MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
九日目から十一日目まで、ニーナは部屋から出てこなかった。
エドは毎朝、職員住居の戸を叩いた。出てくるのは、目の下の隈が濃くなったタッカーだった。
「熱が下がらなくてね。嘱託の小児科の先生は、うつる熱かもしれないと言う。規定で熱のある間は動物棟にも出せないし、見舞いも断っているんです。悪いね」
「顔だけでも」エドは食い下がった。
「アレキサンダーが、ずっとそばにいます。心配は要らない」
戸は、閉じられた。向こうで、犬の爪が床を引っ掻く音がした。
結社からは手配中、のひと言が返るだけだった。粒の回収は来ない。依頼書の「一週間程度」は過ぎたが、延長の連絡もなかった。新しい足跡は出ない。夜の見回りは、ヒューズがタッカーに断りを入れた上で、紙のカップのコーヒーを二杯飲んで終わった。
「何も起きねえのは、いいことだ」
「起きる前かもしれない」
「縁起でもねえことを言うな。お前、それが口癖か」
あの納屋の夜から、ヒューズは運転しながら時々、バックミラーの写真に目をやるようになった。エドは、気づかないふりをした。
点検の合間に、エドは研究所の記録を読み返した。動物棟の台帳には、町の保護施設から預かった犬の名が並んでいる。三週間前は十二頭。今は四頭。残りは「他施設へ移送」としか書いていない。移送先の欄は空白で日付は四日に分かれていた。
***
日曜は、本当によく晴れた。
川の上流の公園は芝生が広くて、端に小さな池があった。タッカーは娘のそばを離れられないと、断りの言づけをよこしていた。ヒューズは車から毛布とバスケットを降ろして、日当たりに三分も文句をつけて、グレイシアに怒られた。エリシアは、池の縁に向かって一直線に走った。
「エリシア!」
ヒューズが飛んでいって、腰を後ろから抱え上げた。エリシアは足をばたつかせて、水面の鴨に叫んでいる。エドはカメラを構えた。ファインダーの中でヒューズが娘を高く持ち上げて、笑っている。シャッターを切った。小さな音がして、最後まで下りた。
「今、撮ったか」ヒューズが池の縁から、娘を抱えたまま戻ってきた。
「撮った」エドはカメラを下ろした。
「去年は、撮れなかった」
「去年と、同じことしてる」エドは呆れて言った。
「だから、いいんだよ」ヒューズは笑った。
「ニーナちゃんは?」
毛布の上で、エリシアが聞いた。
「お熱なの。治ったら、また遊びましょうね」とグレイシアが答えた。エドはサンドイッチを噛みながら、それを聞いていた。
昼のあと、グレイシアがエドの隣に腰を下ろした。
「エド君のお母さんは、どんな人だった?」
エドの手が、止まった。
「……忘れました」
「そう」とグレイシアは言った。
「小さい頃だったんで」
グレイシアは、それ以上は聞かなかった。エドの皿に、焦げていない部分のパイを一切れ載せた。エドは、黙って食べた。
池の畔で、ヒューズが平たい石を拾った。
「水切りだ。勝負するか」
「やらない」
「負けるのが怖いのか」
エドは平たい石を選んで左の手首で投げた。石は四回跳ねて、沈んだ。ヒューズの石は、六回跳ねた。三回やって、三回とも負けた。四回目に、七回跳ねた。ヒューズは、帽子を地面に叩きつけて悔しがった。エリシアが拍手をして、グレイシアが笑った。
それから、ヒューズが手帳の間から折りたたんだ紙を出して、エドの膝に広げた。
「保安官補が描いた。死体が上がった土手と、足跡の浅瀬と、納屋。それと、保安官補が森を歩いて見つけた、土を掘り返した跡が二か所。何も出なかったが、土は新しい」
地図の上に、印が五つ並んでいた。エドは、その真ん中を指でなぞった。川沿いの低い丘の上に、研究所の印がある。
「全部、二キロも離れてねえ」
「歩ける距離だ」ヒューズは、地図を睨んだまま言った。「それと、財団の担当がまだ粒を取りに来ねえ。書類は、いつでも用意してあるんだがな。お前のとこの上司は、妙に静かだ」
エドは、返事に困った。
「写真は、撮れる時に撮るもんだ。貸せ」
ヒューズは、エドの手からカメラを取り上げた。
「おい」
「俺だって、シャッターくらい押せる。ほら、あっちのベンチだ。エリシアと、グレイシアと、お前」
「俺は撮る側だ」
「いいから。光が逃げる」
エドは、ベンチの端に座らされた。エリシアが膝によじ登って、上着の裾を握った。
「笑えよ」ヒューズが、ファインダーを覗いたまま言った。
「笑ってる」エドは言い返した。
「顔が笑ってねえ」
「うるせえ」エドは、しかめた顔のまま言った。
シャッターが切れた。
〈兄さん、さっき笑ってたよ〉
〈嘘つけ〉
〈声がね〉
ニーナの空いた席を、エドは一度だけ見た。池の水が、夕方の色になりかけていた。
荷物をまとめる家族から少し離れた土手で、エドは頭の中の数を並べ直した。
〈兄さん。さっきから、地図ばっかり見てる〉
〈四つ、ある。ひとつ。遺体の拒絶の数字は、計器が振り切れてた。同居の年数が足りない組を無理に混ぜたら、拒絶で崩れる。四年を越えた組だけが、拒絶の数字が落ちる〉
〈主任さんの論文だね〉
〈ふたつ。協力者の五人も町の保護施設の犬も一緒に暮らした年数がねえ。全部、崩れる〉
〈それで、動物棟の犬が減ってたんだ〉
〈みっつ。今研究所にいる人と犬で、四年を越えるのは一組だけだ。拒絶の数字がほとんど出ねえ、別格の犬。生まれたときから、同じ家にいた娘と犬〉
アルは、すぐには声を出さなかった。
〈……ニーナちゃんと、アレキサンダー〉
〈よっつ。その娘が審査の前の週に熱を出して、見舞いを断られてる。そんで、地図の五つは全部あの丘から歩ける〉
エドは続けた。
〈それと、機械だ〉
〈検査機?〉
〈使用履歴に夜中の二時から四時に回した記録が、四日あった。記録簿には載ってねえ検体だ。台帳で犬が移送された日と、四回とも重なってる〉
〈誰かが、夜にこっそり調べてたんだ〉
〈機械の使い方が分かって、夜中に動ける奴だ。しかも地下の鉄の扉の鍵を持ってるのは、主任だけらしい〉
〈青年は? 兄さん、青年のせいだって〉
〈青年は外から来た奴だ。研究所の機械の使い方も、地下の鍵のことも、外の奴には分からねえ。内側に、手を貸してる奴がいる。……引っかかってたのは、そこだ〉
〈でも、兄さん。まだ何の証拠もないよ〉
〈ああ、ねえ。順番に当てはめたら、そうなっただけだ。昼のうちに踏み込んでも、鍵もねえ。証拠もねえ〉
〈間違ってたら〉
〈先生に頭を下げる。それでいい。……間違ってなかったら〉
エドは、言葉を切った。
〈今夜が、審査の前の夜だ〉
***
研究所に戻って、エドは眠らなかった。
夕方、もう一度だけ、職員住居の戸を叩いた。返事はなかった。戸の向こうで犬が低く鳴いて、爪の音が戸の前まで来て、止まった。エドはその気配のそばにしばらく立っていた。
〈アレキサンダー、兄さんのほうを見てるよ〉
〈見えねえだろ、戸だ〉
〈うん。でも、そんな気がする〉
エドは、戸から離れた。
午前二時、床の下から、微かな振動が上がってきた。壁が一度、鳴った。床板の隙間から、青白い光が、一筋噴き上がった。稲光に似ていた。雷の音は、なかった。
〈兄さん〉
〈ああ〉
エドは携帯を掴んで、ヒューズの番号を押した。
「研究所だ。今すぐ来てくれ。理由は、来たら話す」
『……分かった。十分だ』
上着を掴んで、廊下へ出た。鼻の奥に、鉄の棒をなめたような匂いが刺さった。突き当たりの鉄の扉が、細く開いている。隙間から、青白い光が床に細い線を引いていた。
扉の向こうから、声が上がってきた。
「……痛い。お父さん」
ニーナの声だった。
エドは、扉を押し開けた。階段が、地下へ続いている。降りていく足の裏に、石の冷たさが伝わった。踊り場で、足を止めた。声は、まだ続いている。待てなかった。けれど、一人で降りても止められるのか分からなかった。
背後で、足音がした。十分より、ずっと早かった。ヒューズだった。サイレンを切って、赤信号を二つ無視してきたのだという。研究所の夜警の老人が門を開けて、懐中電灯を持ってその後ろからついてきた。
「何があった」
「降りれば分かる。保安官、銃は抜いとけ」
ボイラー室では、なかった。
広い部屋だった。壁際に、鉄の檻が三つ並んでいる。中に人とも犬ともつかないものが、うずくまっていた。床の中央には赤黒い粉で引いた大きな陣があって、線の上に小さな粒が撒かれている。一粒ずつ、鈍く光っていた。
陣の真ん中に、タッカーが立っていた。その足元に、それがいた。
十歳にならない少女の体だった。茶色い髪を二つに分けて、赤いリボンが片方だけ、ほどけかけている。人の耳があるはずの場所に、白い犬の耳が立っている。首や頬にも、毛が斑に浮いていた。手の先は白い毛に覆われて、指は短く、爪が硬く曲がっている。足も、指の根元から毛が生えていた。腰から、白い尾が垂れている。立てずに、四つ足をつくように体を傾けて、床にうずくまっている。顔だけは、整っていた。整っているのが、かえって痛々しかった。
「エド、さん」
その口が、動いた。ニーナの声だった。
ヒューズが、息を呑む音がした。
「痛いの。お父さんがすぐ終わるって、言ったのに」
小さな体が、ぐらりと揺れた。少女の喉の奥で、犬の低い声が鳴った。
「アレキサンダーもここにいるの。わたしと、一緒に。……ねえ、これ、何? お父さん、何したの?」
ヒューズの銃口が、定まらなくなった。夜警の老人が、懐中電灯を落とした。
エドは、動けなかった。
〈兄さん〉
アルの声が、遠かった。
エドは、タッカーを見た。
「審査の前の夜に、やると思った。年数の足りない組は、全部崩れた。残ったのは生まれたときから一緒のこの二人だけだ」
タッカーは、動かなかった。
「あんたの論文が、言ってた。四年を越えた組は、拒絶が少ない。町の犬と協力者じゃ、足りなかった。それで、自分の娘と、妻の犬を」
タッカーが、エドのほうを向いた。眼鏡の奥の目から、人の良さが消えていた。疲れた目が、平らになっていた。
「勘のいいガキは嫌いだよ」
声も、平らだった。
「君が来なければ、あと一日、静かだった」
「タッカー!」
ヒューズが、拳銃を構えた。手が、震えていた。
「あの死体は、お前が作ったのか」
「作った、というのは正しくない。試したんだ」
タッカーは陣の外の檻を横目で見た。
「七年前の論文の先に、行きたかった。長く暮らした人と犬は、拒絶が少ない。妻は、臓器の提供を待つ間に死んだ。人と動物の壁を越えられれば、あれは助かった。なら、次は体ごとの一体化だ。装置では、どうしても越えられなかった。半年前に、青年が来た。この石と陣があれば、先へ進められると言って、置いていった。ただし、試作だと。繋いでも、長くは持たない。その間に、結果を出せと」
「青年」とエドは言った。
「灰色の、長い上着の。名前は、聞かなかった」
「協力者の五人は」エドは畳みかけた。
「全員が、崩れた。犬も。死んだと、思った。夜に、川と森へ運んだ。焼却炉は、記録が残る。最後の三体は保安官補が森を歩くようになって、運べなくなった。檻に入れた。動くなんて、思わなかった」
ヒューズが、低く言った。
「人を、捨てたのか」
タッカーの声が、初めて揺れた。
「動いたと聞いたときは、耳を疑った」
「審査は、今日の午後だ。人と犬の体が拒絶なく繋がって、数時間動いて、しゃべる一体を見せれば、財団は黙る。打ち切りにはならない。全部が、続けられる。この子たちなら、持つはずなんだ。生まれたときから、一緒なんだから」
「そんなもん、どうやって発表するんだ」エドはニーナから目を逸らして、声を押し殺した。「あの子を審査員に見せるのか。見せた途端に、あんたが捕まるぞ」
「発表など、しなくていい。財団が、予算を出し続ければ」
「持つかよ」
エドは、言った。
「前の五人は、全員崩れたんだろ。それを見て、まだ」
「ニーナは、持つ」
「ニーナは、あんたの娘だろうが!」
「だから、成功するんだ」
タッカーは陣の中で笑った。笑いながら、涙が落ちた。
「見てくれ。動いている。しゃべっている。成功しかけているんだ」
エドは、タッカーの胸ぐらを掴んでいた。左の手袋が、襟に食い込む。壁に叩きつけた背中が、鈍い音を立てた。耳の奥で、自分の脈がうるさく鳴っていた。
そのとき、階段の上で踵の音がした。
「とても、よく出来た推理ね」
黒い服の女が、階段の途中に立っていた。長い黒髪を、背中に流している。唇が赤かった。何の感情も、顔には浮かんでいなかった。
「誰だ」エドは階段を見上げた。
「通りがかりの者よ」
ヒューズが、女に銃口を向けた。女は、それを見もしなかった。三つの檻を、順に見た。
「だいぶ弱っているわね。少しだけ、足してあげましょうか」
女の指先から、赤黒い粒が三つの檻へ弾けるように飛んだ。
檻の鉄が内側から、歪んだ。
***
一体が、檻をひしゃげて飛び出した。人の頭を持った、檻の天井に届くほど大きな体だった。次の一体は犬の頭に人の腕。三体目は人と犬の境目が見分けられない塊で、毛と素肌が層のように混ざっていた。
「下がれ!」
ヒューズが叫んだ。夜警が悲鳴を上げて、壁際に座り込む。一体が、ヒューズに向かった。銃声が響く。腕が一振りされた。ヒューズの体が壁に叩きつけられて、そのままずるりと滑り落ちた。別の一体の腕が、壁際のタッカーを払った。タッカーは床を転がって、動かなくなった。
「保安官!」
エドは両手を打ち合わせて、床につけた。青白い光が爆ぜる。床が盛り上がって、石の殻になり、ヒューズと夜警をドーム状に包んだ。
三体が同時にエドを見た。人の頭の一体の口が、何かを探すように動いた。粒が、ぱらぱらと唇から落ちた。エドにはその口が何を言おうとしているのか、分かる気がした。見ないことにした。
〈兄さん、来る〉
〈ああ。壊さねえ。足場を崩して、動きを止める〉
突進してきた一体の足元の床が、斜めに滑った。巨体が横へ逸れて、壁にぶつかる。二体目の腕が、頭上を掠めた。エドは、左の手袋を外した。両手を合わせてから、素手の左の掌を逸れた一体の背中に当てる。
組み立てが流れ込んでくる。肉と骨の間を、人の肉と犬の肉が無理に縫い合わさった継ぎ目が貫いている。一本、二本、三本。人の気配が、継ぎ目の芯から立ちのぼった。その奥に、もっと古い感触があった。節くれだった、大きな手。誰かの背を撫でていた手の、重さと温度だった。犬を、飼っていた人だったのかもしれない。
〈継ぎ目を、一本ずつ解く。リオールのときと、同じだ〉
〈うん。一本目〉
一本を、外した。巨体が、ぐらりと揺れた。二本目。三本目。体が崩れて、粒になって、床に積もった。人の声が一瞬だけ、息のように漏れた。
階段の途中で黒い服の女が壁にもたれて見ていた。手を出す気配は、なかった。エドが体を動かすたびにその目がほんの少しだけ細くなる。品定めをされている、と思った。思っただけで、構っている余裕はなかった。
二体目が、横から来た。エドは床を蹴って、距離を取る。犬の頭が、石の殻の天井を叩いた。ドームに、ひびが入る。エドは両手を打ち合わせて、掌を床につけた。殻が、厚くなる。
その隙に、三体目が天井を這っていた。塊の一部が壁の配管を巻き込んでずるりと垂れ下がる。気づいたときには、頭の上に影があった。
エドは、右腕を掲げた。義肢の腕に、塊の重みが乗る。金属が軋んで、肩の付け根まで痺れが走った。膝が、床に沈む。左の脚も体重を支えきれずにぎちりと鳴った。
〈兄さん、腕が〉
〈大丈夫だ。まだ、動く〉
歯を食いしばって、右腕を捻った。塊の重みが横へ流れて、一瞬だけ腕が軽くなる。その隙に両手を打ち合わせて、床につけた。床が割れて、塊の下に穴が開いた。巨体は、そこへ体勢を崩して落ちた。落ちる途中で赤黒い粒を雨のように撒いた。粒が頬を打って、熱かった。
〈兄さん、保安官さんの息、ある〉
〈知ってる。聞こえてる〉
〈あと二体〉
〈分かってる。一体ずつだ〉
解くたびに体の芯が空っぽになっていく。胃の底から、空腹が突き上げた。二体目の腕を逸らして、触れて、継ぎ目を解いた。三体目は、境目の見えない塊だった。腕の数も脚の数も数えられない。その全部に、縫い目のような継ぎ目が網のように走っていた。
塊の腕の一本が、壁際の夜警に向かって伸びた。エドは両手を合わせて、足元の床をそちらへ滑らせた。ドームの縁が、せり上がる。腕は石の殻を叩いて、爪痕だけを残した。夜警の老人の悲鳴が殻の中でくぐもって聞こえた。
アルの声が、少し高くなった。
〈今のは、危なかった〉
〈分かってる。黙って、数えてろ〉
〈多いよ、兄さん〉
〈多いだけだ。一本ずつ〉
網の目を、端から外していった。外すたびに、塊が小さくなる。最後の一本を外したとき、それは膝の高さの小さな山になって崩れた。
階段の上の女の姿は、もう見えなかった。
エドはふらつきながら、陣の中央へ歩いた。
ニーナの体は、そこにあった。白い毛の生えた小さな体の輪郭が、端から灰色にほどけ始めている。少女の顔が、エドを見上げた。
「エドさん」
エドは、膝をついた。素手の左を、ニーナの胸に当てた。体の下、陣の中央に置かれた赤黒い石が、ひび割れて脈を乱しているのが、掌に伝わった。
〈分けられない。石を外せば、二つとも崩れる。……押さえ続ければ、もう少しだけ〉
触れた掌の下で、二つのものが押し合っていた。少女の気配と、犬の気配。灰色の薄い層が、体の端から漏れ出している。
〈年数の階段は、免疫の数字じゃなかった。長く一緒にいたぶん、魂が馴染んでただけだ。だから形が整ってる〉
〈魂……?〉
〈一つの体に、魂は一つだ。二つ入れたら、取り合って削れる。この灰色は、削れた分だ〉
あの扉の向こうで見た理屈と、同じだった。
陣の端から、手が這うように伸びた。意識を取り戻したタッカーだった。壁際から、膝で床を擦って、娘のところまで来た。
「ニーナ。お父さんだ。ここにいる」
「お父さん」
「痛くないか。……痛くないな。痛くないはずなんだ」
「ううん。エドさんがいるから、大丈夫」
タッカーの手が犬の背に触れて、離れた。触れたら壊れるものを、触っているような手だった。
エドは一度左手を離して、両の掌を合わせようとした。
母の手が、見えた。
白いシーツの上の、細い指だった。八歳の自分は、その手を握っていた。握っていたのに温度が一秒ごとに薄くなっていった。母は窓の外を見て、誰かの名前を呼んだ。自分の名前ではなかった。あのときも、あと少しだと思っていた。
〈兄さん〉
アルの声は、低かった。
〈止めてあげて。もう、痛いだけだよ〉
エドの手が、止まった。
押さえ続ければ、持たせられる。あと少し、あと少しと思う。離せないのは、エドの手のほうだった。
エドは、両手を下ろした。タッカーが何かを叫びかけて、声にならなかった。
「……お兄ちゃん」
ニーナが、言った。少し掠れた、ニーナ自身の声だった。
「痛いの、なくなった」
「そうか」エドは頷いた。
「アレキサンダーが、あったかいの」
「ああ」
「お父さんも、あったかい。……お父さん、泣かないで。わたし、おとなしくしてたよ」
タッカーが、床に額をつけた。肩が、小刻みに震えていた。
「ああ。ニーナは、いい子だ」とエドが言った。言ったあとでこれが自分の言うことではないと思った。それでも、他に言える人がいなかった。
エドは白い毛に覆われた小さな手に、自分の手を重ねた。少女の顔がそれを見て、笑った。
「お手」
エドは、何も言わなかった。言えなかった。
白い体が、灰色の粉になって崩れていった。赤黒い粒が光りながら、床の陣に吸われていく。光が消えて、地下室は暗くなった。
エドは、床に落ちた小さな赤いリボンを拾った。掌に載せると、軽かった。
〈兄さん〉
〈……何だ〉
〈僕がいるせいで、兄さん、削れてない?〉
エドは、リボンを握った。
〈削れてねえ。お前は、重くもねえ〉
言い切ってから、根拠が何もないことに気づいた。気づかないふりをした。
***
ヒューズが、頭を押さえて起き上がった。
「……どうなった」
石の殻はいつの間にか、ただの崩れた床の瓦礫になっていた。
「全部、止めた。あんたは壁に叩きつけられて、気を失ってた」
夜警の老人が何か言いかけて、ヒューズの顔を見て、口を閉じた。
エドは上着の内ポケットから、携帯と手帳を出して、床に置いた。それから上着を脱いで、崩れたものの上に掛けた。ヒューズは長いこと、その布を見ていた。それから、陣の隅に膝を抱えて座り込む、タッカーを見た。
「ショウ・タッカー。協力者五人の行方不明と、死体遺棄の容疑だ。立て」
タッカーは、立たなかった。唇が動いて、何かを呟いている。ヒューズは手錠をかけた。
「戻せたんだ」とタッカーが言った。「あと少しで」
「あんたが石を信じたからだ」エドは言った。
エドはリボンを握った手を床についた。
「審査の委員は、午後に来る。誰が説明するんだ」とタッカーが、ひとり言のように言った。
「あんたが、説明するんだ」ヒューズが言った。
タッカーは、答えなかった。何を言おうとしたのか、本人にも分からないらしい。
エドは階段の踊り場まで上がって、床の携帯を拾い、ヒューズに聞こえないように番号を押した。
『はい』
「研究所の地下だ。タッカーが、人と動物を石で一体にした。娘と犬が死んだ。失敗体は、全部止めた」
声が、自分のものとは思えなかった。
『既に、手配している。そのまま待機しろ。何にも触れるな』
通話が切れた。エドは、画面を見つめた。この町まで、列車で何時間もかかる。通話が切れてから、何分も経っていない。それなのに、もう、手配済みだという。
誰がいつから、手配していたのか。
エドはそれを考えるのをやめた。
連絡の者が来るまでヒューズはタッカーの肩を押さえたまま、一言も喋らなかった。夜警の老人が震える手で水を持ってきた。ヒューズは受け取った水をタッカーではなく、エドに差し出した。
「飲め。顔が、白い」
「俺はいい」
「いいから」
エドは、水を飲んだ。冷たかった。
「黒い服の女がいたな。あれは誰だ」
「知らねえ」エドは水のカップから目を上げなかった。
「そうか。……お前が来た理由が、ただの機械の点検じゃねえのは前から分かってた。聞かねえよ。聞いたら、お前は嘘をつくだろう。嘘をつくときの顔は、あんまり上手くねえ」
「うるせえ」エドは顔を背けた。
「ただな。お前の上の連中が、今夜のことをどう片づけるのか。俺はそれを、ちゃんと見る。俺の持ち場で、子どもが死んだんだ」
エドは、返事ができなかった。ヒューズの声は、低かった。怒っているのが分かった。
「……俺はあの子にお手をされたんだ」とエドは言った。「初めて会った日に」
ヒューズは、何も言わなかった。大きな手がエドの頭の上に一度だけ置かれた。すぐに、離れた。
エドは、床の手帳を拾った。頁の間に、四つ葉が挟まっている。薄くて、軽かった。潰れては、いなかった。
石があれば、とあの夜頭に浮かんだ。アルの身体を取り戻せるかもしれない、と。その石が、これだった。人を、石一つで動かす。魂を繋ぐ。そのために誰かの娘と、誰かの犬が使われた。取り戻すというのは、こういうことなのか。
〈兄さん〉
〈……今は、何も言うな〉
〈うん。ここにいるよ〉
石で繋ぐ道は、閉じた。
***
研究所の門から二つ向こうの通りの角で、黒い服の女は立ち止まった。
夜明け前の風が、髪を揺らした。
誰に言うでもなく、女は呟いた。
「あの指輪の等級で、あれだけの錬成ができるはずがない。……あの少年は、何を使っている」
それから、暗い通りを歩いていった。