「千佳のご飯、一応食べたよ」
洗っていた皿が、指の間で滑りかけた。
私は慌てて握り直した。蛇口から落ちる水の向こうで、慎吾が笑っている。新居の、隣の部屋。ついさっきまで私と向かい合って夕飯を食べていた夫の声だった。
「でも、基本薄味だからさ。やっぱりママの味とは違うんだよね」
一応。
その二文字が、耳に残った。
食卓に置いたときは、おいしいと言ってくれたのに。
私は濡れた手を動かせないまま、閉じた引き戸を見ていた。
慎吾となら、きっと温かい家庭を作れる。
そう信じて結婚したばかりだった。
*
慎吾と知り合ったのは、同じ会社のオフィスだった。
私にとって彼は、仕事ができて、困っている人を放っておけない先輩だった。
好きになったきっかけを一つだけ挙げるなら、残業していたあの夜だと思う。
午後八時四十分。周囲の席はほとんど空になっていた。
パソコンの画面と、付箋だらけの資料を見比べる。何度確認しても数字が合わない。今日中にまとめなければならないのに、時計を見るたびに、同じ箇所でつまずいている気がした。
「まだ残ってたんだ」
顔を上げると、帰宅用の鞄を持った慎吾がいた。
「これ、一人でやってるの?」
「はい。でも、もう少しなので」
もう少し、というのは半分くらい自分への言い聞かせだった。
慎吾は机に積まれた資料を見てから、隣の空席の椅子を引いた。
「少し見せて」
嫌な顔をされるのが怖くて、私は小さく画面を指した。彼は急かさずに説明を聞き、共有フォルダの中から前年のデータを開いた。
「これ、使えるよ。数字だけ差し替えればいいから」
「あ……本当だ」
さっきまでほどけなかったものが、するするとほどけていく。
私が入力し、慎吾が紙の資料を確認した。横から聞こえる紙をめくる音が、あんなに心強いものだとは知らなかった。
最後の表を保存できたのは、午後九時二十五分だった。
「終わった……」
椅子の背にもたれた私に、慎吾が温かい缶コーヒーを差し出した。
いつの間にか自動販売機まで行ってくれたらしい。両手で受け取ると、冷えていた指先にじわりと熱が戻った。
「大丈夫? 無理しちゃダメだよ」
「ありがとうございます。先輩も、遅くなっちゃいましたね」
「終わってよかったじゃん」
その言い方が、さらりとしていた。
手伝ってやった、とも、自分がいなければ困っただろう、とも言わない。
帰っていく背中を見送りながら、私は缶を両手で包み直した。コーヒーを飲む前から、胸のあたりが温かかった。
三日後、給湯室で紙コップにお茶を入れていたら、慎吾が入ってきた。
「この前の資料、評判よかったらしいね」
「先輩が手伝ってくれたおかげです」
「最後までやり切ったのは千佳だろ」
名前を呼ばれて、私は紙コップを持つ手に少し力を入れた。
慎吾は一度視線を外して、それから私を見た。
「ねえ、今度の土曜、二人でご飯でも行かない?」
返事が遅れたのは、断りたかったからではなかった。
うれしい、という言葉が先に胸をいっぱいにしてしまったからだ。
「あ……はい。行きたいです」
土曜日の夜、駅前の洋食店で向かい合った。
会社では話さない休日の過ごし方や、最近見た映画の話をした。初めはメニューを持つ手まで落ち着かなかったけれど、慎吾が笑うたび、私も少しずつ笑えるようになった。
「会社だと、ゆっくり話せないからさ。今日は誘ってよかった」
「私もです」
帰り道、駅が近づくにつれて、もう着いてしまうのかと思った。
その気持ちを見透かしたように、慎吾が聞いた。
「また、二人で出かけてもいい?」
「はい」
今度は、すぐに答えられた。
恋人になるまで、長くはかからなかった。
映画のあとで感想を話し、カフェで向かい合い、公園を歩いた。雨の日は、慎吾の傘がいつも私の方へ傾いていた。
彼の肩が濡れていることに気づいて傘を押し戻すと、「大丈夫」と笑った。
その笑顔を見るたび、私は少しずつ、彼と過ごす先の時間を想像するようになった。
付き合って一か月目には、洋食店でオムライスを食べた。
スプーンを入れた卵の下から、温かい湯気が上がった。
「おいしいね」
「だね」
それだけの会話で、二人とも笑った。
特別な料理でなくてもよかった。慎吾と同じものを食べて、同じようにおいしいと思えることが、うれしかった。
三か月目には、小さな紙包みを渡された。
中に入っていたのは、青と白の糸で編まれたミサンガだった。
少し前、雑貨店で私がかわいいと言ったものと同じ色。でも、編み目にはところどころ不揃いな部分があった。
「これ、慎吾が作ったの?」
「初めてだから、あんまり上手じゃないけど。千佳が好きって言ってたからさ」
彼は照れたように目をそらした。
私は手首につけて見せた。少し不格好な結び目まで、急に大切なものになった。
「すごくうれしい。大切にするね」
何気なく話したことまで覚えていてくれる人。
私が困れば手を貸してくれて、私が喜べば一緒に笑ってくれる人。
それが、私の知っている慎吾だった。
二年付き合って、プロポーズされた。
彼が差し出した小箱を見るより先に、声が少し震えていることに気づいた。
「俺と結婚してほしい」
慎吾は、私の顔をまっすぐ見ていた。
「俺が一生、千佳のことを守るから」
目の前がにじんだ。
私は笑ってうなずこうとして、うまく声が出せなかった。
「……はい。よろしくお願いします」
会社で報告すると、同僚たちは笑顔で祝ってくれた。
「慎吾さんなら安心だね」
「千佳さん、幸せになってください」
私も、そう思っていた。
二年間、ずっと優しかった人だ。誰に聞いても、頼れる先輩だと言う。
この人を信じることに、疑う理由なんて見つからなかった。
*
結婚式を終え、新居に段ボールを運び込んだ。
まだ家具の少ないリビングで、私たちは床に並んで座った。一本ずつ持った缶コーヒーが、あの残業の夜を思い出させた。
「これから、ここが俺たちの家になるんだな」
「うん」
帰る場所が同じになる。
それが、ただただうれしかった。
その夜、私は焼き魚とみそ汁、副菜を食卓に並べた。
いつもの料理なのに、少し緊張した。向かい側で慎吾が箸を持つのを見て、思わず聞いた。
「口に合うかな」
「おいしいよ」
ほっとして、私も箸を取った。
新しい食器に、二人分のご飯。慎吾が食べ終えた皿は、ほとんど空だった。
だから、そのあとの声が信じられなかった。
「ちょっと電話してくる」
そう言って、慎吾は隣の部屋へ入っていった。
私は鼻歌まじりに皿を洗っていた。閉じた引き戸の向こうから、聞き慣れない、少し高い声がした。
「あ、ママ?」
蛇口に触れた手が止まった。
母親を何と呼ぶかなんて、家庭によって違う。それは分かっている。それなのに、その甘えた声は、私の知っている慎吾とあまりに違っていた。
続いて聞こえたのが、あの言葉だった。
「千佳のご飯、一応食べたよ」
「やっぱりママの味とは違うんだよね」
私は、食卓に残った皿を見た。
おいしいと言ってくれたのは、気を遣っただけだったのだろうか。
だったら、私に言ってほしかった。少し味を濃くしてほしいなら、その場で言ってくれればよかったのに。
電話の向こうで何かが返され、慎吾が笑った。
私は水を止めた。急に静かになった台所で、壁の向こうの笑い声だけが近くなった。
少しして引き戸が開いた。
「まだ終わらない?」
「……もう少し」
慎吾は何事もなかったようにソファへ座り、テレビをつけた。
私は皿を水切りかごに置いた。いつもと同じ動きをしているつもりなのに、指先がぎこちなかった。
お母さんと仲がいいだけ。
呼び方だって、家庭によって違う。
そう思おうとした。
思わなければ、この家で始まったばかりの生活まで、何か違うものになってしまいそうだった。
でも、さっき彼が言った「ママの味」は、翌朝から、私の目の前にも現れることになる。
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著者:さくらこ