あなたの友達のことを書いてください。あとでお話を聞くことがあります 作:うちっち
振り返ると、先輩の机の前に女の子が立っていた。
半分消された蛍光灯の下でも、白い襟と、おかっぱの髪がはっきり見える。机に並んだ小さな恐竜を覗き込み、一体へ指を伸ばしている。
視線を感じたのか、ふと、女の子が顔を上げた。
僕を見て笑い、それから、僕の肩の向こうへ目を移す。
そして、女の子は、僕を回り込むようにひょこひょこと段ボールの方へ向かっていく。
彼女は段ボールの前で首を傾げた。箱の横へ回り、向こう側へ姿が隠れたと思うと、反対側から顔が出てきた。不審物として認識されているらしい。
まあ、それはそうだろう。僕だって不審に思う。中身を知っていても。
箱の内側で、ごそごそ、と何かが擦れる音がした。
女の子がそちらを向くと、音はぴたりとやんだ。
しばらくして、彼女はまた箱の周りをぐるぐると回り始めた。
先輩からすれば、たまったものではないだろう。会ったら死ぬかもしれない存在が、薄い紙を隔てた向こうをうろうろしている。
でも、やると言ったのは先輩だ。少し怖い目に遭えばいいと思う。死なない程度で。
しばらくして、女の子は僕の方へ戻ってきた。ぴたりと2メートルくらいの場所で止まる。
そして、僕と箱を交互に見て、また首を傾げた。何かおかしいものがある、と訴えているようだった。
うん。おかしい。
ただ、おかしいのは主に中身なので、外から見ても分かりにくいかもしれない。
「箱が気になる?」
僕が椅子に座ると、女の子は先輩の机の前で止まり、飾ってある恐竜のフィギュアへ顔を近づけていた。
「それ、先輩のだよ。持ち主はあそこにいるから、触ってもいいか聞いてごらん」
ガタガタッ! と段ボールが鳴った。
女の子はまた箱の方へ戻っていく。
女の子は箱の前で立ち止まり、じっと見ていた。それから横へ回り、さっき確かめたばかりの側面を、また調べ始める。
ひょっとしてこの子、あんまり賢くないのかもしれない。
机の上で、携帯が震えた。
『場所を教えるな』
先輩からだった。
『それと恐竜はあげない』
命の危機に際しても、所有権は主張するらしい。
返事を書こうとしたところで、箱の穴から白い光が漏れた。中で携帯を操作しているのだろう。女の子が穴に顔を近づけ、光はすぐに消えた。
頭の悪さはどっこいかもしれないな……。
女の子は、やがて段ボールを調べるのを諦めたようだった。
先輩の机へ戻り、また恐竜を眺めている。書類を留めたクリップにも興味があるらしく、少しかがんで、紙を挟んでいる部分を横から見ていた。
見慣れた僕より、初めての職場の方が面白いのだろうか。
とりあえず、今日はご機嫌が良さそうなので、僕はパソコンへ向き直った。
さっきまで読んでいた一行を探す。すると、画面の端に、白いものがちらりと見える。襟だった。視線を動かすと、また2メートルほどの距離まで来ていた女の子と目が合った。彼女はにこっと笑う。
「君、ここは初めて? 残念だけど、ここは基本的に成人しか入れないんだ」
こうして見ていると、本当に普通の子みたいだった。
職場へ連れてこられ、親の仕事が終わるまで待っている子ども。退屈だから、机にあるものを見ているみたいな。
そのとき、スマホが短い音を立てた。
新着の通知だった。確認してから顔を上げると、女の子の姿はどこにもいなくなっていた。
……普通の子は、こういう帰り方はしないか。
「もういないみたいですよ」
すると段ボールの蓋が、ばっと開いた。
「ちょっと! 売ろうとしたでしょ!」
「見つけさせる気なら、蓋を開けてますよ」
「ひどいよ! 何でちょっと笑ってるの!」
「見たかったんでしょう。よかったですね」
先輩は自分の椅子に座り、襟元を引っ張って風を入れた。箱の中は暑かったのだろう。
「……いたね。ほんとに、いた。薄くって、ほとんど透明だったけど」
先輩の後半の声は小さかった。
……透明? あんなにくっきりと見えていたのに……?
「あなたの後ろに、急に出てきたね。部屋、半分暗いのに、あの子だけはっきり見えてた」
「そうなんですよ」
「消えるときも。机のところにいるなと思ったら、次に見たときにはもういないんだもん」
先輩は恐竜を一体、手に取った。
女の子が眺めていたものだった。「あげないぞ」と先輩は呟き、鼻先を指で撫でてひっくり返して底まで見た。
「でもさ。……こんな感じなんだ」
「何がですか」
「会ったら死ぬっていうから、もっとこう、あると思ってた」
言いたいことは、何となく分かった。確かに最初に出てくるときはそれらしい雰囲気があった、けれど……。
「悪い子には見えなかったなぁ。あの箱、何だろうって。本当にそれしか考えてなさそうで」
「先輩が隠れてるって、分からなかったんですかね」
「分かられたら困るんだけど。実際に見ると、何か……」
いったん言葉を切り、先輩は恐竜を机に戻した。
「あの子がそんなに何人も殺してるの? って思っちゃうな」
僕は、女の子が立っていた場所を見た。段ボールの周りをぐるぐる回っていた彼女を思い出す。
「もちろん、見た目だけじゃ分からないけどね。そんなことするように見えない人なんか、仕事でもいっぱい会うし」
「そうですね」
確かにいる。
ここに入っている人も、ほとんどは世間でのイメージよりずっと普通の人だ。僕らと同じことに喜んだり悲しんだりする、そういう意味では普通の人。
ただ、たまに、違う人はいる。要因は生まれ育った環境だったり、もともとだったりだけれど。彼らは、ためらいなくできる範囲がずっと広い。彼らのルールに反しただけで、簡単に人も殺したりするし、自分自身が傷つくことも躊躇しない。
「あの子がやったところを見た人は、いないんだよね?」
「……いないです」
「そっか」
先輩は、しばらく恐竜を見ていた。
* * *
帰宅して鍵を回しながら、先輩の言葉を思い出した。
あの子がやったところを見た人は、いない。それは、確かにそうだ。
女の子を見た人が死んでいる。それも、一人や二人ではない。だから、あの子が死なせているのだと考えた。けれど、もし違ったら。
部屋のカーテンは閉まったまま。棚のぬいぐるみは、今日も端で壁に寄りかかっていた。
仮に、あの子が何もしていないとして。
鞄から手帳を出し、机に置いた。
伊藤の話を聞きながらつけた丸が、名前の横に並んでいる。
大塚さんの家は火事になった。床下には、灯油を染み込ませた新聞紙があったという。
笠原さんは屋上から落ちた。宮崎さんは池で溺れた。滝口さんには、上から植木鉢が落ちてきた。
誰かが目の前で消えたわけではない。何もないところで身体がばらばらになったわけでもない。
火をつける。
高いところから落とす。
水に沈める。
どれも人間にも、できることだった。
白井さんの病気まで誰かの仕業だとは思えない。相模の死についても、僕には分からない。
でも、それが全部、同じ理由でなければいけないのだろうか。もちろん、自然に亡くなる人もいた、はずだ。
仮にだれか人間の仕業だとして。
どうして殺されなければならなかったのか。
大塚さんは下級生を泣かせ、親も周囲と揉めていたという。笠原さんは、人の物を借りたまま返さなかった。滝口さんは、誰かのためによく喧嘩をしていたらしい。
それで殺されるほど恨まれるかというと、普通はそんなことはない。
ただ、普通ならそこまでしない、という理由で可能性を消せる仕事を、僕はしていなかった。
小さな揉め事が、記録の最初に一行だけ書いてあることはある。
そのあとに続く何十枚もの紙を読みながら、どうしてここまで、と考えたことも。
僕は名取川さんの描いた絵を手帳の横へ並べた。
ぬいぐるみ。時計。小箱。本。ファイル。机の下の収納箱。
そもそも、手形といい、模様替えといい。どうして霊なのに物に干渉できるんだ? まあ、手形は怪談でもたまにあるし、あの子もこつんこつん鳴らすからきっとある程度の干渉はできるのだろうが。それでも、今日の彼女は段ボールを開けることはしなかった。
これもあの子の仕業でない、と仮定してみよう。
けれど、金も、パソコンもなくなっていない。家に置いてある予備の財布も、そのままだった。僕の知らないうちに、何かを盗まれているのだろうか。
そう言われると自信はない。でも、金を残してほかの物を持っていく理由が分からなかった。
二枚の絵を、もう一度見比べた。
動いているのは、本やファイルだけではない。小物の入った箱も、机の下の収納箱も、触られている。
場所を知らないものを、あちこち開けて探したような。何かを持ち帰るためではなく、中を見るために。
何を見る?
僕の部屋に、人がわざわざ忍び込んでまで読みたいものなんて、あっただろうか。
仕事の書類は持ち帰っていない。金になるような秘密もない。机に置いていた紙といえば、買い物のメモと、それから。
手帳へ目が戻った。
伊藤から聞いた名前が並んでいた。
町では、いろいろな人に話を聞いた。写真を持って歩き、相模のことや、昔の出来事を尋ねた。調べていること自体は、隠していなかった。
仮に、あの町で、何か事件を起こしている人間がいたとして。
どこまで知ったのか。
誰から、何を聞いたのか。
それが気になる人が、いたとしたら。
……いや、そもそも入れないだろう。
僕は掃き出し窓の前へ行き、カーテンの端を少しだけ開けた。
ガラスに自分の顔が映った。鍵のつまみに触る。こちらも、もちろん閉まっていた。窓を隔てた向こうには、ベランダがある。
外階段の踊り場からこちらのベランダの柵までは、一メートル以上あいていた。手すりに乗り、向こうへ身体を移せば、渡れないことはない。
ただ、足を滑らせたら、三階から落ちる。
そんなことをする人間はいないと思っていた。
でも、できないわけではない。
だからといって、窓が閉まっていれば、そこで終わり……。
カーテンから手を離した。ほかに、外へ通じているところ。
そういえばもう1つの部屋にも、窓はある。
普段は荷物を置くくらいにしか使っていない部屋だった。
扉を開けると、ひんやりとした空気が足元へ流れてきた。暖めた部屋とは違う、乾いた布と埃の匂いがする。
畳んだ布団と、本や服の入った箱。その向こう、ベランダに面した壁に、小さな窓があったはずだ。
そこも鍵は閉めてある。空気を入れ替えるにしても、わざわざこちらを使うことはなかった。
箱を一つ脇へ寄せ、窓の前に立った。
こんなことをしても、何も見つからない、はず。
閉まっているのを確かめて、それで終わり。
携帯のライトを向けると、窓枠のそばに黒く汚れたような部分が見えた。
最初は、汚れかと思った。
光の角度を変えると、その黒い部分の縁だけが、細かくきらりと光る。
顔を近づけてみた。
穴だった。鍵の隣のガラスに、穴が、開いている。そして、鍵は開いていた。
指が二、三本入るくらいの、いびつな穴だった。穴の向こうには、外の暗さがそのまま覗いている。冷たい空気が、細く頬に触れた。
僕は足元を照らした。
窓の桟にも、その下の床にも、何も落ちていなかった。
ガラスが割れたなら、破片が散らばっているはずだ。けれど、光の輪の中には、きらりと光るものが一つもなかった。
まるで、割れたところだけが、どこかへ持ち去られたみたいに。
女の子は、閉まった教室の戸の向こうへ消えた。今日も、誰もいなかった職場の中へ、突然現れた。先輩もそれを見ている。
あの子なら、ここを壊す必要がない。
戻った部屋でカーテンを開けた。
携帯のライトを斜めから当てると、薄く曇った跡が浮かび上がった。先日見た時よりずっと薄くなっているが、まだいくつかは残っていた。
五本の指を開いた手。
親指だけが、斜め下へ向いている。
僕は空いている手を上げ、ガラスの内側へ重ねた。
手のひらの位置を合わせる。
――
しばらく、そのまま動けなかった。
あの夜は、すぐにカーテンを閉めてしまった。窓一面の手形を見て、それで分かった気になっていた。大きさを確かめようとも思わなかった。
僕より大きい、大人の手だった。
ガラスから手を離すと、僕の手の跡が、内側に薄く残った。外側の跡と、少しずれて重なっている。
あの子じゃない。
この窓の外に立って、中を覗いていたのは――人間だ。
まだ、仮説だ。
過去の死と、この部屋の異変がつながっているかは分からない。小窓を壊した誰かが、同じように人を殺してきたとは限らない。
でも、もし、そうだったら。
何人もの死について調べていた僕の部屋へ、その死に関わった人間が入った。
僕が何を知ったのかを、確かめに来た。
玄関の方へ耳を澄ました。
廊下からは何も聞こえなかった。冷蔵庫の低い唸りと、自分が鞄を引き寄せる音だけがした。
どこに住んでいるかも、何時ごろなら部屋にいないかも、知られているのかもしれない。例えば、誰とこの事件を追っているのかも。
名取川さんとのメッセージを開いた。
『重大な話があるんだ。今から会えない?』
送ってから、手帳を鞄へ入れた。
二枚の絵も、折れないように挟む。
すぐに返事が来た。
『会えます。どこですか』