お義母さんの手が、慎吾の肩に置かれていた。
慎吾はその隣で、安心したような顔をしている。
私だけが、椅子に座ったまま動けなかった。
来週から、この家に住む。
朝、目が覚めたときから。仕事を終えて帰ってきたときも。
私のやることを、お義母さんがずっと見ている。
慎吾はその横で、今日と同じようにうなずく。
考えただけで、息が詰まった。
「千佳さんも、私がいた方が助かるでしょう?」
お義母さんが笑った。
私がどう答えるかより、慎吾が喜んでいることの方が、この人には大切なのだ。
テーブルの下で、両手を握った。
指先が、手のひらに食い込んだ。
「……冗談じゃない」
「え?」
慎吾が、聞き返した。
私は顔を上げた。
「冗談じゃない!」
立ち上がった勢いで、椅子が倒れた。
床にぶつかる音に、お義母さんの肩が跳ねた。
慎吾が口を開けたまま、私を見た。
こんな声を出せるなんて、自分でも知らなかった。
喉が痛い。でも、黙る方が、もうつらかった。
「家事は全部、私がやってる。二人とも、私が仕事してること、知ってるでしょう」
慎吾の目を見た。
毎朝、同じ会社へ向かっていた。
疲れているのが自分一人だけではないことを、知らないはずがなかった。
「それでも、何をしてもお義母さん以下だって言う。夜は二人で、私の悪口を言って笑う」
お義母さんの笑顔が止まった。
「千佳さん、それは……」
「聞こえてました。ハズレ嫁だって」
言った途端、閉じたドアの前で立ち尽くした夜が戻ってきた。
あのとき何も言えなかった口で、今、ようやく声にできた。
「今日は、自分がメッセージを送ってなかったのに、私を嘘つき呼ばわりしたよね」
慎吾が、視線をそらしかけた。
「なのに、許してやるって何? 私は何を許してもらわなきゃいけないの?」
返事はなかった。
いつもならすぐに出てくる、私を責める言葉もなかった。
「そのうえ、同居まで勝手に決めて。私には、決まったことを言うだけ?」
テーブルに手をついた。
手のひらが、少し震えていた。
向かいの二人も、私の手を見ていた。
「私は、この家で何なの?」
問いかけたあと、部屋が静かになった。
冷蔵庫の小さな音が聞こえた。
私は、慎吾の返事を待った。
食事を用意する人ではなく、一緒に暮らしている私へ、何か言ってほしかった。
「い、いや……そんな大げさに……」
慎吾は、そこで口ごもった。
「ママがいれば、ちゃんと教えてもらえるし……」
また、それだった。
お義母さんが教えれば、私が変われば、それで済む。
私が何を言っているかを、慎吾は最後まで聞いていなかった。
手の震えは止まらなかったけれど、声は少し落ち着いた。
「私は、あなたの奥さんになりたかったの」
慎吾を好きになったことまで、なかったことにしたいわけではなかった。
あの缶コーヒーは温かかったし、ミサンガを作ってくれたときはうれしかった。
一緒に暮らすことを、楽しみにしていた。
「お義母さんと同じ人になりたかったんじゃない。私と二人で、暮らしてほしかった」
慎吾は黙っていた。
隣のお義母さんを、ちらりと見た。
それを見て、待つのをやめた。
「もう、終わりにしよう」
慎吾が、顔を上げた。
「もうご勝手に。二人で仲良く、ままごとしてればいいんじゃない?」
自分でも、きつい言葉だと思った。
それでも、取り消したいとは思わなかった。
「離婚しましょう。今すぐに」
*
「待てよ!」
慎吾が椅子から立ち上がった。
私は倒れた椅子を起こし、寝室へ向かった。
お義母さんが何か言ったけれど、振り返らなかった。
バッグを出し、着替えを入れた。
仕事に使うものと、充電器。財布も確かめた。
あれほど怖かった、会社で顔を合わせることは、頭の隅に押しやられていた。
同じ部屋で、また何もなかったように夕飯を作る方が、今はずっと怖かった。
棚の上の結婚写真が目に入った。
白いドレスの私は、慎吾の隣で笑っている。
写真を手に取ろうとして、やめた。
あの日の自分を責める気にはなれなかった。
あのときは、本当に幸せになると思っていた。
左手の指輪を外した。
指に薄く残った跡を、親指でなぞる。
指輪は写真の前に置いた。
「話し合おう。なあ、千佳」
玄関まで慎吾がついてきた。
今になって、私の名前を呼んでいた。
靴を履き、バッグを持った。
「私は、何度も話そうとしたよ」
慎吾の顔を見て、そう言った。
毎回、もう少し頑張ればと思っていた。
今日だけ急に、何もかも嫌になったわけではなかった。
「千佳さん、落ち着いて!」
後ろからお義母さんの声がした。
私はドアノブに手をかけた。
落ち着いて、飲み込んで、笑って。それを続けてきた先が、この玄関だった。
ドアを開けた。
*
外は夕方だった。
建物の間に見える空に、まだ明るさが残っていた。
息を吸った。
胸の奥まで、空気が入った。
少し歩いたところで、涙が出た。
バッグを持ち直して、手の甲で拭いた。
泣いているのに、帰りたいとは思わなかった。
スマホを取り出した。
あかりの名前を見つけて、電話をかけた。
「……もしもし」
「千佳? どうしたの?」
声を聞くと、また涙がこぼれた。
「家、出てきた」
あかりは、すぐには何も言わなかった。
私が息を整えるまで、電話の向こうで待っていた。
「今、どこ?」
場所を伝えた。
駅へ向かう人たちが、私の横を通っていく。
「今日はうちにおいで。話は、着いてからでいいから」
「うん……ありがとう」
電話を切って、家のある方を一度だけ見た。
今まで持ち帰ろうとしていたケーキは、冷蔵庫に残っている。
あれを食べるつもりで歩いていた私は、もう戻れない。
少し寂しかった。
でも、その寂しさのために戻ることはできなかった。
駅の方へ足を向けた。
これからどうするかは、まだ全部決まっていない。
それでも、今夜どこで息をつくかは、自分で選べた。
*
家を出た言葉だけで、離婚が済んだわけではなかった。
必要な連絡を取り、荷物を整理し、手続きをした。
慎吾から連絡が来るたび、スマホを持つ手が冷たくなった。
それでも、二人で暮らす話には戻らなかった。
離婚届を出し終えた日、私は自分の名前を書いてみた。
鈴木千佳。
見慣れていたはずの文字を、しばらく見つめた。
新しい部屋は、一人分の荷物で少しずつ整えた。
初めての夜には、家電の音が気になった。
でも、壁の向こうから私を笑う声は聞こえなかった。
誰の足音もしないことを確かめて、ようやく眠った。
離婚から数週間後。
暮らしは軽くなったけれど、会社では、まだ肩に力が入っていた。
「橘さん、これ……あ、いや、鈴木さん」
課長が呼び直した。
「はい」
受け取った資料へ目を落とした。
気を遣わせていることが、申し訳ないように感じた。
離れた席で、慎吾が後輩の仕事を見ていた。
「ここ、俺が確認しておくよ」
「ありがとうございます、助かります」
前と変わらない声だった。
慎吾のそばに、後輩が笑って立っていた。
「橘さん、相変わらず優しいよね」
近くの席から聞こえた。
続く言葉は小さくて、全部は聞き取れなかった。
ただ、離婚という言葉だけが、耳に残った。
自分の仕事をしよう。
画面に向き直った。読んでいた行を、もう一度初めから読んだ。
昼休みに、あかりからメッセージが来た。
『無理してない?』
『大丈夫』
そう返して、スマホを伏せた。
家に戻りたいわけではない。
けれど、自分で選んだから平気だと言えるほど、私は強くなっていなかった。
午後、入口の方が騒がしくなった。
受付の人が、困った声で何か言っていた。
「あの、お約束が……」
その言葉に重なるように、聞き覚えのある声が響いた。
「慎吾ちゃーん!」
私は、顔を上げた。
大きな風呂敷包みを抱えたお義母さんが、入口で手を振っていた。
慎吾が勢いよく立ち上がった。
「マ、ママ!?」
オフィスにいた人たちが、一斉に二人を見た。
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著者:さくらこ