あなたの友達のことを書いてください。あとでお話を聞くことがあります 作:うちっち
週が明けても、なんとなく、右手の指先が気になっていた。
あの公園で、触ってもいない根をちぎったときの、冷たく柔らかい感触がまだ残っているような気がして。
「指、どうかした?」
隣から声をかけられて顔を上げると、先輩がこちらの手元を見ていたので、僕は知らないうちにまたこすり合わせていた指を離して、何でもないです、と答えた。
「ささくれ? 気になるよね、あれ。私、気になって引っ張ったら、取れなくていいところまで取れたことある」
痛い話はやめていただきたい。
「じゃあ、例の怖い話はどうなったの?」
形見分けから帰ってきたあと、何となく話してしまって以来、先輩はたびたび進捗を聞いてくるようになった。こちらの手持ちが増えていない日にも催促されるので、週刊連載の作者はこんな気分なんだろうか、と少しだけ思ったり。
「この前、写真に写ってた場所を回ってきました。池と、公園と、お寺です」
「へー! どうだった?」
「何かがいた、とは言えないですが……」
池と白い根のことを説明すると、先輩は途中まで楽しそうに聞いていたものの、十数年前とまったく同じ状態だったと伝えたところで、少し首をかしげた。
「同じに見えただけじゃないの? 子どもの頃の記憶って、結構あてにならないでしょ」
「それは僕も思ったんですけどね」
実際、墓の数は記憶と全然違っていたのだから、そういうことなら全部まとめて記憶違いということにしてほしいのに、なぜ根のことだけは今もこうして指先に残っているんだろう。真っ先に忘れていい類の記憶では。
「次は? どこ行くの?」
「学校です。相模が何度も行ってたみたいなので」
「いいなあ、学校。いかにも何か出そう!」
同感だ。いかにも何か出そうだから困ってもいるのだけれど、そのあたりについては聞く側と行く側の間に埋めがたい溝があるようだった。先輩は「何かあったら教えてね」と言って自分の机に戻っていく。僕も書類へ目を落としたものの、遠くで鉄の扉が閉まる音がして、その響きが消えるまで、次の一行がなかなか頭に入ってこなかった。
* * *
そうして二週間が経ち、十月も半ばになると、田舎の駅前にもようやく秋が来ていた。日なたを歩いているうちは暖かいけれど、駅舎の陰に入れば薄手の上着の袖を通して風の冷たさが伝わってくる。
名取川さんは先に来ていて、ベンチに座って膝の上にスケッチブックを開いたまま、携帯電話を耳に当てていた。僕が邪魔をしないように近づくと、こちらに気づいて小さく頭を下げ、そのまま相手の話を聞きながら膝の上へ目を落とした。
「……はい。完成間近です」
何の話だろうと思っていると、名取川さんは真剣な顔のまま、さらに続けた。
「はい、今も見ていますよ。満足のいく下絵ができました」
名取川さんの膝の上に開かれているスケッチブックは、紙の製造元が出荷時の品質を誇っていいくらいに真っ白で、鉛筆による侵略を一切受けていなかった。
僕がページを見ていることに気づいた名取川さんは、何も言わずにスケッチブックをさっと閉じた。隠すんだ。
しばらく「はい」と「大丈夫です」を繰り返してから通話を終えた彼女は、携帯電話を鞄にしまうと、何事もなかったように立ち上がった。
「お待たせしました」
「仕事、大丈夫?」
「はい、大丈夫です。問題なく進んでいます」
「本当に?」
名取川さんは少し黙った。
それからスケッチブックを開き、さらさらと鉛筆を走らせる。
こちらへ向けられた紙の中では、小さな名取川さんが机にかじりついていた。
眉をつり上げ、歯を食いしばり、片手で鉛筆をものすごい勢いで走らせている。もう片方の手では次の紙を引き寄せ、その背後からは、巨大な『締切』の二文字が今にも押し潰さんばかりに迫っていた。
「全然大丈夫じゃないじゃん」
「問題ありません。行きましょう」
さっき電話で言っていたのとまったく同じ声だったので、僕はそれ以上聞かないことにした。
名取川さんがスケッチブックを閉じようとしたとき、浮き上がった紙の下に、黒く塗り込められた絵がちらりと見えた。その中には、白い四角が一つ。
白い四角には、缶やペットボトルが何段にも並び、その下に小さなボタンがついている。――自動販売機だった。
その手前には、学校の机と椅子が描かれている。
「待って」
名取川さんの手が止まった。
「その絵、見せてもらっていい?」
スケッチブックを受け取って座ると、名取川さんも隣へ腰を下ろした。
紙から鉛筆の匂いがした。
真っ暗な教室の中で、自動販売機だけが光っていて。床にその明かりが落ちている。
「これ、夢の絵?」
「はい。先日見まして。よくわかりますね」
僕は息を吸った。
知っている。
この教室を、僕は知っている。先週、夢で見た。黒い窓も、その手前に並ぶ机も、いちばん後ろに置かれた自販機も。あるはずのない場所にあるはずのないものがあって、それなのに、夢の中の僕は当たり前のようにそこへ歩いていった。
あの夢と同じ、自動販売機。絵に描かれたそのボタンには、小さな文字が書いてある。
僕はスケッチブックを顔へ近づけた。
ボタンには何かが書いてあった。数字ではなく、細かな文字で、夢の中では、どんなに目を細めても黒い線が潰れてしまって、読めなかった。
絵の自動販売機のボタンには、細かい文字が描かれていた。ボタンのところに、値段の代わりに書かれていた文字。それは、全て同じだった。
【あなたを見ている】
【あなたを見ている】
【あなたを見ている】
【あなたを見ている】
【あなたを見ている】
【あなたを見ている】
【あなたを見ている】
上の段から下の段まで、ボタンは一つ残らず、同じ字で埋まっていた。
隣で、名取川さんが僕の顔を見ていた。
学校との約束は午後五時だったため、僕らは先に火事で亡くなったという大塚さんの家の跡地へ向かった。
商店街を抜け、川沿いの道から住宅の並ぶ細い坂へ入ると、庭木の向こうで柿が色づいているのが見えた。
大塚さんの家があった場所は、そんな普通の家々の間に残っていた。
建物は完全に取り壊され、腰ほどの高さまで伸びた草の中に「売り地」と書かれた看板が傾いていている。作文に窓の外のお姉さんについて書いていた大塚さんが、家族と一緒に亡くなった場所。
名取川さんが写真を取り出したので隣から見せてもらうと、相模の撮ったものには今より短い草と同じ看板が写っていて、看板の向こうに少しだけ見える隣家の雨どいまで一致している。場所を間違えているわけではなさそうだった。
けれど、目の前にあるのはそれ以上でもそれ以下でもない空き地で、焼け残った柱も煤けた壁もなく、草の間にコンクリートの角らしいものが見える程度だった。
撮り終えた名取川さんが立ち上がって首を横に振ったので、僕らはもう一度だけ空き地を振り返ってから、学校へ向かう坂を上り始めた。
子どもの頃は学校まで歩くのにずいぶん時間がかかっていた気がする。だが、今日は、20分もかからず校門が見えてきた。歩幅の違いだけではなく、あの頃は側溝に何かいれば止まったし、知らない道があれば入ったし、何もなくても誰かが急に走り出していたっけ。
校門の脇には「あいさつは 心と心の 合言葉」という標語の看板が立っていた。その向こうにある校舎は記憶の中よりもくすんで見える。外壁には細いひびが走り、窓枠の下には雨水の流れた跡が何本も残っている。
懐かしく思って立ち止まっていると名取川さんに袖を引かれ、時計を見ると約束の時間まであと少ししかなかった。僕の寄り道する心は、今も健在であるらしい。
来客用の玄関で名前を告げると、応対してくれた職員の人がぱっと顔を明るくした。
「名取川先生ですね。お待ちしておりました」
そのまま職員室の前まで案内され、校長先生と教頭先生に迎えられた。僕らの頃とはどちらも違う人だったけれど、二人とも名取川さんのことはよく知っているらしい。海外での活動を新聞で読んだとか、寄贈された絵を子どもたちも毎日見ているとか、次々に話しかけている。何度かこちらにも「で、こっちは誰?」という視線が飛んできたので、僕はもっともらしい顔をして頷いた。
名取川さんは鞄の持ち手を両手で握りながら「はい」「ありがとうございます」と合いの手を入れていたが、明らかに居心地が悪そうだった。
「いつか、子どもたち向けに講演していただけたらと思っているんです。もちろん、お仕事に差し支えないときに」
「……機会がありましたら」
上手な返事だった。これさっき見た。作品の進捗を電話で報告してた時のやつだ。
今日は名取川さんが、母校の校舎を作品の参考に見せてもらいたい、と事前に話を通してくれていた。
「以前寄贈していただいた絵は、こちらに飾らせていただいています」
教頭先生が示した廊下の壁には大きな額があり、その中に暗い色の絵が収まっていた。ぱっと見では何が描かれているのか分からない。黒に近い青や灰色が画面の大部分を占め、その間に黄色と白の明るい色が、細く残っている。近づいてみると暗い部分も一色ではなく、幾つもの色が薄く重なっていることが分かった。
「講演なんですが、いつ頃でしたらご都合がつきやすいでしょうか?」
「名取川先生。そろそろ用事を済ませないと。作品の締め切りが危険です」
明らかに嫌そうな顔をしていたので、講演の話を無理やり打ち切る。すると、名取川さんは恨みがましい目をこちらに向けてきた。「締め切り」という単語に反応したらしい。
話が途切れたところで僕らは、その場を離れた。
少し歩いたところで、名取川さんがスケッチブックを開く。
鉛筆が素早くしゃっしゃっと動く。
紙の中では、小さな名取川さんが大勢の人に囲まれていた。
眉を八の字にして、目にはうっすら涙まで浮かべ、囲みの隙間から必死にこちらへ両腕を伸ばしている。助けを求めているらしい。
「もう助けたよ」
名取川さんはまた鉛筆を動かした。
今度は紙の中の名取川さんが、満面の笑顔で両腕を頭の上に伸ばし、大きな丸を作った。えらい、と言ってくれているらしい。
現実の名取川さんは、何事もなかったような顔でスケッチブックを閉じた。
そのとき、階段の方で、こつん、と小さな音がした。
廊下の少し先に、上へ続く階段があった。踊り場で折れ返していて、ここからでは上の階は見えなかった。
誰かが覗いていたわけではない。ただ、僕が目を逸らすのを待っているような、その静けさが気になった。
「……どうしました?」
「いや」
名取川さんに顔を向けてから、もう一度、上を見た。
やっぱり、何も見えなかった。