玄関に立っていたお義母さんは、私を見るなり両手を広げた。
明るい色の服に、光る小さな耳飾り。きちんと整えられた髪も、口紅も、休日の私とは違って見えた。
「あらあ、千佳さん。相変わらず若々しくて、可愛いわねえ」
私の肩に、柔らかな手が触れた。
「いらっしゃいませ……」
結婚式でも、お義母さんはこんなふうに笑っていた。
あの日は、私を家族として迎えてくれる笑顔だと思っていた。
「ママ、こっち」
慎吾に呼ばれ、お義母さんは私の肩から手を離した。
靴を揃え、リビングへ入る。視線が棚をなぞり、窓際を通り、ソファの前で止まった。
最後に、私の手にあるシャツへ向けられた。
口元は笑っているのに、目が少しも和らいでいない。
私はシャツの端を、指で直した。
「私のことは気にしなくていいからね。いつものように家事をやってくれればいいわよ」
お茶を出そうとしていた足が止まった。
いつものように。どこを、どれだけ見られるのだろう。
「はい」
洗濯物を置き、掃除機を取りに行った。
慎吾はソファに座ると、さっきまで見ていた動画の続きを再生した。
*
掃除機を動かす私のすぐ後ろに、お義母さんがついてきた。
「丸くかけちゃだめよ。端まで、四角くね」
棚の前で方向を変えると、足元を指さされる。
「ほら、そこ。隅が残ってるでしょう」
ノズルを壁に沿わせた。
掃除機の音が大きい間だけは、返事をしなくて済んだ。
スイッチを切ると、ソファの方から慎吾の笑い声がした。
何か面白い動画だったらしい。画面をこちらに見せることはなかった。
「終わったら、雑巾がけはするの?」
お義母さんの言葉に、私は掃除機を片づけかけた手を止めた。
「……します」
洗面所で雑巾を濡らして戻る。
床に膝をついたところで、お義母さんが手を伸ばした。
「あら、絞り方が甘いわね」
私の手から受け取った雑巾を、きゅっとひねる。
床へ落ちた数滴の水を見せられた。
「慎吾ちゃんは潔癖なんだから。そういうところ、気をつけてあげないと」
昨夜、慎吾がソファの脇に脱ぎ捨てた靴下は、私が拾った。
食べ終えた皿も、飲みかけのコップも、いつもそのままだった。
でも、そう言えば、この数滴の水から話をそらしたことになるのだろう。
雑巾を受け取り、床を拭いた。
顔を上げると、慎吾の素足が目に入った。私が拭きやすいように、少し避けてくれることもなかった。
「千佳さあ、今のうちにちゃんと教えてもらっとけよ」
慎吾はスマホから目を上げた。
「せっかくママが来てくれたんだから」
お義母さんが、うれしそうにうなずく。
私は黙って、ソファの脚の周りを拭いた。
掃除が済むと、今度はベランダの洗濯物だった。
シャツの肩、タオルの重なり、洗濯ばさみの位置。
一つ直すたびに、別の場所へ指が向く。
「洗濯は午前中に終わらせた方がいいわよ。乾き方が違うんだから」
平日の朝は、私も慎吾と同じ時間に家を出る。
その前に全部終わらせるには、あと何時に起きればいいのだろう。
「ママは、こういうの全部やってたんだぞ」
リビングへ戻った私に、慎吾が言った。
「俺より稼いでないんだから、家事くらい全部やるのが当たり前だろ」
洗濯かごの取っ手を握る指に、力が入った。
「私も、仕事は……」
「だから、俺より少ないだろ?」
慎吾はもう、話が済んだという顔をしていた。
同じ会社で、同じだけの時間働いている。私の給料が少ないことは、その時間まで短くするわけではない。
口の中に残った言葉を、飲み込んだ。
「慎吾ちゃんはお仕事が大変だものねえ」
お義母さんの声が、私の頭の上を通っていった。
*
「洗濯終わったら、昼ごはん作ってくれよ。ママにご馳走しないとな」
冷蔵庫を開けると、卵と、少しずつ残った野菜があった。
急な来客のための買い物はしていない。
炒飯とスープなら、三人分にできる。
ねぎを刻む間、リビングから親子の話し声が聞こえた。
慎吾が子どもの頃の話をしている。お義母さんが笑い、慎吾も声を上げた。
私は包丁を置いて、炊飯器のふたを開けた。
炒飯を味見する。
普段より、少し濃くした。それでも不安になって、もう一度だけ調味料を足した。
スープも同じようにした。
「できました」
食卓に皿を置くと、慎吾とお義母さんが隣り合って座った。
私はスープの器を運び、最後の一つを自分の席へ置いた。
慎吾が、ひと口食べた。
スプーンを持ったまま、眉を寄せる。
「うわ、何これ。やっぱり全然味しないじゃん」
椅子を引こうとしていた手が止まった。
「今日は、いつもより……」
「ママ、俺、いつもこんなお湯みたいなスープ飲まされてるんだよ」
慎吾は私の言葉を待たず、スープを飲んだ。
お義母さんも器を持ち上げる。
少し口をつけて、ゆっくり首を振った。
「あらあら、慎吾ちゃん、かわいそうに。これじゃ男の人は働けないわよ」
私も、この料理を食べて働いている。
そう考えた瞬間、ひどくむなしくなった。
自分の暮らしを説明しても、聞いてもらえないことが、もう分かっていた。
「お醤油の味も、ソースの味も、何も染みてないじゃない」
お義母さんが炒飯を見下ろす。
私は自分の器を見た。湯気は、まだ上がっていた。
「あーあ。せっかくの昼飯が台無しだわ」
慎吾がスプーンを置いた。
床を拭き、洗濯物を直し、冷蔵庫の中身を集めて作った昼食だった。
お腹は空いていたのに、座って食べたいとは思えなかった。
「ママ、今日の夕飯は、俺の好きな味付けを千佳に教えてやってよ」
「そうねえ。このままじゃ慎吾ちゃんが倒れちゃうもの」
二人の顔が、明るくなった。
私は立ったまま、スープの表面に浮いたねぎを見ていた。
*
夕方、お義母さんはエプロンをつけ、コンロの前に立った。
私がいつも立つ場所だった。
刻んだ野菜を渡すと、当たり前のように受け取られた。
「今日はちゃんと覚えろよ。ママの味」
慎吾がキッチンをのぞき込んだ。
料理する私の隣に立って、こんなに楽しそうな顔をしたことはなかった。
お義母さんが、炒めた野菜に醤油を注ぐ。
続けてソースを入れた。
白かった玉ねぎが、濃い色に染まっていく。
さらにマヨネーズへ手が伸びた。
「それも、入れるんですか?」
「コクが出るのよ。慎吾ちゃんは、この味が大好きなの」
「そうそう。もっと濃くていいよ、ママ」
野菜の上に白い線が重なり、混ぜられて消えた。
私は渡された空の袋を握ったまま、フライパンを見ていた。
夕食の席で、慎吾は最初のひと口から笑った。
「やっぱりこれだよ!」
お義母さんも、満足そうに箸を取る。
向かい側で、私も食べた。
野菜はくたくたで、噛んでもソースの味が強く残った。飲み込んでから、そっと水を飲む。
「千佳、これからは毎日この味付けで頼むぞ」
「慎吾ちゃん、この味で育ったからねえ」
好きな味が違うことなら、分かった。
この料理が慎吾にとっておいしいのも、疑わなかった。
でも、私がおいしいと思うものは、どうなるのだろう。
同じ皿を囲んでいるのに、二人の会話に入る言葉が見つからなかった。
私の前の料理は減らず、水のコップだけが空になった。
食事が終わると、お義母さんは笑顔で言った。
「これで明日から安心ね」
私は皿を重ねながら、うなずいた。
帰るお義母さんの荷物を、慎吾がさっと持った。
玄関まで送る二人の後ろで、私は食卓に残った三人分の皿を見た。
お義母さんの作った料理を食べて、慎吾が喜んだ。それでこの日は、二人にとって良い休日になったのだろう。
シンクへ皿を運んだ。フライパンには、冷めて固まり始めたソースが残っていた。
水につけていると、玄関から笑い声が聞こえた。
明日から、これを毎日作る。
自分が食べたいものを考えるより先に、そのために何を買えばいいかを考えていた。
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著者:さくらこ