MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
結社からの返事は、毎朝同じだった。待機。
エドは朝食の前に、裏庭で携帯の番号を押し、名前と居場所を告げる。向こうが「待機」と言って、切れる。それだけの通話が、四日続いた。依頼書にあった期限は、とうに過ぎている。帰れとも、残れとも言われなかった。
ヒューズは、変わらずに出勤していた。朝は娘の髪をいじってグレイシアに止められ、昼は巡回に出て、夕方に戻る。変わったのは、夜だった。居間の灯りが消えたあとも、台所の隅で黒い表紙の手帳を広げている。エドが水を飲みに降りると、手帳を閉じて笑い、何も言わなかった。
エドは、壊れた物を直して過ごした。居間のラジオ、玄関の蝶番、隣家のミシン。直しているうちに、気づけば手が止まって、右腕の継ぎ目を見ている。壊そうと思えば、鍵のかかった戸は壊せた。日曜の夕方から、同じことばかり考えていた。
水曜の朝、ヒューズが食卓でパンを割りながら言った。
「粒を、一つ送った」
エドの手が止まった。
「どこに」
「州立大の研究室だ。昔の戦友が助手をやってる。砂鉄だと言って頼んだが、元素のほかにも、組成を細かく見てくれと書いた。結果は、月曜に出る。送り状の写しは、手帳に挟んである」
「勝手なことを」
「金庫の中のもんは、俺の持ち場の証拠だ。財団が取りに来ねえなら、こっちで調べるしかねえだろう」
エドは、スプーンを持ったまま固まっていた。それから、ようやく声が出た。
「……何で、先に言わねえんだよ」
〈兄さん〉
「あれが何で出来てるか、……」
言いかけて、口を閉じた。ヒューズには、言えない。
グレイシアが台所から顔を出して、夫の名前を呼んだ。ヒューズは肩をすくめて、パンを口に押し込んだ。
エドは、背中が冷えるのを感じた。あれは魂の削れ屑らしい。顕微鏡と分析にかければ、何か人に近いものが出るかもしれない。そんなものが大学の記録に残れば、取り返しがつかなくなる。
「取り返せ。今すぐ電話して、送り返させろ」
「もう送った」
「砂鉄だって言ったのは、俺なんだぞ。大佐に、何て言えばいいんだよ」
そこまで言って、エドは自分の声が裏返っているのに気づいた。ヒューズが、パンを置いた。
「大佐には、俺から話す」ヒューズの声は、穏やかだった。「お前みたいなガキに、大人の尻拭いをさせるのは、気に食わねえからな」
ヒューズは、少し黙ってから続けた。
「お前の上が、何を隠してるのか。俺は、それを知る権利がある。あの子が死んだ町の保安官なんだ。お前に、押し付ける気はねえよ」
エドは、唇を噛んだ。言い返す言葉が、出てこなかった。
昼過ぎに、エドは町の薬局の裏手に回って、携帯で、大佐に直接つながる番号を押した。ヒューズ家の中では話せなかった。受話器の向こうで、聞き慣れた声が出た。
『何だ』
「大佐。ヒューズが、粒を外に出した。州立大の研究室だ。月曜に結果が出る」
沈黙が、長かった。
『……宛先は』
「大学としか聞いてねえ。戦友が助手をやってるとかで」
『そうか』
大佐の声は低く、平らだった。
『こちらで確認する。お前は何もするな』
「何もって」
『動くな。ヒューズの家で、おとなしくしていろ。人前では使うな。目立つな。いいな』
通話は、切れた。エドは携帯を握ったまま、通りを眺めた。確認する、と大佐は言った。それ以上は、何も言わなかった。
〈兄さん。大佐さん、怒ってたよね〉
〈ヒューズにか。俺にか。……分かんねえ〉
***
木曜の朝は、早起きして墓地へ寄った。ニーナの墓の土には、誰かが挿した小さな野の花が一本あった。エドは、花の向きを少しだけ直して、何も言わずに帰った。
その夜、客間の机に向かった。
古い置き時計の機構を、ヒューズの納戸から借りてきていた。歯車を一枚ずつ外して、ブラシで油を落とす。櫛の歯を一本ずつ切り出して、音の高さを揃える。ピンを円筒に植える間隔は、紙に鉛筆で描いた。錬成で作れば一分もかからない。作らなかった。
〈兄さん、そこ、一つずれてる〉
〈どこだ〉
〈右から三つ目〉
エドは、ピンを一本抜いて、打ち直した。
〈エリシアちゃん、喜ぶかな〉
〈知らねえ。ガキの好みなんか〉
〈でも、曲は決めてあるでしょう〉
エドは答えなかった。母が台所で歌っていた子守歌だった。題は知らない。歌詞の半分は忘れている。それでも、ピンの位置を決める時、手が勝手に覚えていた。八歳の夏の、シチューの匂いまで思い出して、手が止まった。
〈兄さん〉
〈……大丈夫だ〉
エドは、ピンを植え続けた。
***
金曜の午後、エドはヒューズの巡回に付き合った。
町の外れの農道を、保安官の車はのろのろと走った。ヒューズは窓を全部開けて、すれ違う農夫に片手を上げる。信号のない交差点では必ず一時停止して、誰もいない左右を二度ずつ確かめた。
「誰も来ねえぞ」
「来ねえ時に確かめる癖が、ついてんだ」
「面倒くせえ癖だな」
「命が助かる癖だ」
ヒューズは、フロントガラスの先を見たまま続けた。
「隊にいた頃な。一度だけ、見ないふりをしたことがある。あるべき場所に、あるはずのもんが、なかった。気づいてたのに、……言い出さなかった。言えば、面倒なことになると思ってな」
「それで」
「助かった奴が一人と、助からなかった奴が何人かいた。見ないふりは、後で一番高くつく。……って、いい年して言うのも、恥ずかしいがな」
ヒューズは、すぐに笑って、窓の外の牛を指さした。
「あの牛、うちの貯金より太ってる」
エドは笑わなかった。笑ったふりも、しなかった。右の袖口を、左手で握った。
エドは、車が次の交差点で一時停止するのを、黙って見ていた。
***
土曜は、エリシアの四歳の誕生日だった。
朝から、家じゅうが落ち着かなかった。ヒューズは帰ってくるたびに風船を一つずつ増やし、グレイシアが三つ目で取り上げた。エリシアは玄関の前で、家に誰かが来るのを待っていた。誰も来ないと分かると、エドの上着の裾を握って、居間で一番良い椅子に座らせた。
夕方、食卓には小さな丸いケーキが載った。蝋燭が四本。グレイシアが焼いたケーキは、端が少し焦げていた。ヒューズが「焦げは愛情だ」と言って、またグレイシアに怒られた。
グレイシアが歌い出して、ヒューズが調子っぱずれに重ねた。歌が終わると、エリシアは蝋燭を睨んだ。
「ふーって、する」
エリシアが、蝋燭を指さした。ヒューズが身を乗り出す。
「パパが、いっしょに」
グレイシアが首を振った。「だめ。エリシアが、ひとりで」
エリシアは、顔を真っ赤にして吹いた。三本消えて、一本残った。もう一度吹いた。ヒューズが拍手をして、グレイシアが目頭を押さえた。エドは、少し後ろから見ていた。
ケーキは、グレイシアが切り分けた。ナイフを持つ右手の向こうで、左手の薬指の細い金の指輪が、蝋燭の火を映して光った。エドの皿の一切れだけ、一回り大きかった。「育ち盛りだもの」と言われて、エドは何か言いかけたが、結局、真っ先にフォークを入れた。
切り終えた頃に、エドは階段を上がって、小さな箱を持って降りてきた。包み紙は新聞で、リボンは台所の紐だった。
「ほら」
「なあに」
「誕生日の」
エリシアは、新聞の包みを破った。中から、木の小さな箱が出てきた。蓋に、クレヨンで描いたような黄色い星が彫ってある。
「あけて」
エドは、蓋を持ち上げた。
小さな金属の音が、鳴った。
高く澄んだ、ゆっくりした音が、ひとつずつ並んでいく。母の子守歌だった。居間の灯りの下で、エリシアは目を丸くして、箱を覗き込んだ。それから、顔を上げた。
「エド、すごい」
「機械の音だ。時計を分解して、作った」
「すごい」
「他に言うことはねえのか」
「すごいの!」
エリシアは箱を胸に抱いて、椅子から飛び降りて、ヒューズの脚に突進した。ヒューズは娘を抱え上げて、音の鳴る箱に耳を寄せた。
「……いい曲だな」
「母さんの」とエドは言った。言ってから、口を閉じた。
グレイシアが、台所の入口で足を止めていた。エドは目を逸らした。
「作った人の、お母さんの曲」とグレイシアが、エリシアに言った。「大事に聞きましょうね」
「うん」
エリシアは、もう一度蓋を開けて、閉めて、開けた。三回目に、グレイシアが蓋を押さえた。曲は途中で切れて、エリシアはむくれた。それでも箱を手放さなかった。
ヒューズは、箱の蓋をそっと閉めて、娘の頭を撫でた。それから、エドの方を向いた。
「なあ、エド」
「何だ」
「うちの息子になるか」
エドは、フォークを取り落とした。
「ならねえ」
「冗談だ」
「冗談の顔じゃねえ」
「半分は、な」
グレイシアが「あなた」と言った。ヒューズは笑って、娘を抱えたまま電話の前へ行った。
「ロイにかけるぞ。娘の誕生日だって、言ってある」
受話器の向こうは、しばらく鳴った。出たのは、数十秒後だった。
「おう、ロイ。今、誕生会の最中だ。……来ねえのは分かってる。本部に戻されたんだろ、妙な時期に。……そうか。そっちは、どうだ」
ヒューズは頷いた。
「晴れてる、か。そりゃよかった。……雨になったら、また書け。電話してやる」
笑い声が、受話器に消えた。それから、エリシアが電話に飛びつき、「ありがとう」と叫んだ。ヒューズは娘を抱え直して、受話器を耳に当てさせた。向こうで、大佐が何か短く言った。エリシアは、満足そうに頷いた。
エドは、居間の隅で、その一部始終を見ていた。電話の向こうに向けるヒューズの顔は、これまで見たどの保安官の顔とも違っていた。
***
食後、ヒューズが皿を重ねるグレイシアに声をかけた。
「事務所に、ケーキを持っていく。夜勤の奴に、残りを渡してくる」
「彼は、甘いものが苦手でしょう」
「苦手でも、食うさ。誕生日だ」
グレイシアは笑って、紙箱にケーキを一切れ入れた。エドも上着を取った。
「俺も行く」
「そうか。箱は落とすなよ」
グレイシアが、玄関で夫の襟を直した。
「遅くならないでね」
「分かってる」
「エリシアの誕生日なんだから」
「分かってるって」
ヒューズは妻の額に唇を寄せた。エドは、見ないふりをして靴紐を結び直した。
エリシアが、玄関まで見送りに出てきた。両手で、木の箱を握っていた。
「パパ、あした、また鳴らす」
「ああ。何回でも鳴らせ」
「ばいばい」
「すぐ戻る」
夜の通りには、街灯が点々とついていた。風が冷たい。ヒューズの車のヘッドライトが、道の端の白い線を照らした。
「お前、財団の人間じゃねえな」
ハンドルを握ったまま、ヒューズが言った。冗談の口調だった。
「何の話だ」
「点検の技師が、地下で化け物を止めるか。保安官補は、夜警の爺さんの話を聞いて、お前を気味悪がってる」
「爺さんは、寝ぼけてたんだ」
「そうか」
ヒューズは、前を向いたまま笑った。
「聞かねえよ。ただな、お前が何者でも、お前は俺の家の飯を食ってる。それだけで、俺には十分なんだ」
エドは、ケーキの箱を膝に載せたまま、窓の外を見た。街灯が、後ろへ流れていく。
〈兄さん、今、返事しなくていいの?〉
〈何て言うんだよ〉
〈ありがとう、とか〉
〈言えるか〉
車は、保安官事務所の前で停まった。
***
事務所には明かりが点いていた。
若い保安官補が、机の向こうで立ち上がった。奥の留置場で、酔った男が一人、鼾をかいている。入口の長椅子に、雑貨屋の主人が座っていた。車上荒らしの被害を届けに来て、報告書を待っているのだという。
「ケーキだ。エリシアの誕生日の」
ヒューズが紙箱を渡した。保安官補は、困った顔で礼を言った。雑貨屋の主人が「おめでとう」と言った。エドは入口の脇の壁にもたれて、事務所を見回した。いつもの部屋だった。奥の扉の向こうに、金庫がある。
ヒューズが自分の机の電話を取った。
「グレイシアに、着いたと言っとく。エリシアが寝る前に、おやすみを……」
言葉が途切れた。受話器を耳に当てたまま、ヒューズが動かなくなった。
「どうした」
「鳴らねえ。何の音もしねえ」
ヒューズはフックを叩いた。もう一度、番号を押した。結果は同じだった。保安官補が事務所のほかの回線を試して、そちらは通じると言った。
「うちの家の線だけ、切れてる」
「携帯は」
「グレイシアは持ってねえ。固定の一本だけだ」
部屋の空気が変わった。ヒューズは受話器を置いて、コートを掴んだ。
そのとき、机の無線機が鳴った。
『郡本部より各車。ブレイク街道で乗用車の衝突事故。負傷者あり。近い車両は応答願います』
「自分が行きます」
保安官補が、上着を掴んで立ち上がった。
「行け。現場を押さえろ」ヒューズはマイクを取って、応答した。「こちら保安官事務所、保安官補が向かう。自宅方面の車を一台、回してくれ」
『最寄りの車両は事故対応中。交代の保安官補を回します。十分で着きます』
ヒューズはマイクを置いた。コートを握ったまま、動けなくなった。留置場の男は、酔うと暴れる前科持ちだった。鍵を預けられる者が、他にいない。
保安官補が、事務所を飛び出していった。エンジンの音が遠ざかる。
「十分、か」とヒューズが呟いた。
「俺が見てくる」
エドが言った。
「危ねえだろ。お前を一人で行かせられるか」
「あの朝の地下は、誰が止めた」エドは声を落とした。
ヒューズは、言葉に詰まった。車の中で、聞かないと言った。それでも、あの朝の地下を、知らないはずがなかった。
「裏の坂を走れば、七分で着く。車だと大通りを回る。何が来ても、何とかなる」
ヒューズは、エドの目を見た。奥歯を噛んで、それから、長く息を吐いた。
「……分かった。見て、確かめるだけでいい。何かあったら、逃げろ。無茶はするな。交代が着いたら、俺もすぐ行く」
「分かってる」
「グレイシアに、……俺がすぐ行くと」
エドは頷いて、扉を押し開けた。夜の通りへ飛び出す。
エドは走った。
***
エドが出ていって、三分も経たないうちに、扉の鈴が鳴った。
「あなた」
グレイシアが、入口に立っていた。コートの前を両手で握りしめて、肩で息をしている。髪が乱れていた。
「グレイシア?」
ヒューズが机を回って駆け寄った。
「どうした。エリシアは」
「寝かしつけて、置いてきたの。電話が通じなくて、怖くて。あなたが遅いから、心配で……誰かが、家の周りを歩いている音がして」
「エドが、お前たちの様子を見に行った。すれ違ったのか」
「そう、なの? 必死で走ってきたから」
グレイシアは、ヒューズの胸に顔を埋めた。ヒューズが背中に腕を回す。雑貨屋の主人が立ち上がりかけて、気まずそうに座り直した。
ヒューズの腕が、ふと緩んだ。
「エリシアを、一人にして来たのか」
「ええ。すぐ戻るつもりで」
「お前が、あの子を一人にして、夜道を走るか」
グレイシアの背中が、わずかに固くなった。
ヒューズは妻の肩を押して、一歩下がった。手が、ホルスターに触れた。グレイシアの手が、上着を掴んだまま離れない。右の手だった。薬指に、細い金の指輪がはまっていた。
ヒューズは、それを見た。見て、理解するまでに、一秒かかった。
「お前、誰だ」
拳銃が抜かれた。銃口が、妻の胸に向く。手が、震えている。
「あなた、私よ。グレイシアよ。どうして、そんなものを向けるの」
「やめろ。その声で」
「撃つの? 私を? エリシアのお母さんを?」
涙が、頬を伝って落ちた。毎朝、台所で見る顔だった。昨日の夜、娘の髪を結いながら笑った顔だった。
もし、間違っていたら。
その考えが、ヒューズの指を止めた。銃口が、ほんの少し下がった。
グレイシアの顔が、歪んだ。涙の跡を引いたまま、口の端が裂けるように吊り上がった。
「あは」
声が変わった。若い男の声だった。
「人間って、本当に面白いね。奥さんの顔だと、引き金が引けないんだ」
肘から先が、剣のように細く尖って、ヒューズの脇腹を貫いた。
雑貨屋の主人の悲鳴が、事務所に響いた。ヒューズの体が一度大きく震えて、膝が落ちた。
「動かないでね。動いたら、あんたたちも刺すよ」
グレイシアの顔をした何かが、笑いながら言った。雑貨屋の主人は、椅子に縫いつけられたように動けなかった。留置場の男だけが、鉄格子の奥で、目を見開いていた。
奥の部屋で、金属の裂ける音がした。偽物の左腕だけが、扉の奥へ伸びていた。金庫が、紙のように引き剥がされた。赤黒い粒の入った袋が、その腕に巻き取られていく。
偽物は、倒れたヒューズの襟を片手で掴んで、引き起こした。喉元に、刃になった指を当てて、扉の方を見た。誰かを待つように。
***
エドは、ヒューズの家の前で足を止めた。居間の窓に、灯りが一つ。呼び鈴を押す前に、外壁の接続箱を開けた。引き込み線が、箱の手前で、ぷつりと切られていた。刃物で切ったような、新しい切り口だった。
〈中の、二人は〉
エドは玄関へ走って、戸を拳で叩いた。
「グレイシアさん! エドです! 開けてください!」
戸はすぐに開いた。火かき棒を握ったグレイシアが、寝間着の上に上着を羽織って立っていた。
「エド君? どうしたの。ヒューズは?」
エドは、肩の力が抜けるのを感じた。
「エリシアは」
「寝てるわ。オルゴールを抱いて」
「電話線が、外で切られてます」
グレイシアは、廊下の壁の電話を取った。耳に当てて、顔色を変えた。
「通じない。どうして」
エドは、切り口を思い返した。切って、何になる。家に入ったわけでも、人を攫ったわけでもない。切っただけで、帰っている。
〈……何で、切ったんだ〉
〈兄さん〉アルの声が硬かった。〈今、事務所にヒューズさんと、お客さんしかいないよ〉
〈……電話が通じなきゃ、近くにいる俺が見に来る。それで、事務所から離れる〉
〈保安官補さんが出ていったのも〉
〈偶然じゃねえ〉
エドは、グレイシアの肩を掴んでいた。
「戸を閉めて、鍵をかけてください。窓も。俺かヒューズ以外は、誰が来ても開けないでください」
「あの人に、何かあったの?」
「何もなければ、いいんです。……すぐ、戻ります」
グレイシアは、火かき棒を握り直した。唇が震えていたが、頷いた。
「エリシアは、守るわ」
エドは、玄関を飛び出した。鍵の回る音が、背中で聞こえた。
走った。胸が焼けた。七分と言ったのに、道が長かった。
〈何もねえでくれ。何もねえでくれ〉
〈兄さん、錬成で、道を〉
〈分かってる!〉
エドは、足元の舗装に手を叩きつけた。アスファルトがせり上がって、坂を作った。そのまま、滑るように一気に下る。
***
事務所の扉を、エドは肩で押し開けた。
雑貨屋の主人が、壁際にへたり込んで、両手で口を押さえていた。床板の隙間を、血が広がっていた。
その奥に、グレイシアが立っていた。
家にいるはずの人が、なぜ。
グレイシアは、片手でヒューズの襟を掴んで引き起こし、もう片方の手を細い刃にして、その喉に当てていた。
「エド君」
涙の跡のある顔が、エドを見た。
「よかった。来てくれたのね。この人、おかしくなっちゃったの。私を撃とうとして、……助けて」
エドは、その腕を見た。肘から先が刃になった腕で人の襟を掴む女が、グレイシアのはずがなかった。本物は今、鍵をかけた家の中にいるはずだった。
偽物だと、分かっていた。向こうは、まだ芝居を続けている。エドが何をするか、見ているのだ。
エドの両手は、もう動いていた。
ただ、全力は出せなかった。刃はヒューズの喉にある。床ごと動かす大きな錬成は、石の棘が届くより先に、刃を引く時間を与えてしまう。窓の外には、通りがある。光も、音も、漏れる。壁際の雑貨屋の主人の目が、こちらを見ていた。大佐の声が、頭をよぎった。目立つな。人前では使うな。
エドは、合掌した手を、床に付けた。細く、静かに。偽物の足元の床板だけを輪にして、足首に絡める。ほとんど目に入らない程度の、小さな錬成だった。
板が、偽物の足首に巻きついた。
偽物は、それを見下ろした。
「へえ」
足首に、軽く力を入れた。板の輪は、乾いた音を立てて砕け散った。
「そんな小さいの、効かないよ」
声が変わった。若い男の声だった。
「使いなよ。見られたら困るんだろ? 目立つなって言われてるんだよね。お前の上の誰かが、親切に教えてくれたんだよ」
一秒。二秒。エドの手は、床に付いたままだった。全力で突き上げれば、石の棘がヒューズの体まで届くかもしれない。二人の目も、ある。
次は迷わない、と、つい先日誓ったばかりだった。
「そう。使わないんだ」
青年は、笑った。
刃になった指が、ヒューズの喉から離れて、腹を突き通した。ヒューズの口から、息が漏れた。投げ捨てられた体が、床を転がって、エドの足元で止まった。
エドは、自分が何を叫んだのか、分からなかった。
気づくと、両手を打ち合わせていた。そのまま、床に叩きつけた。
青白い光が、事務所いっぱいに爆ぜた。床板が割れて、下の基礎の石が、槍のように突き上がった。偽物の足を、膝を、腰を、石の棘が貫いて壁に縫いつける。
グレイシアの姿が崩れた。髪が黒く伸び、顔が若い男のものに変わっていく。灰色の長衣が、体の上に現れた。広場で見た、あの青年だった。
〈あいつだ!〉
〈知ってる!〉
青年は、石の棘に貫かれたまま、笑っていた。
「やっと使ったね、チビ。遅いんだよ。保安官が死にかけてからじゃ、意味がないじゃないか」
「黙れ」
エドは、棘を増やした。胸に、腕に、首に、石が食い込む。傷口から赤黒い粒が零れて、肉が塞がり、また裂けた。
「家の線を切れば、チビは家に走る。簡単だったよ」
青年は、自分の腕を引きちぎった。肩から先が床に落ちて、赤黒い粒になって崩れた。体が石の棘から抜ける。そのまま、窓へ跳んだ。
「安心しなよ。本物の奥さんは、家で無事だ。あんたがちゃんと、確かめたろ?」
ガラスが砕けた。
「州立大の分は、別の人が片付けるってさ。じゃあね、チビ」
笑い声が、夜に消えた。奥の部屋の金庫は空だった。赤黒い粒の袋は、ひとつ残らず消えていた。
エドは、息を荒らげたまま、足元を見下ろした。
ヒューズは、床に仰向けに寝ていた。
手が、脇腹を押さえている。指の間から、血が流れ続けていた。エドは膝をついて、その手の上に自分の左手を重ねた。温かかった。熱いくらいだった。
「ヒューズ! しっかりしろ!」
「大きな声、出すな」
ヒューズは、薄く目を開けた。
「お前の顔が……ひでえ」
「うるせえ。喋るな。医者を、呼ぶ。誰か、診療所に!」
雑貨屋の主人が、震える手で何度も受話器を取り落としながら、診療所の番号を回した。留置場の酔っ払いが、いつの間にか酔いの醒めた顔で、鉄格子を握っていた。
エドは、傷口を押さえた。押さえるしかなかった。錬成は、傷を治さない。壊れたものを繋ぐことは、できる。生きている体の中で、何が壊れたのかを組み直す方法を、エドは知らない。知らないと、あの夜、思い知ったはずだった。
ヒューズの視線が、天井を泳いだ。それから、エドの顔に戻った。
「見たぞ」
「何を」
「石が、動くのを。……お前だったんだな。あの地下も」
エドは、息を呑んだ。
唇が震えて、何も言えなかった。
「グレイシアは。エリシアは」
「無事だ。家にいる。鍵をかけて、待ってる」
エドは、そう言った。さっき、自分の目で確かめたことだった。ヒューズの顔から、強張りが一つ抜けた。
「そうか。……よかった」
「エリシア……グレイシア……ごめんな。早く帰るって、約束……したのにな」
「自分で言え。自分で、帰って言え」
「手帳がある。机の、一番下の引き出しだ。黒い表紙の。……あれを、ロイに」
「自分で渡せよ。ふざけんな」
「それと……ロイに、雨だと言え。……それで、分かる」
「雨? 何だよ、それ。おい」
「あいつは、……分かる」
声が、途切れた。
ヒューズの手が、エドの左手の下で、少しだけ強く握り返した。それから、力が抜けた。
エドは、その手を握ったまま、動かなかった。交代の保安官補が入口で立ちすくんでいた。町医者が駆け込んできた時も、動かなかった。医者が脈を取り、首を横に振った時も、エドの手は、血のついた掌を握っていた。
壁際の雑貨屋の主人が、壁にもたれて、エドを見ていた。唇が白かった。石の棘を、割れた窓を、腕を引きちぎる化け物を、全部見ていた。
エドは、それに気づいて、掌の血を見た。
〈兄さん〉
アルの声が、遠かった。
〈兄さん、聞こえてる?〉
エドは、答えなかった。
しばらくして、エドは立ち上がった。膝が、笑っていた。エドは血で濡れた手を上着で拭って、携帯を取り出した。発信履歴の一番上を押した。
『はい』
大佐の声だった。
「ヒューズが、死んだ」
向こうで、何かが倒れる音がした。それから、静かになった。
「……例の、灰色の長衣のやつが来た。グレイシアさんの顔で。粒を持っていった。俺は、……間に合わなかった」
エドは息を吸った。
「あいつは、州立大のことを知ってた。俺があんたに報告してから、三日で来た。……俺が話したせいで、ヒューズは」
『お前のせいではない』
大佐の声は短かった。それ以上は、続かなかった。
言うべきことが、もう一つあった。
「あいつが、最後に言った。雨だ、と言えば分かる、って」
長い沈黙が、あった。携帯の向こうで、息だけが聞こえた。
『……そうか』
大佐の声は、掠れていた。
『雨か』
通話が切れた。エドは携帯を閉じた。窓の外は晴れていて、星が見えた。
***
事務所の向かいの建物の屋根に、黒い服の女が腰を下ろしていた。
窓の灯りの中で、少年が、動かない男の手を握っていた。女は、それを見ていた。男の死には、何も思わなかった。少年の顔だけを見ていた。力を出した時と、出す前の顔の違いを見ていた。
後ろで、瓦の鳴る音がした。灰色の長衣の青年が、屋根の縁に腰を掛けた。腕は、元に戻っている。
「ちゃんと見せてやっただろ。最後は、使った」
「遅れてね」
「その方が、よく見えると思ってさ」
「ええ。よく見えたわ」
青年は鼻で笑った。女は少年の顔を見たまま、小さく笑った。
それから、二人は屋根の向こうへ消えた。