「掃除した?」
慎吾は出勤前、リビングの隅を指した。
私は朝食の皿を片づけていた手を止めた。
「昨日したけど……」
「ここ、残ってるよ」
床に、小さなほこりがあった。
見落としたのだろう。あとで掃除機をかけ直そうと思った私に、慎吾が言った。
「ママなら、ほこりなんて残さないんだけどな」
また、ママ。
昨夜の電話が、胸の中で引っかかった。
慎吾はもう玄関へ向かっていた。
「じゃ、行ってきます」
「……いってらっしゃい」
ドアが閉まり、私は台所の時計を見た。
私も仕事へ行かなければならない。掃除機を出している時間はなく、ティッシュで床の隅を拭いた。
それだけで済むようなほこりだった。
なのに、家を出てからも、あの言い方が頭の中に残っていた。
数日後の朝には、ワイシャツだった。
「ここ、しわが残ってるよ」
慎吾が袖を広げる。
前の晩、眠い目をこすりながらアイロンをかけたシャツだった。確かに、袖口の近くに細いしわがある。
「ごめん。次は気をつけるね」
「ママなら、もっときれいにできるんだけどな」
彼はシャツを着て、鏡の前で襟を整えた。
私は畳んだアイロン台を見た。昨夜、あそこで手を動かしていた私のことは、今の一言の中に少しも入っていなかった。
掃除も、洗濯も、料理も。
何かが足りないと、そのたびにお義母さんの名前が出た。
私は出勤前に床の隅を確認し、夜にはシャツを明るいところへ持っていって、しわがないか見直すようになった。
慎吾が手伝ってくれることはなかった。それでも、私がもう少し上手になれば、きっと言わなくなる。最初はそう思っていた。
*
休日、本屋で料理本を買った。
付箋を貼り、スマホでも作り方を見て、帰宅してから台所に立った。
レシピどおりに調味料を入れ、味見する。少し物足りない気がして、もう一度、醤油を足した。
今日は喜んでくれるかな。
慎吾が箸を持つまで、私は自分の料理に手をつけなかった。
「今日は、少し味を濃くしてみたよ」
彼は煮物を一口食べて、箸を置いた。
「味しないじゃん、こんなの」
「え……」
「水食べてるみたい」
私には、さっき足した醤油の味がまだ口の中に残っていた。
言おうとして、やめた。彼がおいしくないと思っているのに、私には味がすると言っても、言い訳にしか聞こえない気がした。
慎吾は煮物の中の野菜を箸でつまんだ。
「俺さ、これ嫌いだって言わなかったっけ?」
「聞いてないよ。前にも作ったけど、そのときは何も……」
「じゃあ、覚えといて」
彼は野菜を皿へ戻し、スマホを手に取った。
「やっぱり、ママのご飯の方が何倍もうまいなあ」
気に入らないところを、もう一度聞くことはできなかった。
スマホの画面を見ている横顔に、会話を続けるつもりがないことが分かったからだ。
私も煮物を食べた。
よく味が染みていた。私は、おいしいと思った。
けれど、その感想を口にするのが、なぜか恥ずかしかった。
翌日はみそ汁を「薄い」と言われ、その次の日は炒め物を「微妙」と言われた。
皿を押し戻されることもあった。
「もういらない」
残った料理を片づけながら、私は慎吾の好みを思い出そうとした。
交際中に食べたオムライス。あのときは、二人でおいしいと笑った。
同じものを食べていたはずなのに、彼の好きな味が分からなかった。
食材を買った時間も、作った時間も、流し台の前ではなくなってしまう。
捨てるつもりで作ったものなんて、一つもなかった。
その夜、私は食器を片づけ終えてから、ソファのそばへ行った。
「慎吾。料理のことなんだけど」
「何?」
目は、テレビへ向いたままだった。
私は手を握った。言わなければ、明日も同じことになる。
「なんで、そんなに毎回ママママって言うの?」
彼がようやく私を見た。
少し驚いたあと、眉を寄せた。
「は?」
「掃除も、洗濯も、料理も。何をしても、お義母さんと比べるじゃない」
「いや、事実だから言ってるだけだろ」
あまりに当たり前の顔で言われて、一瞬、返事が見つからなかった。
「お前がちゃんとできてたら、俺だって言わないよ。ママの料理の方がレベルが高いんだから、仕方ないじゃん」
「私だって、仕事から帰って作ってるんだよ」
「だったら、もっと要領よくやれば?」
慎吾はテレビへ向き直った。
笑い声が流れ、彼も笑った。
私は、ソファの背中を見ていた。
大丈夫? 無理しちゃダメだよ。
残業していた私に、そう言ったのと同じ人だった。
あの夜、私は助けてもらった。今は、疲れていると伝えることさえ、要領が悪いという理由にされてしまった。
*
慎吾の電話は、毎晩の習慣になった。
夜十二時を過ぎても、隣の部屋から話し声が聞こえた。
仕事の話をしている日もあった。楽しそうな笑い声が続く日もあった。私は一人で洗い物を終え、テレビを消したリビングで、明日の支度をした。
ある夜、水を飲みに起きたときだった。
ドアの前で、足が止まった。
「あいつさ、今日も俺の言うとおりに掃除してなくて」
あいつ。
私のことだった。
「ママの爪の垢でも飲ませたいわ。本当に気が利かないハズレ嫁」
耳の奥が熱くなった。
私は今日、洗濯をして、掃除をして、ご飯も作った。そのあと会社へ行って、帰ってからまた夕飯を作った。
何もしていないみたいに言わないで。
ドアを開けて、そう言いたかった。
そのとき、通話から漏れた声が聞こえた。
「そうよねえ。慎吾ちゃんも大変ねえ」
慎吾が笑った。
向こうでも、お義母さんが笑っていた。
私は唇を噛んだ。
声を上げたら、あの二人に何を言われるのだろう。
そう考えた自分に、また傷ついた。ここは私の家でもあるのに、ドア一枚を開けることができない。
水を飲むのを忘れ、そのまま寝室へ戻った。
翌朝、鏡の前で笑顔を作った。
会社では、慎吾は相変わらず親切だった。
「橘さんって、本当に優しいですよね」
「千佳さん、幸せそう」
そう言われると、私も笑った。
「……ありがとうございます」
同じフロアの向こうで、慎吾が後輩のパソコンを見ていた。
私が好きになった先輩の顔で、穏やかに説明している。
あの顔を見ると、私にだけ何か問題があるのではないかと思えてしまった。
友人のあかりに打ち明けたのは、結婚して半年が過ぎたころだった。
カフェで向かい合った彼女が、私の顔を見てカップを置いた。
「最近、元気ないけど。何かあった?」
夫婦のことを外で話していいのか、まだ迷っていた。
私はカップを両手で包んだ。温かさを確かめても、指先の力は抜けなかった。
「毎日、お義母さんと比べられるの」
一度口にすると、次の言葉が止まらなくなった。
「料理も掃除も洗濯も、何をしてもダメだって。夜になると、私の悪口をお義母さんに電話してる」
あかりが目を見開いた。
「それ、普通じゃないよ」
私はうなずこうとして、目に涙がたまるのを感じた。
その言葉を、誰かに言ってほしかったのかもしれない。
「そんな人と暮らしてたら、千佳がもたないよ。別れなよ」
「……でも、まだ結婚して半年だし」
左手の指輪を、親指で触った。
「会社も同じだから。別れても、毎日顔を合わせるんだよ」
狭いオフィスで、理由を聞かれながら仕事をする自分を想像した。
会社では優しい彼が、困った顔をしている。その隣にいる私が、わがままな妻だったと思われたら。
だったら転職すればいい。そう考えても、今の仕事まで手放さなければならないことが悔しかった。
あかりは黙って、私の話を聞いた。
「それは、簡単じゃないね」
私は小さくうなずいた。
まだ、慎吾が変わってくれる可能性まで捨てきれなかった。
家へ帰る道で、足が重くなった。
玄関を開ける前に、息を整えた。
「ただいま……」
返事はなかった。
その週末、洗濯物を畳んでいると、インターホンが鳴った。
慎吾がうれしそうに立ち上がった。
「お前の家事があまりにひどいからさ。今日はママに来てもらった」
畳みかけのシャツを持ったまま、私は彼を見た。
その顔は、ようやく問題が解決するというように、晴れ晴れとしていた。
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著者:さくらこ