MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
3話連続で投稿します。
封筒は、夜が明けても上着の内側にあった。
本部の部屋は、白い壁と鉄の寝台と小さな机だけでできていた。エドは上着を着たまま眠って、目が覚めたときも、まず胸のあたりを左手で押さえて、封筒の厚みを確かめた。
〈開けるの?〉
〈ここじゃ開けねえ。窓のない建物で読む手紙は、ろくなことが書いてない〉
〈根拠、それだけ?〉
〈それだけだ〉
連絡員の車で駅まで送られた。降りぎわに、連絡員は折りたたみ式の携帯電話を差し出した。
「財団支給です。番号は一件だけ入っています。前回は、教会の電話を借りたそうですね」
エドは黙って受け取って、上着の内ポケットに突っ込んだ。〈ちゃんと持っててよ。兄さん、すぐ無くすんだから〉と、アルが言った。
列車に乗って、席に着いてから、エドは封を切った。
紙は二枚入っていた。一枚目は、見覚えのある書式の派遣依頼書だった。
アメストリス財団 派遣依頼書
派遣先:移植免疫研究所
業務:検査機器の点検、必要に応じた修理
期間:一週間程度
報酬:日当
宿泊:研究所の客室を使うこと
身分:当財団技術部 見習い E・エルリック
二枚目は手書きだった。万年筆の太い線で、短く書いてある。
数日前、町外れの川沿いで、人とも犬ともつかない遺体が上がった。変死の鑑定を受けた研究所の主任は、未知の感染症か事故と報告してきたが、写真の組織の混ざり方と、遺体に付いた灰色の物質は、リオールの残滓に似ている。錬成が疑われる。リオールで姿を消した青年の足取りと、あの残滓の供給元を探すこと。表向きは、研究所の検査機器の点検で滞在すること。研究所に会の者も錬金術師もいないが、錬金術のことは、研究所にも保安官にも伏せておくこと。
〈リオールの、あの人のことだよね〉
〈夜明け前に裏口から出てった奴だ。大佐は、探すとだけ言ってた〉
〈それを、大佐さんじゃなくて、兄さんに直接、頼むんだね〉
〈知るか〉
〈でも、兄さんの声、ちょっと軽いよ。昨日より。手がかりが出て、嬉しいんでしょ〉
〈気のせいだ〉
エドは二枚をたたんで封筒に戻した。遺体と、あの青年。それだけの話のために、総裁が現場の人間を直接呼ぶだろうか。便箋の端を、指でなぞった。
列車は牧草地を何時間も走って、夕方の手前で駅に着いた。
***
駅のある町は、牧草地に囲まれた、この郡で一番大きな町だった。
駅前から通りが何本か延びていて、銀行や市場や映画館の看板が並んでいる。三階建てが一番高い建物で、荷馬車と自動車が同じ道を行き交い、歩道は買い物の人で賑わっていた。研究所の場所は、駅員が教えてくれた。教えてくれたのだが、エドは三つ目の交差点を曲がるところで、もう分からなくなっていた。
〈兄さん、さっきの角を右だったと思う〉
〈左だって言ってたろ〉
〈右の店に、ちゃんと看板があったから〉
〈……戻る〉
同じ通りを戻って、また同じ角に立ったとき、背後でエンジンが止まる音がした。
「おい、坊主」
振り向くと、車が一台停まっていた。白い車体の扉に星の紋章が入っていて、屋根に赤と青の灯りがついている。運転席の窓から、眼鏡をかけた男が顔を出していた。短く刈った髪で、顎の先にだけ髭を残している。胸に、星の形をした徽章があった。
「その鞄、さっきも見たぞ。この角を三回回ってる。駅から来たのか」
「保安官?」
「そうだ。マース・ヒューズ。迷子には見えねえが、怪しくも見えねえな。名前は?」
「……エドワード・エルリック。財団の技術部の者です。移植の研究所に行くところで」
「財団。アメストリスの?」
ヒューズの目つきが、わずかに緩んだ。エドは上着の内側から封筒を出し、一枚目だけを抜いて、窓の中へ差し出す。ヒューズは紙の端から端までを読んで、エドの顔を見て、また紙を見た。
「技術部の見習い、な。見習いにしても、いくつだ」
「十四」
「十四」
「文句でもありますか」
「文句はねえさ。財団なら知ってる。うちの事務所の連中も、毎年、救急の講習を財団に受けさせてもらってるんでな。そこから寄越されたのが十四のガキだってのが、ちょっと意外なだけだ」
「子どもじゃありません」
「悪かった。じゃ、技術屋さん」
ヒューズは笑って助手席のドアを開けた。
「乗れ。研究所は、この角を右だ」
〈右だった〉
〈うるせえ〉
車の中は、煙草の匂いがしなかった。かわりに、バックミラーに小さな写真が一枚挟んであった。赤ん坊を抱えた女性と、その横で眼鏡をずらして笑う、さっきの男。
「見たきゃ見ていいぞ。うちの娘だ。今年で三つ。名前はエリシア。この州で一番かわいい」
聞いてねえ、と思った。口には出さなかった。
「顔に出てるぞ。聞かれなくても言いたくなるのが、親ってもんだ」
エドは窓の外を向いた。
〈この人、苦手だ〉
〈そう? いい人だと思うよ〉
〈声がでかい〉
〈兄さんも〉
車は町を抜けて、川沿いの道に出た。ヒューズの口数が、急に減った。
「この先の土手で、三日前に、変死体が上がった」
「……保安官が、財団の人間に話していいんですか」
「機械の話だから言うがな。うちの事務所は、変死の鑑定を、今から行く研究所に回す決まりでな。それが止まってる。主任の先生が、検査機の調子が悪いと言って、結果を出してくれねえ」
ヒューズは、ばつが悪そうに笑った。
「急かしてすまねえ。頼んだぜ、技術屋さん」
「機械を直すだけです。それ以外は、知りません」
〈兄さん〉
〈ああ。何も知らねえ顔で行く〉
***
移植免疫研究所は、川を見下ろす低い丘の上にあった。
白い二階建ての本館に、動物棟が続いている。門の脇の看板には、財団の名前が小さく入っていた。庭の向こうの職員住居の窓に、洗濯物が干してある。
玄関で迎えたのは、長い髪を後ろで括った、痩せぎすの男だった。眼鏡の奥の目は疲れて見えたが、笑うと人が良さそうだった。
「ショウ・タッカーです。ここの主任をしています。遠いところを、よく来てくださいました。検査機が一台、数字が合わなくてね。財団に、点検をお願いしていたんです。エドワード君、でいいかな。まだ若いのに大変だ」
「お世話になります」
「保安官も、案内をありがとう」
「いいってことよ。この坊主、じゃない、技術屋さんは、同じ角を三回回ってた」
「回ってません。二回半です」
エドは足音を立てて、先に玄関へ入った。奥から、小さな足音がした。
「お父さん、お客さん?」
十歳にならないくらいの女の子が、廊下の角から顔を出した。長い茶色の髪を二つに分けている。その足元に、白くて大きな犬が寄り添っていた。
「娘のニーナと、犬のアレキサンダーです。学校が長い休みに入ったので、日中は動物棟の飼育係に預けています。免疫を扱う本館には、入れない決まりでね。ニーナ、こちらがエドワード君だ。機械を見てくれる人だよ」
「こんにちは。エドワード、さん」
「エドでいい」
「エド、さん」
ニーナは言い直して、照れたように笑った。アレキサンダーが近づいてきて、エドの左の手袋の指先を嗅いだ。しばらく嗅いだあと、顔を上げて、ニーナを見る。
「いいよ」ニーナが、犬の背を撫でた。「お手」
白い前足が、エドの左の掌に乗った。重かった。
「初めての人に、自分からするの、珍しいの」
「犬には、好かれる」
〈兄さん、犬、好きだよね〉
〈好きとは言ってねえ〉
夕食は、職員住居の台所で、煮豆とパンと薄いスープだった。ニーナがスープをよそってくれた。アレキサンダーは、いつの間にかエドの足元で丸くなって、眠っていた。食器棚の隅の小さな写真立てで、ニーナに目鼻立ちの似た女の人が、犬の頭を撫でて笑っている。エドは写真から目を外して、何も聞かなかった。
食後、ニーナが寝る支度で席を外すと、タッカーはお茶を淹れながら、遺体の話をした。
「私は免疫が専門で、医師ではありません。人の組織と犬の組織が、あんな形で混ざるなんて、教科書にはない。感染症か事故かと書くほかに、書きようがなかった。そのうえ、検査機の数字が合わない。壊れているのなら、そのほうがまだ納得できる。それで、財団に点検をお願いしました」
「機械は、見ます」
「検査機のほかにも、遠心機や培養器や冷凍庫の調子が悪くて、十台近くあります。業者は二度呼んだんですが、どれも直らなかった。財団の技術部の方に見ていただけるなら、助かります」
「見られるものから、順番に見ます。本体の分解は、しません」
「それで十分です。まず検査機を。明日の朝、検死室にご案内します」
エドは一度だけ頷いた。
〈いい人だね、先生〉
〈ああ〉
それだけ言って、エドは冷めかけたお茶を飲み干した。客室へ戻る本館の廊下の突き当たりに、鉄の扉があった。ボイラー室だそうで、暖房の季節までは使わないらしい。
***
二日目の朝、エドは検死室の隅で検査機の光学ユニットを外して、整備していた。
本館の裏手の、窓の小さい部屋だった。壁も床もタイルで、冷たい空気が溜まっている。部屋の中央の台に、白い布をかけた長い塊があった。エドは、そっちをなるべく見ないことにしていた。
検査機は組織の切片に光を通して、免疫の拒絶反応の強さを数字にする機械だった。皮膚の移植片が体に残るかどうかを調べる、研究所の主力だという。光学ユニットのガラスが曇っていて、基準にしている試料の数字が、日によってずれる。曇りを拭いて、基準板を洗い、ランプを替えて、組み直した。
較正のついでに、機械が内部に残している使用履歴を呼び出した。ランプが点いた日時が、ずらりと並ぶ。ほとんどは昼間だったが、ここ一か月で四日、夜中の二時から四時に回した記録がある。傍らの検体の記録簿には、その四日の検体が一つも載っていない。夜勤の誰かが試験の続きでも掛けたのだろう、と思った。エドは四つの日付を何となく手帳に写した。
「どうですか」
戸口から、タッカーが覗いた。後ろに、ヒューズが立っている。
「機械は、正常です。ガラスが曇ってて、数字がずれてた。直したんで、今の数字は信用していい」
「曇り。川が近いので、湿気でカビが付くんです。春先は、いつもそうで」
タッカーは組み直された機械と、エドの顔を見比べた。
「業者は二人がかりで二日いて、直せなかったんですよ。それを、半日で。財団の技術部は、十四の子にこれを教えるのか」
「見習いなんで」
ヒューズが、感心したように口笛を吹いた。
「この調子で、残りもお願いします。遠心機に培養器に冷凍庫、一週間は掛かるでしょう」
「そのつもりで来ました」
「では、遺体の数字は本物ですか」タッカーが、台の上の布に目をやった。
「今から、標準の試料と遺体の切片をもう一度掛けます。十分かかります」
ヒューズは台の上の布から目を逸らして、壁のタイルを見ていた。顔色が悪い。
「保安官、外の空気を吸ってきたらどうです」
「……そうさせてもらう」
「私は、前の検体の記録を取ってきます」
二人が出ていって、扉が閉まった。エドは足音が廊下を遠ざかるのを数えてから、左の手袋を外した。右手で布の端を持ち上げた。人の肩と腕が、胴の途中から犬の腰と後ろ脚に変わっている。毛と素肌の境は、色が揺れる程度にしかなかった。顔は、見なかった。冷えた腰の境目に、左の素手の指先を置く。
組み立てが流れ込んできた。
〈アル。今から、触って分かったことを言う〉
〈うん〉
〈人の胴と、犬の腰が一続きになってる。縫い目も、継ぎ目もねえ。境目に、灰色の薄い層が挟まってる〉
〈灰色って〉
〈リオールの、あれだ。残滓と、同じ手触りだ。人と犬が別々だったものを同時に一つに錬成されてる。順番にくっつけたんじゃねえ。両方とも生きてる間に、一度に混ぜられた〉
アルは、すぐには何も言わなかった。
〈……痛かったよね〉
〈そうだな〉
エドは手を離さずに、もう少しだけ読んだ。力の通った跡だけが、濡れた砂のように指の下にある。手袋をはめ直して、布を元に戻し、機械の前に戻った。
扉が開いて、ヒューズとタッカーが、ほとんど同時に戻ってきた。機械が小さな音を立てて、数字を吐いた。
「出ました。標準の試料は十。遺体の切片は百二十で計器の上限です。機械が壊れてたんじゃない。遺体の数字が、本当にこれだけ異常なんです」
タッカーが目を丸くした。
「上限の意味まで、すぐに読むのか。免疫の数字は、専門でも読み違えるのに」
「本を読んだだけです。免疫は、少し」
「少し、ですか」タッカーは苦笑して、それから数字に目を戻した。「ですが、炎症の数字なら、感染症でも上がります」
「全身で上がります。これは、境目だけです」
エドは遺体の別の場所の切片を薄いガラスに載せて、顕微鏡の台に置いた。接眼レンズに目を当てて、ヒューズに場所を譲る。
「見てください。染色で人を赤、犬を青に分けてあります。その境の線を」
ヒューズは、おそるおそる覗いた。
「……線が、ねえ」
「そうです。手術で縫い合わせたなら、縫った跡と、治りかけの傷が必ず残る。それが、どこにもない。人と犬の組織が同じ時に一度に出来てる。感染症でも事故でも、こうはならない」
「つまり」ヒューズが身を乗り出した。
「誰かが、作った」エドは言った。
ヒューズの肩が、小さく動いた。タッカーが、息を吐いた。
「……感染症と書いたのは、私です。撤回します。書き直して、財団に送りましょう」
「頼みます」
「しかし、誰が何のために」タッカーが、眼鏡を押し上げた。
「分かりません」エドは言った。「俺は、機械の数字を出しただけです。その先は、保安官の仕事でしょう」
「分からねえって言える技術屋は、信用できる」
ヒューズが、顔を上げて言った。
昼前に、エドは較正の仕上げで、研究所が過去に取った記録の数字を、機械に通していた。人と犬の皮膚移植試験の拒絶の指標と、ペアが一緒に暮らした年数。机の上に、記録の束が積んである。
束の中ほどで、手が止まった。
「主任。これ、同居年数の短い順に並べ替えていいですか」
「かまいませんが」
表の列には年数が入っているのに、順番がばらばらだった。エドは机の上で、紙を年数順に並べ直した。一年、二年、三年。数字が高い。四年に近づくあたりでふいに下がって、五年を過ぎると、床に張りつくほど低くなる。
「四年を越えたところで、階段みたいに落ちてる。長く暮らした人と犬は移した皮膚への拒絶が、ほとんど出ねえ」
タッカーの手が、湯呑みの上で止まった。
「……よく気づきましたね。七年前に、同じことを論文に書きました。学会では、ほとんど相手にされませんでしたが」
「並べ替えれば、すぐ分かるのに」
「平均だけ見て、終わりにする人が多いんです」
タッカーは書棚から薄い冊子を抜いて、机に置いた。表紙に題名と、タッカーの名前がある。エドは頁をめくった。最後の頁に、参考文献が並んでいた。その中に、見覚えのある名前が一つあった。
B・バナー 高線量放射線下の細胞の再生について
「バナー博士の論文を、引いてるんですね」
「ご存じでしたか。放射線と細胞の再生では、第一人者です。五年前から、消息が分からない。惜しい人だ。あの人の仕事が、いつか私の論文の先を」
タッカーはそこで言葉を切って、少し黙った。それから、笑った。
「すみません。長くなりますね」
エドは名前を一度だけ頭の中で繰り返して、冊子を閉じた。
夕方、門の外でヒューズが車にもたれて待っていた。
「お前、何を食って育った。その歳で、大したもんだ」
「別に。普通です」
「普通じゃねえよ。……なあ、明日の晩、うちに来ねえか」
「は?」
「礼がしたい。かみさんの料理は、この辺りで一番うまいぞ」
「別に、俺は」
「来い」
有無を言わせない笑い方だった。エドは返事をせずに、前を向いた。
「……行きます」
***
三日目の夕方、エドはヒューズの家の玄関に立っていた。
小さな木造の二階建てで庭の隅に色の剥げた三輪車が置いてあった。呼び鈴を押す前に扉が開いて、栗色の髪の女性が立っていた。
「エドワード君ね。主人から聞いてます。グレイシアです。さあ、どうぞ」
居間の壁には、写真がいくつも貼ってある。ヒューズの結婚式、グレイシアの誕生日、赤ん坊の頃のエリシア。どの写真でもヒューズだけが一番大きな口を開けて笑っている。
「……写真、多いですね」エドは小声で言った。
「足りねえくらいだ。見るか。これはな、エリシアが初めて立った日の」
「あなた、先に食べてもらいなさい」
食卓にはミートローフと、じゃがいものバター焼きと、豆のスープが並んでいた。エドの隣の背の高い椅子に、小さな女の子が座っている。エリシアはスプーンを握ったまま、エドの顔をじっと見上げた。目が合うと、慌てて父親の腕の陰に隠れる。
「人見知りでな。すぐ慣れる」
〈兄さん、愛想がないから〉
〈生まれつきだ〉
居間のテレビが、小さな音で夕方のニュースを流している。画面には、赤と金の鎧の男の映像が映っていた。
「スタークの会社が、また新しい発表をしたらしい」とヒューズが言った。「戦場の兵器屋が、いきなり慈善家に転身だ。何を考えてるのか、さっぱりだな」
「ああ。そうですね」
エドは、スプーンを置いた。
〈ウィンリィのいとこが秘書をしてる会社だ〉
〈うん。ウィンリィが、行きたいって言ってた会社だね〉
〈あいつ、ほんとに入る気なんだろうな〉エドは苦笑した。
あの家の居間で小さな工具箱を膝に載せて、ウィンリィは言っていた。大きくなったら、機械の勉強をして、いとこのいるスタークの会社で働きたい。ちゃんとした義肢を作れるようになりたい、と。そのとき彼女の手元ではピナコの作った義肢の継ぎ目に油が足されていた。エドは左手で右の袖口をそっと押さえた。
「どうした、美味くなかったか」
「いや。美味いです。……弟なら、おかわりって言うだろうけど」
「弟、いるのか」
「います。遠くに」
グレイシアがエドの皿にミートローフをもう一切れ載せた。
〈兄さん、僕からもありがとうございますって言って〉
〈自分で言えねえからって、人に言わせるな〉
〈じゃあ、エリシアちゃんの絵を見てあげて。さっきから、兄さんのほうに向けて持ってるよ〉
エリシアは、食卓の端でクレヨンを握っていた。画用紙に、赤と黄色の丸が描いてある。
「それ、何だ」
「おにいちゃん」
「俺か」
「おっきい」
「……」エドは黙った。
〈兄さん。褒めてあげて〉
「……うまいな、この絵」
エリシアは、画用紙を両手で持ち上げた。
***
翌朝から、エドは研究所の機械を順に直した。遠心機、培養器、冷凍庫。前の晩は、客室で遺体と青年のことを考えて、あまり眠れなかった。ヒューズは夜のうちにタッカーへ連絡を入れていた。遺体の身元は割れず、川沿いの聞き込みも空振りだという。
四日目の朝、タッカーが機械室に来た。
「昨夜、ヒューズさんから電話がありました。遺体の身元も死因も、まだ絞れないそうです。感染症の疑いが残ると、町の人にも言えない、と」
「はい」
「ヒューズさんは、うちの検査機で出来ることは全部やってほしい、と言っています。ただ、職員に回すと、遺体の話が町に広まる。審査の週に、妙な噂は困るんです」
タッカーは、機械室の検査機に目をやった。
「その機械を一番分かっているのは、今はあなただ。手伝ってもらえませんか。結果は、私にも先に見せてください」
エドは少し考えた。頼まれるのは、都合がいい。
「やります。ただ、切片の数字は出ても、どこで何に触れたのかは別です。遺体が上がった土手の水と泥があれば、同じ検査機に掛けられます」
「分かりました。ですが、今日は審査の資料づくりで、私は研究所を空けられません。ヒューズさんに迎えを頼みますから、土手へはあなたが行って、取ってきてください」
タッカーはそのまま、ヒューズに電話をかけた。昼に、ヒューズが巡回の車で迎えに来た。ヒューズはエドを乗せて、町を回った。受け持ちは町の中心から、丘と川沿いと牧場地帯まで郡の全部だという。パン屋の前で足を止め、郵便配達の青年に手を振る。そのあたりの店主の名前を、ヒューズは片端から覚えていた。土手では、エドは川の水と泥を瓶に取った。
途中、車の無線が雑音しか吐かなくなった。ヒューズが拳で叩いても直らない。エドは足元の工具箱から背板を外して、浮いた端子をヤスリで磨き、締め直した。数分で、声が戻った。
「おい、お前を事務所に連れて帰りたい。うちの修理屋は、直すのに三日かかる」
「俺は技術部の見習いです。備品係じゃありません」
「給料は出すぞ」
「嫌です」
「じゃあ、今夜だけだ。あの土手で張り込む。犯人が戻るなら夜だろう。夜に無線が死んだら、何もできん。あれを直せるのは、お前だけだ」
エドは少し考えた。夜の土手を見られる機会は、他にない。
「……今夜だけなら」
「ただし、お前は十四の子供だ。夜に連れ出すなら、預かってもらってる以上、先生の許可がいる。タッカー先生には、俺から話す。それと、車から降りるな。何かあれば、お前を先に帰す」
エドは舌打ちを飲み込んだ。
「……分かりました」
〈兄さん、夜の土手が気になってたもんね〉
〈ああ。堂々と調べられる〉
その晩は、川沿いの張り込みだった。遺体が上がった土手の見える空き地に、車を停める。エンジンを切ると、虫の声だけが聞こえた。ヒューズはポットのコーヒーを紙のカップに注いで、エドに渡した。
「保安官って、暇なんですね」
「暇なのが、一番いいんだよ。軍にいた頃は、そんな暇は一日もなかった。戦場にいてな。毎晩、今夜が最後かと思ってた。生きて帰れたら、家に帰れる仕事がしたくて、保安官になった。同じ隊に、口の悪いのが一人いてな。偉そうで、人の話を聞かねえで先へ行く。それでいて、肝心なところでは必ず戻ってくる」
口の悪い、偉そうな奴。エドの頭に一人の顔が浮かんだが、口には出さなかった。
「お前の家族は」
不意に、ヒューズが聞いた。
「母親は、死にました」
「そうか」
「父親は、いません。……弟は、前に言ったとおりです」
「遠くにいる」
「ええ」
「会いたいか」
「その話は、いいです」
エドは紙のカップを、左手で包んだ。ヒューズは、それ以上は追ってこなかった。かわりに胸のポケットから、小さな写真を出した。眠っているエリシアの顔が写っていた。口の端に、よだれの跡がある。
「寝てる顔が、一番かわいいんだ」
「口、汚れてる」
「それがいいんだよ」
エドは写真を返した。返すとき、指先がほんの少しだけ名残惜しそうに離れた。ヒューズは写真をしまうと、フロントガラス越しに土手の下の排水管の口を指さした。
「あの下な。お前くらいの背丈なら、くぐれるな」
次の瞬間、車が揺れた。エドの左脚が、ダッシュボードを蹴っていた。
「誰が排水管をくぐれるサイズだ!」
〈兄さん、静かに。張り込み中〉
〈元はと言えば、こいつのせいだ〉
ヒューズは腹を抱えて笑っていた。涙を拭って、息を整える。
「悪かった。悪かったよ、エド」
「……今、エドって」
「技術屋さんじゃ、長いだろう。それにお前、今、敬語が飛んでたぞ」
エドは、はっとして口を押さえた。
「……好きにすれば」
エドは顔をそむけて、コーヒーに口をつけた。苦かった。
***
五日目の夕方、エドはヒューズの家にいた。張り込みに付き合った礼に夕食を、とグレイシアが言い出して、タッカーの許しをもらって呼ばれたのだ。支度を待つあいだ、エドは庭でエリシアの三輪車をひっくり返していた。チェーンが外れているだけだった。入れ直して、ペダルを回すと、かちりと音がして、車輪が回った。庭の端でしゃがんで見ていたエリシアが、小さく「ありがとう」と言った。三輪車で庭を一周して、戻ってきて、エドの上着の裾を握ったまま離さなかった。
「……おい。上着、伸びるだろ」
「やー」
「エリシア。お兄ちゃんが困ってるわよ」
台所の窓から、グレイシアが笑っていた。ヒューズは庭の柵にもたれて、何も言わずににやにやしていた。
***
六日目の朝、携帯が鳴ったのはまだ暗いうちだった。
研究所の客室で枕の下の携帯を掴んで開いたエドの耳に、ヒューズの声が飛び込んできた。番号は、三日目の夕食のあとで教えてあった。
『エド、起きてるか。出た。死体が上がった場所の、川下だ。泥の上に、足跡がある』
「足跡?」
『人のか犬のか、俺には分からねえ。見りゃ分かる。迎えを回す。研究所の前で待て』
エドは上着を掴んで階段を降りた。玄関脇の事務室に明かりが点いていて、タッカーが顔を出した。
「記録をつけていたら、朝になっていました。出かけるんですか。気をつけて」
「はい。先生、顕微鏡、借ります」
「持って行って、構いませんよ」
五分で、保安官事務所の車が研究所の前に着いた。運転席にいたのは、若い保安官補だった。現場までは、十分とかからなかった。
夜明けの光の中でヒューズが車の脇に立って、エドを待っていた。遺体が上がった土手から、川を二百メートルほど下った浅瀬だった。
「ここだ」
指さされた泥の上に、足跡が続いていた。人の素足のようでもあり、犬の肉球のようでもあった。前の足と後ろの足で、幅が合っていない。それが川の水際から上がって、森の際へ向かい、草むらの中で見えなくなっている。
「保安官補が、巡回の途中で見つけた。水が滴った跡が、まだ濡れてる。今朝のうちだ」
「遺体は、研究所の台の上だ」エドは足跡を睨んだ。「こいつは、別のやつの足跡だな」
「そうだ。だから、困ってる。死体がもう一つ出たのか、生きてるやつなのか、分からん」
ヒューズの声は、低かった。
エドは膝を折って、泥に顔を寄せた。
「ちょっと、泥を見る。あんたは森の際の農家に、夜に何か聞いてないか、聞いてきてくれ」
「分かった。無理はするなよ」
ヒューズが離れていくのを確かめて、エドは膝をついた。左手の手袋を外す。指先を、泥に押し当てる。
泥の組み立ての中に、別のものが重なっていた。ひどく薄く、けれど確かに温かいものが。生きているものが、さっきまでそこにいたような感触が、指先から手首のあたりまで這い上がってきた。
〈アル〉
〈なに?〉
〈人の気配が、混ざってる。遺体の手触りと同じ、灰色のやつと、その奥の人の〉
〈……ああ〉
エドの掌の下で、泥が微かに脈を打っていた。
「エド」
ヒューズの声が、遠くから聞こえた。エドは手袋をはめ直して、立ち上がった。
「どうだ」
「分からねえ。でも、遺体とは別のやつだ。今朝まで、生きてた」
ヒューズは、川下の暗い森の際を見た。何も言わなかった。