あなたの友達のことを書いてください。あとでお話を聞くことがあります 作:うちっち
「おう、名取川。久しぶりだなあ」
背後から声がして振り向くと、作業着を着た男の人が何本かの鍵を手に立っていて、その顔を見ているうちに、昔、校庭の隅で落ち葉を集めていた姿が今の姿に重なった。
「……あ、用務員さん?」
「お前も来てたのか。二人とも元気そうだな」
名取川さんならともかく、十数年前の生徒だった僕まで覚えているとは思わなかったので、思わず自分を指さすと、用務員さんは、そりゃ覚えてるよ、と笑った。
「この絵なあ。立派なものをもらったのは分かるんだけど、俺には難しくてね。最初に見たときは、ずいぶん暗い絵だなあって思ったよ。子どもには何が描いてあるか分かるのかねえ」
用務員さんが絵を見上げたので、僕ももう一度眺めてみたけれど、やっぱり何が描いてあるのかは分からなかった。
……ただ、しばらく見ていると、傘に当たる雨音が少し弱くなってきたときのことを思い出した。まだ降っているし空も暗いのに、雨が少しずつ遠ざかって、もう少し待てばやむんじゃないかと思えてくる、あの感じ。
「名取川さん、これ描いてたとき、何かいいことあった?」
隣を見ると、彼女は絵ではなく僕を見ていた。少しの間、いつものようにこちらの顔をのぞき込んでから、小さく笑う。
「……ありました」
「そっか」
それなら何となく分かる気がして、僕がもう一度絵へ目を戻すと、用務員さんは僕と名取川さんを交互に見てから、やっぱり分からないというように首をかしげていた。
今は校舎の建て替えに向けて、授業に使う部屋を順に仮設校舎へ移しているところで、三階の教室にはもう大したものを置いていないのだという。鍵を貸すので自由に見てきていいと言う。思っていたよりおおらかな対応。
鍵を受け取ったところで、名取川さんが鞄から校舎を見上げて撮った写真を一枚取り出し、その上の方に指を添えてから用務員さんを見た。
「屋上も、見せていただけますか」
「屋上か。あそこは普段、閉めてるんだけどね」
「写真を撮ったら、すぐ戻ります」
深く頭を下げたので、僕も隣で「どうしても作品に必要でして……」と続けると、用務員さんは少し考えてから手元の鍵束を探った。
「じゃあ、先にそっちを済ませて、鍵だけ一度返しに来い。柵には寄りかからないようにな」
屋上に続く最後の階段だけは空気がひんやりしていて、踊り場の窓には細かい埃がついていた。鉄の扉に鍵を差し込んで回すと途中で引っかかったような重い手応えがあり、何度か力を入れ直してようやく、ガシャン、と音がする。きしむ音とともに隙間が開き、冷たい風が首元へ吹き込んできた。
屋上へ出てみると、床はところどころ黒ずみ、排水口の周りには乾いた落ち葉が固まっていた。雲の端が薄い橙色に染まり始め、町の屋根が低く並んだ向こうには山が見えている。一番高いところにいるせいか、空の広さと風の音ばかりが耳に残った。いや、それにしても眺めがいい。
ふと振り向くと、名取川さんがカメラを持ったまま呆れたような顔でこちらを見ていたので、僕もようやく本来の目的を思い出した。
「ここへは何をしに?」
「写真です。僕は写真を撮りに来ました」
「よろしい」
少しだけ口元を緩めた名取川さんがカメラを構えたので、僕も事故のあった側を確認しようと周囲を見回したところで、肝心なことを聞いていなかったのを思い出した。
「ここでも転落死亡事故があったって、相模の新聞記事にあったよね。そういえば、事故があったのって、どっち側だったっけ」
名取川さんの手がぴたりと止まった。カメラの向こうからこちらを見たあと、まだ撮っていない側へゆっくり目を向ける。
「……全部、撮りましょう」
「そうしようか」
髪の間から見える耳が、少し赤かったけれど、僕も知らなかったんだから、そこはお互い様だった。
屋上の鍵を返してから、僕らはもう一度三階へ上がった。
四年一組の前まで来ると、さっきまでの開放的な気分はすっかり消え、照明のついていない廊下には窓から夕方の光が入り、廊下を赤く照らしていた。
名取川さんが相模の写真を確かめて目の前の教室と見比べ、小さくうなずいたのを見てから、僕は鍵を開けた。
屋上の扉とは違い、教室の戸はあっけないほど軽く動き、からからと音を立てて開く。中には、机も椅子もない、がらんとした部屋が広がっていた。黒板の上には「一人一人がみんなのお手本です」と書かれた標語。後ろの壁には空のロッカーが並んでいる。埃と古い木の匂いに、かすかにチョークの粉の匂いが混じっていて、僕は掃除の時間に黒板消しを叩いていたときのことを思い出した。
相模が撮った写真には、まだ机が並んでいた。そのあとに片づけられたのだろう。
「後ろの窓だよね」
名取川さんがうなずいてカメラを構えたので、僕は壁際を回って教室の一番後ろにある窓へ近づいた。
下にはグラウンドがあり、屋上から見たときより地面は近い。だが、ここから落ちても大丈夫そうだと思えるような高さではまったくなかった。外壁には細い出っ張りがあるけれど、靴のつま先を載せられるかどうかという程度。窓の外に立てる人間は、きっとイモリの生まれ変わりだろう。
カシャッ。
背後でシャッターの音がした。何か写ったかと聞いてみたけれど、名取川さんは画面を確認して首を横に振った。見せてもらった写真には夕方の窓と、その前に立つ僕が写っていて、ガラスに重なった自分の顔を見ているうちに、相模の写真を思い出す。
あいつも、こうしてここに立ったのだろうか。
「下に飾ってあった絵、いつ頃描いたの?」
黙っているのが嫌で聞いてみると、ふと、名取川さんが顔を上げた。同時に、背後から、ガラスを指先で軽く叩いたような音が聞こえた。
こつん。
僕らは同時に、さっきまで僕が立っていた教室の一番後ろの窓へ目を向けた。そこには、夕日を受けたガラスに僕らの姿が薄く映っているだけ。ところが、同じ場所からもう一度、こつ、と小さな音がした。
名取川さんの指が僕の袖をつかんだ。
そして、そのまま待ってみても、三度目の音は聞こえなかった。
教室の中を見て回り、名取川さんはいくつか場所を変えて写真を撮ったものの、おかしなものは何も写らなかった。おかしなものがないことが逆に何だか嫌だった。じゃあさっきの音は何なんだ。
そろそろ戻ろうかと思い始めた頃、名取川さんがまた僕の袖に触れた。
「……お手洗いに、行ってきます」
「うん」
そう答えたものの、名取川さんは鞄を持ち直しただけで動かなかった。
開いた戸の向こうを見てから、僕を見る。
それから少し迷うように目を伏せて、鞄からスケッチブックを取り出した。
さらさらと鉛筆を走らせる。
描かれたのは、長い廊下だった。
その真ん中を、小さな名取川さんが一人で歩いている。
肩をすぼめ、眉を八の字にして、口は情けなくへの字に曲がっていた。両腕を胸の前に寄せ、片足をおそるおそる前へ出しながら、何度も後ろを振り返っている。
そのずっと後ろの方には、小さく僕が立っていた。窓から外を眺めてぼーっとしている。「いや、それにしても眺めがいい」とか思ってそうな顔だった。
……なるほど。
「僕も行こう」
ぱたん、とスケッチブックが閉じられた。
「別に、そうしてほしいわけじゃないですけど」
髪の間から見える耳まで赤くしていたので、ここで余計なことを言うのはやめておいた。
教室の戸を閉めて二人で廊下を歩き、四年一組から一番遠い端にあるトイレまで来ると、名取川さんは小さな声で「すみません」と言った。
「いや、これは一人だと嫌だと思う」
正直に答えると、名取川さんは少しほっとした顔をしてトイレへ入っていった。
手持ち無沙汰になった僕は、なんとなく、あたりを見回してみる。
廊下は端まで見渡すことができ、さっき二人で歩いてきた床が、長い板のように四年一組の方まで続いていた。窓から差し込んでいる夕焼けの光で、いつの間にか、廊下は一面真っ赤に満たされていた。
……日曜日の学校だ。当然誰も、いない。
グラウンドを見下ろすと、世界の輪郭が、すべてが赤に染められていた。朝礼台も、遊具も、端に寄せられた古いサッカーゴールも。
そのとき、なぜか足元から、日の当たる場所に立ったまま日陰だけがゆっくり這い上がってくるような寒さを感じた。
最初は窓際に長く立っていたせいかと思ったけれど、腕にはまだ西日の温かさが残っていて、廊下の空気そのものが冷えたようにも思えない。やがて首筋を冷たい指先でゆっくりなぞられたような感触がして、僕は反射的に振り返った。
長い廊下の端まで見渡しても、人影らしいものはどこにもなく、夕方の光が床の上に細長く伸びているだけ。
夕方の光を受けたガラスには廊下が薄く映り込んでいて、そこにも自分以外の姿は見当たらない。しばらくそのぼんやりした反射を眺めていたけれど、さすがに馬鹿らしくなって、トイレの扉へ目を向けた。
中で何かがかすかに動く音がして、名取川さんがいることを確かめるようにその音を聞き、それからもう一度廊下へ目を戻した。
するとそこに――女の子が立っていた。
五メートルほど先に、小学生らしい女の子が一人で立って、こちらを見て、笑っていた。
僕が気づくのを、待っていたような笑い方だった。