端末から立ち上がった青白い光が、路地の壁を照らした。
ホログラムの中で、ヒマリがこちらを見ている。見慣れた顔だった。けれど、その目に浮かんでいるものは、先生が知る彼女の親しげな好奇心とは違っていた。
『ようやくお話し出来ますね。スナッチャーさん』
その呼び名を聞くのにも、少しずつ慣れかけている。
そう気付いたことの方が、先生には嫌だった。
隣のシロコ*テラーが、肩に回した先生の腕を支え直した。左脚へ体重を乗せすぎていたらしい。大腿の外側に、鈍い痛みが広がっていた。
「話なら短くして。先生は手当てが必要だから」
『ええ。お顔を見れば、事情は察せます』
ヒマリの視線が、先生の頬を捉える。
目の下から頬骨にかけて、熱を持った腫れが残っていた。口を動かすだけでも響く。端末を持ち上げた姿勢を保つのが辛くなり、先生は肘を身体の近くへ戻した。
”それで、君の用件とは?”
『あなたが生徒に何をしているのかを。聖園ミカさん、狐坂ワカモさん。それに、今あなたの隣にいる方も』
ヒマリは一度言葉を切った。
『どのような方法で、あなたを先生だと信じさせているのですか。接触が必要なのか、何か道具を使っているのか。それとも――』
ヒマリは小さく笑った。
『お答えいただけないのでしたら、この通信で得られた情報をシャーレへ提供することになります。私としても、出来ればその前にあなた自身から説明を――』
『先生ッ!』
声とともに、ホログラムの端へケイの顔が入った。
アリスと瓜二つの顔が、今は強張っている。
先生の顔を見たまま、彼女は動かなかった。何かを言いかけた唇が閉じられ、もう一度開く。
『……何ですか、その傷は。誰にやられたんですか』
”ケイ。君には、私が――”
『分かりますよ!』
鋭い声が、路地に響いた。
『分からないはずがないでしょう!』
先生は言葉を失った。
ケイの眉が寄っていた。こちらを見据えた目は険しく、声は、怒鳴った後も強く張り詰めていた。
『あなたは、あいつに頭を下げたんですよ。土下座までして、どうか生徒は家に帰してあげてくれって。私達を助けるために、そこまでしたんです』
息を吸う音が入る。
『私も、その助けられた一人です。なのに、今度はその私達があなたを追いかけて……最後には、私達の手であなたを、今シャーレに居る謎の男へ引き渡す!?』
ケイの顔が、わずかに横を向いた。
『どう考えたってロクな事にならない、きっとあなたは存在ごとそのまま消されてしまう。あなたのそんな結末、認められるわけがないでしょう!』
『ケイ。落ち着きなさい、あなたはその方を――』
『煩いぞ、明星ヒマリ! 何度言っても聞き入れない。ようやく調査をするとか言いだして、こんな夜更けに呼び出したら先生を追い詰めるだと! この悪趣味な仕掛けに騙されてる癖に! 何が全知だ、笑わせるな、この間抜けが!』
ヒマリの声が止まった。
『和泉元エイミ、お前もだ! お前らはいったい何を守っているつもりで私達のために力を尽くしてくれた――』
何かが硬い物にぶつかった。大きな物音に重なって誰かの声がしたが、言葉までは聞き取れなかった。
青白い像が大きく歪む。ケイの顔も、ヒマリの姿も横へ流れ、いくつかの光の筋になって消えた。
端末には通話中の表示が残っている。
『エイミ、待ってください』
音声だけは届いていた。
続いて衣擦れのような音がして、それも止む。
先生は暗くなった表示を見つめた。映像が戻る気配はなかった。隣ではシロコ*テラーが先生の体重を受け止めたまま、端末へ視線を落としている。
短い沈黙の後、ケイの声がした。
『……すみません』
先ほどよりも低い声だった。
『ヒマリ部長。エイミ。言葉が過ぎました。侮辱を撤回します。掴みかかろうとしたことも、謝罪します』
ひと呼吸置いて、彼女は続けた。
『ですが先生、あなたへの怒りは別です。撤回しません』
先生は端末から顔を上げなかった。
『どうして、あんな場所に飛び込んだんですか。そんな怪我をするまで。どうして……私に、連絡してくれなかったんですか』
最後の問いだけが、少し小さくなった。
『私じゃ、頼りにならないんですか』
左脇腹が痛んだ。
答えようとして、深く息を吸ったせいだった。先生は途中で呼吸を止め、ゆっくり吐き直した。
”頼りにならないと思ったんじゃない。……最初に、ホシノに電話したんだ”
隣で先生を支えていたシロコ*テラーが、はっと顔を上げ、その顔色を変えた。
通話の向こうは静かだった。
”事件が起きた日、当番だったから。少し前まで一緒に仕事をしていた。ホシノなら、分かってくれると思った”
『……それで?』
”私だと、認めてもらえなかった”
公衆電話の受話器の感触が、指先に戻った。
番号は覚えていた。何を話したかも、つい先ほどまで彼女がどんな顔をしていたかも、覚えていた。
それでも通じなかった。
”それで、誰に連絡しても同じだと思い込んだ。シロコに会って、他にも分かってくれる子がいるかもしれないとは思った。”
”…でも、ミカとワカモを助けることばかり考えて、誰に頼れるかを考えようとしなかったんだ”
『試しても、くれなかったんですね』
”……うん”
事情を話せば、彼女が傷つかずに済むわけではなかった。
自分が電話をかけなかったことに、変わりはない。
”ごめん、ケイ。君を頼ろうとしなかった”
『私は……』
ケイはそこで言葉を切った。
先生は待った。
『私は、ここにいたんです。ずっと、あなたを心配していました』
”うん”
『あなたを先生だと分かる私が、いたんですよ』
”今、分かった。遅くなって、ごめん”
端末を持つ指が、少し震えていた。
疲労のせいだけではなかった。
シロコ*テラーの手が下から添えられる。先生はその手に端末の重さを預けた。
『ケイ、改めて、質問させてください』
ヒマリの声だった。
『あなたが異変に気付いたのは、いつですか。その時、何処で、何をしていましたか』
『事件当日の夕方です。ゲーム開発部の部室で、モモイ達のデバッグを手伝っていました。休憩中、ニュースに先生の手配情報が出たんです』
ケイの返事は、先ほどよりもはっきりしていた。
『先生が別人として扱われているのを見て、おかしいと分かりました。少なくとも事件当日から今まで、先生とは直接会っていません。この通信まで、連絡も取れていません』
『記録は残っていますか』
『ニュースの閲覧履歴も、時刻も。先生の番号へ電話しましたが、出た声が今シャーレにいる方だったので〈モモイへの間違い電話〉ということにして、すぐに通話を切っています』
小さく息を整えて、ケイは続けた。
『今、送ります。私の居場所も、部室の出入りの記録と照合してください。必要なら端末も渡します』
小さな操作音が続いた。
ヒマリはすぐには答えなかった。
先生は暗い画面に映り込む自分の顔を見ていた。腫れた頬と、疲れた目があった。ケイに見せたかった顔ではない。
『……受け取りました』
やがてヒマリが言った。
『調べ直す必要があるようです』
”ヒマリ”
『今ここで、あなたの説明を受け入れたわけではありません。ですが、確認していない点を残したまま、お話を進めることも出来ません。続きは日を改めましょう』
言い方は慎重だった。それ以上の約束はなかった。
それでも、最初の問いとは違っていた。
『それから先生』
ケイが言った。
『ちゃんと、手当てを受けてください』
”分かった”
『返事だけでは、駄目ですからね』
”うん。受けるよ”
通話中の表示が消えた。
路地が、元の暗さに戻る。
先生はしばらく端末を見つめていた。何を何処まで知られたのか、まだ分からない。それでも、ひとまず話は切り上げられた。
シロコ*テラーに促されて、顔を上げる。
「帰ろう」
”……そうだね。ワカモが待ってる”
右脚を先に出す。
左脚を引き寄せたところで膝が揺れ、シロコ*テラーが身体を寄せた。
「急がなくていい。支えるから」
先生は頷き、彼女と歩調を合わせた。
* * *
扉が閉じる音を聞いて、ようやく戻ってきたのだと思えた。
隠れ家の灯りの下で、黒服が先生達を迎えた。
「お戻りになりましたか」
”ワカモは?”
「横になっています。呼びかけには応じますが、頭痛は続いているようです」
先生は奥へ目を向けた。
寝台に横たわるワカモが見えた。額に手を当て、目を閉じている。そばの台には、水の入ったコップが置かれていた。
そちらへ歩き出そうとしたところで、シロコ*テラーに止められた。
「先に座って。すぐそばまで椅子を持ってくるから」
先生は寝台へ目をやり、それから差し出された椅子に手を掛けた。
腰を下ろすと、左脇腹が引きつった。思わず息を詰めた先生を見て、シロコ*テラーの手が止まる。
「ここ?」
”うん。あと、左の腿”
服をずらして確かめた彼女は、しばらく何も言わなかった。
傷の上へ布越しに冷たいものが当てられる。先生はそれを押さえた。頬にも冷やした布を渡される。
右手を動かすと、残った手錠が椅子の縁に触れた。鎖を膝へ載せ直し、冷たい布を腫れに当てる。
”さっき、ヒマリから通信が入った。この端末に”
黒服へ端末を差し出すと、長い指がそれを受け取った。
「……なるほど」
”詳しい話は後で。今は、ワカモを”
寝台で、ワカモの指が動いた。
「その、声……」
先生は椅子に座ったまま、身体の向きを変えた。脇腹に響かないよう、少しずつ。
”ワカモ。聞こえるかい”
彼女が目を開けた。
焦点が合うまでに、時間がかかった。先生の顔を捉えた途端、額に置かれていた手が強く握られる。
「あなた、様……っ!」
細い息が漏れた。
「少し、静かに……していただけませんか。その音が、ずっと……」
先生はシロコ*テラーと目を合わせた。
室内には、低く空気の流れる音があるだけだった。
”頭も、まだ痛い?”
「……はい」
返事をしたワカモは、唇を噛んだ。こちらを見ようとするたびに眉間が歪む。
先生は頬に当てていた布を下ろした。
”その痛みの原因になっているものを、取り除けるかもしれない。使いたい道具があるんだ”
「道具……?」
”誰が先生なのか、分からなくされているところを直す道具だ。シールのようなものを、君の身体に貼る。効くまでに六十秒かかる”
ワカモの目が先生の手元へ動いた。
”その間は身体を守る神秘がなくなって、力も弱くなる。終わってからも、すぐには戻らない”
”横になったままでいてほしい。ここで私達が見ている。途中で剥がれると、治せないまま終わってしまう”
「それを、すれば……この音も?」
”原因が取り除ければ。怪我や疲れまで治せるものではないけれど”
先生はそこで言葉を止めた。
ワカモは目を閉じた。こめかみを押さえた手が、寝具の上へゆっくり下りる。
「……お願い、いたします」
声は掠れていたが、聞き取れた。
先生はシッテムの箱を取り出した。
残る一枚。
エンブレムへ触れると、白い光を帯びたRE:TEXTが現れた。薄い表面に、細かな輝きが走っている。
シロコ*テラーがワカモの腕の位置を整えた。寝台から落ちないよう、身体の脇に畳んだ布を置く。
”腕のところに貼るよ”
ワカモが小さく頷く。
先生は身を乗り出さずに届く位置へ椅子を寄せ、袖の上から、直接RE:TEXTを貼り付けた。
ワカモの肩から力が抜けた。
持ち上がりかけた手が寝具へ沈む。シロコ*テラーはその手に添えていた指を離さず、静かに支えた。
先生は時計を見た。
十秒。
ワカモは目を閉じている。眉間に刻まれた皺は、まだ消えない。
二十秒。
廊下を走る足音はしなかった。銃声も、怒鳴り声もない。
それでも先生は、白いシールとワカモの顔を交互に見た。
三十秒を過ぎたところで、彼女の唇が動いた。
「まだ……」
”うん。あと少し”
先生は寝台の縁に手を置いた。
”ここにいるよ”
ワカモの指先が、わずかにその手へ近づいた。
四十秒。五十秒。
時計の針が進んだ。
六十秒。
袖に貼り付いていた白い面が、布地の内側へ沈み始めた。端から剥がれることも、光が散ることもなく、そのままワカモの中へ吸い込まれていく。
先生は彼女の顔を見た。眉間の皺が緩んでいた。
ワカモが目を開ける。
「……先生?」
”うん”
彼女は先生を見ていた。
さっきまでのように目を細めることも、こめかみを押さえることもなかった。
「あなた様、ですか」
”そうだよ、ワカモ”
彼女の手が伸びた。
先生はその手を迎え、握った。指先は冷たく、握り返す力もまだ弱かった。
「音が……」
ワカモは天井へ視線を向けた。それから、先生へ戻した。
「止まりました。頭も、痛くありません」
”よかった”
「本当に……あなた様が」
握られた指に力がこもった。
ワカモが起き上がろうとする。けれど肩が少し浮いただけで、先生はその手を支えたまま首を振った。
”まだ寝ていて。身体は休ませないと”
「ですが、そのお顔……」
視線が頬に止まった。
次いで、先生が脇腹へ当てている布へ下りる。
ワカモの表情が変わった。先生の手を握る指が、冷たいまま強張った。
「……さては、あの子ウサギどもですね?」
掠れた声に、硬い響きが混じった。
「あの不届き者を庇って、あなた様にまで……」
寝具の上で、空いた手が布を掴んだ。
「許せません。先生のお名前を騙った者も、あの者達も。私が必ず焼き払っ――」
”ワカモ”
彼女が先生を見た。
”あの子達は〈シャーレの先生〉を守ろうとしているんだ”
「違います。あの子ウサギどもが守っているのは紛い物です」
”そうだね。でも、あの子達には、それが分からない”
頬が脈打つように痛んだ。
先生はその痛みをやり過ごしてから、続けた。
”ワカモ。君からすると信じられないかもしれないけど、私があの子達と初めて会った頃は、今よりずっと荒んだ目をしてた。自分達以外はみんな敵だって、そう決めつけているような目だった”
”あの子達は最近ようやく、誰かのために頑張りたい、自分達以外の誰かを信じてもいいのかもしれない。そう思えるようになったんだ”
”誰かを信じたい、守りたい。あの子達のそういう気持ちを、利用されている。自分で考えなくなったわけじゃない。守ろうとしている相手を、すり替えられているんだ”
ワカモは、先生の目を見ながら答えた。
「あなた様が、あの子ウサギどもをどう見ているのかは理解しました。ですが――私があなた様の名を騙るあの紛いものを成敗する、その邪魔をしたこととは関係ありません」
”…そうだね、君としてはそう言いたくなって当然だと思う”
「それでも、許せと仰るのですか」
ワカモの声が低くなった。
「あなた様を、そのようなお姿にしたことも」
”許してほしいとは、言わない”
先生は彼女の目を見て答えた。
”君が苦しんだことまで、私がなかったことには出来ない”
ワカモは黙っていた。
”ただ、あの子達もまだ、自分達に何が起きているのか知らないままなんだ”
先生は言葉を切り、彼女を見つめた。
”だからどうか、私のためにあの子達を傷付けるのはやめてほしい。私はそれを望まない。これまでも、そしてこれからも”
「……先生」
”今夜は、ここで休んでほしいんだ。君にも”
ワカモの唇が引き結ばれた。
返事は、すぐにはなかった。
先生は手を握ったまま待った。彼女の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
「…………承知、いたしました」
やがてワカモは言った。
「あなた様が、そう望まれるのでしたら」
その目の険しさは消えていなかった。
「ですが、あの子ウサギどもを許すつもりはありません」
”うん”
先生は頷いた。
”聞いてくれて、ありがとう”
ワカモは目を伏せた。
手を離すまで、もう少し時間がかかった。
先生は時計と、ワカモの手元を見比べた。認知が戻ってから二分ほど経つ頃には、彼女は自分で布を持ち直せるようになっていた。
それでも、水を飲もうとすると腕が揺れた。シロコ*テラーがコップの底を支え、口元へ運ぶ。
痛みが消えても、今夜までの消耗は残っていた。
* * *
寝具を掛け直してもらったワカモは、やがて眠った。
先生は寝台から少し離れた椅子で、冷たい布を頬に当てていた。腰を下ろしてから時間が経つほど、立ち上がることを考えたくなくなる。
左脚の置き場を変えようとすると、腿の外側が痛んだ。
「動かさないで」
シロコ*テラーが屈み、先生の足元の支えを直した。
”ありがとう”
「……だから言ったんだよ。あと一人でも頼れる生徒を探してからにすれば、そんな怪我をしなくても良かったのに」
彼女はすぐには立ち上がらなかった。
先生の顔を確かめるように見てから、隣の椅子へ腰を下ろす。
「ケイの言った通りだと思う」
先生は布を少し下げた。
「この世界の生徒にも、そう言われちゃったね」
”……返す言葉がないよ”
「返さなくていいよ、でも聞いてほしい」
先生は彼女を見た。
シロコ*テラーの声は静かだった。責め立てる響きはない。だからといって、穏やかな話でもなかった。
「あなたは、もっと自分も大切にするべきだと思う」
先生は膝の上へ視線を落とした。
ワカモを連れ出せた。ミユにもRE:TEXTを使えた。追跡を振り切り、ここへ戻ることが出来た。
その一つ一つを、答えとして並べかけた。
だが、ケイが尋ねたのは、作戦が成功したかどうかではなかった。
私じゃ、頼りにならないんですか。
暗くなった端末から聞こえた声が、まだ耳に残っていた。
”助けに行くことしか、考えていなかった”
「うん」
”戻ってきた時に、どんな顔をさせるかまでは……考えられていなかったと思う”
シロコ*テラーは、寝台の方を一度見た。
「ワカモも、先生の顔を見たら怒った」
”そうだね”
「きっと、みんな同じことを言うよ。認知さえ戻ればね」
あの路地で銃を向けた生徒達も。
自分を先生だと認めなかった生徒達も。
今は思い浮かべることさえ痛む顔を、先生は一人ずつ思い出した。
その子達が戻ってきた時、自分がいなければいいということにはならない。
先生は頬に布を当て直した。
”今夜は、休むよ”
「今夜だけ?」
少し迷ってから、先生は首を振った。
”これからのことも、一緒に考えてほしい。私が行くしかないって決める前に、君に相談する”
シロコ*テラーが、こちらを見た。
”頼っても、いいかな”
「……ん」
彼女の手が伸び、先生の手に触れた。
路地で身体を支えてくれた手だった。今は力を込めず、そこに置かれている。
先生は布を持つ手を少しずらし、彼女の指に自分の指を重ねた。
「もう離れないから」