MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
「誰も、何も聞いてないとさ」
農家から戻ってきたヒューズが、手帳を閉じた。夜のあいだ、誰も外に出ていない。犬が一晩じゅう吠えていた、というだけだった。若い保安官補が森の際を一周してきたが、足跡は草の中で途切れて、その先は見つからなかった。
エドは研究所から借りてきた顕微鏡を車のボンネットに置いた。匙で泥を一すくいして、ガラス板に薄く伸ばし、水を一滴垂らす。接眼レンズに目を当てて、ピントの輪を回した。
茶色い土の粒に混じって、赤黒い粒が見えた。砂よりもずっと細かい。ガラスの欠片みたいに角張っていて、朝日を受けて鈍く光る。
〈アル。見えてるか〉
〈うん。赤いね。遺体にも、あった?〉
〈覚えがねえ。遺体は、灰色のほうに気を取られてた〉
エドは、ヒューズに背中を向けた。車体が、ちょうど間に入る。左の手袋を外して、ガラス板の上の泥に指先を乗せた。
粒の組み立てが流れ込んでくる。鉄がいくらか。炭素と、リン。残りは、名前の付けられない何か。自分の指輪の触媒や、会員たちの触媒に、これまで左手で触れたときの感じに似ていた。ただ、桁が違う。こんな小さな粒に、これだけの力が詰まっている。それから、もう一つ。ひどく薄い温かさが、粒の芯にあった。さっき泥から拾った、人の気配と同じ温かさだった。
〈触媒みたいだ。けど、桁が違う〉
〈できたてみたいに、新しいね〉
〈ああ。会員の触媒は、何年使っても減らねえ。こいつは使うたびに何かが削れて、粒になって落ちてるように見える。確かめたわけじゃねえ。ただ、足跡のそばにだけある〉
〈歩いてる人の体から、落ちてるってこと?〉
〈そう読むしかねえ〉
左の手袋をはめ直して、納屋の裏へ回り、折りたたみの携帯を開いた。入っている番号は、一件だけだった。
『はい』
「川下の泥に、赤黒い粒が混ざってる。触媒に似てるけど、桁が違う。できたてみたいに新しい。足跡のそばにだけ落ちてる」
『少し待て』
通話が切れた。これまでの報告は、返事が半日来ないことのほうが多かった。納屋の壁にもたれて待つうちに一分も経たないで携帯が震えた。
『報告は受けた。採取した分の扱いは、追って指示する。保安官には、砂鉄のようなものだと説明しておけ』
「あの粒は、何なんだ」
『現時点で、お前に伝える範囲にない。調査を続けろ』
また、通話が切れた。
〈兄さん。早かったね〉
〈ああ。上に聞きに行く暇は、なかったはずだ〉
〈じゃあ〉アルが息を詰めた。
〈粒の件を、前から知ってたってことだ。何で、俺には黙ってた〉
携帯を閉じて、納屋の角を曲がると、ヒューズが腕を組んで立っていた。
「電話か」
「上司に」
「財団の上司ってのは、朝の六時から働くのか。気の毒に」
「そっちこそ、朝の五時から迎えに来てるだろ」
ヒューズの目が、顕微鏡のガラス板に向いた。身をかがめて、長いこと覗き込む。
「赤い砂だな。これが、足跡と関係あるのか」
「砂鉄みたいなもんだ。足跡のそばにだけ、混ざってる」
嘘をつくのは、気分が悪かった。ヒューズは鼻で息をついて、粒を一つまみ、小さな証拠袋に入れて封をした。
「現場にあったもんは、何でも証拠だ。事務所の金庫に入れておく。お前を疑ってるわけじゃねえ。規則でな」
「財団が成分を調べたがってる。そのうち、担当が取りに来るはずだ」
「なら、受け取りの書類を持たせろ。それまでは金庫だ。番号を知ってるのは、俺と、あの保安官補だけだ。火事でも開かねえってのが売りの金庫でな」
ヒューズは袋を内ポケットにしまった。エドはその膨らみをもう少しだけ見ていた。
***
夕方、ヒューズがタッカーに断りを入れて、エドを夜の見回りに連れ出した。その夜は、二組に分かれた。ヒューズとエドの車が川沿いの道を、若い保安官補の車が川下の農家の並びを回る。月のない夜だった。
エドは暗い道を睨んだ。「足跡のやつが遺体と同じ作りなら、遺体は一人じゃねえってことだ」
「そうなる」ヒューズはハンドルを握り直した。
「そんなもんが、何匹もいるのか」
「分からねえ。ただ、足跡は一組しか見つかってねえ」エドは首を振った。
ヒューズは、無線機を何度も確かめていた。午前一時を回った頃、雑音の中から、声が出た。
『ヒューズ保安官。農家の納屋の前に何かいます』
保安官補の声が、掠れていた。
『人間のようで。こっちを見て。……ヒューズ保安官』
悲鳴が、無線の向こうで割れた。ヒューズがアクセルを踏み込んだ。
農家の前に着いたとき、保安官補の車のライトが、納屋の壁を白く照らしていた。その光の中に、それがいた。
人の形をしている、と言えるのは立っている部分だけだった。二本の脚で立とうとして、関節が逆に曲がり、ときどき前へ手をついて体を支える。腕は膝の下まで長く、指の先が爪のように伸びていた。顔は人と犬の間で、鼻先が前へ突き出ている。目だけが人の目で、焦点が合っていなかった。毛と素肌が斑に生えて、裂けた皮膚の下から赤い肉が覗いている。半分開いた口から、涎のかわりに赤黒い粒がぱらぱらと落ちている。
その腕が若い保安官補の襟を掴んで足が地面から浮くほど、吊り上げていた。
「放せ! そいつを放せ!」
ヒューズが拳銃を抜いた。銃声が三発。胴に当たった。それは、よろけもしなかった。吊り上げた保安官補を盾のように胸の前に掲げ直しただけだった。
「撃つな、保安官」
車を降りたエドが言った。
「あいつの手が、襟を握り込んでる。次に当たったら、あの人の首が持っていかれる」
「分かってる! 分かってるが、他に」
「あんたは正面で、ライトを使って気を引け。声を出し続けろ。あいつ、光のほうを向いてる」
「お前は」ヒューズが振り返った。
「裏から回る。いいから、やれ!」
ヒューズは歯を食いしばって、車の可動式のライトをそれの顔に向けた。それが、眩しそうに首を振る。ヒューズが、大声で叫び始めた。エドは納屋の影へ走った。
光の届かない、暗い土の上で膝をつく。両の掌を打ち合わせ、そのまま土に押しつけた。
青白い光が納屋の壁の陰で小さく爆ぜた。
それの足元の土が、水のように緩んだ。脚が、土に沈む。腰まで、一息で飲まれた。それは体を支えようとして、腕を振った。襟を掴んでいた指が、ほどけた。
「今だ!」エドは叫んだ。
ヒューズが飛び出して、落ちてきた保安官補を受け止めた。そのまま保安官補を抱えて、車の陰へ引きずっていく。ライトを背にした納屋の裏は、もう暗くて見えない。
それは、土の中から這い上がろうとした。土を掴んだ手が、土ごと崩れる。一本の脚が半ばから砕けて、赤黒い粒が舞った。
〈兄さん。あの人〉
〈ああ。元は、人だ。……口から落ちてる粒、朝の泥にあったのと同じだ。やっぱり、足跡のやつの体から落ちてたのか〉
エドは両の掌を合わせて、地面につけた。緩めた土を、今度は固める。地面が盛り上がって、柱になり檻のようにそれを囲んだ。
それは、檻に体当たりを始めた。一度ぶつかるたびに、粒がこぼれる。二度目に、腕が折れた。三度目に、肩が崩れた。檻の隙間から、赤黒い粒が雪のように降った。崩れた肩の割れ目から、灰色の薄い膜のようなものが、煙のように漏れていた。動いている最中のものには、手が出せない。エドは、檻をそれ以上は狭めなかった。何もしなくて、よかった。
〈……自分で、崩れてる〉アルの声が低くなった。
〈動くたびに、粒が落ちる。使うたびに何かが減るってのは、こういうことか〉
〈崩れたとこから、粒だけじゃなくて、灰色の薄いのも出てる〉
〈ああ。あの遺体の境目にあったのと、同じだ〉
〈兄さん〉
〈見てるだけだ。それ以上は、しねえ〉
やがて、檻の中の動きが止まった。最後に人の声がかすかに漏れた。何を言ったのかは、聞き取れなかった。
エドは両手を地面から離した。柱を土に戻して、ならす。残ったのは崩れた土の山と、その下の動かなくなった体だった。
「エド! 無事か!」
ヒューズが保安官補に肩を貸したまま、納屋の裏へ回ってきた。
「あの光は、何だ」
「納屋の配電盤が、飛んだ。こいつが踏んだ土は、古い排水が染みて緩んでた。沈んで、そのまま崩れた」
ヒューズは、エドの顔を見た。それから、崩れた土の山を見た。
「……そういうことに、しといてやる」
保安官補は襟のあとが赤く残っているだけで、怪我はなかった。ヒューズはシートをかけた体の端を少しだけ持ち上げた。人の腕と、犬の脚が見えて、すぐに下ろした。
「さっきまで、動いてたんだぞ」ヒューズは、シートから目を離さなかった。
「ああ」エドも、そこから目を離せなかった。
「死体は死んで数日だと、先生は言ってた。こいつも、そうだとしたら」
「研究所に運んで、診てもらおう」
「報告書には、何て書きゃいい」
「書けることだけ、書け」
ヒューズは長いこと黙っていた。やがて、地面に落ちた赤い粒を証拠袋に拾い始めた。一粒をつまんで、光にかざす。「あの砂鉄か」
「同じものだ」
「砂鉄が、人を動かすのか」
「分からねえ」エドは、粒から目を上げなかった。
エドの袖口が納屋の釘に引っ掛かって、破れていた。いつ引っ掛けたのかは、覚えていなかった。
夜明け前、保安官補の車で送られた先の研究所の裏で、エドは携帯を開いた。
「見回りで、足跡のやつに出くわした。人と犬が混ざった体で、動いてた。倒したら、同じ粒が落ちた」
『了解した。回収の者は、手配中だ』
「手配中って、いつ来る。まだ他にもいるかもしれねえんだぞ」
『調査を続けろ』
通話は、それで終わった。〈聞いてるのかな、ちゃんと〉とアルが言った。〈聞いてる。聞いてるだけだ〉と、エドは答えた。
***
七日目は、朝から雨だった。
夜明けに研究所へ運ばれた体は、検死室の台に載った。ヒューズとエドが立ち会って、タッカーが切片を取った。手袋の指が、手順どおりに動く。
「死後、三日は経っています」
タッカーが、言った。
「内臓の状態を見れば分かる。動けるはずがない。走って、人を掴んで持ち上げた? これが?」
「俺は見た」とヒューズが言った。
「疑ってはいません。ただ、説明がつかないんです」
タッカーは、顕微鏡から顔を上げなかった。
「足跡の幅は、測りましたか。前の足と後ろの足で、歩幅が合わないと言っていた」
「保安官補が測った。メモを渡す」ヒューズが手帳を開いた。
「お願いします」
タッカーは手を洗って、記録の用紙を引き寄せた。
タッカーは書類を一枚、台の脇に置いた。
「最初の遺体の指紋が、照会から戻りました。うちの研究協力者でした。三か月前に、自主退所した人です」
「協力者」エドは繰り返した。
「皮膚の移植試験に、被験者として協力してもらっていました。犬の皮膚片を移して、経過を見る。試験の間は、敷地の宿舎で暮らしてもらう。謝礼が出るので、身寄りのない人が多くてね。退所したあとのことは、追わない決まりで。私の管理が、甘かった」
ヒューズが、手帳を開いた。
「事務所の記録を引いた。同じ時期にそこを出た協力者は、あと四人いる。五人とも、足取りが分からねえ。死体が一人で昨夜のが二人目だとしたら、あと三人か」
「分からねえ」とエドは言った。「同じ五人の話だって、決まったわけでもねえ」
昼前、ヒューズが車の中で保安官補から聞いた話を伝えた。
「川の釣り人がおとといの夜明け前に変な奴を見たそうだ。灰色の長い上着の、若い男。水際に立って、ずっと水の中を覗き込んでたと」
エドの指が止まった。
〈リオールの〉
〈同じとは限らねえ。……けど、遺体が上がった場所だ。そこで何を覗いてたんだ〉
〈何かを、待ってたのかな〉
〈待ってたか、確かめてたか〉
町の外から来た青年が、犬と人を使って、何かをしている。研究所の協力者だった五人は、その青年に連れ出されたのかもしれない。エドは、そう考えることにした。
午後は、雨のせいで外に出られなかった。検査機の記録を整理していると、裏口の外から、ニーナの声がした。動物棟から、呼びに来たらしい。
「エドさん、お手伝い、してくれる? 動物棟のお姉さんが、風邪で休みなの」
廊下の突き当たりに、鉄の扉があった。階段の下へ続いているようだった。
階段の下から、冷たい空気が上がってきた。薬品と、獣のにおいがかすかに混ざっている。
「先生。この下は、見なくていいんですか」
後ろから来たタッカーに、エドは聞いた。
「ボイラーだけです。暖房の季節までは止めてあります。鍵は、昔から私が持っていて」
「分かりました」
「助かります。さあ、行きましょうか」タッカーが戸を開けた。
動物棟は、白いタイルの広い部屋だった。片側に、柵のついた犬の部屋が並んでいる。壁際の机に、血液検査の表が貼ってあった。エドは足を止めて、その表を見た。
「この犬だけ、拒絶の数字がほとんど出てませんね。どの犬の記録です?」
「ああ」
タッカーが、笑った。
「うちの犬です。対照に使っていましてね。妻の犬で、ニーナが生まれる前からうちにいるんですよ。ニーナの血を混ぜて調べても、この犬の数字だけはほとんど動かなくてね」
白い大きな犬がニーナの足元で尻尾を振った。
仕事は研究犬の採血と、移した皮膚の経過の記録だった。ニーナが声をかけると、犬は落ち着いて、台の上で座る。エドは犬が針を嫌がって腕を引くとき、前脚を押さえて、動かないように支える係をやらされた。押さえ方が悪いと、犬が首をかしげる。三度やり直して、ようやく針が入った。
「エドさん、犬の気持ちが分かってない」ニーナが口をとがらせた。
「……分かってたまるか、犬の気持ちなんて」エドは苦笑した。
「アレキサンダーは、分かってくれるのに」
作業の合間に、ニーナが聞いた。
「エリシアちゃんって、どんな子?」
「何でも、『やー』って言う」エドは答えた。
「やー!」
ニーナがそっくり同じ、舌足らずな声で言った。エドは、思わず吹き出した。
「似てるな」
「でしょ」ニーナは胸を張った。「お父さんが、真似が上手だって言うの」
〈ニーナちゃん、上手だね〉
アルがそう言った瞬間、アレキサンダーが、顔を上げた。
白い犬の目がエドの胸のあたりをまっすぐに見ていた。何かを探すように、耳が動いた。アレキサンダーはそのままエドのほうへ歩いてきて、足元に座った。
〈……今、お前の声に反応したぞ〉
〈犬には、聞こえるのかな〉
「この子は、人の気配に敏感でね」と、タッカーが言った。笑ったあと、少しだけ、声を落とした。「来週の月曜に、財団の審査があります。今期で成果が出なければ、助成は打ち切りです。この子たち、研究犬は他の施設へ引き取られる」
「先生は」
「私は、また別の仕事を探すだけです。……この子だけは、連れていきますよ」
ニーナが、アレキサンダーの首に腕を回した。エドは、何も言えなかった。
***
雨は降り続いていた。夕方、ヒューズはタッカーに断りを入れて、エドを家へ連れていった。
「今夜は、家で飯が食いてえんだ。あんなもんを見たあとは」
玄関の扉を開けた途端、エリシアが走ってきて、ヒューズの脚にしがみついた。ヒューズは娘を抱え上げて、何も言わないまま、しばらく動かなかった。
「あらあら、二人とも」
グレイシアが、タオルを持って出てきた。ヒューズの上着を受け取り、エドの頭にもタオルを被せる。
「エド君、袖。破れてるわよ」
エドは左手で、右の袖口を押さえた。
「大丈夫です。このままで」
「だめよ。糸がほつれて、どんどん広がるの。貸して」
「あ、いや」
エドは言い淀んだ。上着を脱げば、下の袖が出る。グレイシアは、少し間を置いた。
「着たままでいいわ。袖口を、持ち上げてくれる?」
エドは自分の左手で右の袖口を少しだけ持ち上げた。グレイシアは針箱を持ってきて、椅子に座った。針が、袖の縁をすくっていく。腕には指も針の先も触れない。手袋のことも袖の下のこともグレイシアは何も聞かなかった。
「はい、できた」
糸を歯で切って、ぽんと袖口を叩いた。
「ありがとうございます」
「いつでも持ってきなさい」
〈聞かないでいてくれたね〉
〈……ああ〉
食卓ではヒューズが豆のスープを飲みながら、エドの歩き方を見ていた。
「お前、雨の日は右の肩を庇ってないか」
「古傷だ」
「湿布が余ってる」ヒューズは、自分の肩を回して見せた。
「いらない」
「後で渡すわ」と、台所からグレイシアの声がした。「それと、日曜のピクニック。エド君も来るでしょう?」
「俺は、仕事が」
「仕事の合間でいいのよ。お弁当は、多めに作るから。川の上流の公園でね。ニーナちゃんとタッカー先生にも、声をかけてあるの」
エリシアが、エドの膝によじ登ろうとしていた。エドは腰を引いて、仕方なく手を貸した。膝に乗ったエリシアは満足そうにエドの上着の裾を掴んだ。
「やー」
「まだ何も言ってねえ」
「やー」
「去年はエリシアが、サンドイッチごと池に落ちかけた」とヒューズが言った。「落ちかけたのを、俺が抱え上げたんだ。写真が撮れなかった」
「だから、カメラを直してもらうんでしょう」グレイシアは笑って、皿を差し出した。
「そうだ。つまり、エドは俺の家族の写真の恩人になる」
「勝手に決めるな」
ヒューズはスープを飲み干して、居間の棚の古いカメラに目をやった。
「あのカメラは、軍にいた頃の同期がくれたんだ」
「同期」
「ライターを持ち歩いててな。火花で煙草に火を点ける芸を自慢するんだが、雨が降ると点かねえ。それで朝から機嫌が悪い。ロイっていうんだが」
スプーンが止まりそうになって、エドは慌てて口に運んだ。広場であの男に初めて会ったときの顔が、頭に浮かんだ。
「二年前に除隊してな。たまに葉書が来るが、字が汚いうえに天気の話しか書いてねえ」
「何て」
「『こっちは雨だ』。それだけだ。何なんだ、あれは」
食事のあと、ヒューズは居間の棚から、古いカメラを出してきた。シャッターが、半分しか下りないのだという。エドは小さなドライバーで底板を外して、シャッターの羽根の油を綿棒で拭い、軸に一滴だけ油を落とした。
「触ってみろ」エドはカメラをヒューズに渡した。
ヒューズがシャッターを切ると、小さな音がして、最後まで下りた。
「……下りた」
「油が固まってただけだ。ピクニックまでに、フィルムを買っとけ」
「お前、行く気じゃねえか」ヒューズがにやりとした。
「うるせえ」
〈兄さんも、行きたいんだね〉
〈黙れ〉
***
研究所に戻ったのは、夜の十時を回っていた。二階の客室の窓を、雨が細かく叩いている。
ベッドに腰を下ろして、エドは右の肩を左手で押さえた。雨の日は、継ぎ目が痛む。冷えて、湿って、鉄が縮む。
〈あの粒、何なんだろうな〉エドは呟いた。
〈気になる?〉
〈ならねえわけがねえだろ〉
賢者の石、という言葉が頭に浮かんでいた。アルが先に口にした。
〈賢者の石、みたいだね〉
〈あれは、本の中の話だ〉
〈うん。でも、電話の相手、粒のこと聞き返さなかったよ。何か知ってる声だった〉
もし、それに近いものがあるなら。その先を、何度考えたか分からない。アルの身体を取り戻す方法として。
〈兄さん〉
〈分かってる。まだ何も分かってねえ〉
〈うん。でも、声が早口になってるよ〉
エドは目を閉じた。夢を見た。四年前の夢だった。何度も見ていて、細部までいつも同じだった。
ピナコの家の、作業部屋の天井があった。ウィンリィが、洗面器を抱えて立っていた。ピナコがパイプを口にくわえたまま、エドの傷口を洗っていた。洗い方が、荒かった。エドは叫んだ。叫んでも、手は止まらなかった。
「泣きたきゃ泣きな。黙ってると、体に溜まる」
エドは歯を食いしばって、泣かなかった。泣くのはアルを取り戻してからにする、と決めていた。十歳の頭で、そう決めた。代わりに、ウィンリィが泣いた。洗面器を抱えたまま、ぼろぼろ泣いた。
「ごめんなさい。私、何もできなくて」
「お前が謝ることじゃねえ」
ウィンリィは洗面器を置いて、エドの手を両手で握った。手のひらが小さくて、熱かった。
「ちゃんとした腕を作ってあげる。ばあちゃんより、ずっと上手に」
あのとき、自分が何と答えたのか、覚えていない。
〈兄さん〉
アルの声で、目が覚めた。
〈ウィンリィのこと、考えてたでしょ〉
〈考えてねえ〉
〈うそ〉
〈……うるせえ〉
エドは寝返りを打った。右の肩が、まだ疼いていた。
***
八日目の朝は、雨が上がっていた。
動物棟の脇の芝生で、ニーナがしゃがみ込んでいた。エドが近づくと、握った手を背中に隠した。
「あのね、エドさん」
「何だ」
「あげる」
開いた掌の中に四つ葉のクローバーが一本、あった。
「見つけたの。お守り。エドさん、いつも怖い顔してるから」
「俺は、そういうのは」
「お守りが、いるんだよ」
エドは、受け取った。茎が細くて、柔らかかった。上着の内ポケットから、手帳を出して、頁の間に挟む。
「……潰れねえように、しまっとく」
「うん」
ニーナはにっと笑って、駆けていった。白い犬がその後ろを並んで走った。走りながら、一度だけ、エドのほうを振り返った。
ニーナの頬が走ったあとにしては赤すぎた。髪の先の赤いリボンが、ほどけかけている。追いかけてきたタッカーが、娘の額に手を当てて、眉を寄せた。
「少し、熱いな」
「走っただけだもん」
「審査の週は研究所の規定で熱のある者は三日、動物棟にも出さないことになっている。免疫を扱う場所だからね。今日は、部屋で休ませます」
「ごめんなさい、エドさん。お手伝い、お休み」
「いいから寝てろ」
ニーナは、父親に手を引かれていった。アレキサンダーが、一度だけ立ち止まって、エドの胸のあたりを見て、それから二人を追った。
エドは、手帳を閉じた。四つ葉は、薄くて軽かった。上着の内側で封筒の隣に収まった。