あなたの友達のことを書いてください。あとでお話を聞くことがあります 作:うちっち
通された部屋には低い卓と座椅子があり、窓際に電気ポットが置かれていた。老人は二つの湯呑みに茶を注ぎ、一つを僕の前へ置いた。
「見た子のことを、もう一度聞かせてくれるか」
僕は学校で見た女の子について話した。服装と髪留め、返事をしなかったこと。名取川さんが写真を撮ろうとしたら驚いて、四年一組の戸の向こうへ消えたこと。
老人は途中で口を挟まなかった。僕が話し終わってからも少し待ち、それから部屋の隅の棚を開けた。箱や封筒の重なった奥から、布張りのアルバムを取り出して開く。
写真の中で、庭に子どもが二人立っていた。少年は半ズボンに白いシャツ。隣の女の子は、少年より少し背が高かった。
女の子のおかっぱの髪には、小さな髪留め。
「この子です」
老人は写真を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。
「私と同級生だった」
隣にいる少年へ指が移った。日を避けるように少し目を細め、両手を身体の脇へ揃えて立っている。
「これは、いつの写真ですか?」
「昭和三十年。私が四年生のときだ」
写真の下にも、薄いインクで同じ年が書かれていた。杉浦が調べていた時期より、ずっと前だった。
「向かいの、桑野さんの家の子なんですね」
「ああ。身体が弱くて、学校を休むことが多くてな」
屋敷の縁側には、鳥かごが吊ってあったという。
よく女の子はそこへ椅子を持っていき、鳥かごと向かい合って座っていた。当時は少年だった彼が庭へ入っても気づかず、籠の前で指を動かしていることがあったそうだ。
「木の枠を、爪で軽く叩くんだ。そうすると鳥が寄ってくる」
老人の人差し指が、卓の上で少し曲がった。
「遠い方にいても、止まり木を伝って、こっちまで来る」
「懐いてたんですね」
「そうだろうな。私にもやれと言うんで、やったことがある」
「どうでした?」
「一度でやめた。あんな小さい鳥でも、噛まれると痛いんだよ。血が出て、二度とやるもんかと思った」
そう言いつつ、老人の口元は何かを思い出すように少し緩んでいた。
当時少年だった彼は縁側に腰掛け、学校の話をした。女の子は、授業よりも休み時間の話を聞きたがった。誰かが転んだとか、誰と誰が喧嘩をしたとか。
「学校へ来たら、友達がたくさんできるよ。そう、私が言ったんだ。身体がよくなったら、一緒に遊ぼうって」
屋敷の縁側からは、道路を挟んだ学校が見えた。
女の子にどの教室なのか尋ねられ、少年は窓を数えて教えた。四年一組。自分の席は教室の後ろの窓際。ひょっとしたら見えることがあるかもしれない。
「次に行ったときには、あの子の方から、掃除の時間に窓から雑巾を落とした子がいたとか、誰かがずっと外を見ていたとか、そんな話をした。ずっと見ていたんだろうな」
老人はアルバムへ目を落とした。
「あの子はまだ、あそこへ行っているのか……。私が何度会いに行っても、いないのにな」
――学校に来れば、友達がたくさんできるよ。
四冊の作文の題を思い出した。「あなたの友達について書いてください」。
あの子は今も、友達を作りに来ているのだろうか。何十年も経って、それだけを覚えているのだろうか。
ただ問題は、その友達が……次々と死んでいる、ということだ。
「この子は、どうして亡くなったんですか」
「一家心中で、父親に包丁で刺し殺された。母親も一緒に。父親は、そのあと納屋で首を吊っていたそうだ」
桑野家は、昔から周囲に田畑を持っていた。自分たちで耕すより、人に貸して小作料を受け取る方が大きかったという。
農地改革で、その田畑の多くが家のものではなくなった。収入が減り、父親は残った土地を担保にして木材を扱う商売を始めた。ところが取引先が倒れ、売った代金が入らなくなった。
「そのうち、私も遊びに行くなと言われた。母にも、向こうの父親にも」
「会えなくなったんですね」
「道から手を振るくらいはしたよ」
友達と一緒に通るときには、窓際にいる彼女に気づいてもそのまま行くことがあった。手を振り返すと呼び止められそうで、面倒に思った日もあったという。
「あとで行けばいいと思っていた。あの子はいつも、そこにいたから」
老人は窓の方を見た。カーテンの隙間から、向かいの空き地が細く見えていた。
「私は、事件の日も、あの子を見た」
* * *
朝、庭に鳥がいた。
物干しにとまり、首をひょこひょこと動かしていた。羽の色に見覚えがあった。
あの子の鳥だ。
両手ですくうように持ち上げる。羽毛の下の身体は思ったより小さく、温かかった。
彼女に返しに行こうと思って、門を出た。
ところが、向かいの玄関は、どうも様子がおかしかった。ガラス戸の内側に板が何枚も渡してある。
道を渡り、鳥を包んだ両手を胸元へ寄せて、板の隙間を覗いた。
ガラスを挟んで真ん前、あの子がすぐ向こうにいて、こちらを見ていた。
顔が見えるのは、横に渡された板と板の間だけだった。少年を見て、嬉しそうに笑った。何か口が動いている。何か言っているようだったが、ガラス越しでは聞き取れなかった。
少年が首を傾げると、女の子の手が上がった。
こつん。
爪の先で、ガラスを叩く音がした。
手の中の鳥が首を伸ばした。女の子の指先へ顔を向け、小さく動いた。
ひょっとして、鳥を見たいのか。
少年は両手を上げた。指の間に隙間を作り、ほら、と見せようとした。鳥ならここにいるから、安心して。
次の瞬間。
あの子の顔が、隙間から消えた。
ぱっと、ガラスに赤い点がついた。
鼻のすぐ前だった。
少年は顔を引いた。赤いものはガラスの内側にあり、拭こうとしても届かないところについていた。
板の向こうで何かがぶつかり、また赤いものが飛んだ。さっきまで女の子の顔があったところに、大きな滴がゆっくり下りてきた。
手の中で鳥がばたばたと暴れた。
母親を呼び、鳥を胸元へ抱え直して、空いた手で袖を引いた。言葉がうまく出ず、道を渡りながら何度も向かいの家を指した。
「お母さん、血が出てる!」
ついてきた母親は、真っ赤になったガラス戸を見ると、少年を自分の後ろへ押しやった。肩に置かれた手に力が入り、そのすぐ上で、人を呼ぶ大きな声がした。
少年は母親の脇から玄関を見た。
いちばん下の板と、土間の間。
そこに、あの子の手があった。
手のひらがこちらを向き、曲がった指の先がガラスに触れていた。
少年はその指を見ていた。
母親に肩を引かれてからも、もう一度動くのを待っていた。これは何かの夢だと思った。
* * *
「あとで分かった。あそこだけじゃなかったんだ。外へ出るところは、どこも塞いであった。鳥は、あの子が小さな窓から逃がしたらしい」
夢で見た、玄関のシャッターを思い出した。廊下の突き当たりも、渡り廊下へ出る戸も、開かなかった。窓の鍵に手を掛けても動かなかった。
「あの朝も、もっと早く行っていたら。戸を塞がれる前に。あの子のそばにいれば、何かできたんじゃないかと、今でも考える」
そのあと、老人は黙った。
「どんな声だったか、もう思い出せんがな」
老人は写真を見下ろしていた。
「抜けたところもあったよ。私のために取っておいた菓子を、話に夢中になって自分で食べてしまってな。なくなってから気づいて、皿と私の顔を交互に見ていた。私が笑うまで、ずっと謝っていた」
指先が女の子の顔に触れた。すぐ横へずらし、台紙の上に置く。
「けれど、優しい子だった。私が学校で叱られた話をすると、私より悔しがって、友達と仲直りしたと言えば、自分のことみたいに喜んだ。一度も会ったことのない子の心配までしていたよ」
老人は少し黙ってから、続けた。
「あの子ほど優しい子を、私は知らん」
僕は返事をしなかった。
相模のノートの、最後のページを思い出していた。机に置いた手と、その真上にある女の子の顔。友達を欲しがっていた彼女。
相模も、あの子の友達になったのだろうか。
「結局、どうしてあのとき笑っていたのか。それがどうしてもわからない」
「……安心したんだと思います。逃がした鳥が、あなたと一緒にいるのを見て、安全なところにいると思ったんじゃないんですか」
老人は写真から目を上げた。
僕の顔をしばらく見て、それから、台紙に置いていた指を引いた。
「だが結局、鳥もいなくなってしまった」
「……え?」
* * *
事件が起こったあとのことは、よく覚えていない。
大人が大勢来て、少年は家の中へ入れられた。玄関先を人が通るたびに、母親が出ていった。
鳥は、母親が納屋から出してきた古い籠に移された。
止まり木に乗り、水を飲み、ときどき短くぴいぴいと鳴いた。少年がそばへ行くと、首を傾けてこちらを見た。
あの子がどうなったのか、誰も教えてくれなかった。
聞いてはいけないことなのだと、大人たちの顔で分かった。だから次の日の昼、少年は別の聞き方をした。
「死んだら、どこに行くの」
母親は手を止めて、しばらく黙っていた。それから「空の向こう」と言った。
少年は籠を抱えて縁側に出た。
よく晴れていて、雲がひとつもなかった。庭の端まで日が差し、縁側の板も、膝の下で温かくなっていた。
あの子は空の向こうへ行ったのだと思った。
こうしてみると、なんて遠い。
向かいの家なら、道を渡ればすぐだった。門を入って縁側へ回れば、そこに椅子があって、あの子がいた。
しかし、空の向こうには、どうやって行けばいいのか分からない。屋根の上からずっと青く続いていて、見上げても、どこからが向こうなのかさえ分からなかった。
膝の上で、籠がかたかた鳴った。遊んでほしいのだと、そう思った。
鳥が顔を寄せてきたので、隙間から指を入れた。羽に少し触れたところで、くちばしがこちらを向いた。
がぶりと噛まれた。
痛くて手を引いた拍子に、膝の上の籠が傾いた。
がしゃん、と乾いた音がした。
膝から滑り落ち、横倒しになった籠の入り口が、開いた。
「あっ」
手を伸ばしたときには、飛びだした鳥は、もう顔の高さにいた。
羽ばたく音が耳のそばを通り、少年は顎を上げた。鳥は庭を斜めに横切り、塀の上まで上がった。そのまま道を越え、向かいの家の屋根へ向かう。
あの子の家の方だった。
けれど鳥は軒先を越えても羽を動かし続け、棟の上を抜けた。
少年は庭へ下りた。
裸足の裏に土がついた。首を反らし、鳥を追って走った。
鳥はさらに上へ、向こうへ、翼をはばたかせて飛んでいく。
そして、空の青さに紛れるように、ふい、と姿を消した。
見上げても、鳥の姿はもうどこにもない。
ただ空は、どこまでも同じ青さだった。
……あの子を追いかけて、行ったのだと思った。
少年は眩しい空を見上げたまま、噛まれた指を、もう片方の手で包んだ。
すると、青い空のどこかから、音が聞こえた気がした。
……こつん。
* * *
老人の家を出て、僕は帰り道で考える。
学校で見た女の子は、僕を見て笑っていた。シャッターの音に驚いて逃げた姿も、話に聞いた子と、そうかけ離れているようには思えない。
それでも、あの子を見た人たちは死んでいる。
生きていたときに優しかったことと、死んだあとに何をするかは、別なのだろうか。
何十年も、誰にも返事をしてもらえずにいたら。
友達になろうとして近づくたびに、怖がられたり、逃げられたりしていたら。
変わってしまうものなのだろうか。
自分の部屋に帰ってスマホを見ると、名取川さんからメッセージが来ていた。
写真が一枚。その下に文章がある。
『この写真に写っている自動販売機の、値段のボタンには何が書いてあるんでしょうね?』
名取川さんが学校の屋上から撮った写真だった。校門の向こうに自動販売機が小さく写っている。
僕は、見てきた実物を思い出す。
値段のボタンか。確か百四十円とか、百六十円とか。ごく普通の値段だったっけ。
『たぶん普通の値段じゃないかな。そこは気にしなくていいと思う』
『気になりませんか?』
『夢と同じ場所にあったのは気になるけど、現実の自販機まで同じとは限らないでしょ』
スマホを卓に置こうとしたところで、また名取川さんからメッセージが届いた。
『行きましたね?』
『いや行ってないよ。なんでそう思うの?』
『急に気にしなくなったみたいなので、実物を見たのかなと』
するどい。
そのまま返事をせずにいると、なんと電話がかかってきた。名取川さんが電話をしてくるのは珍しいので、僕はしばらく見ないようにしていたが、しぶしぶ電話を取る。
「はいもしもし」
『……どこに行ったんですか』
挨拶はなかった。
「今日は、ちゃんと仕事もしたよ」
『も』
助詞を拾われた。
たった一文字なのに、ずいぶん不利な証拠みたいな扱いを受けている。まあ実際には1秒も仕事はしていないのだが、大した問題ではないだろう。
「休日だからね。仕事以外のこともするよ。買い物とか」
『何を買ったんですか』
「飲み物とか。知ってる? 人って水分がないと数日で死ぬらしいよ」
『あの自動販売機で買ったんですか?』
「近所のコンビニです」
これは本当。まるで事情聴取である。僕はそっちをやる係じゃないけど。しかし、多少問い詰められたところで、電話なら何とでもなる。
「知ってる? 最近のコンビニでは飲み物を1本買ったら飲み物の引き換え券がもらえることがあるんだ。でもたいてい引き換え期間はちょっと後に設定されててさ。つい引き換えるのを忘れちゃう。僕の財布にはそういう期限切れの引換券がたくさん入っているんだけど、名取川さんもない? そういうの」
『よく。わかりました』
よくわかってくれたらしい。名取川さんの財布にも引換券が溢れているのか。意外だけどちょっと親近感。
「わかってくれて嬉しいよ」
『電話だと埒が明かないので。今からそっちに行きます』
「……なんで?」