あなたの友達のことを書いてください。あとでお話を聞くことがあります 作:うちっち
包丁が、あの子の胸に入っていった。
音はしなかった。刃は水に差し入れたように、根元まで沈んだ。
目の前に、あの子の背中がある。白い襟の、すぐ下。そこから、刃先が生えてきた。何もない空気を抜けてくるみたいに、包丁の先は、まっすぐこちらへ向かってくる。
トン、という軽い感触が防刃ベスト越しに伝わった。
僕に届いたのは、伸びきった腕に押し出された刃先だけだった。1メートル手前を狙い、何も捉えられずに伸びてきた刃。
刃を横へ払う。固い物のぶつかる、がつんという重い手ごたえ。袖ごと腕が裂ける。
弾かれた包丁が、床を滑っていった。
机の脚に当たって甲高く鳴る。
包丁は教室の後ろの、ロッカーの下で止まった。
左腕の袖の中を、じわりと温かいものが伝っていく。指先から落ちたしずくが、床板を叩いた。ぽつ、ぽつ、と、秒針より少し速いリズムで。
先輩は、空になった自分の手を見ていた。
そしてゆっくりと、あの子を見た。
あの子は、同じ場所に立っていた。先輩の方を向いたまま、両手を後ろで組んでいる。胸にも背中にも、何の跡もない。ただ、窓からの光の中で、埃がゆっくり舞っていた。
先輩は、ゆっくりと膝を折った。
大人が子どもに話しかけるときみたいに、あの子と目の高さを合わせる。
先輩は、じっと、あの子の顔を見ていた。
あの子は、何も答えない。
教室が、ひどく静かだった。黒板の上の時計が、こち、こち、と鳴っている。
僕からは、あの子の顔は見えない。見えるのは、先輩の顔だけだ。
初めて見る顔だった。
虫を眺めていた目でも、寺で見た柔らかい笑顔でもない。迷子になった子どもが、ようやく見つけた親の顔が知らない人のものだったときのような。そういう顔を、僕は面接の部屋で何度か見たことがある。判決が確定したあとの人が、ときどきこういう顔をする。
子どもの頃から、ずっと見られていると思っていた人。自分のしたことを、全部知っている子がいると。年を取らないその子を、何年も探していた。初恋だったと、笑って言っていた。
……あれはひょっとして、本当だったのかもしれない。
「……そうか」
先輩は、小さく笑った。笑ったのだと思う。口の端だけが、上がっていた。
「だから、変わらないのか」
先輩は立ち上がると、こちらに背を向けて、教室の後ろへ歩いていった。土足のままの靴底が、床板をきしませる。
僕は、その場から動かなかった。左腕を胸の前に抱えて、先輩の背中を見ていた。拾った包丁がもう一度こちらを向いても、手は出さない。カメラに映っていなければならないのは、一方的に切りつけられる僕だけだ。
先輩は、包丁を拾った。ロッカーの上の、掃除用具の箱の陰を見上げている。
「撮ってたんだ」
先輩はそう呟くと、包丁を下げたまま、不意に動かなくなった。
――遠くで、サイレンが鳴り始めた。
最初は、かすかにしか聞こえなかった。それが、少しずつ大きくなっていく。こちらへ近づいてくる。
「それと、昨日、警察の人に僕の部屋の窓を見てもらいました。手形がたくさん残ってましたから。とても興味を持ってましたよ」
年配の警察官は、僕の職業欄を見て頷いていただけだった。けれど、それはもう大した問題ではない。今日のことで、先輩は捕まる。録音には、僕が先輩を、何人も殺した人だと名指しした声が残っている。
「警察って、一度こうだと思って調べ始めると、本当に全部調べるんですよ。携帯も、部屋も、車も。まあ、先輩なら大丈夫でしょうけど」
本当は、何も知らない。先輩がこれまでに何を残してきたのか、見当もつかない。
でも、先輩は知っている。自分の手元に、何が残っているのか。事件を調べている人間をあんなに気にするくらいだ。女の子という目撃者の他にも、何か証拠は残っているかもしれない。
先輩の目が、ゆっくりと宙を泳いだ。何かを一つずつ数えているように見えた。ああ、きっとこれは、何か持っている。
天井を見上げる。
「ああ……面倒だな」
並ばなければならない列の長さを見て、うんざりしたような声だった。
先輩の手首の、白い線を思い出した。先輩が今、何を面倒に思っているか。僕には手に取るように分かった。
面接の部屋では、僕は言葉を選ぶ。「出てきたら、こういう仕事がある」「住むところは、ここで探せる」、言うのはそれだけだ。
「まだやり直せますよ」なんて言わない。明るい声で、軽々しくも言わないようにしている。その言葉が、慰めではなく、もう一度最初から全部を背負い直せ、という意味に聞こえる人がいるから。
……ここだ。
このまま話していても、先輩は自分のやったことなんて認めないだろう。先輩の持っている証拠がどの程度なのかがわからない以上、一生刑務所かどうかはわからない。
このまま殺人未遂だけで受刑してもせいぜい数年くらい。出てきた先輩は、再び僕らの前に現れるだろう。
息を吸った。冷えた教室の空気に、自分の血の匂いが混じっていた。
「やり直したらいいじゃないですか」
面接では絶対に使わないようにしている、明るい声で、僕は言った。
「先輩、まだ若いんですから。出てきたら、一から、もう一度立て直しましょう。大丈夫、大丈夫ですよ」
何の根拠もない、無責任な励ましだった。「あなたが積んできたものはいったん全部なくなって、また一からですよ」。「頑張ってください」。
先輩が、こちらを見た。
しばらく、先輩は僕の顔を見つめる。
何かを確かめるような目だった。それから、ふっと力が抜けた。肩が下がって、寺で会ったときの、柔らかい笑顔が戻ってくる。
「ああ、なんだ。お前、俺にそっくりなんだ」
責めている声ではなかった。古い知り合いに、ようやく会えたときのような声。
僕は、返事をしなかった。
先輩は、包丁を持ち上げた。
刃が、首の横に当てられる。慣れた手つきだった。
深く引かれた刃が抜けた瞬間、首から血が噴き出した。
音はしなかった。鮮やかな赤が、一本の線になって斜めに跳ね上がる。
吹きあがった血が天井の蛍光灯に当たって、ばしゃりと水音を立てる。教室を照らしていた白い光が、そこだけ赤く染まった。
先輩の喉の奥で、ごぼ、と濡れた音がした。息をしようとしているのか、それとも何か言おうとしているのか。
一呼吸ごとに、また赤い噴水が噴き上がる。一度、また一度。
ロッカーの扉を、赤い筋が幾本も伝い落ちていく。空っぽの掲示板が、赤く塗られていく。天井から、ぽたり、ぽたりと、雫が落ちてきた。
冷えた空気の中で、床に広がっていく血からは、かすかに湯気が立っていた。
先輩の膝が、すぐに折れ、ロッカーにもたれてずるずると崩れていく。首からはまだ、脈を打つように血があふれていた。
その赤い飛沫の中に、あの子がいた。
倒れていく先輩の周りを、くるくると回っている。降ってくる赤いものに両手を差し伸べて。つま先で跳ねて。制服の裾をひるがえして。夕立の中ではしゃぐ子どもみたいに。
血は、あの子の髪にも、白い襟にも降りかかった。そして何も残さずに通り抜けて、床に落ちる。あの子だけが、いつまでも白いままだった。
やがて、先輩の喉からあふれる血が細くなった。喉の奥の濡れた音も、もう聞こえない。
――「お前、俺にそっくりだな」。先輩は最後にそう言っていた。
僕はそっと返事を返す。
「心外ですよ、先輩」
あの子は、動かなくなった先輩のそばにしゃがみ込んで、膝を抱え、顔を覗き込む。
寺の山道で、湯呑みの中を覗いていたときと同じ格好。葉っぱごと沈んでいく蟻を、最後まで見ていたときと。
先輩の目は、まだ開いていた。
寺で、初恋の話をしていたときと同じ目だった。虫を眺めるのとは違う、たった一つだけ大事なものを見る目。何も大事にしない人が、最後まで手放さなかったものを見る目。
床に投げ出された先輩の右手が、あの子の靴の先に重なっていた。指先が、あの子の中に沈んでいる。
子どもの頃から、ずっと追いかけていた子だ。何年も探して、どれだけ近づいても、決して手の届かなかった子。
先輩は、やっと、辿り着いたのだろう。
時計の秒針が、こち、こち、と鳴っていた。
ガラッと、背後で扉が乱暴に開けられる音がした。
* * *
左腕は、十一針縫った。
入院させられた病院のベッドは、消毒液と、糊の効いたシーツの匂いがした。点滴の管が、腕の内側にテープで貼りつけられている。
あの後、やってきてくれた伊藤が教室の後ろを見て、廊下に出て吐いた。杉浦が救急箱を抱えて飛び込んできて、僕の腕をタオルできつく縛った。「痛い」と言ったら、もっときつく縛られた。名取川さんは、扉のところに立っていた。顔が真っ白だった。
入院した日、名取川さんは来なかった。
二日目の昼、名取川さんは、病室の入り口で立ち止まったまま、僕を見ていた。鞄も、スケッチブックも持っていなかった。
「やあ」
返事はなかった。
名取川さんは、まっすぐベッドの横まで歩いてくると、僕の右の手首をつかんだ。爪が、皮膚に食い込んだ。
「モニターで見てました」
低い声だった。
「包丁が出たとき、扉まで、三歩もなかったですよね」
僕は黙った。
「逃げなかった。腕を首の前に上げて、お腹を空けて、そこに立って。待ってましたよね。刺されるのを」
名取川さんの指に、力がこもった。
「私が、どんな気持ちで、あの画面を見てたと思ってるんですか」
名取川さんの目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。拭おうともしなかった。
「馬鹿です。大馬鹿です。最低です。人でなしです」
語彙が、どんどん尖っていく。全部あってるので、何も言えなかった。
「ごめん」
「謝らないでください。謝らなきゃいけないことだって分かってて、やったんでしょう」
最後までその通りだったので、僕は何も言えなかった。
名取川さんは、僕の手首をつかんだまま、ベッドの横の椅子に腰を下ろした。それから面会時間が終わるまで、一言も喋らず、一度も手を離さなかった。
名取川さんが帰ったあと。
廊下の常夜灯が、扉の細い窓から差し込んでいる。その薄い光の中で、右の手首を目の前に持ち上げた。
爪の跡が、四つ、並んでいた。
半月の形に、赤く窪んでいる。親指の分は、手首の内側に一つ。何時間も同じところを握られていたせいで、そこだけ、皮膚が少し熱を持っていた。
先輩の手首の、白い線を思い出した。包丁を首に当てる前、袖が滑り落ちて見えた、梯子みたいな線。
お前、俺にそっくりだな。
あのとき、心外だと言った。今も、そう思っている。
似ている部分はある。ただ――。
先輩の手首の線は、先輩が自分でつけたもの。
僕の手首の跡は、僕のために泣いた人がつけたもの。
先輩の周りには、きっと、どうでもいいものしかなかったのだろう。僕の周りには、たまたま、そうでないものがいくつかあった。
それだけの違い。それは、決定的な違いだった。
手首を下ろして、毛布の中に入れる。
次の日から、名取川さんは毎日来た。
来て、椅子に座って、スケッチブックを開く。ときどき顔を上げて、僕がそこにいることを確かめるように見て、また紙に戻る。鉛筆の音が、病室の空調の音に混じって、しゃりしゃりと続いていた。
絵は、一枚も見せてくれなかった。
警察には、何度か話を聞かれた。
カメラの映像には、先輩が包丁を構えて僕に突っ込んでくるところから、全部が映っていたという。そのあと、先輩が何もない床の前に膝をつき、誰もいない場所に何か話しかけるところも。
先輩は最後まで、過去の事件を自分がやったとは一言も言わなかった。
「最後の方、誰と話していたか分かりますか」
若い刑事に聞かれて、僕は、分からないと答えた。言っても、録画の中の先輩と同じ目で見られるだけだ。
先輩の死は、自殺ということで片付いた。
寺も調べられたらしい。何が出てきたのかは、僕には教えてもらえなかった。ただ、昔の事故のいくつかを、警察がもう一度調べ直しているらしい、と杉浦が教えてくれた。
退院した日の夜。
僕は久しぶりに、自分の部屋へ帰った。
鍵を回すと、閉め切っていた部屋の、こもった空気が顔に当たった。埃と、古い紙の匂い。五日も空けると、自分の部屋なのに、少しだけ他人の家のような気がする。
床には、出かけたときに脱ぎ捨てたままの部屋着が落ちていた。机の上には、飲みかけのまま置いていったペットボトル。棚の端では、ぬいぐるみが首を傾げて壁に寄りかかっている。
窓のカーテンは、開いていた。
手形は、警察が来た翌日に拭き取ってもらった。夜のガラスには、何もついていない。ただ、明かりのついた部屋と、玄関に立ったままの僕が、薄く映っているだけ。
机に向かって、椅子に座った。
鞄から、手帳を出した。
ページには、名前が並んでいた。
ホテルで、一人ずつ線を引いていった名前。最後まで何も引かれずに残っていた、一つの名前。
寺の上田先輩。
ペンを取って、そこに線を引いた。
それで、手帳の上の名前は、全部消えた。
ペンを置いて、椅子の背にもたれた。
あれから、あの子は一度も現れていない。
あの子は何がしたかったのだろう、と考えることがある。
きっとあの子は、遊び相手を探していたのだと思う。
「学校に来たら、友達がたくさんできるよ」。
何十年も前に言われた言葉。あの子は、それをずっと覚えていた。だから、四年一組の窓から、ずっと教室を見ていたのだろう。
けれど、あの子が近づいた人は、死に近づいていく。病気で。先輩に殺されて。あの子が殺すわけではない。死ぬ人のところへ、あの子が来るのか。あの子が来るところで、人が死ぬのか。それは、たぶん誰にも分からない。
それに、あの子に近づいた人は、少しずつおかしくなっていく。
相模のノートの、何度も描き直された目。ページを追うごとに崩れていった字。人を蟻ほどにも思わなかった先輩が、最後にあの子にだけ向けていた目。
全員ではない。滝口さんは、何ともなかった。だから、そうなりやすい、くらいのことしか言えない。
もうあの子がいるあの教室には、誰も来ない。現場保存のために取り壊しはいったん取りやめになっているけれど、もう2度と、彼女の友達になってくれそうな人間はあそこにやってこない。
ひょっとしたら、彼女はもうあそこにいないのかもしれない。僕はなんとなく、校舎を背に、校庭を走って学校をあとにする、あの子の姿が浮かんだ。どこか、他の場所へ。そばにいても、怖がらない。惹き込まれもしない。死にもしない。平気な顔で、ただ一緒に遊んでくれる誰か。そんな相手を探しに、どこかへ。
そんな人間なんて、そうそういるわけはないだろうが……。いつか見つかればいいなと、そう願う。
手帳を閉じた。
ちくりと、縫ったところが思い出したように疼いた。抜糸は来週だと言われている。
時計を見ると、十一時を回っていた。
明日から、仕事に戻る。上司には、自転車で転んだと言ってある。十一針も縫う転び方を、どう説明したものか、まだ決めていない。
外を、車が一台通っていった。ヘッドライトの光が天井を斜めに横切って、壁の角で消えた。エンジンの音が遠ざかると、部屋はまた静かになった。
静かな夜だった。
明かりを消す前に、もう一度だけ、あの子のことを考えた。
四年一組の窓の外から、あの子はずっと教室を見ていた。雑巾を落とした子のことも、外ばかり見ていた子のことも、楽しそうに話していたという。机を並べたことは一度もなくても、あの子は、あの教室の一人だった。
僕らの同級生にも、どこかで、遊び相手が、ちゃんと見つかりますように。
もう1度、そっと、祈った。
――すると、不意に、その時。
カーテンが開いたままの窓の方から。
こつん。
という、何かがガラスを叩くような音が、鳴った。
「あなたの友達のことを書いてください。あとでお話を聞くことがあります」~窓の外に、お姉さんが立っています~ おわり
お読みいただきありがとうございました!
いいですよね、人外の存在と殺人鬼の交差って(性癖です)。