あなたの友達のことを書いてください。あとでお話を聞くことがあります 作:うちっち
おっしゃっていただいた方、ありがとうございました!
池から引き返す山道は、来たときより短く感じた。
名取川さんの白い背中を見ながら、木の根をまたいで下りていく。靴の裏に湿った葉がついているのか、ときどき、ぺたりと音がする。
木立の切れ目が近づくにつれて、車の走る音が聞こえてきた。最後の低い枝をくぐって舗装された道へ出ると、むっとする熱気が顔に当たった。
思わず、息をついた。
道路の端には、山から流れてきた水を通す細い溝があった。枯れ葉の間を、透明な水がちょろちょろ流れている。こちらは底が見えるな、と思ってしまい、僕は顔を上げた。
坂の下に、町が見えた。
灰色や茶色の屋根が重なり、その間を川が細く光りながら横切っていた。斜面に沿って建つ家は、どれもこちらに屋根を見せていた。
名取川さんが足を止めた。
町を見ている。そして、鞄に手を入れた。スケッチブックが出てきそうな気配を感じ、僕は先に声をかけた。
「公園、もうちょっと下だったと思う」
こちらを見上げた名取川さんは、小さくうなずいた。それから、もう一度町を見た。右から左へ、ゆっくりと視線を動かしている。
「……もう大丈夫です」
何が大丈夫なのかはわからないが、覚えたってことかな。僕はもう、さっき見ていた屋根の色すら怪しいんだけど。
坂に沿って、家がぽつぽつと建ち始めた。石垣の上の家、道より一段低いところに玄関のある家。庭先には、大きな植木鉢がいくつも並んでいる。葉に水をかけたばかりなのか、道の端まで濡れていた。
道端の消火栓の標識は、赤い丸の下半分が日に焼けていた。すぐ横の空き地には、建物の土台だけが残っている。コンクリートに囲まれた四角の中に草が生え、奥には、壁のなくなった蛇口が一つ立っていた。昔はここにも、家があったんだろうか。
「あ、ここだ」
道端の側溝に渡した短い橋。その向こうが、公園の入り口だった。
場所がわかるか少し不安ではあったけれど、迷わなかった。明るいうちに着くことができてよかった。
公園は、記憶よりずっと小さかった。
入り口から奥まで、走れば十秒もかからない気がする。地面の真ん中は踏み固められて白っぽくなっていたが、端のほうには細い草が伸び、ところどころに長い穂が出ていた。
遊具は三つ。ブランコと、鉄棒と、正式名称が何なのかはわからないけど、動物の形をしたスプリング遊具。
ブランコの鎖は錆びていて、片方の座面が斜めに傾いていた。座面の下だけ土が深くえぐれていて、支柱から伸びた影が、その窪みに落ち込んでいた。
鉄棒は、一番低いやつだけ塗装が残っていた。高いほうは支柱の根元から茶色くなっている。スプリング遊具は青い動物の形をしていたが、耳の先が欠け、顔の塗料が剥がれていた。何の動物だったのか、よくわからない。象なのか、犬なのか。
もう一つ、遊具があったはずの場所には、四角いコンクリートだけが残っていた。
ブランコの下には、靴でこすった跡がいくつもあった。動物の周りにも、小さな靴底の模様が残っている。誰も来ない公園というわけではないらしい。
ただ、奥へ行くにつれて、草が深くなっていた。
公園の奥には、高さ五メートルほどの崖が迫っている。茶色い土が横に何層も重なり、その上から草や木の枝が垂れていた。
崖の手前には、腰くらいの高さの金網の柵が立っている。僕らが子どものころには、なかったはずだ。金網の手前に、赤いボールが転がっていた。下半分が草に埋もれている。柵のこちら側だ。拾おうと思えば拾える場所なのに、色の抜けた表面には、乾いた泥がこびりついていた。
隣で、名取川さんが立ち止まった。
僕も柵に近づき、金網の上に手を置いた。金網が必要な何かが、ここで、起こったのだろうか。
実はこの公園には、二回しか来たことがない。
一回目は、小学五年生のときだった。
そこの崖に、六人で、拾った枝で穴を掘った。誰が最初に言い出したのかは覚えていない。公園の奥に穴を掘って、そこを秘密基地にする。たぶん、そんな話だったと思う。
土は思ったより固くて、時間がかかった。爪の間が真っ黒になったし、座り込んで作業していたせいで、ズボンもひどいことになった。
その日は三人くらいが入れる深さまで掘ったところで、夕方になった。入出っ張ったところを手でならして、残りは明日、ということでお開きにした。
二回目は、その翌日だった。
シートとおやつとスコップを持って、自転車で出かけた僕らを待っていたのは――昨日掘ったはずのトンネルを、真っ白な根がびっしり覆っているという光景だった。
入り口にかがみ込むこともできなかった。
昨日、僕らが座っていた場所まで、白い根で埋まっていたから。
持ってきたスコップを、誰も使おうとしなかった。穴の前に固まったまま、しばらくそれを見ていたと思う。誰かが公園の隅に階段を見つけて、上に行ってみようと言った。
崖の上がどうなっているのか、気になったのかもしれない。僕も、そのあとについていった。
コンクリートの階段を上りきると、薄暗い木の下に、灰色の石がいくつも立っていた。
墓だった。
奥にも、その横にもあった。僕はそこで足を止めて、後ろから来た誰かにぶつかられた。
僕らは、墓の下をずっと掘っていたのだ。
そのあと何を話して帰ったのかは、覚えていない。
それから、ここには来ていない。
柵に置いた手が熱かった。
金網の向こうで、白い根が穴を塞いでいた。
横に一メートル、高さは僕の腰くらい。上の縁が少し丸くなっていて、下は地面につながっている。あの日、僕らが掘った穴の形のまま、そこだけが白かった。
十数年経っている、はずだ。
ブランコは錆びたし、柵ができたし、遊具は一つ減っていた。それなのに、あれだけが、あの日の朝に見たときと同じ形で、同じ白さで、そこにある。
細い根が、隙間なく絡み合っていた。
糸くらいのものから、鉛筆ほどの太さのものまで。それぞれが勝手な方向に曲がり、別の根の下に潜って、どこにつながっているのかわからなくなっている。
周りの崖には草が生えていた。地面に近いところには苔も張っている。その中で、穴を塞ぐ根だけは、土の汚れさえほとんどなかった。
指の腹に、柵の剥がれた塗装がざらざら触れた。乾いた公園の土とは違う、掘り返した土の匂いがする。あの穴に頭を突っ込んだときにも、こんな匂いがした。
隣で、スケッチブックを開く音がした。
名取川さんが、崖を見ていた。左腕で紙を支え、鉛筆を動かし始める。
描くつもりらしい。僕はそれを止めなかったが、内心、あまり見たくないな、と思った。
柵から手を離す。
不意に、指の腹に柔らかいものが触れた。
親指と人差し指の間で、細いものが潰れる感触。湿っていて、少し冷たい。それが引っ張られ、ぷつりと切れた。
思わず手を振った。
何も落ちなかった。
開いた手には、柵から移った赤茶色の錆がついているだけだった。親指と人差し指をこすり合わせる。乾いている。爪の脇に、細かい塗装のかけらが挟まっていた。
でも、何かをちぎった感触だけが、確かにまだ残っていた。
顔を上げる。
白い根は、金網の向こうにあった。手を伸ばしても届かない。
「上、行こうか」
名取川さんはスケッチブックに目をやると、彼女は少しだけ鉛筆を動かしてから、うなずいた。紙を閉じ、鞄にしまう。
僕らは公園の隅にある階段へ向かった。
崖の横を折り返すように作られた階段は、端のほうに落ち葉がたまっていた。手すりの根元から草が生え、靴を置ける場所を少しずつ狭めている。途中で振り返ると、ブランコの横棒が、もう目の高さより下にあった。
前回は、不意打ちで墓の群れが出てきたから不覚をとったが、今回は違うぞ。そちらの手の内はわかっているのだからな。そう思いながら、最後の段を上りきる。……あれ?
「少ないな、お墓」
そこにあった墓は、全部で十基もなかった。
低い石垣に囲まれた土地に、いくつかずつ、少し間を空けて並んでいる。一面の墓、というのには程遠い。奥の古い墓石は傾いていたが、手前の二つには花が供えてあった。
後ろから顔を出した名取川さんも、同じように立ち止まった。
記憶の中では、もっと、こう、どこまで行ってもお墓、という感じだったんだけど。
階段の向こうに、公園が見える。鉄棒と、ブランコの支柱。その横に、草に覆われた柵の一部がのぞいていた。
ブランコがあそこにあるなら。さっきの穴は、このあたりの下になる。
僕は足元を見た。
靴の先に、細かい砂がついていた。その向こうに、墓石を支える四角い石の台がある。
子どものころ、僕らはどこへ向かって掘っていたんだろう。
「とりあえず、僕の子どものころの記憶はあてにならないということがわかった」
坂を下りながら、僕は言った。
記憶の中では、階段を上りきった瞬間、数えきれない墓が僕たちを迎えたことになっていた。実際にあったのは十基未満。そのときの僕らは、よっぽどびっくりしていたんだろう。
名取川さんが、こちらを見上げた。それから、首を横に振る。
「え?」
足を止めた彼女が、スケッチブックを開いた。
さっき描いた、崖の絵だった。
土の層が横に走り、上から草が垂れ下がっている。手前には金網。穴の部分は紙の白さが残され、その中を細い線が何本も横切っていた。根に塞がれた入り口が、周りの暗い土から浮き上がって見える。
その隅に、小さな名取川さんが描かれていた。
頭の上で両腕を丸くして、大きな丸を作っている。
……ああ。
墓の数は間違っていた。でも、あれは間違っていなかった、と言いたいわけだ。
「そうだね」
名取川さんは絵を閉じた。
それ以上、二人とも何も言わなかった。
坂を下りきったところで、古い商店の前を通った。
軒先のテントには店の名前が残っていたが、ガラス戸の内側には茶色い紙が貼られ、中は見えなかった。戸の脇には、アイスの絵が描かれた看板が立っている。
その角を曲がると、道は山の裾に沿って続いていた。道の分かれ目には、小さな石柱が立っていた。寺の名前と、左を指す矢印。苔がついていて、文字の下半分はほとんど読めない。
左に曲がると、人家の塀が途切れ、道の両側が木立に変わる。
ひときわ大きな木の根元に、湯呑みが一つ置いてあった。
小さな平たい石を据え、その上に載せてある。中には雨水と、黒くなった葉がたまっていた。地蔵も墓も見当たらない。
少し先にも、同じような石があった。
そちらの湯呑みは割れていて、底だけが残っていた。
何に供えたものなのだろう。
寺に着いたのは、四時を過ぎたころだった。
境内へ入るところにも、湯呑みがあった。
門柱の脇の平たい石に、一つ。中には黒くなった葉が沈んでいた。
僕は来た道を振り返った。
木立の間に、さっき通ってきた細い道が見えていた。湯呑みはどれも、道から手を伸ばせば届くところに置かれていた。
お供えなら、すぐそこに寺があるのに。