MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
葬儀の朝は、雲ひとつなく晴れていた。
エドは客間の姿見の前で、借り物の黒い上着の袖を引っ張っていた。隣家の息子が去年着ていたもので、肩は合っても、袖が手の甲まで落ちてくる。口を尖らせかけて、やめた。文句をつければ言い返してくる相手は、この家にはもういなかった。
「動かないで」
グレイシアが膝をついて、左の袖口に針を通した。詰め終えると、針山を差し出した。
「右は、自分でやる?」
「……はい」
エドは針山を受け取って、右の袖を不器用に折り返した。グレイシアは急かさずに待っていた。黒い服の胸元で、左の薬指の細い指輪が光っている。この数日、彼女はエドの前で一度も泣いていない。土曜の夜、鍵のかかった玄関の戸を内側から開けさせて、彼女に事実を告げたのはエドだった。口がきけたのは最初の一言だけで、あとは何も言えなかった。グレイシアは黙って聞いて、「エリシアが起きる前に、朝ごはんを作らないと」と言って台所へ入っていった。
「できました」
エドは頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ちゃんと食べた?」
「食いました」
「嘘ね」
グレイシアは針山を受け取って、立ち上がった。目の下に隈があった。それでも手は、少しも震えていなかった。針を持つ手が少しも震えないのを、エドは見ていられなかった。
この数日、エドは何も直していなかった。居間のラジオが調子を崩しても、台所の蛇口が水を滴らせても、手を出さなかった。出せなかった。工具の布袋は鞄に入ったままだった。右の手袋の中で、動かない指をただ眺めた。
***
墓地には、町じゅうの人間が来たのかと思うほど人が集まっていた。郡の保安官たちが制服で最前列に並び、保安官補は袖口で何度も目を拭っていた。その後ろに、雑貨屋の主人が立っている。エドと目が合いそうになって、主人は先に目を伏せた。
掘られた穴の脇に、棺が置かれていた。傍らに、写真が一枚、台に立てかけてある。ピクニックの日に、エドが撮ったものだった。ヒューズが娘を頭の上まで持ち上げて、口を大きく開けて笑っている。現像した写真を写真屋で受け取った時、エドはその場でしゃがみ込んで、しばらく立てなかった。撮ったのは自分なのに、あんな顔で笑う男が昨日までいたことを、写真に教えられた。
郡の保安官の一人が、畳んだ旗を持って立っていた。ヒューズが昔いた隊の旗だと、誰かが小声で言った。
牧師が祈りを唱えているあいだ、エリシアはグレイシアの腕の中で、黒いワンピースの胸に木のオルゴールを抱えていた。小さな声で、ずっと何か言っていた。
「パパ、ねんねしてる?」
「そうね」
「いつ、おきるの?」
グレイシアは、娘の髪に唇を押し当てた。答えなかった。エドは前を向いたまま、拳を握った。右の継ぎ目が軋んだ。
〈兄さん、泣いてもいいよ〉
〈……泣かねえよ〉
牧師が口を閉じると、保安官補が一歩前に出た。紙を握った手が、細かく揺れていた。
「保安官は、信号のない交差点でも、必ず一時停止する人でした。誰もいなくても、左右を二度確かめます。面倒な癖だと、自分は笑いました」
そこで、言葉が切れた。保安官補は紙を見て、顔を上げて、もう一度紙を見た。
「そうしたら、命が助かる癖だって、言われました。自分は、まだ、それを守っています。以上です」
下がる足がもつれた。隣の保安官が、その背を支えた。
エリシアが、グレイシアの手を引いた。
「これ、パパにあげる」
ポケットから出したのは、二つに折った画用紙だった。グレイシアが、エドに目を向けた。
「抱っこしてあげて。私は、あそこまで行けないの」
「俺が?」
「お願い」
エドは言い返す言葉を探したが、見つからなかった。エリシアを抱き上げた。思っていたより重くて、思っていたより温かかった。穴の縁に近づくと、エリシアは身を乗り出して、画用紙を棺の上に落とした。
画用紙は、半分開いた。クレヨンの絵だった。パパとママとエリシアとエドが、手をつないで並んでいる。上の空に、顔のついた大きな太陽があった。みんなの口が、大きく曲がって笑っていた。
エドは、エリシアを下ろした。肩に回された小さい腕が、離れるのが遅かった。
棺が降ろされた。土が落ち始めた。誰も、何も言わなかった。
***
墓地の入口に近い木の下に、ロイは立っていた。穴までは二十歩ある。それより近づく気にはなれなかった。
土の落ちる音が、風に乗って届いた。一握り、また一握り。昔の隊で、何度も聞いた音だった。そのたびに隣にいたのは、あの男だった。
写真は、ここからでも見えた。娘を持ち上げて笑っている。あの顔は、電話の向こうで、何度も聞いた。葉書を出すたびに、あいつは返事をよこさず、かけてきた。
穴の脇に、金髪の子供が立っていた。棒のように固い背中だった。あの子が電話で言った。ヒューズが、死んだ。雨だと言え、と。
「リザ」
「はい」
「あいつは、人の顔を見れば娘の話を始める男だった。聞かされるこっちの身にもなれと、何度言ったか分からん」
リザは、返事をしなかった。ロイは土の落ちる穴から、目を離さなかった。
「電話で自慢されても見えんと言ったら、翌週に写真が三十枚届いた。……全部、同じ顔の娘だった」
「存じています。私も、見せられました」
「そうか。お前もか」
土の音が続いた。ロイは、短く息を吐いた。
「私が上に行くのを、誰より楽しみにしていた男だ。その上を、私は自分で降りたんだがな。軍を出ると言った日も、あいつは止めなかった。理由も聞かなかった。判を押せなくなった私に、電話口で娘の自慢を始めた。三十分だ。……あれで、少し眠れた」
その男が、土の下に降りていく。
「今、頭の中で、人体錬成の理論を組み立てている自分がいる。手順も、必要な物も、書けと言われれば書き終える」
「大佐」
「やらん。やらんが、組み立てている。あの子供が、なぜあれに手を出したのか。今なら、分かる気がする」
穴の脇に立つ金髪の子供が、十歳で何を持っていかれたかを、ロイは書類で知っていた。それを知っていて、あの子を見ている。
雨の日は無能だ、と言われてきた。雨なら、使えなかったと言い訳ができた。あいつが死んだ夜は、星が出ていた。私は遠い本部で、報告書を読んでいた。
ロイは空を見上げた。雲はなかった。まぶしいほどの青だった。
「いかん、雨が降ってきたな」
そう言って、帽子を目深にかぶった。
リザが、不思議そうに空を見た。それから、半歩後ろから言った。
「大佐、雨なんて、降って――」
「いや、雨だよ」
リザの言葉に被せて、ロイは言った。帽子の影の下を、涙が頬を伝って落ちた。リザは、それ以上は言わなかった。半歩だけ前に出て、墓地の人々から大佐の顔が見えない位置に立った。
***
葬列が散ってから、グレイシアが、エドの横に立った。エリシアは近所の婦人に預けてある。
「エド君」
「はい」
「あなたのせいじゃないわ」
グレイシアは、墓のほうを見たまま言った。
「あの人、あなたが来てから、毎晩楽しそうだったの。……ありがとう」
「……はい」
エドは、返事をした。喉の奥で、言葉が引っかかった。あなたはあの場にいなかったから、と言いたくなって、飲み込んだ。言えば、あの夜何があったかを話すことになる。話せることは、何もなかった。
グレイシアは、ようやくエドの顔を見た。見てから、少し笑った。
「いまは、返事だけでいいわ」
そう言って、墓に背を向けて、エリシアを迎えに歩いていった。エドは、その背中が見えなくなるまで、立っていた。二つ向こうの区画に、ニーナの小さな墓が見えた。
***
墓地の門の脇で、大佐が待っていた。
雑貨屋の主人が、帽子を取って大佐に頭を下げ、エドにも会釈して通りすぎた。通りすぎる前に、足を止めて言った。
「あの人には、世話になった」
それだけ言って、主人は帽子を握り直し、背を向けた。エドは何も返せなかった。
「調書は読んだ」と大佐が言った。「店主は、暗くて見えなかった。留置場の男は、酔っていて覚えていない。交代で入った保安官補は、着いた時には終わっていた。そう書いてある」
「あんたが、そう書かせたのか」
「私は、誰にも会っていない。口裏も合っていないだろう。それでいい」
大佐は門柱に背を預けた。
「見たものを見たと言うなとは、頼んでいない。彼らが自分で、そう決めたんだ」
エドは、ヒューズの言葉を思い出した。見ないふりは、後で一番高くつく。帽子を握っていた主人の手が、白くなっていたのを思い出した。
「ヒューズの手帳は読んだ」と大佐が続けた。「日曜の夜に。報告の頁には、お前のことは点検の技師としか書いていなかった。書かないと決めたことは、最後まで書かなかった男だ」
「……」
「最後の頁だけ、書き方が違う。読んだ奴へ、と書いてある。私とお前のどちらにも読めと言うことだろう。読むのは、お前の好きな時でいい」
エドは返事をしなかった。手帳の話を続けられると、立っていられなくなりそうだった。
「大学の件も、ここで言っておく」
「結果は」
「出ていない。月曜に取りに行ったが、荷は日曜の午後に、財団の書類を持った男が受け取って行ったそうだ。助手は、書類を見せられて何も言えなかった」
大佐の声は、平らだった。
「私の部署から出した書類ではない」
エドは、大佐の顔を見た。外套の襟に隠れた顎の線が、固まっていた。
「あいつは、州立大のことを知ってた」エドは言った。「俺があんたに電話してから、三日だった。あんた、誰かに話したか」
「上に報告した。それだけだ」
「上って」
「それ以上は、私にも分からない」
エドは、自分の足元を睨んだ。目立つな、と大佐は電話で言った。あの灰色の長衣の野郎は、それを知っていた。お前の上の誰かが、親切に教えてくれたんだよ、と笑った。
喉の奥が、熱くなった。
「あんたが」
大佐が、エドを見た。
「あんたが、目立つなって言ったから」
言ってから、声が裏返っているのに気づいた。やめろ、と頭の中で自分が言った。言葉は止まらなかった。
「人前で使うなって。動くなって。あんたが言ったんだ。だから俺は」
「ああ。言った」
大佐は、即答した。
「ああ。言った。……お前の気が済むなら、それでいい」
エドは、振り上げかけた拳の置き場がなくて、ポケットに突っ込んだ。何も言えなかった。きびすを返して、走り出した。後ろから呼ぶ声はなかった。
リザが一歩出ようとして、大佐が片手で止めた。
「いい。追うな」
「ですが」
「あれはもう、私が言わなくても分かっている」
大佐は空を見上げた。リザが隣に並んだ。エドは、振り返らなかった。
***
走って、気づくと保安官事務所の前にいた。
割れた窓には、板が打ちつけてあった。扉に鍵はかかっていなかった。中には誰もいなかった。床の血の跡は拭われ、新しい板が一列だけ、色の違う筋になって敷かれている。エドが突き上げた石の棘の痕は、どこにもなかった。基礎ごと削って、埋め直したのだと分かった。誰の仕事かは、考えなくても分かった。
ヒューズの机の上に、紙箱が一つ残っていた。ケーキを入れていった箱だった。蓋の隙間から、クリームが乾いて固まっているのが見えた。保安官補は、食べなかったらしい。箱の脇に、鉛筆で走り書きの紙が一枚挟んであった。食べられませんでした、すみません。
エドは、それを読んで、箱に触れずに外へ出た。
***
夕方、エドは玄関のポーチで、暮れていく通りを見ていた。
足音がして、リザが門の前に立った。上着を脱いで、腕に掛けている。
「少し、いいですか」
「大佐に言われて来たのか」
「いいえ。私の判断です」
リザは門の内側には入らず、柵に手を載せた。
「大佐が軍を出た理由を、ご存じですか」
「……知らねえ」
リザは、通りの先に目をやったまま続けた。
「海外の作戦でした。場所と日付は、お話しできません。民間人が巻き込まれました。報告書には、命令の範囲と書かれています。大佐は、それを受け入れませんでした」
「……それで、辞めたのか」
「はい」
リザは少し間を置いた。
「判を押せなくなった日に、最初に電話をくれたのは、あの人でした」
リザは柵から手を離した。
「大佐は、あなたを責めていません。責めているのは、自分です。……それだけ、知っておいてください」
エドは、うまく息ができなかった。リザは敬礼のように背筋を伸ばして、一度だけ頷くと、車のほうへ戻っていった。
***
その夜、エドは客間の床に座り込んでいた。
窓は閉めてあった。台所の灯りは、とうに消えている。隣の部屋でエリシアが寝返りを打つ気配が、壁越しに伝わった。
〈兄さん、大佐さんに、あんな言い方〉
〈分かってる〉
〈ひどいよ〉
〈分かってるって言ってんだろ!〉
声に出していた。慌てて口を押さえた。壁の向こうで、気配が止まった。エドは息を殺して、待った。やがて寝息に戻った。
アルは、何も言い返さなかった。エドは、床の上で膝を抱えた。
〈あの時さ、手、床についてたんだ〉
〈うん〉
〈喉に刃が当たってて、棘が届くかも分かんなかった。それは本当だ。でも、頭の中でずっと鳴ってたのは、目立つなって、大佐の声で〉
エドは、自分の右腕を見た。継ぎ目の影が、灯りのない床に落ちていた。
〈ヒューズが死ぬより先に、怒られるのを考えてたんだ、俺は〉
〈家に走ったのは、間違ってなかったよ。線は、本当に切られてたんだ〉
〈それはいい。……そこじゃねえ〉
アルは、黙った。エドは額を膝に押しつけた。
〈あの人は、俺があの地下を止めたのを、疑ってた。それでも聞かなかった。待ってたんだ、俺が自分で言うのを。最後に石が動くのを見て、「お前だったんだな」って言った。責めなかった。責められた方が、まだ〉
声が詰まった。しばらく、どちらも何も言わなかった。
エドは、リオールの夜の車の座席を思い出していた。革が妙に柔らかかった。君の力は目立つ。頭に入れておきたまえ。大佐は前を向いたまま、そう言った。俺のせいかよ、と返したら、誰のせいでもない、と返ってきた。あの時は、小言だと思った。
〈大佐さん、あの時、使うなとは言ってないよ〉
〈……電話では言った〉
〈車では、目立つって言っただけだよ〉
〈同じだろ〉
〈違うと思う。……たぶん〉
エドは答えなかった。師匠の決まりの上に、大佐の言葉を、自分で足していた。足したのは、誰でもなかった。
〈使えたのに、使わなかった。大佐のせいにしたかったけど、手を止めたのは俺の手だ〉
〈……うん〉
〈あの野郎のしたことまで、取る気はねえ。でも、隠したぶんは、俺のだ〉
〈僕も、あの時、使えって言えなかった。一緒にだよ〉
〈お前は、……〉
エドは言いかけて、やめた。窓の外に月が出ていた。
エドは立ち上がって、工具の布袋を鞄から出した。階下へ降りて、居間のラジオの裏蓋を外した。電源を入れると、雑音の向こうで、知らない局が低く鳴った。蛇口のパッキンも替えた。手が、勝手に動いた。夜中に水の滴る音が止まったことに、グレイシアが気づくのは、朝になってからだった。
***
翌朝、玄関の呼び鈴が鳴った。
出たのはエドだった。リザが立っていた。喪服ではなく、財団の調査課の濃灰色の上着を着ている。手に、白い封筒を持っていた。
「本部から、今朝届きました。あなた宛てです」
「大佐は」
「車で待っています。奥様には、大佐が話します」
エドは、昨日のことを思い出して、目を逸らした。リザは、それには触れなかった。
「渡して構わない、と言われています。断ってもいい、とは言われていません」
「断れるのか、これ」
「断った前例を、私は知りません」
リザは封筒を渡して、先に歩いていった。エドは玄関の階段に座って、封を切った。白い便箋が一枚だけ入っていた。見覚えのある、角張った字だった。
『エドワード・エルリック君。
このたびのことは、報告で知った。君が居合わせた場所で、君が世話になった人が亡くなったと。力を落としているだろう。
本部では、君を保護の対象とすることに決めた。これまで十四の君を一人で現場に出し続けたのは、こちらの落ち度だ。君は顔を知られ、狙われた。町に残れば、君を泊めてくれた家族にも危険が及ぶ。
君の身元は、かつてイズミ氏が引き受けたと記録にある。今度は、本部が引き受けよう。席は用意してある。迎えの車を、金曜の朝に出す。持ち物は多くなくていい。
君が背負うことはない。
キング・ブラッドレイ』
読み終えて、エドは便箋を二度読んだ。
町に残れば、家族にも危険が及ぶ。そこの一文だけが、頭に残った。グレイシアの顔をした何かは、この家の線を切り、この家の中身を知っていた。次に狙われるのがこの家でないと、言い切れるのか。
〈兄さん、どうするの〉
〈……分かんねえ〉
指が、「イズミ氏が引き受けた」の文字をなぞっていた。
イズミが結社に届け出た日のことは、ほとんど覚えていない。覚えているのは、天井と、あの日の短いやりとりだけだった。病院にしか見えない建物の、白い天井。左脚と右腕のつけ根が熱くて、アルの声が内側でひっきりなしに謝っていた。
***
十歳のエドは、診察台のような寝台に腰かけていた。
向かいの机に、背広の男が座っていた。書類の束が置かれ、一枚の紙に、空欄がいくつもあった。イズミは黒い外套のまま、立っていた。墓地と役所を回ってきた後で、靴が泥で重かった。
「身元引受人の欄に、署名を」
「ここでいいのかい」
「はい。会の規則で、引き受けた方は、お子さんの今後の錬成について、届け出の責任を負います」
「分かってる」
イズミはペンを取った。紙の上で、字を書くまでに、少し間があった。
「師匠」
エドは、呼んだ。声がかすれていた。
「俺たち、捕まるの?」
「捕まるんじゃない」
イズミは、署名の手を止めずに言った。
「見られるんだ。この紙に載ったら、あんたはずっと、見られる子になる。その代わり、生きていていい」
ペン先が、最後の一画を引いた。
「覚えときな。この会で錬成する時は、人に見られないようにする。それが決まりだ。見られたら、あんたじゃなくて、私が呼ばれる。……わざと見せたら、あんたが捕まる」
「そんなの、不公平だ」
「不公平だよ」
イズミは書類を机に置いた。エドの顔は、見なかった。
「……不公平でも、守りな」
エドは、頷いた。意味は、半分も分からなかった。
***
エドは、階段の上で目を開けた。
便箋を持つ手に、力が入っていた。紙の端が曲がっていた。
エドは、便箋の「引き受けた」を睨んだまま言った。
〈師匠が名前を書いた紙のこと、この人は知ってるんだ〉
〈……そうだね〉
見られないようにする。それが決まり。あの日から、体に染みついていた。大佐に言われる前から、エドの手は、そう動くようになっていた。
エドは、便箋を折りたたんだ。
〈出ていくの?〉
〈……金曜まで、時間はある〉
答えになっていなかった。アルは、それ以上は聞かなかった。
エドは便箋をポケットに押し込んで、通りの角に停まっている車まで歩いた。運転席で、大佐が書類を読んでいた。窓を叩く。ガラスが三分の一ほど下りた。
「あの、……昨日は」
「聞こえん」
「だから、昨日は!」
声が裏返った。大佐は書類を膝に置いて、窓を全部下ろした。エドは両手をポケットに突っ込んで、足元の砂利を見た。
「昨日は、あんたのせいにした。……悪かった」
「それは、私が聞く話ではないな」
「聞けよ。言われたからだけじゃ、ねえんだ」
「……聞いた。受け取っておく」
大佐の口の端が、ほんの少し動いた。エドは、ポケットから便箋を引っ張り出して、窓の中に突き出した。大佐は受け取って、一読した。署名の上で、目が止まった。
「総裁が、直接か」
「また総裁かよ」
「……ああ」
大佐は便箋を返した。すぐには、何も言わなかった。
「私の権限の外だ。断るなら、お前が総裁に言え」
「あんたは、行けとも行くなとも言わねえのか」
「言わない。昨日、それで失敗した」
大佐は書類を取り上げた。
「お前が決めろ。決めたら、聞かせろ。私は、それから動く」
大佐は上着の内側から、折りたたんだ紙を出した。
「手帳の最後の頁の写しだ。原本は、私が預かる」
エドは、受け取った。読まずに、ポケットに入れた。
エドは、車から離れた。歩きながら、便箋の折り目を指でなぞっていた。決めろ、と言われるのは、思っていたより怖かった。
***
木曜の夜、エドは鞄を出した。決めたわけではなかった。ただ、次に切られるのがこの家の戸の鍵でないと、言い切れなかった。
荷物は少なかった。着替えと、工具の布袋と、自分の手帳。手帳には四つ葉が挟まっていて、見返しには冷えた金属の円盤がある。それから、折り目のついたクレヨンの絵が一枚。リボンは墓に入れた。棺に入れたのは、エリシアが新しく描いた方だった。この絵は、エドが持っている。
鞄の底に手帳を押し込もうとして、手が止まった。ポケットに、鉄の小さな鍵と、折りたたんだ紙が入っていた。
借りるだけだ、と言った。借りたものは、返さなければいけない。返しに来る日がいつなのか、エドには分からなかった。
エドは、紙を広げた。見覚えのある、癖のある字だった。日付は、誕生日の前の金曜になっていた。
『これを読んでる奴へ。
見ないふりは、後で一番高くつく。
力のある奴は、使っても使わなくても、責任がついて回る。背負いたくない奴の気持ちも、分かる。だが、逃げた分の勘定は、他人に回るぞ。
選べ。流されずに、自分でな。』
エドは、紙を握りしめた。声は出なかった。肩だけが、一度大きく動いた。
鞄の口を閉めようとして、閉められなかった。金曜の朝までは、まだ一日ある。そのあいだに、何かが変わるとも思えなかった。それでも、荷物を詰める手元は、見ないようにした。
壁の向こうで、小さな声がした。エリシアだった。
「パパは?」
「……パパは、ね」
グレイシアの声は、低くて、柔らかかった。エリシアは、もう一度聞いた。そのうち、ひっく、としゃくりあげる音がして、泣き声に変わった。
エドは、鞄の口を押さえたまま、動けなかった。
***
夜更けの、古い建物の一室だった。
黒い服の女が、窓辺に立っていた。部屋の奥は暗く、灯りが届かない。その暗がりから、声がした。
『見たか』
男とも女とも、年寄りとも若者とも、女には言えなかった。言えないことに、疑問を持ったことはなかった。
「見たわ。使ったわ。保安官が死にかけてから」
『遅れたのか』
「ええ。一度は手を止めた。人目と、決まりを気にして」
暗がりの奥で、何かが小さく鳴った。笑ったのかもしれない。
『使う前の顔は、どうだった』
「迷っていたわ。今朝、車の前でも見た。葬式の日とは、違う顔だった」
『何が』
「何かを、自分で決めた顔。何を決めたのかは、分からない」
間が、あった。
『それでいい』と声は言った。『次の段階に進める』
女は、窓の外の通りを見た。寝静まった家々の向こうに、保安官の家の屋根が、小さく見えた。灯りがひとつ、点いている。
『こちらも見ておく。そちらは引き続き頼む』
声は、それきり何も言わなかった。暗がりにあった気配も、もうなかった。
女は、窓の外に目を戻した。