あなたの友達のことを書いてください。あとでお話を聞くことがあります 作:うちっち
僕は反射的にカーテンを閉めた。
ここは三階だ。
窓の外にはベランダがある。けれど、あそこへ出るには、この部屋を通るしかない。
外階段は、この部屋のすぐ脇を通っている。踊り場の手すりに乗れば、ベランダの柵まで届かなくはない。けれど、間は一メートル以上あいていて、足を滑らせれば下まで何もない。
そんなことをする人間はいない。
静かな部屋の中で、カーテンの裾が、まだ小さく揺れていた。
そのとき、何かの匂いがした。
……煙の匂い。焦げ臭いのではない。どこか甘くて、静かな匂いだった。
どこかで嗅いだことがある。それも、つい最近。
相模のお母さんに頭を下げたときのことが、ふと浮かんだ。黒い服の人たちの間で、何と言えばいいのか分からなくなった、あのとき。
……これは、葬式の匂いだ。
今日も、相模の家であげてきた、線香の匂い。
けれど、あれは一本だけだった。それも何時間も前のことで、そのあと山道を走り、駅で三十分怒られ、電車に揺られて帰ってきた。もうとっくの昔に消えている、はずだ。
上着を脱いで椅子の背に掛けても、匂いは薄くならなかった。むしろ、部屋の空気そのものに染みついているような気がした。
まるで、相模が一緒についてきたみたいだった。
来るなら、何か言ってくれればよかったのに。
ポケットの中で、携帯が震えた。
『寄り道してませんね?』
名取川さんだった。
『してない。家にいるよ』
すぐに既読がついた。少し間があって、『おやすみなさい』と返ってくる。
僕も同じように返して、携帯を伏せて置いた。
カーテンは閉まっている。もう一度開けて確かめる気には、どうしてもなれなかった。
* * *
伊藤から連絡があったのは、週の半ばだった。この前の続きを話したい、という短いメッセージ。
気づいたのは、昼休みが終わったあと。折り返し電話をかけられたのは、仕事を終えて職場を出てからになった。
「おう悪い、ちょうど片づけ中で。……ちょっと待って」
扉が閉まる音がして、周囲が急に静かになった。
「亡くなった人たちが、女の子を見てたかって話なんだけど」
僕は歩きながら鞄から手帳を出し、街灯の下で開いた。
伊藤は、杉浦が調べた中にあった名前を、一つずつ挙げていった。本人たちはもういないから、話を聞けたのは、昔よく遊んでいた友達や、きょうだいだったという。
知らない女の子と遊んだ、と話していた子がいた。
学校の帰りに、誰もいない道の向こうへ手を振っていたのを見た。
家の外に友達がいると言うので母親が見に行ったけれど、誰の姿もなかった。
書き留めた名前の横に、丸をつけた。ペン先が紙に引っかかって、丸の終わりが少し歪んだ。
「まだ全員じゃないけど。昔のことだから覚えてないって人もいるし、連絡がつかないところもあるから」
携帯を耳へ当て直した。ずっと押しつけていたところが、熱を持っていた。
「杉浦と名取川さんにも送っとくわ。それと、お前、この前また見たって? 怒られたんだろ」
「かなり」
「だろうな」
伊藤が鼻から息を吐いた。笑ったというより、ため息に近かった。
「また分かったら連絡するから。お前らも、勝手に何かするなよ」
「分かった」
電話を切ってから、手帳を見直した。
丸のついた名前を、一つずつ読んでいく。同じ町で、同じ年頃に育ったはずの人たちなのに、誰の顔も浮かばなかった。相模と同じところに並んでしまった名前だけが、手帳の上に増えていた。
この人たちと、生き残った滝口さんの違い。
それは一体なんだ……?
* * *
土曜日の昼前、玄関のチャイムが鳴った。
何かを頼んだ覚えはない。寝癖を手で押さえながら、そっとドアを開けると、名取川さんが立っていた。
布の鞄を肩に掛け、片手に紙袋を提げている。僕の顔を見ると、その紙袋を少し持ち上げてみせた。なんだかいい匂いがする。
「お昼、まだですよね」
「まだだけど」
「よかったです。買ってきました」
紙袋の口から、焼けたパンの皮の香ばしい匂いがした。彼女が袋を少し傾けると、バターの甘い香りも混じる。
「今日、来るって言ってたっけ」
「言ってません」
そうだよね。僕が忘れていたわけではないらしい。ほっとしていい場面なのかは、よく分からない。
「上がってもいいですか」
よかった。部屋はあまり散らかっていない。少なくとも、行方不明者が出るくらいには。
先に部屋へ入り、床に落ちていた雑誌を慌てて拾い上げる。
「仕事、大丈夫?」
「持ってきました」
鞄から出てきたのは、スケッチブックと筆記具だった。いつものと同じなので、本当に仕事なのかは分からない。絵なのに、色塗ったりしないの?
「今日は開けないんですか?」
名取川さんが窓へ顔を向けた。閉じたカーテンの縁から、細く白い光が漏れている。
僕は雑誌を机へ置き、さりげなく窓の前に立った。
「いやー最近、日差しが強くてさ」
「十一月ですけど」
「最近日焼けしててさ。紫外線は冬でも出てるらしい。むしろ冬の方が油断するから危ないらしいんだ」
名取川さんは、僕の手の甲を見た。それから、自分の手の甲を見た。どちらも、焼ける機会に恵まれていない色をしていた。
「……お互い焼けるほど、外に出てないですよね」
「だから気にし始めたんだよ。今のうちから」
名取川さんは何も言わなかった。
「それに、外からよく見られるし」
「誰にですか」
「お向かいの人とかが多いよ」
「前見えましたけど、向かいの建物、こっち側は壁だけでした」
よく覚えてるな……。
「いやもっと遠くからだよ。望遠鏡とか。最近、天体観測が流行ってるらしい」
「昼間ですけど」
「昼の星を見る人たちもいるんだよ。上級者になると。あと、カーテンレールがちょっと調子悪くて。一回開けるともう閉まらないかもしれない」
「今閉まってますよね」
「閉めるのは得意なんだ。開ける方が苦手で」
名取川さんは、窓の前に立ち塞がっている僕を、じっと見上げていた。僕も彼女を見下ろした。冷蔵庫のぶーんという低い唸りだけが、その間を埋めていた。
「とりあえず、お茶入れるから。座ってて」
彼女は少し考えてから、テーブルの方へ戻ってくれた。
湯が沸くのを待つ間に、紙袋を覗く。パンは、二人で食べるには少し多いくらい入っていた。
2人でそれぞれクロワッサンを取ってかじる。歯に触れたところが軽く砕けて、その下の柔らかい生地から、バターの風味がじんわりと広がった。
「あの子を見てた人、やっぱり多いみたいだね」
僕は、電話のあとに考えたことを話した。滝口さんと、亡くなった人たちとの違い。
「滝口さん、退院後に引っ越してたよね。あの町から離れたから助かったんじゃないかな」
そこまで言って、カーテンが目に入った。
それなら、あれは何だ。
電車で一時間も離れたこの部屋の、三階の窓についていた、あの手形は。
「……そうだと、いいですけど」
僕は名取川さんへ顔を戻した。彼女は、皿の上の食べかけのパンを見ていた。
「うん。まだ、それだけじゃ分からないね」
それきり、二人とも話さなくなった。名取川さんは残ったパンを小さくちぎったが、口には運ばず、皿の端へ置いた。ちぎっては置き、ちぎっては置き、皿の端に小さな山ができていく。
しばらくして、彼女が顔を上げた。僕を見てから、部屋の中へ目を移す。
「少し模様替えしたんですね」
「え?」
「あの子、前は時計の隣にいたので」
彼女が指さした先には、UFOキャッチャーで取ったぬいぐるみがあった。今は棚の端で、首を傾げるように壁へ寄りかかっている。
取るのにずいぶん苦労したことは覚えている。ただ、取って満足して、持って帰ってからどこへ置いたかはよく覚えていない。
「ぬいぐるみ一個で、模様替えは大げさだなぁ」
「でも、けっこう配置変わってますよ」
「けっこう?」
画家の目には、いったいどこまでが模様替えに入るのだろう。ティッシュの箱が少し斜めになっているとか、ペン立てのペンが一本だけ逆さに刺さっているとか。本棚の本が、一冊だけ指一本分奥へ引っ込んでいるとか。そういうのも、名取川さんの中では立派な模様替えなのかもしれない。
そう考えると、僕の部屋は毎日模様替えされていることになる。主に僕によって。
「どこが?」
興味本位で聞いてみた。
すると、名取川さんは答えずに、スケッチブックを開く。
最初に描かれたのは、今の部屋だった。
棚の端にぬいぐるみがいて、時計の横には小箱。その下に本が並び、隣には机。鉛筆の線に迷いはなく、見ているうちに、部屋の輪郭が紙の上に立ち上がっていく。
鉛筆が紙をこする音を聞きながら、僕は残りのパンを食べた。ページがめくられ、もう一枚に、前に来たときの部屋が描かれていく。
描き終えると、彼女は二枚をテーブルに並べ、まずぬいぐるみを指した。それから、小箱。時計。棚の下の段に重ねてある雑誌。
こうして見ると、まるでファミレスのテーブルによく置いてある、間違い探しのようだった。
机の上のペン立ては、反対側へ移っていた。横に置いていたメモ帳は、本の上へ。書類をまとめたファイルは、棚の右端から左端へ。机の下の収納箱は前より奥へ押し込まれ、蓋の向きまで逆になっていた。
僕は、絵と部屋を何度も見比べた。
ぬいぐるみを動かした覚えはなかった。時計も、小箱も。ファイルは最近使っていないし、収納箱に至っては、何を入れたかもすぐには思い出せない。メモ帳だけが僕だった。
僕は机の下を見た。
あの箱を開けるには、いつも椅子を退けて、床へしゃがまなければならない。そうして蓋を持ち上げるところを想像して、思わず膝を引いた。
あの子は、ここにしゃがんでいたのだろうか。
僕の帰りを待ちながら。
箱の中身を一つずつ取り出しては、眺めていたのだろうか。
「……すみません」
顔を上げると、名取川さんが膝の上で指を重ね、目を伏せていた。
「気持ち悪かったですか。こんなところまで覚えていて」
「ああ、いや。違うよ」
僕は慌てて、二枚の絵へ顔を戻した。
「すごいなって思ったんだ。僕、自分の部屋なのに全然覚えてないから」
名取川さんは、おそるおそるこちらを見た。
彼女に気を遣わせたいわけではなかった。来てくれて、よかったと思っていた。今、一人でこの部屋を見回さずに済んでいることにも。
そのあと名取川さんは、本当に仕事を始めたらしかった。
紙をめくる音と、時々、鉛筆を削る音が聞こえる。しゃりしゃりという小さな音が、妙に耳に心地よかった。
夕方、名取川さんの帰り際に玄関でパンのお礼を言うと、彼女は靴を履きながら「また来ます」と答えた。
「仕事、忙しいんじゃなかった?」
「持ってきます」
そこは変わらないらしい。
扉を閉めると、鍵を回す音が、やけに大きく響いた。念のため、チェーンもかけた。かけてから、それが窓には何の関係もないことに気づいた。
部屋へ戻り、名取川さんが座っていた椅子に腰を下ろす。机には、二枚の絵が残されていた。
* * *
「えー! また出たの!? しかも模様替えまでしてくる!?」
「声、大きいです」
先輩は口元を手で押さえたが、椅子はしっかりこちらへ転がしてきた。
「それで? 今度は何してた?」
「最初に見た時は、寺で墓石に乗ったりしてました」
「楽しそうじゃん!」
僕は楽しくなかった。
湯呑みを覗いていたことや、寺で何かを探していたことも話した。先輩は途中で何度か吹き出し、そのたびに僕の顔を見て「ごめんごめん」と言った。あまり悪いとは思っていなさそうだった。
「いいなー。私も見たい」
「よくないですよ」
「だって、あなただけ何回も見てるんでしょ」
先輩は頬杖をつき、僕を見た。
「それで、今回はちゃんとお友達に連絡した?」
「しましたよ」
「何て?」
「『目の前にいるけど、機嫌は良さそう』って」
しばらく、返事がなかった。
やがて先輩は、頬杖をついていた手で顔を覆った。「ひっどい」という声がした。ちょっと心外だった。
「でも、学校から離れてもついてくるんだね。その子」
「そうですね」
「じゃあ、ここにも来るかな」
先輩が部屋の入り口を見た。
僕もつられて振り返った。書類を抱えた同僚が、こちらには目もくれずに通り過ぎていくところだった。
「ここって、職場ですか」
「うん。今度、遅くなる日があったら教えて。私も残るから」
「何するんですか」
「観察」
「仕事は?」
「あるよ! 失礼だな!」
あるのなら、今やってほしい。
「見たら死ぬかもしれないんですよ」
「うん。だから、向こうに見つからないようにする」
先輩は部屋を見回した。壁際の棚とロッカー、それから、入り口の横に積まれたままの荷物へ目を向ける。
「よし。ちょっと考えとこ」
「そんな、かくれんぼみたいな話じゃ」
「だいじょぶだいじょぶ。準備するから」
先輩はもう、自分の机へ椅子を戻していた。
何が大丈夫なのか、全然分からなかった。
まあ、先輩のいつもの気まぐれだろう。本当に何かするわけが……。
数日後。
締め切りの迫った書類が片づかず、僕は残業することになった。
一応、先輩には伝えておいた。先輩は「了解」とだけ言って、そのあとは黙々と自分の仕事を片づけていた。定時を少し過ぎたころには机の上がきれいになり、気づいたときには席にいなかった。帰ったのだろう。
窓の外は、とっくに暗くなっていた。同僚たちは一人、また一人と帰っていき、蛍光灯の半分は消されている。キーボードを叩く音と、空調の低い唸りだけが、がらんとした部屋に響いている。
そして――ふと気配を感じて顔を上げると、入り口の横に積まれた荷物が、一つ増えていた。
ほかの段ボールより、一回り大きい。側面には、横長の穴が二つ、きれいに並んで切り抜かれていた。
僕は、その穴をしばらく見ていた。
穴の奥で、何かがまばたきをした。
「……先輩?」
箱の中から、しっ、と声がした。
僕は飲みかけのコップを机に置いて、椅子から立ち上がった。箱の方へ二、三歩近づく。中にいるのが本当に先輩なのか、一応確かめておきたかった。
穴の奥の目が、僕を見上げた。これが作戦らしい。呪われたらいいと思う。
すると、先輩の目が、僕の肩の向こうへ、すっと動いた。
背後で、こつん、と音がした。