あなたの友達のことを書いてください。あとでお話を聞くことがあります 作:うちっち
名取川さんが今から僕の家に来るという。
「……なんで?」
聞いてから、理由はさっき言われたなと思った。電話だと埒が明かないから。
「いやでも、今日は無理だよ。部屋が片付いてない」
『構いません』
「構うとか構わないとかの段階じゃなくて、床がないんだ」
『床が……ない……?』
「物の下にはあると思う。ただ、最近は確認できてない。とにかく物で埋まってるんだ」
僕は床の洗濯物を見た。
多少、話を大きくしている。でも、あの下に床があることを確認していないのは本当だった。
『片付けてください』
「今から? 人が通れるところを作るだけでも、かなりかかるよ。途中で日が暮れるかもしれない」
『私が着くまでに、お願いします』
「来ても立ち話になるよ」
『立って聞きます』
「立つ場所を作るところからなんだって」
向こうが静かになった。
効いたか。よし。
『玄関は開くんですよね』
「開くけど」
そりゃそうだ。開かない玄関とは。でもそういう矛盾した存在って、絵のタイトルにありそう。『騒がしい沈黙』とか。
『玄関が開くのなら、入れますね』
入室の条件が低すぎる。
「でも入口があるからって、帰ってこられるとは限らないよ。一歩踏み外したら何があるか分からないし。足首まで埋まったところで引き返さないと、次に来た人が持ち物だけ見つけることになる」
『あなたは、そこに住んでいるんですよね』
「地元の人間だから」
『では、案内してください』
現地の案内役にされてしまった。
部屋の散らかり方で止めるには、そろそろ建物そのものを傾けないといけなくなりそうだった。
「それに、隣が工事してて。ものすごくうるさいんだよ」
『聞こえませんけど』
「休憩中なんだと思う。始まったら、電話もできないくらい」
『そうですか』
「壁がずっと震えてる。コップの水とか波が立つからね。ほら、恐竜映画とかで、肉食恐竜が近くに来るとコップの水が揺れるでしょ? ああいうのだよ。名取川さんは見たことある?」
僕は壁を見た。
隣の人は、いつも静かだった。
申し訳ないけど、今日だけ大規模な工事をしてもらいたい。
『では、紙に書きます』
「工事の音の中で、わざわざ筆談するの?」
『電話でも、話してくれないので』
「いや、今なら静かだから話すよ。休憩してる間に」
『はい。聞きます』
電話の向こうで、じいっとファスナーを引く音がした。続いて、かちゃりと鍵が鳴る。
「……出かけようとしてない?」
『してます』
「話すって言ってるのに」
『住所を送ってください』
僕は口を閉じた。
床は見えず、会話もできず、入ったら帰れない部屋に、それでも来るという。
もう、こちらから付け足せる欠陥がなかった。
* * *
電話を切り、住所を送ってから、床の洗濯物を拾った。卓の上の本を棚へ戻し、郵便物を引き出しへ入れる。
うむ、片付いた。
来た人の持ち物だけが見つかるような場所は、どこにもない。
ケトルに水を入れ、カップを二つ出した。いつも使っているものと、来客用に買って、そのままになっていたもの。
しばらくして、インターホンが鳴った。
ドアを開けると、名取川さんが立っていた。
「いらっしゃい」
名取川さんは僕の顔を見た。少し視線を下げ、また顔へ戻してから、部屋の中へ目を向ける。
「床、ありますね」
「頑張ったんだ」
「お疲れさまです」
名取川さんは、部屋に入ったところで、少し耳を澄ませるように顔を傾けた。
「工事は?」
「……工事?」
「確か、工事の音がうるさいから来ても無駄だと」
そういえばそんなことも言ったっけ。すっかり忘れていた。僕は、ポン! と手を大きく叩く。
「ああ、そっちの工事か。終わったみたいだよ」
「何の工事だったんですか」
「かなり大がかりだった。建物全部の床を入れ替えるくらいの」
「それが、もう?」
「手際のいい業者さんだったんじゃないかな。いや最近の技術の進歩はすごいね」
僕は、その場にいない職人さんを、心の中でもう一度褒めた。
「その辺に座って。お茶淹れるから」
鞄を膝に載せて座ったのを見届け、僕は台所へ向かった。かち、とケトルのスイッチを押す。
振り返ると、名取川さんは机の方を見ていた。パソコンと、その横の椅子。背に掛けてある上着へと目が移っている。
「……いつも、あそこで仕事をするんですか」
「家で仕事を……?」
「しないんですか」
「個人情報とかあるからね」
「ほー。なるほど」
小さく頷いて、今度はベッドの方を見た。枕元の目覚まし時計を眺め、それからカーテンへ目を移す。
台所でお茶の用意をしていると、また少し衣擦れの音がした。名取川さんが、本棚の方へ顔を向けていた。
棚を順に見ていた目が、途中で止まる。
「あ、それ。名取川さんが載ってたから買ったんだ。インタビューも読んだよ」
「……そうですか」
名取川さんは膝の鞄へ目を落とし、スケッチブックを取り出した。
僕がお茶を淹れている間、さらさらとペンの走る音がする。
「どうぞ」
ことん、とカップを置くと、名取川さんが紙をこちらへ向けた。
小さな名取川さんが、僕の部屋に何人もいた。
机の下を覗き、本棚の前で背伸びをして、ベッドの脇ではしゃがみ込んでいる。どの顔も目がまん丸で、頭の上には小さな「!」が浮いていた。
その真ん中に、もう一人。
自分の名前が載った雑誌を胸に抱え、満面の笑みで、両足をぴょんと浮かせていた。抱き締める腕に力が入りすぎて、雑誌が少し曲がっている。
「……そんなに?」
名取川さんは、ぱたんとスケッチブックを閉じる。耳が赤かった。
「……お茶、ありがとうございます」
「うん」
少しして、名取川さんがカップを置いた。
「どこへ行ったんですか」
僕は飲み込んでから、カップを下ろした。
「学校の向かいの空き地。自販機を見て、そのあと、近所の人に話を聞いた」
「お仕事は」
「やろうと思ってたけど、僕は休日に仕事をしない主義なことを思い出したんだ」
名取川さんは僕を見たあと、スケッチブックをもう一度開いた。さらさらとペンを動かし、こちらへ向ける。
小さな名取川さんが、両手を腰に当てていた。
眉をきゅっとつり上げ、頬をぷくーっと丸く膨らませ、片足を踏み鳴らしている。足元には何本も線が引かれていた。
その前には、正座した僕。
服の裾を踏まれていた。
「……逃げないよ」
名取川さんは、絵をこちらへ向けたままだった。
「どうして、一人で行ったんですか」
「学校には入らないし、大丈夫かと思って」
「女の子がいたら、どうするつもりだったんですか」
「そのときは帰るよ」
「学校から帰ってきても、それで終わりとは限らないですよね」
そういえば、喫茶店にもいたしね。
「確かにね」
名取川さんが僕を見た。
「……見たんですか」
「何を?」
「女の子です。学校のあとにも」
僕はカップを持ち上げた。
「相模の絵でも、部屋まで来てたからね」
「あなたの話です」
「僕の部屋には来てないよ。ここ3年だと、この部屋に来たのは名取川さんだけ」
名取川さんがカップへ目を落とした。
「……ふへへ」
小さな声がした。
「え?」
名取川さんは、きゅっと口を結んだ。
顔を上げたときには、非常に真面目な顔をしていた。まるで今から全国の高校球児を代表して、正々堂々と戦うことを誓いそうな顔だった。
「……何でもないです。部屋以外で会ったんですか?」
僕はお茶を飲んだ。名取川さんが何も言わないので、もう一口飲んだ。頼む……! 飲んでいる間に名取川さんよ話題を忘れてくれ……!
「飲み終わるまで待ちます」
僕はカップを下ろした。
「今日は見てないよ」
「今日は」
「うん。今日については、安心してもらっていいと思う」
「昨日までは?」
安心してもらえなかった。
「……似た子なら、見かけたかもしれない」
「どこで?」
名取川さんは、こちらを見たまま待っていた。
「そんなに長い時間じゃなかったし、何かされたわけでもないから」
「いつですか」
「ちょっと、日にちまでは」
「学校へ行ったあとですよね」
「うん」
「それから、まだ何日も経っていません」
日にちを曖昧にしても、候補は指で数えられるくらいしかない。記憶力を犠牲にする割に、得られる時間が少なかった。
「ほら、顔は覚えていても、どこで見たんだっけ、ってなることはあるでしょ」
「見た時は一人で?」
「いや、人はいたよ」
「誰といた時ですか」
僕はカップを傾けた。
もう残っていなかった。
「……名取川さんも、知ってる人」
「私もいたんですか」
カップの底を見た。
どうしてそこへ来るんだろう。知っている人なんて、ほかにもいるでしょうに。
「いたといえばさ」
「あの喫茶店ですか」
僕はカップを置いた。
ことん、と、思ったより大きな音がした。
「……あそこ、飲み物の種類が多いよね」
「そうですね」
「名取川さんは何を頼んでたっけ。お茶より、別のものの方がよかった?」
名取川さんの目が、少し細くなった。
「コーヒーもあるよ。紅茶も。牛乳があれば、カフェオレにもできるし」
「どこにいたんですか」
「近くのボックス席。ココアもあったかな」
「私たちが話している間、ずっと?」
「途中で気づいたから、いつからいたかまでは分からないけど。ちょっと待って、飲み物を確認してくる」
腰を浮かせると、名取川さんが言った。
「座っていてください」
僕は座った。
「……甘いものは?」
「いりません」
「プリンあるけど」
名取川さんの目が、冷蔵庫へ動いた。
「上にクリームが載ってるやつだよ」
すぐには返事がなかった。
僕は腰を浮かせた。
「二つあるから、今――」
「いりません」
視線が戻ってきた。
「もう学校へ行かないようにと、話していたときですよね」
僕は座り直した。
惜しかった気がする。
名取川さんは口を結んだ。
さっきまでこちらに向けていたスケッチブックを、ゆっくり膝へ下ろす。
「どうして言ってくれなかったんですか」
「みんなで振り返っても、また逃げるかもしれないし。騒ぎになるかなと思って」
「言ってください。その場で」
声は小さかった。
僕は膝の上で手を重ねた。
「分かった」
「次に見たときもです」
「うん」
「一人で確かめに行くのも、やめてください」
「……うん。やめる」
名取川さんは、しばらく僕を見ていた。
やがて、ぱたんとスケッチブックを閉じた。
「それで、今日、何が分かったんですか」
あの老人から聞いたことを話した。
昭和三十年の写真に、学校で見た女の子が写っていたこと。身体が弱くて、向かいの四年一組を眺めていたこと。飼っていた鳥と、玄関のガラス戸のこと。
老人が、あの子ほど優しい子を知らないと言っていたこと。
名取川さんは、写真の年を聞いたところで一度だけ聞き返した。
そのあとは、膝の上に手を重ねたまま聞いていた。
「カメラを向けたときも、びっくりはしていたみたいでしたね」
「うん。僕らを見て、逃げたんだよね」
あの反応だけなら、普通の子どもとそれほど違わない気もする。
でも、あの子を見た人が、何人も死んでいる。
「何十年も経つうちに、変わってしまったのかな」
「杉浦に、もっと前の記録も調べてもらおうか。三十年分だと、事件のところまで全然届いてなかったし」
スマホを取り、四人のグループを開いた。
桑野家の事件は昭和三十年のころらしい。今まで調べた範囲より前にも、似たことが起きていなかったか確認できないだろうか。
送ると、少ししてスマホがぶるっと震えた。
『それ、どこで分かったの?』
『当時を知っている人の話』
『誰?』
僕は入力欄を見た。
『その辺も含めて、今度ちゃんと話すよ』
『いつ?』
話す日だろうか、聞いた日だろうか。
前者として答えれば、少し先へ進めそうだった。
『滝口さんに会うときでどうかな』
『聞いたのはいつ?』
進めなかった。
『今日』
『どこで?』
僕は名取川さんを見た。
助けてもらえそうな顔ではなかった。
* * *
滝口さんに会う日は、杉浦と二人だった。
名取川さんは仕事の締切が近いらしい。前の日に、行けなくなったと連絡があった。
代わりに送られてきた絵では、小さな名取川さんが机に向かっていた。片手で絵を描きながら、もう片方の手をこちらへ伸ばしている。眉は下がり、口は悔しそうに曲がっていた。
背後には、巨大な時計。
僕は『聞いたことは全部伝えるよ』と返した。
すぐに、大きく頷いている絵が来た。
こうしている間にも時計は進んでいると思うけれど、そこは言わなかった。
待ち合わせの場所には、杉浦が先に来ていた。
「おはよう。行こうか」
歩き出して、しばらくは普通の話だった。
少し寒くなったとか、滝口さんとは何時に会うとか。これはひょっとしたら、事前に送った説明で一通り済んだのかもしれない。
「で、一人で学校の向かいの家に行った件だけど」
「はい」
済んでいなかった。