翌日、スーパーの調味料売り場で足を止めた。
ソースとマヨネーズを、かごへ入れる。
家にある分だけでは、毎日あの味を作れない。
野菜を選ぶより長く、棚の前に立っていた。
夕飯を作るとき、コンロに二つの鍋を置いた。
一つは、私の食べる分。
もう一つは、慎吾の分。
濃い料理を食べるたびに水を飲んでいたら、食事がつらくなった。
同じ材料を分ければいい。そうすれば、私も自分の好きな味で食べられる。
小さな鍋を出したときは、それだけのことだと思っていた。
「そっちは何?」
慎吾が、二つ目の鍋を指した。
「私の分。私は、少し薄い方が好きだから」
「ふうん。まあ、俺のはちゃんと作ってくれよ」
言い争いにならなかったことに、ほっとした。
好みが違うと分かったら、次はどうしたらいいか、二人で話せるかもしれない。そんな期待も少しあった。
慎吾は冷蔵庫から飲み物を出して、リビングへ戻った。
残った私は、材料を半分ずつに分けた。自分の分を作ってよいことに許可をもらったようで、喜びかけた気持ちがしぼんだ。
実際には、火の通り方も、味見をする順番も違った。
一方を混ぜていると、もう一方が煮詰まる。
慎吾の分へソースを足している間に、自分の分は冷めた。
食卓には、別々の皿を置いた。
慎吾は自分の皿だけを見て、箸を伸ばした。
「お。千佳も、やっとママの味が分かってきたな」
それでも、久しぶりに聞いた肯定の言葉だった。
胸の奥が少し緩んだ。
「これくらいで、いい?」
「うん。やっぱりこの味付けだわ」
私も箸を持った。
自分の料理には野菜の色が残っている。ひと口食べると、ようやく空腹を思い出した。
「でも、もうちょっとソース多めの方がいいぞ」
慎吾は二口目を飲み込んで、そう付け加えた。
その夜、料理ノートに『ソース、小さじ一追加』と書いた。
別の日には、マヨネーズも入れた方がいいと言われた。
言われた通りにして、同じページへ追記した。
「今日は、ちょっと濃すぎ」
そう言われた日は、ペンを持つ手が止まった。
「この前、もっと濃くって言ったから……」
「だからって加減があるだろ。いちいち説明しないと分かんないのかよ」
慎吾はテレビへ顔を戻した。
私は書き込みの上に、一本線を引いた。
何が多かったのか。どれだけ減らせばいいのか。
聞けば、またため息をつかれる。
でも聞かずに作れば、違うと言われる。
同じ料理のページが、訂正で埋まっていった。
おいしかったから残しておくはずのノートに、食べたいと思えるものがなくなった。
*
慎吾が寝たあと、計量スプーンで調味料を量った。
少しずつ配合を変え、味を確かめる。
醤油、ソース、マヨネーズ。数字を書いて、また少し足した。
暗い窓に、自分の顔が映っていた。
髪は耳の後ろで乱れ、肩は下がっている。
もう一度味見をしようとして、その顔を見てしまった。
結婚する前は、次に会うとき何を作ろうかと考えるだけで楽しかった。
慎吾の好きなものを知るたびに、彼に近づけた気がした。
今も好きなものを作ろうとしているのに、私はどんどん遠くへ押しやられている。
スプーンを置いた。
甘いのか、辛いのか。もう分からなかった。
二つの鍋を洗い、二人分の皿を片づける。
いつもより洗い物が増えただけなのに、終わるまでがずいぶん長かった。
最後の皿を立てたところで、力が抜けた。
シンクに両手をついて、しばらく動けなかった。
「離婚したい……」
小さな声だった。
誰かに返事をしてほしかったけれど、慎吾には聞かれたくなかった。
自分で言った言葉が怖くて、唇を閉じた。
会社で毎日顔を合わせること。夫婦を知っている人たちの目。
昼間には決心を鈍らせる不安が、また頭に浮かんだ。
それでも、今の暮らしを続けたいとは、もう思えなかった。
*
次の休日、あかりと会った。
注文したケーキを食べながら、最初は慎吾の話もした。
あかりは眉を寄せたけれど、私が黙ると、答えを急がせなかった。
「今日はさ、あったかいもの飲もう。冷めちゃう前に」
カップを両手で持った。
温かさが手のひらから伝わってきた。
あかりが最近見た映画の話を始めて、途中から、私も笑っていた。
店を出るとき、小さなケーキを持ち帰り用に買った。
紙の箱を受け取った私を、あかりが横からのぞく。
「またケーキ買ってる。今日はダイエット休み?」
「……今日だけ」
「その『今日だけ』、先月も聞いた気がする」
思わず吹き出した。
あかりも笑った。笑いながら、これほど気を張らずに話したのは久しぶりだと気づいた。
駅で別れてからも、口元に少し笑みが残っていた。
帰って、コーヒーをいれよう。
ケーキは夕飯のあとで食べよう。
そんなことを考えて歩いた。
マンションが見えると、足が遅くなった。
鍵を出し、箱を持ち直す。
玄関を開ける前に、息を吸った。
「ただいま」
奥から、早い足音がした。
「おい! お前、手ぶらかよ!」
慎吾が玄関へ来た。
私の手には箱があったけれど、彼が見ているのは、買い物袋のないことだった。
「ママのご飯は!?」
「え……?」
リビングから、お義母さんが顔を出した。
来ているとは知らなかった。
箱の取っ手が、指に食い込んだ。
「ママが来てるから、ママの分の食材も買ってこいって、メッセージ送っただろ!」
「そんなメッセージ、来てないよ」
スマホは、カフェでも見た。
あかりと話していたから忘れたのかと、一瞬、自分の記憶を疑った。
でも、慎吾からの通知はなかった。
「嘘つけ! 俺は確かに送ったんだからな!」
顔が熱くなった。
さっきまで笑っていた口で、今度は何を言えばいいのだろう。
箱を玄関脇に置き、スマホを出した。
慎吾とのやりとりを開いて、画面を向ける。
今日の日付のメッセージは、一つもなかった。
「見て。来てない」
慎吾は画面をにらみ、自分のスマホを取り出した。
お義母さんが、肩越しにのぞき込む。
親指の動きが止まった。
慎吾は少しの間、何も言わなかった。
もう一度画面に触れてから、唇を曲げる。
「……送ってなかったの?」
私が聞くと、慎吾はスマホを下ろした。
「まあ……今回は許してやる」
私は彼の顔を見た。
怒鳴った口が、何事もなかったように閉じる。
お義母さんも、私に何も言わなかった。
許してやる。
私が何をしたのだろう。
送られていないものは読めない。
それを見せても、嘘つきと言ったことは、彼の中でなかったことになる。
私は、玄関で責められたまま置き去りにされた。
昔、仕事のミスを一緒に確かめてくれた慎吾が浮かんだ。
あのときは、まず私の話を聞いてくれた。
今、目の前の彼は、話す機会さえ与えずに怒鳴った。
もう少し頑張れば、あの頃に戻れる。
そう思うための言葉が、見つからなかった。
*
「そうそう。千佳さんにも、伝えておかなくちゃいけないことがあるのよ」
お義母さんが、急に明るい声を出した。
「リビングでお話しましょう」
ケーキを冷蔵庫へ入れ、食卓へ行った。
箱の中には、昼間おいしいと思って選んだものが入っている。
どんな味だったかを思い出そうとしても、玄関で怒鳴られた声が先に浮かんだ。
慎吾とお義母さんが、並んで座っている。
私は、その向かいの椅子を引いた。
昼間、あかりと向かい合っていたときとは、同じ座り方でも息のしやすさが違った。
「実はさ」
慎吾が、軽い調子で言った。
「来週から、ママもこの家に一緒に住むことになったから」
聞き間違いだと思った。
慎吾を見て、それからお義母さんを見た。
二人とも、私の返事を待つ顔ではなかった。
「一緒に、住む……?」
「慎吾ちゃんの好きな味付けも、分からないようじゃあねえ」
お義母さんが、隣の慎吾の肩に手を置いた。
「あなたに慎吾ちゃんは任せられないから。私も一緒に住むことにしたのよ」
慎吾が、当然のようにうなずいた。
私たちの家について、私だけが何も聞かれていなかった。
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著者:さくらこ