あなたの友達のことを書いてください。あとでお話を聞くことがあります 作:うちっち
名取川さんは、駅前の喫茶店に先に着いていた。
「何かあったんですか?」
何かあった。ありすぎるくらい、あった。けれど、どこから話せばいいのだろう。
「その前に、ちょっと聞きたいんだけど。最近、家で変わったこと、なかった?」
すると、名取川さんは「へ?」みたいな顔を浮かべた。明らかに戸惑っていた。それでも思い出すように少し上を向き、それから鞄へ手を入れた。
「鍵の箱が……ちょっと変でした」
「鍵?」
「玄関に置いてるんです。下駄箱の上に」
出てきたのは、鍵だった。
「これの予備とか、ほかの鍵を入れてるんですけど。中が、いつもと違う置き方になっていて」
「いつ気づいたの?」
「この前です。普段は開けないので、いつからなのかは……」
名取川さんは、手の中の鍵を見た。
「何か、関係ありますか」
ある。誰かが、それを手に取ったかもしれない。
これは今夜、彼女を家へ帰してはいけない。
僕は名取川さんの目を、真剣な表情でのぞき込んだ。
「名取川さん」
「はい」
「今日は帰らずに、僕とホテルに泊まろう」
返事がなかった。
名取川さんは僕を見たままぴたりと止まっていた。鍵を握った手が、ゆっくり膝へ下りていく。
「……ほ、ほほホテル?」
「うん」
彼女は口を開き、何も言わずに閉じた。僕の顔を見て、それから、テーブルの木目へ目を落とす。
「急にごめん。明日、何か予定ある?」
「あした。……あああああ明日は、だだ大丈夫です」
「ならよかった。ほんとに大丈夫? なんか揺れてるけど」
いや、まだよくはない。泊まれる場所を探さなければならないな。
僕が宿泊場所を調べていると、くいくいと名取川さんは袖を引っ張ってきた。
店の奥で、コーヒー豆を挽く音がした。短く止まり、もう一度鳴る。その間も、彼女は黙っていた。
「……私、何も持ってきてないです」
「ホテルなら、大体のものはあると思うよ。足りなければ、途中で買ってもいいし」
「そういうものだけじゃなくて」
ほかに何か必要なのだろうか。
僕は鞄を見下ろした。僕だって、手帳と絵と、仕事帰りの荷物しか持っていない。あとは財布と携帯。まあ、一晩くらいなら何とかなるだろう。
「部屋は僕が取るから。急に誘ったのはこっちだし」
「お金の話じゃないんです……」
声が小さくなった。
名取川さんは、上着の隙間から見えていた割烹着を引っ張り、膝の上で皺を伸ばした。袖口も見て、そこについた小さな絵の具の跡を、爪でがりがりとこする。
困っている。これは、かなり困っているように見える。
「無理だったら……」
「嫌ではないです」
「嫌だったら別々のホテルでもいいよ」と言おうと思ったらはっきり返ってきたので、僕は口を閉じた。
名取川さんも驚いたように僕を見て、それから、声を落として言い直す。
「……嫌、ではないので」
「うん」
「ただ、急だったから。ちょっと、びっくりして」
気持ちはわかる。僕も窓の穴を見つけた時は突然すぎてびっくりした。
「一緒にいてもらえると助かるんだ。名取川さんに、どうしても聞いてほしいことがある」
彼女は、また僕を見た。
今度は目をそらさず、しばらくこちらの顔を確かめていた。
「……分かりました」
鞄を持ち直した名取川さんは、僕から見えないようにするみたいに、両手をその下へ入れた。
「行きます」
「ありがとう」
「でも、先に、少しだけ家に寄ってもいいですか。着替えとか、その……この格好なので」
「ああ、今日は帰らないでほしいんだ」
「どうか着替えだけでも」
「鍵を複製されていたら、危ないから」
名取川さんが、動きを止めた。
「……かぎ……?」
僕は、さっきまで彼女が握っていた鍵へ目を向けた。それだよそれ。
「僕の部屋に、人が入った形跡があったんだ。名取川さんのところも、鍵の箱を触られていたなら、同じかもしれない。だからとりあえず家には帰らない方がいい」
彼女は僕を見たまま、何度か瞬きをした。
「重大な話とは?」
「うん。そのこと」
「ホテルは?」
「だって自宅に戻らない方がいいならどこか泊まるでしょ」
名取川さんは長く息を吐き、片手で目元を覆った。
顔を上げたとき、めちゃくちゃ睨まれた。頬は真っ赤。
「……最初から、聞かせてください」
* * *
駅から少し離れたホテルで、ツインの部屋が取れた。
壁際には机と椅子が一つ。その向こうに、白い布団を掛けたベッドが二つ並んでいる。
名取川さんは入口に近い方へ腰を下ろした。
「最初は、あの子だと思ってたんだ。三階の窓の外だし。でも、人でもベランダには渡れる。危ないけど、不可能ではないんだ」
彼女が描いてくれた絵を、ベッドの方へ向ける。
「僕の部屋で、人がわざわざ見たいものって何だろうと考えたら、今調べていることくらいしか思いつかなかった」
「調べられたくない人がいるってことですか」
「もし、昔のことが全部、事故じゃなかったとしたらね」
そこまで話すと、名取川さんは鞄から鍵を出した。
「私のところにも、その人が来ていたら」
「鍵を持ち出して、戻した可能性はあると思う。複製したかどうかまでは、分からないけど」
廊下で人の話し声がした。笑い声と、何かを引きずるような音が、ドアの前を通り過ぎていった。
「そうすると、あの子は何をしてるんでしょう? 殺しているんじゃないとしたら、どうして亡くなった人たちのところに?」
「そこは分からない。ただ、病気や事故に遭った人のところにも来てたんだよね」
病気で亡くなった白井さん。
滝口さんがひどく具合を悪くしたときにも、女の子は同じベッドに座っていた。
「あの子には、死に近い人が、分かるのかもしれない」
口にしてから、名取川さんの顔を見た。
彼女は僕を見ていた。あまりにまっすぐ見られたので、その先を言いそびれた。
なら、僕のところへ近づいてきているのは……それは、とても納得できることだった。
「でも、誰が?」
しばらくして、名取川さんが言った。
「僕らが調べてることを知ってる人、かな。まず、そこから考えてみようか。たくさんいそうだけどね」
僕は手帳の白いページを開き、ペンを取った。
「えーと、まず、名取川さん」
一番上に書いた。
顔を上げると、名取川さんがこちらを見ていた。見ていた、というより、めちゃくちゃ睨んでいた。
「いや、知ってる人の一人目かなって」
「では、二番目を早く書いてください」
それから、伊藤。杉浦。相模のお母さん。滝口さん。四年一組の窓を数えてくれた、校門の向かいに住んでるおじいさん。職場の先輩。寺の上田先輩。その他の街の人々。
並べてみると、思っていたより多かった。調べていること自体を隠していなかったのだから、当然かもしれない。
ペン先で、一人ずつ指していく。
「窓の手形は、僕より大きい手だった」
名取川さん。杉浦。相模のお母さん。職場の先輩。
四本、線を引いた。名取川さんの名前に線を引くとき、横からの視線が少しだけ和らいだ気がした。
「それに、外階段からベランダまで飛び移ってる」
あのおじいさんには、まず無理だ。
おじいさんの名前に、線を引いた。
「伊藤は……」
怖がりの伊藤が、三階の外階段の手すりに乗って、夜中にベランダへ飛び移るところを想像してみた。途中で絶対に「無理無理無理」と言って引き返している。
「……ないかな」
「私もそう思います」
伊藤の名前に、線を引いた。
残ったのは、滝口さんと、上田先輩と、「その他の街の人々」。
「あとは、僕の家と、名取川さんの家の両方に行けた人」
「両方……」
「町で一度話を聞いただけの人が、僕ら二人の家を、それも別々の場所まで探し当てるのは難しいと思う」
滝口さんとは一度会っただけで、住所の話なんてしていない。町の人たちにも、名前くらいしか名乗っていない。
二つ、線を引いた。
僕はペンを置いた。
手帳の上には、線の引かれた名前が並んでいた。その中に、一つだけ、何も引かれていない名前がある。
寺の上田先輩。
寺でお茶を出してくれた。相模のことを話して、僕らの仕事を聞いて、「刑務所! どこの?」と身を乗り出してきた。それから、女の子を見かけたら教えてほしいと頼まれた。
あの部屋には、確か強い線香の匂いがしたっけ。
「そういえば、匂い」
「匂い?」
「入られた夜、部屋で葬式のときみたいな匂いがして。相模の家で線香をあげてきたから、そのせいかと思ったんだけど」
あのときは、相模がついてきたみたいだと思った。
だが、そういうものが服や身体に染みつく場所に、毎日いる人が来たのだとしたら?
「上田先輩も、あの子を見たと言ってましたよね」
名取川さんが言った。
「うん。初恋の子だって」
僕は、寺で聞いた話を思い返した。
小学生の頃、何人かで遊んでいると、地元では見かけない女の子が混じっていた。おかっぱで、髪留めをつけていて、少し年上に見えた、と。それが?
「でも、あの子、人がたくさんいるのは苦手そうじゃないですか? 宮崎さんも、お友達がいると出てこないって言ってたんですよね」
確かにそうだ。
僕らが会ったときも、最初にいたのは僕一人だった。名取川さんが出てきて、カメラを向けると逃げてしまった。
ただ、先輩の話を聞いていたからこそ、僕は初めて女の子を見たとき、ああ、この子だ、と思ったのだった。髪留めにおかっぱの子だと、確かに言っていた。
僕は携帯を取った。
伊藤と杉浦に、「上田先輩について、何か聞いた話はない?」と送る。
先に返ってきたのは、伊藤だった。
『寺の先輩? どういう話?』
『昔のことでも最近のことでも。ちょっと気になるところがあって』
『笠原のこと聞いて回ってたとき、寺の息子の話も出てさ』
『大学のあと、しばらく町にいなかったんだって。よその寺で修行してたらしい』
『いつ頃?』
『出てったのが六年前の春で、戻ってきたのが二年前の秋。話してくれたばあちゃんが檀家でさ、そういうのやたら詳しいんだよ』
『戻ってきたのは俺も覚えてる。秋祭りのあと、うちに飯食いに来たから』
僕が知っている上田先輩は、子供の頃の姿と、寺で会ったときの姿だけだった。その間に何をしていたのかは、知らない。
僕は手帳へ、二つの時期を書き込んだ。
六年前の春にいなくなって。二年前の秋に戻ってきた。
『あと笠原が借りた本を返さなかったって話。貸したの、上田先輩だったって』
僕は画面を名取川さんへ向けた。
『この前、笠原の同級生に聞いたときに言ってた。何回も返せって言いに来てたらしい』
貸した本を返してもらいに行く。
それだけなら、何もおかしくない、が……。
杉浦からは、電話がかかってきた。
「何、急に上田先輩って」
「前に女の子の話を聞いたのを、名取川さんと思い出してて。杉浦は、何か聞いたことない?」
「女の子の話はないかな……ああ、変なことを聞かれたことならあるわ」
名取川さんにも聞こえるように、携帯を二人の間に置いた。
「何を?」
「子供の成長が止まる病気ってあるのか、って」
「成長が止まる?」
「身長の話かと思って聞いたんだけど、知り合いの子のことなのか、それもはっきり言わなくて。ちょっと気になっただけだって。変でしょ」
「いつの話?」
「去年だったかなぁ。なんで?」
「まだ、何とも言えないんだけど。上田先輩も、何か関係しているのかもしれないと思ってる。先輩が知っていて、話してないことがあるのかもしれない」
電話の向こうで、椅子を引く音がした。
「分かった。ほかに何かわかったことはある?」
「上田先輩は修行に出てたらしい。六年前の春から、二年前の秋まで」
杉浦は、そこで「待って」と言った。
「六年前の春?」
「うん。そこから四年半くらい」
「ちょっと、そのまま待ってて」
さらさらと紙を繰る音がした。僕は携帯から顔を上げ、名取川さんと目を合わせた。
「帰ってきたのが、二年前の秋?」
「そう。帰ってきたあと、伊藤の店に食べに来たって」
「今、表を送るから、見て」
届いたのは、亡くなった人たちの名前と日付をまとめた表だった。僕は画面を拡大した。隣から名取川さんも覗き込む。
「病気以外で亡くなった人たち。多くは学生時代に亡くなってて、大人になってからは数が減るの。でも、それってなんでかわかる? ……途中で何年か、途切れてるでしょう」
日付を上から追っていった。
一つの行から次の行へ移ったところで、死者が出た年の数字が大きく飛んでいる。
「……この間か」
「そう。上田先輩が町にいなかった四年半、その間の名前が一つもないの。もちろん、私が調べられた分だけ。全部拾えてるとは限らないけど」
僕は画面を少し下へ送った。
死亡の日付がまたちょこちょこ並び始めるのは、上田先輩が帰ってきたという秋より、あとだった。
電話を切ってからも、名取川さんは、表と手帳の二つの日付を見比べていた。
「先輩は、あの子が生きていると思ってるんでしょうか」
名取川さんが言った。
小学生のときに見た女の子が、何年も経ってから、同じ姿で現れる。
僕は学校の三階で会った。閉まった戸の向こうへ消えるところも見た。だから、普通の子ではないと分かった。
先輩は、どうだったのだろう。
例えば、誰かが屋上から落ちたとき。池で溺れたとき。
そこに女の子が立っていて、自分を見ていたら。
「それで、あの子が誰なのか、知りたがっていた。初恋の相手だって言えば、聞きやすいしね」
あの話を聞いて、僕らは先輩のために探してあげようとした。女の子について何か分かれば、教えるつもりでいた。
「お寺に行った日は、本当に、どなたもいなかったんですよね」
「見かけなかったよ。先輩からも、不在だからポストに入れてくれって」
そこまで言って、本堂の柱を思い出した。
女の子が何度も陰を覗いていた。墓石の上に乗って、向こうを見ていた。
僕は、祠でも探しているのかと聞いたのだった。
「……でも、誰もいないことを確かめたわけじゃない」
もし、上田先輩があそこにいたら。
女の子に何かを見られたと思っている人のところへ、僕は、その女の子を連れて行ったことになる。
あのとき僕は、何をしていたっけ。
女の子に話しかけて。彼女が何かを探しているようだったから、僕も一緒に、境内を歩き回った。
知らないところでそれを見ていた人には、どう見えただろう。
「私たちが、あの子から話を聞いたと思ったかもしれませんね」
名取川さんの言葉に、僕はすぐに返事ができなかった。
あの子は何も喋らない。こちらが聞いても、笑っているだけだ。
でも、それを上田先輩が知っているとは限らない。
携帯が震えた。
杉浦からだった。滝口さんに、上田先輩と何かあったか聞いて、返事をもらえたという。
『上田先輩とは、よく喧嘩してたって。引っ越したあと、同級生から、新しい住所を聞かれたと教えてもらったそうよ』
続けて届いた文章を、二人で読んだ。
『住所は伝えなかったって。仲がよかったわけでもないのに、何の用だろうと思ったそう』
「……でも、私たちの住所は、どうやって?」
名取川さんが僕を見た。
「教えてませんよね」
「直接はね。でも、相模の葬式で、芳名帳に書いた。あのとき来てたのは、先輩のところのお寺だった」
名取川さんは、上着の袖へ手を引っ込めた。
それきり、どちらも話さなくなった。
僕は手帳を閉じ、二枚の絵の上に置いた。名取川さんは、鍵を握ったまま膝の上の鞄を見ていた。
空調の低い音がしていた。窓の外を、車が一台通り過ぎていく。カーテンの隙間から差し込んだヘッドライトの光が、天井をゆっくり横切って、消えた。
名取川さんが、ふっと息を吐いた。何か言おうとしたのか、顔を上げかける。
机の上で、僕の携帯が震えた。
二人とも、同時にそちらを見た。
僕は手を伸ばして、画面を見た。
上田先輩だった。
『夜遅くにごめんね。この前は本、ありがとう』
少しして、もう一通。
『今日はどっちも留守だったから、また今度ゆっくり話そう』