あなたの友達のことを書いてください。あとでお話を聞くことがあります 作:うちっち
日曜日。
電車を乗り継いで、地元の駅に降り立ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
山の方は、もうすっかり色が抜けていた。改札を出ると、冷たい風が上着の隙間から入ってくる。ベストのおかげで、胸のあたりだけは妙に暖かかった。
伊藤の店には、今日も「準備中」の札が下がっている。
中では、杉浦がカウンターに機材と説明書を広げていた。僕らの生命線である録画機器である。手伝おうとしたが、すぐに取り上げられてしまった。
「貸して。こういうのは、説明書を最初から読む人がやるのよ」
僕は説明書を最後まで読まない人なので、何も言えなかった。伊藤も同じらしく、カウンターの奥で黙ってコーヒーを淹れていた。
カメラが映ることを確かめ、受信機に画面が届くことを確かめ、録音機の音を確かめた。杉浦は、どれも一回で動かした。
……さて。
僕は、上田先輩の番号を表示させた。一昨日の夜のメッセージが、画面の上に残っている。今日はどっちも留守だったから。
発信した。
呼び出し音が鳴るかどうかの瞬間で、応答があった。
「先輩、突然すみません」
「いや、いいよ。どうしたの」
声は、寺で聞いたときと同じだった。明るくて、少しだけ間延びしている。一昨日のメッセージのことには、何も触れなかった。僕も触れなかった。
「先輩が前に話してくれた、初恋の女の子のことなんですけど。あの子のことで、先輩に直接お話ししたいことがあるんです。お時間いただけませんか」
「いいよ。いつでも。どこがいい?」
話はすんなりと進んだ。何の話なのか、聞き返されることもなかった。
「今日の午後三時、四年一組の教室で、お待ちしています」
「一人で?」
すぐに返ってきた。
そうだね。そこは大事だ。お互いに。
「ええ。今日は、あの子は連れていけませんが」
「分かった。じゃあ、三時に」
通話が切れた。
携帯を耳から離すと、手のひらがじっとりと濡れていた。
「……何て?」
伊藤が、小さな声で聞いた。
「来るって。三時に」
「それだけか?」
「一人かって、聞かれた」
店の中が静かになった。
一人かどうかを確かめる理由は、そう多くない。杉浦が、黙ったまま説明書を閉じた。
* * *
学校には、用務員さんが待っていてくれた。
取材で、もう一度あの教室を描かせてほしい、という名取川さんの頼みは、二つ返事で通ったらしい。ついでに、一階の、階段から一番遠い教室も借りられた。休憩に使いたいと言ったら、ストーブまで出してくれた。名取川さんの信用は、この学校では無尽蔵らしい。
「終わったら、職員室に鍵だけ返しといてくれりゃいいから」
用務員さんはそう言って、鍵の束を名取川さんに渡した。帰り際、僕の方を見て、首を傾げた。
「えらい着込んどるな。風邪か」
「寒がりなんです」
あと、静かにしてほしいのであまり三階には近寄らないよう頼んでおいた。こういう場面だと、その場に居合わせた無関係の人があっさりと殺されることが多い気がするので。
そしてやってきた四年一組の教室。
前に来たときと何も変わっていない。
並んだ机と椅子。黒板の上の時計。後ろの壁の、空っぽの掲示板。グラウンド側の窓からは、冬の白っぽい光が斜めに差し込んでいる。
カメラは教室の後ろのロッカーの上に置いた。掃除用具の箱の陰に隠して、レンズだけが教室全体を向くようにする。録音機は、教卓の内側に貼りつけた。なんとなく、先生気分で教卓に両手をついてみた。
「映ってる?」
携帯で一階に聞くと、杉浦の声が返ってきた。
『映ってるわ。あんたが手を振ってるのも』
合図は、右手で首の後ろを触ること。合図から五分経ったら、何も起きていなくても通報する。その前に何かが起きたら、その時点ですぐに。
一階の教室から三階のこの教室までは、走って二分というところだろう。伊藤は、隣の教室で待つと言い張っていたけれど、隣はたぶん見つかる。
「一階と二階の間の踊り場にいて。見つかったら危ないから」
伊藤は、ほっとしたような、申し訳なさそうな顔をした。
嘘ではなかった。ただ、理由はそれだけでもなかった。
二分なら持ちこたえられる、刑務所ではこんなの日常茶飯事である、と言い張って、何とか納得してもらった。100%嘘である。警備隊でもなければ基本こういう場面には出くわさない。みんなの目は半信半疑だった。ベストがなかったら、聞いてもらえなかったと思う。
一階へ降りていく前、名取川さんが、教室の入り口で立ち止まった。
何か言われるかと思った。けれど、名取川さんは僕の上着の袖を、一度だけ、くいっと引く。それから手を離して、何も言わずに階段を降りていった。
午後三時、少し前。
僕は教室の真ん中の席に座って、黒板の上の時計を見た。秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
この教室で、あの子に初めて会った。
窓ガラスが、こつん、と鳴った日。
背後で、こつん、と小さな音がした。
振り返ると、教室の後ろに、あの子が立っていた。
おかっぱの髪に、小さな髪留め。にこにこと、笑っている。
……笑っている?
昨日の夜、ベストを着た僕を見て、あの子は笑わなかった。だから、これを着ていれば大丈夫だと思っていた。
あの子は、机の間を走り回り始めた。教卓の周りを一周し、窓際へ行き、また戻ってくる。誰かと遊ぶ前みたいに、楽しそうだった。
まずいかもしれない。
でも、今さらやめるわけにもいかない。上田先輩は、もうこちらへ向かっている。
僕は、走り回るあの子を目で追いながら、首の後ろに伸びかけた手を、膝の上に戻した。まだ早い。
不意に、あの子が足を止めた。
びっくりしたように目を丸くして、廊下の方を見る。次の瞬間には、もうどこにもいなかった。
来たのだろうか。
耳を澄ませたが、足音はしなかった。廊下側の扉は、上半分がすりガラスになっている。誰かが立てば、影が映るはずだった。何も映っていない。
気のせいだろうか。
念のため、教室を見回した。
そこで、僕はおかしなものを見た。
廊下側の壁の、足元の高さに、小さな窓が四枚並んでいる。上のすりガラスとは違って、そこだけは透明で、廊下の床が見える。
その一枚の向こうに、
逆さだった。
廊下の床に頭をつけるようにして、上下の逆さまになった顔が、小窓の向こうから、こちらを覗いていた。
上田先輩だった。
目が合った。けれど、上田先輩は何も言わなかった。笑いもしなかった。逆さの目が、ゆっくりと教室の中を一周する。机の下。ロッカーの前。僕が一人でいることを、確かめている。
それから、顔が小窓から消えた。
足音は、やはりしなかった。少しして、隣の教室の扉が開く、かすかな音がした。閉まる音。さらにその隣。
この階の教室を、全部見て回るつもりらしい。
伊藤を近くに置かなくて、本当によかった。
僕は、時計を見た。三時を、少し過ぎていた。
扉の開く音と閉まる音が、遠ざかっていき、また近づいてくる。
やがて、すりガラスの向こうに、人の影が映った。
今度は、普通に立っている。
「どうぞ、開いてますよ」
扉が開いた。
上田先輩は、寺で会ったときと同じ、柔らかい笑顔を浮かべていた。右手に、布の手提げ袋を提げている。
「やあ。待たせたね」
「いえ。来てくださって、ありがとうございます」
僕は席を立った。先輩は教室に入ってくると、ぐるりと中を見回した。並んだ机、黒板、後ろのロッカー。ロッカーの上で目が止まらないかと思ったけれど、視線はそのまま窓の方へ流れていった。
「三階は、ほとんど空き教室なんだね」
「建て替えるそうです」
「そっか」
先輩は座らなかった。教卓の横に立ったまま、手提げ袋を持ち替える。上着の袖口がずれて、手首の内側に白い線が何本か並んでいるのが見えた。自分で切った跡だった。面接で向かい合う人の手首に、何度も見てきた傷だ。他人の命に無関心な者は、自分の命にも軽い者が多いから。
袋の底は、重そうに下がっている。細長い何かの形が、布越しにうっすらと浮いている。包丁だろうか。万が一フランスパンだったら、あとで土下座して謝らなければならない。
僕と先輩の間には、机が二つ分ほどの距離があった。
「それで、あの子のことで話って?」
前置きは、なかった。
先輩にも、ここへ来た理由がある。僕らがどこまで知っているのか。それを確かめに来たのだ。ここからは、お互いの手札の見せ合いになる。
「実は、僕、先輩のことを疑ってるんです」
「疑う?」
「この町で亡くなった人たちのことです。何人かは、事故じゃなかったんじゃないかって。先輩が、やったんじゃないかって」
先輩は笑ったまま、首を傾げた。
「いきなりひどいな。どうしてそう思ったの」
この町で、人が殺されたという話は、表向きには一つもない。全部、事故か病気ということになっている。それなのに先輩は、何の話か、とは聞かなかった。
「目撃者から、話を聞けたんです」
先輩の笑顔が、ほんの少しだけ薄くなった。
「……あの子が、そう言ったの?」
僕は、子とは言っていない。
電話で、あの子のことで話があると言った。今日は連れてこられない、とも言った。先輩の中で、目撃者はもう、あの子に決まっているらしかった。
「見つかったら教えてくれって、頼んだよね」
「すみません。先に話を聞いてしまって。では、一つずつ聞いていきますね」
ここからは、先輩に、これ以上ごまかすのは面倒だと思ってもらわなければならない。僕が先輩を犯人だと確信していると伝われば、それでいい。それだけで、先輩には僕をここから帰す理由がなくなる。
「笠原さんって、ご存じですか。六年生のときに、屋上から落ちた」
「知ってるよ。小さい町だから」
「笠原さんに、本を貸してましたよね。何回も、返せって言いに行っていた」
「貸したかもしれないね。昔のことだから、覚えてないかな」
「先輩は、屋上に上ったことってありますか」
「ないよ。屋上は閉まってただろ」
「閉まったのは、笠原さんが落ちたあとですよ」
先輩は、何も言わなかった。
「それに、先輩を屋上で見た人がいるんです」
「それがあの子だろ」
「さあ。では、次です」
「大塚さんの家の火事は、覚えてますか」
「覚えてるよ。大きな火事だったからね」
「先輩は、屋上には上ったことがないという話でしたけど。人の家の床下に潜ったことってありますか」
「……ないよ。当たり前だろ」
「じゃあ、灯油を染み込ませた新聞紙も、見たことはないんでしょうね。当然」
先輩の顔から、少しずつ表情が抜けていくのが分かった。
本当は、こんなやり取りに意味はない。証拠は一つもないのだ。先輩は、こんな与太話に付き合う必要はまったくない。帰ればいい。それでも、自分のしたことをどこまで知られているのかが気になって、先輩はここに立っている。
「滝口さんは、ご存じですよね」
「……ああ」
「よく、喧嘩をしてたそうですね。滝口さんが引っ越したあと、同級生に新しい住所を聞いて回ってたとか」
「知らないな」
「滝口さんの頭に、植木鉢を落としましたね」
「知らない」
「目撃者がいるんです」
「そんなわけ……!」
言いかけて、先輩は口を閉じた。
目撃者がいないことには、確信があったらしい。どういう状況で落としたんだ。
「見られるはずのない場所で、同じ子に見られたこと、ありませんでしたか。どうも、縁があるみたいで」
先輩は答えなかった。
僕をじっと見ている。その目には、何も浮かんでいなかった。怒りも、焦りも。机の上の虫を眺めるような目だった。この人はたぶん、僕を殺すときにも、蟻を潰すくらいの抵抗しか覚えないのだろう。
職場で、何度も読んできた記録と同じ目だった。
「言いがかりだよ」
先輩が言った。声は、穏やかなままだった。
「俺がそんなことをする人間に見える?」
「見えるかどうかじゃなくて、やったと思ってます」
「証拠は」
「目撃者がいます」
「その子が嘘をついてるかもしれないだろう」
「分かりました。先輩は誰も殺していない。殺そうと考えたこともない。善良な一市民だと、そういうことですね」
「そうだよ。当たり前だろう」
僕は、右手で首の後ろを触った。
「じゃあ、なんで先輩は、そんなものを鞄に入れてるんですか?」
心底不思議そうに、分かりきったことを尋ねるように、僕はそう言った。
先輩の目が、初めて動いた。
何かを天秤にかけているみたいな目だった。
「善良な一市民が持ち歩くものじゃないですよね。言いがかりだと言うなら、袋の中を見せてくれればそれで済みます」
先輩は、袋を見せるとは言わなかった。
すぐに見せると言えなかった時点で、たぶん、先輩の負けだった。
そう思ったとき、腕の毛が逆立った。
寒くはなかった。窓からは、まだ午後の光が差し込んでいる。それなのに、肌だけが勝手に粟立っていく。
先輩は何も感じてないみたいだった。様子が変わらないまま、袋の中へ手を入れ、包丁を引き出す。
刃だけで二十センチ以上はありそうな、白い刃。先輩が手首を返すと、刃先に沿って走っていた白い光が消え、切っ先がこちらを向いた。
僕は顎を引き、首の前へ両腕を上げた。
先輩がゆっくりと、一歩を踏み出す。
その時だった。
先輩まで見通せていた通路に、あの子が突然現れた。まるで、目を開けたまま、見ていた景色を差し替えられたような。
僕から一メートルほど先。つい今まで見えていた先輩の服が、その小さな身体に遮られている。ちょうど、僕と先輩の間。
横を向いている女の子の目は、ずっと遠くへ向けられていた。午後の授業中、外を眺めている子みたいに。僕のことも、先輩のことも見ていない。
先輩の目が、初めて大きく開いた。けれど、その口はすぐに固く閉じられる。
もう、僕を見ていなかった。じりじりと、女の子に向かって距離を詰める。
……そうか。先輩は知らないのだ。
あの子との距離を詰めるたび、何が自分に近づいてくるのか。
先輩が、包丁を構えて床を勢いよく蹴った。
あの子が、くるりと先輩の方を向いた。
見えていた頬が向こう側へ隠れ、顎がわずかに上がる。小さな肩が、ふっと持ち上がった。
あの子が笑った。
顔は見えなかった。それでも、そう思った。