着衣巨乳知覚理論 ~「服の上から見た方が大きい」はなぜ起こるのか~ 作:落胆論
「服を脱いだだけで、乳房そのものの大きさが変わることはあるか」
講義開始から一分も経っていなかった。
教授は黒板の前に立ち、学生たちへそう問いかけた。黒板にはまだ講義名さえ書かれていない。机上にはノートやタブレット端末が並び、学生たちは問いの意味を考えていた。
前列の学生が手を挙げた。
「短時間で、という条件でしょうか」
「そうだ。疾病、外傷、急激な体液変動その他の特殊な条件は除外する。成人女性一名が衣服を着ている状態から裸体になった。ただそれだけだ」
「その条件であれば、乳房組織そのものの体積が急激に減少するとは考えにくいです」
「その通りだ」
教授は黒板へ向き直った。
「Vは、ここでは乳房の
教授はその下へ、もう一行を書き加えた。
「一方で、こちらは成立し得る」
学生の何人かが黒板を見た。
「Bpは
後方の学生が手を挙げた。
「つまり、実際の大きさはほとんど変化していないにもかかわらず、服を着ているときの方が大きく見える場合がある、ということですか」
「そうだ。さらに言えば、着衣状態を先に見たあとで裸体を見ると、
教授は二つの式の間に一本の縦線を引いた。
「今日扱うのは、この差だ」
講義室ではペンを走らせる音が続いた。
教授は黒板の左側へ、新たに三文字を書いた。
「この問いから始める」
少し間を置いて、教授は続けた。
「日常語としての『巨乳』は簡単だ。胸が大きい。それで意味は通じる。しかし、学術的な対象として考えようとすると、途端に曖昧になる。何をもって大きいとするのか。乳房体積か。胸囲か。カップサイズか。前方突出か。身体全体との比率か。それとも、観察者が大きいと感じた時点で巨乳なのか」
学生の一人が手を挙げた。
「バストサイズで定義するのでは駄目なのでしょうか」
「では、簡単な問題を考えよう」
教授は黒板中央に「演習1」と書いた。
「以下の数値は、講義用に設定した成人女性の架空モデルである」
教授は二つの数値を書いた。
「二人ともバストは96センチである。では、二人の乳房は同じ大きさか」
すぐには答えが出なかった。
前列の学生が口を開いた。
「胸囲が同じでも、胸郭そのものの大きさが違えば乳房量は同じとは限りません」
「その通りだ」
教授はモデルAとモデルBのB96へ線を引いた。
「バスト寸法は乳房だけを測っている数字ではない。胸郭、背部、皮下組織、乳房の突出その他を含めた周径である。したがって『B96だから乳房体積も同じ』とはならない」
別の学生が続けた。
「ウエストとの差も、見た目には影響します」
「それも重要だ」
教授はモデルAの数値へ丸を付けた。
「モデルAでは、B96に対してW61である。モデルBではB96に対してW72。乳房そのものの条件を統制できたとしても、身体に対する相対的な大きさは同じではない」
黒板に簡単な式が書かれた。
「現段階では正確な数式として扱う必要はない。重要なのは、大きさが対象単独では決まらないという点だ。同じ量でも、何と比較されるかによって印象が変わる」
教授はさらに一例を書いた。
「モデルCはバスト90センチだ。数値だけを比較すれば、モデルAやBより小さい。しかし、身体全体が細く、胸郭も小さい場合、視覚的にはモデルBより胸部が大きく感じられることがある」
「実測値では負けていても、相対値では上回る可能性がある」
「そうだ」
黒板に新しい言葉が加えられた。
「この三つを分離しなければならない」
教授は学生たちの方へ向き直った。
「ここまでで一つ分かる。『巨乳』は単一の測定値では定義しきれない」
後方の学生が手を挙げた。
「では、カップサイズならどうでしょうか。トップとアンダーとの差を見るので、単純なバスト寸法よりは乳房量に近いのでは」
「良い。では第二問だ」
黒板に「演習2」が追加された。
「成人女性の架空モデルDとEを考える。両者は同一カップ区分であるとする。しかし、Dは胸郭が広く乳房基底部も広い。Eは胸郭が狭く、乳房基底部も狭い。その代わり、Eの乳房は前方へ強く突出している」
教授は黒板に簡単な側面図を二つ描いた。
一方は胸郭上に広くなだらかに分布し、もう一方は狭い範囲から前方へ大きく張り出している。
「どちらが大きく見える」
「側面ならEです」
「理由は」
「前方への突出が大きいからです」
「そうだ」
教授はEの図の前方へ矢印を書いた。
「P。今後、非常に重要になる変数だ」
一人の学生が質問した。
「乳房の体積より、前方突出の方が重要という意味でしょうか」
「常にそうだとは言わない。ただし、人間が乳房の大きさを視覚的に判断するとき、前方突出が強力な手掛かりになる条件がある」
教授は図を指した。
「乳房は硬い球ではない。脂肪組織、乳腺組織、結合組織などから構成された軟部組織であり、胸郭上に広がっている。同じ程度の体積でも、横方向へ広く分布するか、下方へ多く分布するか、前方へ強く突出するかによって、外観は変わる」
学生がノートへ書き込んでいる間、教授は黒板の隅に三方向の矢印を描いた。
「便宜上、乳房の分布を左右、上下、前後の三方向へ分けて考える」
「実際の人体はこのように単純には分解できない。しかし、概念を理解するには十分だ。乳房組織の総量が同じであっても、そのうち前後方向へ現れる割合が増えれば、側面から見た突出は増える」
前列の学生が手を挙げた。
「それなら、ブラジャーで胸が大きく見える現象にもつながりますか」
「つながる」
教授はすぐに答えた。
「ただし、それは次回以降に詳しく扱う。今日は、その前提となる『体積と形態は同じではない』というところまで理解してほしい」
学生は頷いた。
教授は黒板の最初の二式へ戻った。
「ここで問題が出てくる。なぜ、着衣しただけで下の式が成立するのか」
学生の一人が答えた。
「ブラジャーで持ち上がるから」
「一因だ」
「服そのものの厚み」
「それも一因だ」
「体に沿う服なら、胸の輪郭が強調されるから」
「それもある」
教授は三つの答えを黒板へ書いた。しかし、その横に大きく「不足」と書き加えた。
「いずれも正しい。しかし、個別の現象を並べただけでは理論にはならない」
教室の空気が少し変わった。
「たとえば、薄手ニットと厚手セーターを考えよう」
黒板に二つの衣服が書かれる。
「薄手ニットは身体へ沿う。だから乳房形状が外から分かりやすい。ここまではよい」
教授は厚手セーターを指した。
「では、厚手セーターはどうだ。身体表面への追従性は低い。にもかかわらず、乳房が大きい人物では胸部全体が非常に大きく見えることがある」
学生が答えた。
「胸で服全体が前へ押し出されるからでしょうか」
「そうだ」
教授は横から見た模式図を描いた。
裸体では乳房下面が身体側へ戻る。対して着衣側では、乳房頂点によって前方へ押された布がそのまま腹部へ斜めに垂れている。
「ここを見なさい」
乳房下面と衣服の間に生じた空間が示される。
「この部分には乳房組織はない。しかし、外から見ることもできない」
「衣服表面だけを見れば、胸部全体がそこまで前へ出ているように見えます」
「そうだ。つまり衣服は乳房を隠しているにもかかわらず、乳房によって作られた別の外郭を提示している」
教授は三段の矢印を書いた。
「われわれが着衣した身体を見るとき、皮膚表面を見ているのではない。乳房によって変形させられた衣服を見ている。そして、その衣服形状から内部の身体を推定している」
学生の一人が尋ねた。
「つまり、衣服は情報を隠しているのではなく、別の情報へ変換している」
「その理解でよい」
教授はその言葉を黒板に書き直した。
しばらく筆記の音だけが続いた。
その後、教授は再び「演習」と書いた。
「成人女性の架空モデルFを考える」
「乳房の実体条件は固定する。そのうえで衣服条件だけを変更する」
黒板に条件が並んだ。
「どの条件で最も大きく見えるか」
一人が答える。
「Bです」
「理由は」
「ブラジャーによって前方突出が増え、ニットが身体表面へ沿うため、乳房形状が明瞭になる」
「妥当だ。ではCは」
「Bほど形状は分かりませんが、乳房によって服全体が前へ押し出されれば、胸部全体の量感は強くなる可能性があります」
「そうだ」
教授はA・B・Cの横に、それぞれ異なる矢印を書いた。
「重要なのは、BとCで
薄手ニットの横には、
厚手セーターの横には、
と書かれた。
「同じ『大きく見える』という結果でも、原因が同じとは限らない。これを一つの理論へまとめるには、それぞれの衣服がどのような情報を観察者へ与えているかを分解する必要がある」
前列の学生が手を挙げた。
「では、服装だけでなく色も変数になりますか」
「もちろんだ」
教授は黒板に「黒」「白」と書いた。
「一般には、黒などの低明度色は収縮色、白などの高明度色は膨張色として扱われる。しかし、この説明にも問題がある」
「大きな胸なら、黒い服でも大きいことが分かる」
「そうだ」
教授は黒い衣服を想定した模式図を描いた。
「胸部が十分に前へ突出している場合、色彩によって身体全体が細く感じられても、三次元的な外郭までは消えない」
黒板へ、
と書かれた。
「さらに、胴体部分が黒によって細く感じられる一方、乳房の突出が維持された場合はどうなる」
学生が答えた。
「胴体に対する乳房の比率は、相対的に大きくなります」
「そうだ」
教授は簡単に示した。
「この問題も後の講義で扱う。今日の段階で覚えておくべきことは一つだけだ。『黒は小さく見える』という一文だけでは、着衣巨乳の知覚を説明できない」
別の学生が手を挙げた。
「そうすると、胸の大きさを知覚する際にはかなり多くの変数があることになります」
「その通りだ」
教授は黒板中央を空け、ゆっくりと一行を書いた。
「乳房の実体積。前方突出。胸郭幅。ウエストとの比率。支持状態。衣服の厚さ。衣服の追従性。布の張力。垂下。模様。色彩。姿勢。観察角度。そして、見えない部分を人間の視覚系がどのように補完するか」
教授はそれらを一つずつ指した。
「これらの条件が変化すれば、同一人物であっても知覚される乳房の大きさは変化する」
黒板に最初の式とは異なる式が書かれた。
「Bpは知覚乳房量。Vは乳房の実体量。Φは
学生の一人が手を挙げた。
「Φが大きければ、実体量に対して大きく見える」
「そうだ」
「逆に小さければ、実体量に比べて小さく見える」
「そういう概念になる」
教授は黒板の端に簡単な例を書いた。
「数値は説明のための架空値だ。実際の人間の乳房知覚をこの数字で測定できるという意味ではない」
学生たちが頷く。
「重要なのは、Vを変えなくてもΦが変わればBpが変わる、という構造だ」
教授は最初の問いへ戻った。
「ここまで来れば、少なくとも一つの問題点は明らかだ。『巨乳』という言葉の中には、実際に乳房組織が多いという意味と、その乳房が観察者に対して大きく現れるという意味が混在している」
教授は二つの用語を書いた。
「
続いて二つ目。
「
学生の一人が尋ねた。
「実体巨乳であっても、知覚巨乳としては弱く見えることがある」
「ある」
「逆に、実体量以上に知覚巨乳として強調されることもある」
「ある」
教授は二つの語の間に矢印を書いた。
「本講義で扱うのは、この中央部分だ」
時計の針は講義終了時刻へ近づいていた。
しかし教授はまだ黒板を消さなかった。
「最後に一問だけ考えてほしい」
「架空モデルG。成人女性。身長160センチ、B98・W60・H90。支持性のあるブラジャーを着用し、黒色の薄手リブニットを着ている。この状態を先に観察した後、衣服とブラジャーを取り除いた。乳房そのものは依然として大きい。しかし観察者には、着衣時より小さく感じられた」
教授は黒板へ三つの選択肢を書いた。
ほとんど同時に複数の手が上がった。
「Cです」
「理由は」
前列の学生が答えた。
「着衣時にはブラジャーによる支持、前方突出、リブニットによる形態転写、胴体との比率、衣服そのものの厚みなどが加わっています。それらが裸体化によって消失すれば、Vが変わらなくてもBpは低下します」
教授はCに丸を付けた。
「その通りだ」
少し間を置く。
「しかし、まだ説明は完成していない」
学生たちが黒板を見る。
「なぜリブニットは乳房形態を強く伝えるのか。なぜ厚手セーターでは、身体表面へ沿っていないのに胸部が大きく見えるのか。なぜ黒という収縮色が、大きな胸を隠し切れないのか。そして、なぜ裸体になったときに単に『正確になった』ではなく、
教授は黒板中央に、今日最後となる文字を書いた。
「この一連の現象を、別々の錯覚として扱わない」
その下に、
と続ける。
「一つの知覚体系として扱う」
終了時刻を告げる音が鳴った。
学生たちが筆記を止める。
教授は黒板の左側に残されたPの文字を指した。
「次講では、この変数から始める」
教授はチョークを置いた。
「乳房は、球体ではない」
第一講は、そこで終了した。