MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
夜が明ける前に、研究所の前へ車が三台止まった。
エドは地下から上がって、玄関ホールの階段に腰を下ろしていた。手袋の中の指が、まだ細かく震えている。腹は空いているはずなのに、何も欲しくなかった。腹の底がねじれて、固まっていた。夜警の老人が掛けてくれた毛布は、肩に載っているだけで、少しも温かくない。ヒューズはタッカーの肩を押さえたまま、ホールの真ん中に立っていた。座れと言っても、聞かなかった。
扉が開いた。先に入ってきたのは、黒い上着の男と、金髪を後ろでまとめた女だった。男は右手に白い手袋をはめている。あとから、背広の男が四人、無言で続いた。
「財団の調査課の者だ。通報を受けて来た」
男が名乗った。ヒューズが、顔を上げた。
「……ロイ?」
男の足が、半歩だけ遅れた。
「ヒューズ」
「遅えぞ」
声に力がなかった。笑おうとはしなかった。タッカーの肩からも、手は離さなかった。
「財団にいたとは、聞いてなかった」
「葉書に書いた」
「『こっちは雨だ』しか来てねえよ」
「雨の日が多かったんでね」
女が一歩前に出て、ヒューズに敬礼しかけてやめた。
「お久しぶりです、ヒューズさん。大佐、先に状況を」
「まだ大佐か」
「癖です」
エドは毛布の下で、左の手袋を握った。広場で初めて会った時の、あの人を食った顔が大佐から消えている。ヒューズの前だと、口の悪さが少し緩むのだと、エドは気づいた。気づいたところで、今は何の足しにもならなかった。
「状況を聞こうか」と大佐が言った。
ヒューズが説明した。協力者五人の失踪、川と森への遺棄、地下の区画。人と犬が混ざったものが、三つ。それに、黒い服の女が一人。娘が一人。
「娘は、口をきいた」とヒューズは言った。「痛いと言って、父親に、何をしたのかと聞いた。起きたら、灰になってた」
大佐は、遮らなかった。
「ここから先は、財団の領分になる。タッカー氏の身柄はこちらで預かる」
「うちの留置場に入れる。死体遺棄は、保安官の仕事だ」
「ヒューズ」
「俺の持ち場だ」
「お前の町の人間を、これ以上、巻き込ませたくない。地下を見たのは、お前と、夜警の方と、この子だけでいい」
「じいさんには、俺から言い含める」
大佐が、エドを見ずに顎だけで示した。
「子どもが死んだんだぞ」
「知っている」
大佐の声は低かった。ヒューズは長いこと大佐を睨んでいた。それから、タッカーの肩から、手を離した。背広の男二人が、タッカーの両脇に立った。
タッカーは、抵抗しなかった。連れていかれる途中、階段の下で足を止めた。
「あの子の、リボンは」
エドは、掌を握った。赤いリボンが、中にあった。
「渡さねえ」
タッカーは、エドの顔を見た。何か言おうとして、結局、何も言わずに外へ出た。扉が閉まる音がした。
ホールに、ヒューズとエドだけが残った。夜警の老人は、外で煙草を吸っていた。ヒューズは壁際の椅子に腰を下ろして、膝に肘を載せた。
「あの子が、お前を呼んでたな。エドさん、って」
「ああ」
「俺は、あの子の名前を呼んだことが、一度もない。タッカー先生の娘、としか」
「あんたが気にすることじゃねえ」
「気にするさ」
ヒューズは顔を上げなかった。エドは、何も言い返せなかった。
大佐とリザは地下へ降りて、四十分ほどで戻ってきた。スーツの男たちが、陣の粉も、檻の鉄も、崩れた残骸も、木の箱に詰めて運び出していく。エドは階段の途中から、それを数えた。箱は九つあった。九つ目の箱が、一番軽そうだった。何が入っているのか、考えないようにした。
「ヒューズ。覚えているところまで、聞かせてくれ」
「壁にぶつかったところまでだ」ヒューズは頭の後ろを押さえた。「気がつくと、化け物は全部灰になってた。補強材が落ちてて、こいつが立ってた」
「補強材が落ちたと、彼は」
「そう言った」
ヒューズは、エドを見なかった。
「俺は、あの化け物が何で、どうやって止まったのかを、知らねえ。知らねえことが多すぎる。上は、これを俺の報告書に、何と書かせたいんだ」
「実験中の事故だ」
「あの子は、喋ったんだぞ」
「だから、書けない」
ヒューズの拳が、握られた。開かれた。
「……あの子の姿を、誰にも見せたくねえのは、俺も同じだ」
大佐は、頷いた。
「それと、ロイ」ヒューズが続けた。「事務所の金庫に、川の泥から出た粒が入ってる。砂鉄だと説明を受けてるが、お前んとこの担当が取りに来るはずだった。書類は、いつでも渡せる」
「後で、取りに行く」
大佐の返事は、普通だった。エドは、その返事が普通すぎると思った。六日前に追って指示すると返した奴らは、粒を取りに一度も来なかった。
大佐が玄関の外へ出る時、エドは階段から立ち上がった。
「待ってくれ。ニーナの、……灰が。残ってる分だけ、墓に入れてやりたい」
大佐は足を止めた。リザが、後ろで書類の束を抱え直した。
「回収の対象は、陣と石と、失敗体の残骸だ」
「あれは」
「私は、その箱に何が入っているかを、明日以降に確認する。今日は、見ていない」
大佐はそれだけ言って、振り返らなかった。リザがエドの横を通りすぎる時に、小声で言った。
「集めるなら、今のうちです。袋は、玄関の脇の台に置いてあります」
エドは、地下へ降りた。陣のあった場所の隅に、灰色の粉が薄く残っていた。掌ですくって、布袋に入れた。手が震えて、半分近くを床に落とした。拾い集めるのに、ずいぶんかかった。
外に出た時、大佐が車の脇で、一人で立っていた。
「全部を背負うな」
「あんたに言われたくねえ」
「そうだろうな」
それ以上は、言わなかった。エドは車の窓に映った自分の顔を見て、ひどい顔だと思った。それから、引っかかっていたことを口にした。
「どこから来た。この町は、列車で何時間もかかる」
「二つ先の街だ。別件でな」と大佐が答えた。
「俺が電話してから、一時間もしてねえのに着いてる」エドは続けた。「手配したのは、誰だ」
「上だ」
大佐は車のドアに手をかけたまま、一秒だけ、動かなかった。
車が出たあとも、リザだけが玄関の脇に残っていた。エドが灰の袋を上着の内側に押し込むのを、黙って見ていた。
「ヒューズさんは、あなたの嘘に気づいています」
「知ってる」
「それでも聞かないのは、あの人がそう決めたからです」
エドは返事をしなかった。リザはそれ以上言わず、書類の束を抱え直して、先に行った車を追うように歩いていった。
***
昼前に、エドはヒューズに連れられて保安官事務所へ行った。
若い保安官補が、机の前に座ったまま、ペンを握りしめていた。顔の色がなかった。夜のうちに無線で呼ばれて、地下の入口までしか行っていない。それでも、中から運び出される木の箱を、全部見ていた。
「今日は帰れ」とヒューズが言った。
「でも、報告書が」
「俺が書く。帰って、飯を食って、寝ろ。飯は、食えなくても座って食え」
保安官補は、何か言いたそうに口を動かして、結局、帽子を取って出ていった。扉が閉まると、事務所は急に広くなった。
ヒューズは奥の部屋へ入って、金庫の前にしゃがんだ。番号を回す手が、いつもより遅かった。扉が開くと、証拠袋が二つ並んでいた。一つは川の泥から出た粒、もう一つは納屋の夜に落ちたものだった。赤黒い粒が袋の底で、鈍く光っている。
「取りに来ねえな」とヒューズは言った。
「……ああ」
砂鉄だと言ったのは、エドだった。袋の中の粒が何なのか、本当は知っている。人の魂の削れ屑らしいと、地下で見当がついた。それでも、口には出せなかった。ヒューズは、袋の底を指でつついて、粒を揺らした。その指先を見ていられなくて、エドは目を逸らした。
「六日だぞ。書類は、いつでも渡せるって言ったのに」
ヒューズは金庫を閉めた。机に戻って、引き出しの底から使い古した手帳を出した。表の報告書とは別の、黒い表紙のものだった。ペンを取って、日付と時刻を書き始める。エドは、横から覗かなかった。
「お前の名前は、書かねえ」とヒューズは言った。
「書いていい。点検の技師が居合わせたのは、事実だ」
「技師が居た、とだけ書く。それ以上は、書けねえ。お前が何者かを、俺は知らねえからな」
ペン先が、紙を引っ掻く音がした。
「お前、いくつだ」
「十四」
「十四で、あんなもんを見るのか」
ヒューズはペンを置いた。眼鏡を外して、指で目頭を押さえた。
「うちの客間が空いてる。研究所の客室は、財団の連中が使うんだろう。今夜から、うちに泊まれ」
「いい。宿は」
「いいから、来い。グレイシアがもう、シーツを干してる」
エドは何か言い返そうとして、言葉が見つからなかった。ヒューズは眼鏡をかけ直して、手帳に目を落とした。
午後、エドは一人で研究所の敷地へ戻った。職員住居の戸の前に、見張りの背広の男が立っていた。リザの名前を出すと、鍵を開けてくれた。
台所の食器棚に、ニーナの背丈に合わせた低い棚があった。コップが二つ、並んでいる。犬の皿は、戸口の脇に置かれたままだった。水が半分、残っている。
奥の部屋の床に、すり切れたテニスボールが転がっていた。犬の歯形がついている。エドは拾って、掌に載せた。ボールは、思ったより軽かった。
食器棚の上には、亡き妻の写真があった。三人と一頭がいた頃のものだった。エドは写真の中の人たちを見て、すぐに目を逸らした。ボールだけを上着のポケットに入れて、戸を閉めた。
***
ニーナの埋葬は、二日後の朝に済んだ。
式はなかった。タッカーの妻が眠る町の墓地の、隣の区画に、小さな穴が掘ってあった。牧師が短い祈りを唱えて、動物棟の飼育係の女が帽子を握って後ろに立った。参列者は、それだけだった。グレイシアは、エリシアと家に残っていた。
ヒューズが帽子を取った。エドは、灰の袋と赤いリボンを入れた小さな木の箱を、自分の手で穴に下ろした。土を一つかみ落として、ポケットから出したテニスボールを、箱の脇に置いた。犬の歯形が、土に半分、隠れた。
飼育係の女が、小さな声で「ごめんね」と言った。誰に言ったのか、エドには分からなかった。ヒューズは何も言わなかった。穴が埋まるまで、盛り上がっていく土を、ずっと見ていた。
墓地の入口で、大佐とリザが帽子を取って立っていた。牧師が去ると、エドは墓の脇を離れて、そちらへ歩いた。
「来てたのか」
「ヒューズに呼ばれた。夕食まで、いるつもりだ」
大佐は、まだ土を見ているヒューズに目をやった。何か言いかけて、やめた。帽子をかぶり直した。ヒューズが振り返って、こちらに手を上げた。エドは、返さなかった。
リザが大佐の後ろで、小さく頷いた。
***
家に帰ると、エリシアが玄関の階段に座って待っていた。膝の上で、折りたたんだ紙を握っている。
「ニーナちゃんは?」
「天国に行ったのよ」と、後ろからグレイシアが言った。
「お熱、治ってない」
「そうね」
「アレキサンダーは?」
「一緒に行ったの」
エリシアは考え込んだ。それから、階段から降りて、エドの前に来た。
「エド、泣いてる」
「泣いてねえ」
「泣いてる」
エドは、手の甲で頬を擦った。濡れていた。いつからなのか、分からなかった。
エリシアは、握っていた紙を差し出した。皺だらけだった。
「ニーナちゃんにあげるやつ。お熱が治ったら、あげるやつ。……エドに、あげる」
広げると、クレヨンの絵だった。緑の芝生の上に、人が五人と、大きな白い犬が一頭並んでいる。一番大きな人は茶色い髪の男で、眼鏡が顔の半分ほどあった。その腕に、小さな子が抱えられている。端に、金色の頭の、ちっちゃいのがいた。ちっちゃいのの、すぐ隣に、茶色い髪を二つに結んだ子が立っている。
エドは、膝をついた。紙を持つ指に、力が入った。
「……大きく描きすぎだ、このおっさん」
「パパだもん」
「おっさんは、顔が眼鏡しかない」
「パパだもん」
エドは、声を出さずに笑って、それからうつむいた。肩が震えた。グレイシアが何も言わずにそばに膝をついて、エドの背中に手を置いた。袖口を直した時と同じで、右の腕には、触れなかった。
〈兄さん〉
〈……何も、言うな〉
〈うん〉
***
その夜、ヒューズは大佐を家に招いた。
夕食には、グレイシアが大佐とリザを、強引に引き止めた。リザは固辞して、結局、スープを一杯だけ受け取った。大佐は礼儀正しく、エリシアにスプーンを投げつけられた。
「ずっと、いるの?」
エリシアが、エドの上着を掴んで聞いた。
「いねえよ」
「いればいいのに」とヒューズが口を挟んだ。
「あなた」とグレイシアが言った。ヒューズは口を閉じた。エドは皿のパンをちぎって、小さく口に入れた。エリシアが自分のパンをちぎって、エドの皿に載せた。
「食べなくてもいいから、座ってなさい」とグレイシアが小声で言った。「座ってるだけで、いいのよ」
エドは、はい、と答えたつもりだったが、声にならなかった。
食後、ヒューズが大佐をポーチに連れ出して、グレイシアがビールを二本、盆に載せて出した。エドは二階の客間の窓を、少し開けて横になっていた。
「娘の写真、見るか」
「居間で、三十枚は見せられた」
「今朝撮ったのが、まだだ」
「……十分だけだぞ」
大佐はビールを一口飲んだ。ヒューズは財布から出した写真を一枚、膝に置いた。エリシアが、ケチャップを顔じゅうにつけて笑っている。
「お前、返事を書いたことがないな」と大佐が言った。
「葉書にか」ヒューズは瓶を揺らした。
「一度もない。電話ばかりだった」
「葉書が来ると、俺はかけたくなる。『こっちは雨だ』なんてのは、そういう合図だろ。……最初は、何なんだと思ったけどな」
大佐は、ビールの瓶を置いた。しばらく、何も言わなかった。
大佐は、庭の暗がりに目をやった。
「あの作戦のあとは、字が書けなくなった。何を書いても、嘘になる気がした。だから、天気にした」
「途中から、分かってたさ。だから、かけた」
「葉書を出すと、必ず娘の話が始まる」
「効くだろ」
大佐は少し笑って、すぐに笑うのをやめた。
「隊にいた頃から、家族の話ばかりだったな。あの頃は、グレイシアの写真だけだったが」
「一人増えた」
「生きて帰れたら、家に帰れる仕事をする、と言っていた」
「言ったな」
「それで、保安官か」
「似合うだろ」
「軍服よりは」
ヒューズは、鼻で笑った。瓶の口を、親指で拭った。
「ヒューズ。あの夜の件は、報告書に」
「嘘は書かねえ」ヒューズは言った。「上に出す紙には、事故と書く。だが、本当のことは、出さない場所に置いとく。手帳でも、何でもな。俺の持ち場で起きたことだ」
「止めはしない」
「お前の上は、何を隠してる」
「知らない方がいい日もある」
「金庫の粒は」
大佐は、答えなかった。ヒューズは、待った。ビールが温くなる頃に、大佐は言った。
「持ち出しの許可が、下りなかった。理由は、聞かされていない」
「お前の権限で取れねえのか」
「取れない。……俺にも、妙だとは思う」
「妙だな」
ヒューズは瓶を傾けて、飲み干した。
「それと、あの坊主だ。財団の技師だと、お前は言った」
「そうだ」
「嘘が下手なのは、お前の部下も、そうなんだな」
「そうだな」
大佐は、天井の端に目をやった。窓が開いている。二階の客間は、暗かった。
「声を落とせ」
「落としてるさ」
ヒューズは笑った。二階で、ベッドの軋む音が一度だけして、やんだ。
***
エドは眠れなかった。
窓の外から、ヒューズの笑い声が聞こえた。この三日で、初めて聞く声だった。ありがたいのか、痛いのか、エドには分からなかった。
ベッドの下の鞄から、手帳を出した。四つ葉は、頁の間で潰れずに、薄い色のまま残っていた。
手帳の裏の見返しに、灰色の円盤を挟んでいた。リオールの夜に、母の声がした印だ。今はただの冷えた金属の板で、何の声も返さない。三日前までは、いつか捨てるつもりで持っていた。今夜は、捨てられない理由を考えるのが面倒だった。
〈それ、まだ持ってるんだ〉
〈……ああ〉
〈声は、もう出ないのに〉
〈知ってる〉
エドは円盤を手帳に戻した。四つ葉と、円盤と、灰の袋の軽さが、頭の中で混ざった。握っていれば持たせられると、あの地下で思った。
〈兄さん、今日は食べてなかった〉
〈食った〉
〈パンを半分だけ。エリシアちゃんがくれたやつ〉
エドは、手帳を閉じた。
〈間に合ったはずなんだ〉
〈何を〉
〈九日目に。見舞いを断られた時に、もっと早く、あの親子を疑ってりゃ〉
アルは、すぐには答えなかった。
〈……あの時は、青年のことしか考えてなかったよ。兄さんも、僕も〉
〈日曜に推理がついてからも、証拠がねえって、夜まで待った。昼のうちにヒューズに話して、あの家の戸を破ってりゃ、あの子はまだ息をしてた。あの化け物も、檻の中だった〉
自分の声が、低くなっているのに気づいた。アルは、言葉を探しているようだった。
〈だったら、分かるだろ。動けたのは、俺だけだ〉
〈それは、違うよ〉
〈違わねえ〉
天井の暗がりを見ていると、八歳か九歳の頃の朝が、浮かんできた。
***
川の堰を、作っていた。
イズミの家の裏の沢だった。春の雪解けで水が増えて、近所の老人の小さな畑が浸かりそうになっていた。エドは九歳で、アルは八歳になったばかりだった。修行を始めて半年が経って、錬成が通じることに、少し浮かれていた。エドは両手を合わせて、堰の土を積み上げた。アルが何度か、止めろと言った。エドは聞かなかった。足元が滑り、膝が震えて、それでも、積んだ。あと少しで、畑が助かると思った。
腰の後ろを、強く蹴られた。
エドは泥の中に転がった。イズミが、上から見下ろしていた。手には、買い物の袋が下がっている。
「止まれ」
「あと少しだ!」
「止まれ。今すぐ」
「止まったら間に合わねえだろ!」
「間に合わなくても、止まるんだ」
イズミは、袋を置いた。
「止まれない奴は、一番守りたいものまで、壊す。お前の手は、止める時のために、あるんだ。止めてからなら、もう一度、やり直せる」
「畑がなくなる」
「畑は、また作れる」
イズミは、そう言って、沢の水位を見た。それから、エドの襟を掴んで、泥から引き上げた。
***
エドは目を閉じたまま、息を吐いた。
〈あの時、師匠に言い返したな。止まったら間に合わねえって〉
〈師匠、聞いてなかったよ。蹴ったけど〉
〈蹴られた〉
〈うん〉
エドは、少し笑った。すぐに、笑いが消えた。
〈昔の俺は、止まれなくて失敗した。今度は、動くのが遅くて失敗した。どっちも、師匠に蹴られる〉
〈兄さん〉
〈次は、迷わねえ〉
アルは、何も言わなかった。それが、同意なのか、言えないことがあるのか、エドには分からなかった。窓の外で、ポーチの戸が閉まる音がした。
***
翌朝、エドが階下に降りると、玄関の脇に大佐の車が停まっていた。大佐は車の横で、エリシアに靴の紐を引っ張られていた。
「出発だ」
「もう?」
「上から、戻れと言われた。粒の件は、引き続き報告する」
大佐はエドの顔をちらりと見て、すぐに目を外した。
「元気でいたまえ」
「あんたもな」
車が角を曲がるまで、ヒューズは玄関の柱にもたれて見送っていた。曲がったあと、ポケットから鍵を一本出して、エドの掌に載せた。
「うちの鍵だ」
「いらねえ」
「帰ってくる家がねえと、人間は走りすぎる。お前は走りすぎる」
エドは鍵を見た。鉄の、小さな鍵だった。握ると、掌に冷たかった。
「……借りるだけだ」
「何でもいい」
ヒューズは笑って、家の中へ入っていった。
***
その日の午後、保安官事務所の向かいの通りに、黒い服の女が立っていた。
事務所の窓に、明かりがあった。若い保安官補が一人、表の机で電話を取っていた。奥の部屋の扉は、閉まっている。
女は、それを見ていた。
「粒は、あの部屋ね」
誰に言うでもなかった。結社の車は、朝のうちに町を出ていた。袋はまだ、あの扉の向こうの金庫にある。女は通りの角で足を止めたまま、事務所の窓から目を離さなかった。
唇の端が、わずかに上がった。それから、通りを横切って、反対側の路地へ消えた。