あなたの友達のことを書いてください。あとでお話を聞くことがあります 作:うちっち
「あの子、怒ってたでしょ」
「……怒ってた」
「でしょうね」
杉浦は、当たり前のように頷いた。
「今日は来られないんだってさ。間に合わないって」
今朝届いた絵では、小さな名取川さんが、自分より大きな時計の針に両手でしがみついていた。
杉浦は僕の顔をじっと見た。
「昨日、何があったか聞くまで、ずっと心配してたと思うよ」
杉浦は前へ向き直った。僕も隣に並んで歩き始める。
しばらくして、杉浦が口を開いた。
「あの子から、絵の写真、毎回送ってもらってるって?」
「全部かどうかまでは分からないけど」
完成した絵が送られてくることもあれば、まだ途中だというものが届くこともある。まだ未完成な時は、続きはどうなったと僕から聞くこともある。
「最初に見せてもらった絵、覚えてる?」
しばらく考えてみる。
浮かんできたのは、小学校の昼休みの教室だった。
* * *
昼休みになると、教室は一度に騒がしくなる。
そんな中、小学生の名取川さんは1人、自分の席に残っていた。
机の上に紙を広げ、一心不乱に色鉛筆を動かしている。しゃっ、しゃっ、と短い音がしていた。ちょっと気になったので、話しかけてみた。
「何描いてるの?」
紙の上に、名取川さんの手がさっと被さった。
「……昨日の」
何の昨日なのかは分からなかったが、絵を見れば分かるだろうと思った。隣の席の子は外へ行っていたので、その椅子に座った。
絵には、茶色い地面に、水たまりが描かれていた。地面には小石があり、草が何本か倒れていた。その内側だけが、青い。
僕は少し顔を近づけた。
水たまりの端から端までは、指で挟めそうな大きさしかない。それなのに。水たまりには、雨上がりの綺麗な空が映っていた。白い雲が途中で切れている。
僕は、小さな水たまりの中に――無限に広がる青い空を見た。
「……水たまりはこんなに小さいのに、向こうは、すごく広いね」
「昨日、雨がやんで」
名取川さんが、小さな声で言った。
「下にも、空があったから」
「続きも、ここで見てていい?」
「……うん」
そして、僕ら2人は絵を黙って見た。
やがて予鈴が鳴り、席へ戻ろうとしたとき、名取川さんに呼び止められた。
「また描いたら、見る?」
「見せてよ」
* * *
歩道の先で、信号が赤に変わった。僕たちの前を歩いていた人が足を止め、僕もその少し後ろで止まった。
「あの子ね。見たものを言葉で話そうとすると、違うものになる気がしたんだって」
「違うもの?」
「水たまりに空が映ってたって言えば、何を見たのかは伝わるでしょ。でも、感じたのはそれだけじゃないから」
僕は、机の上に広げられた紙を思い出していた。あの絵の奥に広がっていた、雨上がりでしか感じられない世界の広さを。
「それで、感じたものを形にしようと思って描いたのが、その絵なんだって」
「あの子、その話するとき、あんたが何言ったかまで覚えてたよ」
「僕は、今思い出した」
「でしょうね」
「今日はそれ多いね」
杉浦は笑ったけれど、僕は少し困った。
「あの子が、本気で絵をやっていこうと思ったきっかけなんだって。感じたことがそのまま、ちゃんと伝わることもあると知ったって」
信号が青になった。
ぴよ、ぴよ、と音が鳴り、前の人が歩き出した。
「そんな話は聞いてないなぁ」
「言わないんじゃないの。あんたには」
横断歩道を渡り終えてから、杉浦が続けた。
「今も、見せたいんだと思うよ。あの子が見つけたもの」
そして、少しの間、黙る。
「生きてるって、いいなって」
杉浦は前を向いたまま言った。
「あんたにも、思ってほしいんだって」
「まるで今の僕に生きる希望がないみたいじゃないか」
杉浦は何も言わず、僕を見てちょっと溜息をついた。
滝口さんは、店の奥の席にいた。
僕たちを見つけると、軽く手を上げた。一学年上の先輩だが、学校にいた頃に話した記憶はない。
「や、久しぶり。って言っていいのかな」
「たぶん、大丈夫だと思います」
「よかった。初めましてだったらどうしようと思った」
彼女はそう言って朗らかに笑い、向かいの席を勧めてくれた。
注文を済ませてから、杉浦が鞄から作文の写しを出した。
滝口さんは受け取ると、最初に名前のところを見た。それから本文へ目を移し、少し眉を寄せ、「ひどい字だ」と呟いた。
教室で遊んだ女の子の話のくだりにやってくると、指で行を追っていた彼女の手が止まった。
「ああ。この子」
僕は滝口さんを見た。
「覚えてますか」
「うん。お化けの子でしょ」
滝口さんは、僕たちを交互に見た。
「あれ。その話じゃなかった?」
「その話です」
僕が答えると、滝口さんはほっとしたように頷いた。
「よかった。いきなり変なこと言った人になるとこだった」
滝口さんが四年生の頃。
教室に残っていると、どこからか女の子が来ることがあったという。当時の滝口さんは、友達とうまくいっていなかった。
「誰と帰るとか、誰と誰が仲いいとか。そういうのが面倒になって、一人で残ってた」
絵を描いたり、筆箱の中を並べ直したりしていると、いつの間にか、そばにいたという。話しかけても返事はしない。ただ、滝口さんの手元を覗いたり、顔を見て笑ったりする。
「名前を聞いても教えてくれないから、最初は嫌われてるのかなって思った。でも、また来るんだよね」
「どんな話をしたんですか」
「私が勝手に喋ってただけ。今日こんなことがあったとか、誰かに腹が立ったとか」
滝口さんは作文へ目を落とした。
「友達だったんですね」
「私は、そう思ってたよ」
運ばれてきたコーヒーを、滝口さんが自分の方へ寄せた。カチャリ、と受け皿が鳴る。
服装や髪留めについて尋ねると、滝口さんは僕たちが見た女の子と同じ特徴を挙げた。少し変わった服だったので、よく覚えていたという。
「その頃は、幽霊だとは思わなかったんですか」
「思わなかった。そういう子なんだなって。病院で見たときにおかしいって気づいたけどね」
滝口さんは入院していた。
建物の上から落ちてきた植木鉢が、頭に当たったのだという。
「落ちてきたところは覚えてないの。歩いてたのまでは覚えてるんだけど」
「事故だったんですか」
「それも、よく分からない」
彼女は、今でも建物のすぐ下を歩くのは苦手だと言った。話しながら、ほんの少しだけ天井へ目を向ける。
病院で女の子を見たのは、夜だったそうだ。
目を覚ますと、女の子がベッドのそばに立っていた。
「最初は嬉しかったんだよ。来てくれたんだって。でも、夜中だしさ」
病室は暗かった。
それなのに、女の子の顔は見えたという。
「そこで初めて、あれって思った。学校で、誰もあの子に話しかけなかったなとか。名前も知らなかったなとか」
滝口さんはカップを持ち上げたが、飲む前に話を続けた。
「でも、怖くはなかったな」
そして、入院中。滝口さんは一度、ひどく具合が悪くなった。
「ベッドごと運ばれてたのは、覚えてる」
天井の明かりが、次々と頭の上を通り過ぎ、がらがらとベッドの車輪が鳴っていた。誰かに名前を呼ばれていた気もするが、返事をしたかどうかは分からなかった。
「そのときにも、いたんですか」
「うん」
滝口さんは、自分の腰の横へ手をポンと置いた。
「この辺に、座ってた」
「同じベッドに?」
「そう。狭いのに、落ちないのかなって思った」
今までで、一番近い。相模より、もしかしたら。
女の子は、上から滝口さんの顔を覗いていた。
嬉しそうに、笑っていたという。
「それが最後。気づいたら手術が終わってて、お母さんが手を握ってた。すごい顔して泣いてたから、何かあったんだなって思った」
「それからは?」
「会ってない。病院でも、退院してからも。結局、退院してからも治療が必要だって言われて、すぐ引っ越しちゃったんだけどね」
滝口さんはコーヒーを一口飲んだ。
「あの子に、何かしたことってありますか」
「何か?」
「何でもいいんですけど。あの子に何か言ったとか」
滝口さんは腕組みをした。
「覚えてないなあ」
何を探しているのか、滝口さんに聞かれた。
杉浦が、作文を調べていることを話した。女の子を見た人の中に、亡くなった人がいること。そして、相模のこと。
滝口さんの顔から、ふっと笑みが消えた。
「あの子が何かしたんじゃないかってこと?」
静かな店の奥で、豆を挽く音がした。がりがりという音が止まると、隣の席の話し声が戻ってくる。
「学校へ戻ってから、探したんですか」
僕が尋ねると、滝口さんは頷いた。
「うん。引っ越すまでの間、放課後に残ってた。お礼、言ってなかったから」
「お礼?」
「お見舞いに来てくれたでしょう」
滝口さんは少し困ったように笑った。
結局、連絡先を交換し、何か思い出したら教えてもらうようお願いして、会話は終わった。
席を立つ前に、滝口さんが僕を見る。
「あなたも、会ったんだよね」
「はい」
「今も、笑ってた?」
「……笑ってました」
滝口さんは頷いた。
「そ。ならいいや」
* * *
店を出ると、ちりん、と背中でベルが鳴った。
滝口さんは駅とは反対の方へ歩いていった。角を曲がる前に一度振り返り、手を振ってくれた。僕も大きく手を振り返す。
……そうだ。
僕は、隣の杉浦を振り返る。
「昔のことは、何か分かった? ほら、30年以上前のことも広げて調べてくれてたよね?」
杉浦は、すぐには答えなかった。
何やら浮かない顔をしている。
「どうしたの? めっちゃくちゃ死んでたとか……?」
すると、杉浦は首を縦に振った後、横に振った。いやどっちなんだ。
「前は、相模が印をつけてた人を調べたでしょ。今回は、それ以外の訃報も拾ってみたの。それを伊藤と見てたら、ほかにも亡くなった人の名前がけっこう出てきて」
杉浦は、そこで少し眉を寄せた。
「名前を出すたびに、伊藤は「そいつ知ってる」って。そいつの兄貴とは飲むとか、その人のお母さんは店に来るとか」
「顔広いね」
「途中から、ちょっと引いた」
杉浦は少し笑った。
「それで、一人ずつ、年齢と亡くなった時期を確認していったんだけど……私たちと同じくらいの年代だけが、明らかに死んでるの。病死以外で、もう10人近く」
相模たちの名前を、頭の中で数えた。
知っている名前を全部並べても、足りなかった。
「そんなに? 10人?」
「うん。まだ、確認できた人だけで。同級生とか、先輩とか後輩とか。卒業した後で亡くなった人も多かったから、気づかなかった」
僕は歩道の先を見た。
知らないところで、それだけの人が亡くなっていた。生きていれば、まだ二十代の人たちが。
「その人たちも、女の子を見てたの?」
「分からない。伊藤が、聞けそうな人には聞いてみるって」
あの写真が撮られたのは、昭和30年だった。
学校でのあの感じだったり、他の目撃談からしても、女の子に会った人間はもっといそうなのに。
「何で、僕らの年代だけ……?」
「分からないわよ」
杉浦の返事は短かった。
あの子は、それよりずっと前からいる。
昔は何もしなかったのに、あるときから人を死なせるようになったのだとしたら。
「誰かが何かしたのかな。祠を蹴飛ばしたとか」
「祠あったの?」
「いや、そういう話あるじゃないか。お墓を壊したとか、お供え物を食べたとか」
「それなら、やった人が祟られるんじゃないの? 10人近くよ?」
僕は、ぞろぞろと祠を蹴飛ばしに行くところを想像した。後ろの方は、何をしに来たのかも分かっていなさそうだった。
「祠に限らず、何かを建てるときに、そこにあったものを撤去したとか」
「それで、あの子の居場所がなくなった?」
「例えばね」
学校の向かいの空き地を思い出した。
家はもうなかった。けれど、家がなくなったことと、死者が増え始めたことが重なるのかは知らない。あの空き地の様子からすると、もっと前に取り壊されていそうだったが。
「でも、それでどうして私たちの年代なの?」
杉浦に聞かれ、僕は黙った。
祠を壊した大人でも、工事をした人でもなく、ずっと後の子供たちが死ぬ。
子供が何かをしたのなら、まだ分かる気がする。けれど、10人近い子供が、同じことに関わっていたのだろうか。
「同じ学校にいたから、とか」
「それだけで?」
「……それだけだったら、困るね」
通う学校くらい、もう少し慎重に選ぶべきだったのかもしれない。そんなことを言われても、六歳の僕にはどうしようもないが。
「でも、それだと滝口さんも同じよね」
杉浦が言った。確かにそうだ。
「途中で、気が変わったのかな」
「殺すのをやめたってこと?」
「うん。友達になったから」
「友達になったあとに、植木鉢が落ちてきたんでしょ」
「……そうだった」
池の中学生も、相模も。その後に亡くなっているから、人を殺すのをやめたわけではない。
滝口さんのときだけ、やめた。あるいは、できなかった。
……引っ越したから?
この町からいなくなれば、あの子との縁も切れる、とか?
それとも、怒っていた相手ではなかったのか。でもそれなら、最初から植木鉢を落とさなければいいのに。
「そもそも、何で急に人を殺すようになったんだろう」
「……祠かな」
「戻ってきたね」
戻ってきてしまった。
祠があったかどうかさえ、知らないままで。
* * *
「うぇーい。お前どこ刑よ~」
職場でパソコンに向かっていると、ぽす、ぽす、と肩に拳が当たった。
振り向くと、先輩が片方の肩を揺らしながら、にやにやしていた。
「どうしたんですか」
「うぉーい。お前どこ刑かって聞いてんじゃーん」
もう一度、ぽすん。
何だろう、この借りてきた陽気さは。
「出張で何かあったんですか」
「よくぞ聞いてくれました」
「戻れますか。普通の先輩に」
先輩はけらけら笑った。
最近見かけなかったのは、研修であちこち見学に行っていたからだという。「出所後、迎えてくれる人や帰る場所がない人を受け入れる寮が特に印象に残った」と、目を輝かせて話してくれた。
「そこで聞いたんだけどさ。出てきた人同士って、まず、どこの刑務所にいたかを気にするんだって。あと、何したのか」
「それで、さっきのですか」
「そう。お前どこ刑よ~」
拳が近づいてきたので、肩を引いた。
「あなたと同じです」
「何したんだよ~」
「仕事をしてます。仕事してください」
僕が机へ向き直ると、先輩は僕の横へ回ってきた。
「で?」
「まだ何かあるんですか」
「あるでしょ。私がいない間に。あの女の子の話。どうなった?」
杉浦と考えても、答えは出なかった。伊藤の聞き込みはこれからで、名取川さんは締め切りに追われている。
先輩は何を言い出すか分からない人ではある。同じところをぐるぐる回っているよりは、少し先へ進めるかもしれない。
「ちょっと話いいですか」
「そのために聞いてんじゃん。それで?」
先輩は隣の椅子を引き寄せた。