マザコン夫の処刑日   作:桐山さくらこ

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これが、私の味

「お弁当、忘れてるわよ!」

 

 お義母さんは、風呂敷包みを持ち上げた。

 慎吾が、慌てて入口へ駆け寄る。

 

「会社には来るなって言っただろ!」

 

「何言ってるの。慎吾ちゃんの体が心配でしょう?」

 

 会話が、オフィスの奥まで聞こえた。

 キーボードを打つ音が、少しずつ止まっていく。

 慎吾が体を動かして入口の方へ促しても、お義母さんは気にしなかった。

 

「もういいから、早く帰ってくれよ」

 

「朝から慎吾ちゃんのために作ったのよ」

 

 近くの空いた机に、風呂敷が広げられた。

 弁当箱のふたが開く。

 醤油とソースの匂いが、私の席まで届いた。

 

 机の上を見なくても、中身が浮かんだ。

 柔らかくなった野菜。全体に絡んだ、濃い色の調味料。

 お義母さんは、周りの人にも見せるように箱を置いた。

 

「慎吾ちゃんは、ママのこの味じゃないとダメなんだから」

 

 慎吾の顔が赤くなった。

 箱のふたを戻そうと伸ばした手を、お義母さんが押さえた。

 私の隣の人が、そっと椅子を引いた。何か言おうとして、やめたようだった。

 

 お義母さんの視線が、オフィスを回った。

 私のところで止まった。

 

「あら、千佳さん。まだここで働いてたの?」

 

 体がこわばった。

 家で名前を呼ばれたときと同じように、何かしなければと思った。

 箸を出すのか、片づけるのか、謝るのか。

 立ち上がりかけて、膝の上で手を握った。

 

 ここは、私の職場だ。

 今は仕事をしている。

 私は、お義母さんの用事をするために座っているのではなかった。

 

「ママ! もう余計なこと言うなよ!」

 

 慎吾が声を強くした。

 

「余計なことって何よ?」

 

 お義母さんは、不思議そうに慎吾を見た。

 それからまた、私へ顔を向けた。

 

「千佳さんが出ていってから、慎吾ちゃん、大変だったのよ」

 

 周りの人が、私を見た。

 目を伏せたくなった。でも、伏せなかった。

 

「だってあなた、慎吾ちゃんの好きな味も作れなかったでしょう?」

 

「ママ、やめろって!」

 

 お義母さんは、慎吾の制止を聞かなかった。

 

「だから今は、私が毎日作ってあげてるのよ」

 

 弁当箱へ、誇らしそうに手を添える。

 家の食卓では、いつもそれで話が終わっていた。

 慎吾がうなずき、私が黙る。

 今日も、そのつもりなのだろう。

 

 けれど、慎吾はうなずかなかった。

 顔を伏せ、机の端に手をついていた。

 

 近くの社員が、お義母さんから慎吾へ、ゆっくり視線を移した。

 私を見る顔には、さっきまでと違うためらいがあった。

 誰も笑わなかった。

 

 課長と、目が合った。

 課長の眉が少し寄った。

 私は、何も言えなかった。

 

「お母様。こちらで少し、お話を伺います」

 

 課長が入口の方を示した。

 

「あら、何かしら」

 

 お義母さんは、笑顔でついていった。

 慎吾が弁当箱を閉じ、風呂敷を結び直す。

 布の端がうまく揃わず、何度も引っ張っていた。

 

 やがて、仕事の音が戻った。

 電話が鳴り、誰かが応じた。

 私も、自分の画面へ向き直った。

 

 全員に、何もかも分かってもらえたとは思わなかった。

 それでも、私に向けられた言葉を、今、ほかの人も聞いていた。

 家の中だけの出来事ではなくなった。

 

 膝の上で握っていた手を開いた。

 肩の力が、少し抜けた。

 

     *

 

 翌朝、慎吾はいつもの調子で挨拶をした。

 

「おはよう」

 

「……おはようございます」

 

 後輩が答え、パソコンへ視線を戻した。

 以前なら、そのまま雑談が始まっていた。

 慎吾は口を開きかけ、やめて席へ向かった。

 

 仕事の話は、これまで通りされていた。

 でも、慎吾のそばに笑顔で立ち寄る人は減った。

 給湯室から、昨日の話が聞こえることもあった。

 その中で、自分の名前を聞いても、前のようには息が詰まらなかった。

 

 会議用の資料を運んでいると、同僚が横に来た。

 

「半分持ちますよ」

 

「あ、ありがとうございます」

 

 束の半分が、腕から離れた。

 その人は資料を抱えて、廊下を歩きだした。

 

「これ、会議室で使う分ですよね?」

 

「はい。奥の机にお願いします」

 

 それだけの会話だった。

 離婚について聞かれたわけでも、励まされたわけでもない。

 ただ、重いものを一緒に運んでくれた。

 

 歩きながら、口元が緩んだ。

 これでよかった。

 私は、ここで働いていてよかった。

 

     *

 

 数日後、次のチームリーダーが決まった。

 候補だった慎吾と山口さんが、課長に呼ばれて会議室へ入った。

 

 慎吾の営業実績がいいことは、私も知っていた。

 この役を望んでいたことも、結婚していた頃に聞いていた。

 部屋に入るとき、慎吾は背筋を伸ばしていた。

 

 しばらくして、二人が出てきた。

 山口さんは、課長に何度も頭を下げていた。

 慎吾は、その横で何も言わなかった。

 

 オフィスへ戻った課長が、新しい体制を伝えた。

 

「次期チームリーダーは、山口君に任せる」

 

 近くの席から、おめでとうございます、という声が上がった。

 山口さんが、少し照れたように笑った。

 

「精一杯務めます。よろしくお願いします」

 

 課長は、集まった人たちへ話を続けた。

 

「リーダーは、自分一人で仕事をする立場じゃない。実績に加えて、周囲から信頼され、人がついてくることも必要だ」

 

 慎吾が、椅子の背に手をかけたまま立っていた。

 いつもの笑顔はなかった。

 課長の話が終わると、ゆっくり座った。

 

 誰かが山口さんに、改めて声をかけた。

 慎吾の方を見る人もいたけれど、近づいて話しかける人はいなかった。

 

 私は、持っていた資料を机に置いた。

 慎吾が何を言われたのか、会議室の中までは知らない。

 ただ、彼が望んでいた立場は、もう別の人に渡っていた。

 

「鈴木さん、一緒にお昼行きませんか?」

 

 同僚に呼ばれて、顔を上げた。

 

「はい」

 

 財布を取り、立ち上がった。

 慎吾の席を見続けることは、もうしなかった。

 

     *

 

 離婚から一年後、慎吾から手紙が届いた。

 休日の朝、郵便受けで差出人の名前を見つけた。

 

 橘慎吾。

 

 一度だけ、手が止まった。

 ほかの郵便物と一緒に持って、部屋へ戻った。

 

 テーブルで封を開けた。

 見覚えのある文字が、便箋に並んでいた。

 

『あれから、何をしてもうまくいかない』

 

 私は、静かに続きを読んだ。

 

『今になって、お前が毎日作ってくれていた料理を思い出す』

『お前の優しい味が恋しい』

『もう一度、やり直せないか』

 

 便箋から目を上げた。

 窓の向こうに、明るい朝の空があった。

 

「薄味で、水みたいって言ってたのにね」

 

 小さく声に出した。

 怒鳴り返したいとは思わなかった。

 おいしいと言ってもらうために、もう一度あの台所へ立つ自分も、浮かばなかった。

 

 缶コーヒーをくれた慎吾。

 閉じたドアの向こうで笑っていた慎吾。

 どちらも、私が知っている人だった。

 良かった方だけを選んで、その先の暮らしを忘れることはできなかった。

 

 便箋を半分に折った。

 もう一度折り、封筒と一緒にゴミ箱へ入れた。

 返事は書かなかった。

 

 カーテンを開けた。

 光が床まで届いた。

 窓を少し開けると、朝の空気が入ってきた。

 

     *

 

 別の休日、スーパーで野菜を選んだ。

 キャベツを持ち上げ、切り口を見る。

 ピーマンとにんじんも、かごへ入れた。

 肉売り場で足を止め、今日使う分を選んだ。

 

 何を作れば文句を言われないかは、考えなかった。

 食べたいものを想像すると、お腹が少し空いた。

 

 家に帰り、野菜を洗った。

 包丁を入れると、キャベツの葉が軽い音を立てた。

 フライパンを温め、肉と野菜を炒める。

 緑と赤と白が、菜箸を動かすたびに入れ替わった。

 

 調味料を少し加えて、味見をした。

 もう少しだけ、足そう。

 今度は、それを決めるために誰かの顔を見なくてよかった。

 

 料理を皿へ移した。

 ご飯と、好きな器を食卓に並べた。

 まだ温かいうちに、椅子へ座った。

 

「いただきます」

 

 キャベツを噛むと、しゃきりとした歯ごたえがあった。

 野菜の甘みが分かった。

 飲み込んでから、もうひと口食べた。

 

 食べることは、こんなに簡単でよかったのだ。

 自分がおいしいと思ったものを、温かいうちに食べる。

 ただそれだけで、胸の辺りまでほどけていった。

 

「うん。これが、私の味」

 

 誰に聞かせるためでもなく、そう言った。

 ひと皿を、最後までおいしく食べた。

 

 翌朝、仕事用のバッグを持って玄関に立った。

 靴を履き、部屋を振り返る。

 洗った皿は乾いている。窓辺には朝の光が届いていた。

 

「行ってきます」

 

 ドアを開けた。

 外の空気を吸い、鍵をかけた。

 顔を上げて、いつもの駅へ歩きだした。




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著者:さくらこ
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