に燃やしてるのかもしれないな」バナーは、水槽の縁に指を当てて、しばらく水面を見ていた。
「話を聞いた時から、ずっと引っかかっててな。これを作った人は、止める信号を、わざと抜いたのか。それとも、抜けたのか」
「どっちだ」
「分からない。ただ、薬の作り方の癖に、見覚えがある。作った人に、心当たりがある」バナーは、鞄から、小さな手帳を出した。「連絡してみる。返事が来るかは、約束できないけどな」
「それとな」バナーは、試験管を光にかざした。「手が生えるのに、2日かかった。熱も、あれで済んでる。たぶん、薬は薄めてある。濃かったら、この程度じゃ済まない」
「薄い?」
「論文のとおりだよ。速く戻せば戻すほど、熱も増える。薄めてあって、今日の熱だ。濃く打ったら、体が持たない」バナーは、自分の掌を見た。「止まらない体が、どうなるか。仕組みは違うけど、近いものを、僕は少しだけ知ってる。……軍の超人兵士計画と、同じ匂いがする。あれも、最初は制御できなかった」
「……超人、計画」
「だから、薄めたらどうなるかを、試してるんじゃないか。濃いので、もう壊れた人がいるのかもしれない。この人は、その実験の一人だ。……全部、推測だけどな」
それから、ルイスの寝顔を見て、声を落とした。
「この人は、薄いほうで、運が良かっただけかもしれない」
「血は、持ち帰って調べる。ただ、血から分かるのは、今ある仕組みだけだ。そこに止める信号を足すには、薬を設計した人の知識が要る」バナーは、さっきの手帳を、握り直した。「返事が来たら、すぐ知らせる」
「会えるのか、その人に」
「分からない。時間も、かかる。……その間は、すまない。持たせてくれ」
「……分かってる」
バナーは、試験管と、エドが渡した注射器を鞄にしまって、日付が変わる前に帰っていった。
その直後に、受付の電話が鳴った。
所長が、受話器を取った。
「はい。……どちら様ですか」
向こうの声を聞くなり顔色が変わって、受話器を握る手が白くなった。
「……どういったご用件ですか」
エドは、談話室を出て、受付へ走った。所長が受話器を耳から少し離すと、向こうの声が漏れ聞こえた。落ち着いた、若い男の声だった。
『ルイス・ベガさんの、治験を担当している者です。経過観察の件で、ご連絡しました。明朝、お迎えに上がります。ご心配なく。治療は、続けられます』
電話は、それで切れた。
カウンターの端に、ルイスの携帯が置いてあった。受付の女性が、ロビーの床で拾って、置いたままにしていたらしい。電源は、入ったままだった。ここにいると、これで知られたのだ。
エドは、携帯の電源を切って、バッテリーを抜いた。
「……遅いと思うけど」
ウィンリィが、後ろで言った。
「分かってる。明日の朝、来るってことだ」
***
二度目の波は、午前1時に来た。
最初のものより、ずっと小さかった。エドは、ルイスの手首に指を当てて、脈が速くなる前に、水を足した。所長が、予備の体温計で測った。40.1。小さく頷いて、仮眠室へ戻っていった。
水槽の脇の床に、毛布を敷いて、ウィンリィとエドは並んで座っていた。ルイスの寝息が、規則正しく聞こえる。
「エド、右腕、見せて。それと、左の掌も」
「は? 急に何だよ」
「今日、ずっと水槽を押さえてたでしょ。鋼だって、熱は通すんだから。……ほら、貸して」
ウィンリィは、返事を待たずに、エドの右の袖をまくった。肘の継ぎ目を、指で押す。顔をしかめた。
「ほら。ここ、熱で、少し膨らんでる。ちょっとだけ。でも、膨らんだ分だけ、動きが渋くなるの」
「大したことねえよ」
「それは私が決めるの」ウィンリィは、工具箱から小さな布を出して、継ぎ目に当てた。「掌は、水ぶくれになる前に冷やして。明日、ちゃんと診る。無理しない。……ねえ」
「……なんだよ」
「アルは、どう思った? 今日の」
エドは、ウィンリィの顔を見た。ウィンリィは、毛布の端をいじりながら、目を合わせなかった。
〈……僕?〉
アルの声が、少し、ためらった。
〈ルイスさんの手が生えてるの見て、兄さんの腕も、って思った。……ごめん〉
エドは、それを、そのまま口に出した。
「いいな、って思うの、普通でしょ」ウィンリィは、毛布から目を上げずに言った。「私だって、思ったわよ。こんなのがあれば、オートメイルなんて要らないのかな、って」
エドは、黙った。
〈再生する仕組みを、僕の体を作る方に使えないかな、って、ちょっと思った。……でも、止まらなかったら、ルイスさんみたいになるんだよね〉
アルが、小さく続けた。エドは、すぐには、口に出せなかった。
「……寝ろ」ようやく、それだけ言った。「次の波、来るぞ」
ウィンリィは、笑わなかった。毛布を、エドの肩まで引き上げただけだった。氷が、水槽の中で、小さく鳴った。
***
朝の7時に、白い車が、施設の前に停まった。
降りてきたのは、同じ色のコートを着た二人の男だった。先に入ってきた男は30代に見えて、笑顔だった。
「おはようございます。昨夜、お電話を差し上げた者です。ルイス・ベガさんを、お迎えに上がりました」
所長が、受付のカウンターの向こうに立った。
「ベガさんのことは、今は、お答えできません」
「そうですか。それは困りましたね。こちらに、いらっしゃるのでは?」
「患者さんの情報は、お答えできません」
男は、笑顔のまま頷いて、ロビーを見回した。長椅子から身を起こしたエドと目が合うと、軽く会釈した。エドは、会釈を返さなかった。
「昨日、救急の通報があったと聞きました。雪の中、大変だったでしょう」男は、ゆっくりと所長に視線を戻した。「ベガさんは、今が、体が慣れるかどうかの、いちばん大事な時期なんです。環境を急に変えると、取り返しがつきません。私たちなら、専用の設備で、安全に診られます」男は、懐から一枚の紙を出した。「こちらは、ベガさんの同意書です。治験の継続に、ご本人が署名しています。ご本人の意思を、尊重していただけませんか」
紙の署名は、確かに、ルイスの名前だった。ただ、字が、妙に整いすぎていた。
「本人に、確認します」所長は、紙を、カウンターの上に押し返した。「今日は、お帰りください」
警察と保健局に報告が入っていることは、口にしなかった。この二人を、これ以上、刺激しないほうがいい。エドにも、そう見えた。
男は、紙をしまった。笑顔は、少しも変わらなかった。
「分かりました。また伺います。次は、ご本人の弁護士と、一緒に」
男たちは、出ていった。白い車は、道の向こうの角で、停まった。
「あの人たち、帰ってない」ウィンリィが、窓から言った。
エドは立ち上がって、地下へ降りる階段の前で足を止めた。
〈兄さん。あの署名、きれいすぎたよね〉
〈ああ。ルイスは左利きだ。左が無い頃に右で書いたなら、あんなきれいな字になるかよ〉
***
その夜、談話室のテレビは、つけっぱなしだった。
エドは、ソファで、冷めたパンを握っていた。ウィンリィは、給湯室で借りた湯たんぽを、膝に抱えている。昼過ぎには、保健局の職員と警察官が来て、所長から経緯を聞いて帰った。白い車のことも伝えたが、何かされない限り動けない、と言われた。ルイスは眠っていて、本人への聴取は、できなかった。ルイスの熱は、昼のうちに、もう一度だけ小さく上がって、それきりだった。白い車は、まだ、あの角に停まっている。
『――速報です』
アナウンサーの声が、変わった。
『カリフォルニア州マリブにある、トニー・スターク氏の邸宅が、ヘリコプターによる攻撃を受け、崩壊しました』
パンが、エドの手から落ちた。拾わなかった。
画面には、崖の縁が映っていた。あるはずの家が、無い。海の上に、白い煙と、瓦礫の山が浮かんでいる。
『スターク氏は、直前に、マンダリンを名乗る人物へ向けた生放送の声明を出し、その中で自宅の住所を明かしていました。スターク氏の安否は、確認されていません。ポッツ最高経営責任者は、無事と伝えられています』
ウィンリィの湯たんぽが、床に転がった。
「ペッパーねえさん」
「無事って、言ってる」
エドは、立ち上がった。携帯を出して、ペッパーの番号を押した。留守番電話に切り替わった。もう一度押した。同じだった。
次に、タワーの番号を押した。ジャーヴィスは、呼び出し音が鳴り終わる前に出た。
『エドワード様。ニュースをご覧になったのですね』
「スタークは」
『攻撃の直前に、トニー様を機体ごと離脱させました。ただ、機体の電力が尽き、最後に信号を受けたのは、テネシー州の上空です。それ以降の現在地は、分かりません』
「……生きてんのか」
『離脱の時点では、生存を確認しておりました。それ以降は、分かりかねます。信号が途絶えた周辺の捜索を、こちらでも続けております。分かり次第、すぐにお知らせいたします』
〈兄さん、行く?〉
三日前の夜の、スタークの短く速い息が、耳に残っている。エドは、画面から目を離せなかった。行けば、探す手伝いくらいはできる。だが、地下のベッドで寝ている男がいる。熱が、いつぶり返すか分からない。
「……行かねえ」
「エド」
「ここを離れたら、ルイスが。……くそ。スタークが、勝手にくたばるタマかよ」
ウィンリィは、うつむいた。膝の上で組んだ指に、力が入っていた。
エドは、談話室の窓に近づいた。道の角に、白い車が、まだ停まっている。ライトは消えていて、中の人影は見えない。
エドは、地下へ降りた。次の波に備えて、氷を作り置きしておくつもりだった。ボイラー室の水道に手を置くと、水が、掌の下で白く固まっていった。