指が、通話を切るところに触れた。
先生が何か言いかけていた気がする。でも、聞き直すことも出来なかった。
「モ、モエちゃん……」
端末を胸元へ引き寄せる。
モエちゃんは開いたドアの前から動かず、私を見ていた。
「今の相手、先生じゃないよね?」
「あ、あの……」
視線が落ちる。端末の縁を握る指が白くなっていた。
「三日前も、先生と話してたんじゃなかったんだね」
息が止まった。
電話を切る前に、私が先生と呼んだ時……聞かれていたんだ。
「皆を元に戻すって、何? スナッチャーに何を頼まれたの?」
「ち、違うの。頼まれたんじゃ……私が……わ、わたし…から……」
私から、お願いした。
先生を捕まえてしまう前に、皆に、元に戻ってほしかったから。
でも、そう説明して安心してもらえるはずがない。
「……スナッチャーと話してたことは、否定しないんだね」
モエちゃんが通信機を口元へ上げた。
「RABBIT3からRABBIT1、RABBIT2。ミユがスナッチャーと連絡を取っていた。私達にも何かするつもりらしい」
「ま、待って、モエちゃん……!」
「…残念ながら、RABBIT4はやはり洗脳を受けていたと判断する。これから拘束するから、二人とも今すぐ降りてきて」
私の呼びかけよりも、モエちゃんの報告の方がずっとはっきりしていた。
いつも任務で聞いている声だった。
モエちゃんが手元を操作すると、通信機の声が大きくなった。
『こちらRABBIT1。ただちに向かいます…ミユ、聞こえますか?私達はあなたを見捨てません。必ず助けてみせます。どうか信じて』
「ミヤコちゃん、私は……」
『こちらRABBIT2、了解。私達の言葉が少しでも理解出来ているならそこを動くな。安心しろミユ。私達はお前の味方だ』
サキちゃんの後ろで、扉が開く音がした。
もう、こちらへ向かっている。
見捨てないと、味方だと、そう言ってくれる。
その言葉が嬉しくないわけじゃない。それでも、ここで捕まるわけにはいかなかった。
「あの人は……私の話を、覚えてて……それで、私……」
隠れていた場所も、サキちゃんの銃のことも、一つずつ確かめた。
なのに、口から出てきたのは、何も説明出来ていない言葉だった。
「うん、分かったよ。その話も後で聞く。まず、端末を渡して」
その声は優しかった。怒鳴られるよりも、ずっと苦しかった。
私は端末をポケットへ押し込んだ。入れたままの紙が指先に触れる。
――これを渡したら、先生のところへ繋がってしまう。
「ミユ」
廊下を塞ぐように、モエちゃんの手が伸びてくる。
ミヤコちゃんとサキちゃんが来たら、もう動けない。
〜〜〜ッッ!もう、こうするしかないっ!
「モエちゃん、みんな! ごめんなさい!」
伸ばされた腕を避け、ぎゅっと目を瞑って、両手でモエちゃんを押した。
「わっ……!」
よろけながら尻もちをついたモエちゃんの脇をすり抜ける。
「いつか全部、ちゃんと説明しますっ!」
そう叫びながら、一気に走り出した。
「ミユ、待って!」
振り向きかけて、やめた。
銃も装備も部屋の中だ。取りに戻ることは出来なかった。
出口へつながる階段を駆け上がり、踊り場へ出るたびにその先を確かめる。
誰にも会わないまま扉を押し開け、私は朝の光の中へ走り出した。
* * *
……あの気弱なミユが、突き飛ばしてくるとは思わなかった。
床に手をつき、身体を起こす。
「……っ、ミユ!」
足音が角の向こうへ消えた。後を追って走り出すが……ダメだ。今からでは屋外で見失ってしまう。
「RABBIT3。ミユが逃走、地上へ向かってる!」
私は途中の分岐で向きを変え、整備スペースへ走った。
『こちらも向かっています。モエ、ミユは武装していますか』
「銃は持ってない。制服のまま、端末だけ持って逃げた」
待機中のⅠ型ドローンをまとめて起動し、追跡対象にミユの識別データを登録する。
回転音が重なり、機体が床から浮いた。
「ドローンを出す。二人は外へ!」
搬出路の地上口は、ミユが向かった出口とは方角が違う。
外へ出てから回り込む間にも、距離を稼がれる。
先頭の映像が明るくなった。壁面に沿って旋回させると、道路脇を走る後ろ姿が映った。
「ミユを捕捉。位置、送る」
『確認した。見失うなよ、モエ!』
「分かってるって」
見失わないよう機体を寄せた時、ミユが顔を上げた。
こちらを見ると道の端へ寄り、路面にしゃがみ込む。
「……まさか」
ミユはマンホールの蓋に指を掛けている。
カメラを下へ向けた時には、もう片脚が穴へ入っていた。肩が沈み、蓋が引き寄せられる。
「地下に入られた。侵入地点を送る!」
画面には、閉じた蓋だけが残った。
「あの時の囮とは違う……」
十三日の囮は、こちらの配置が変わっても、何を優先するか選べなかった。
今ミユはドローンに気付いて逃げ方を変えた。洗脳されても本人の特性や能力はある程度残る…可能性として以前から考えてはいた。
ミユがどこかへ隠れ潜む際の巧みさはよく知っていたつもりだったが…今回、よりにもよってその能力を私達から逃げるために使われるだなんて。
下水道の図面を呼び出し、侵入地点を重ねる。
通路はすぐ枝分かれし、その先にも地上へ繋がる地点が並んでいた。
「出口が、多すぎる……」
一機を侵入地点に残し、残りを振り分ける。
ミユなら近くの出口で待たれるくらいは考える。かといって、遠くへ散らせば、その間から出られる。
『モエ。私達は侵入地点へ向かいます。地下の経路を送ってください』
「今、送る。地上の出口はこっちで見る」
図面を転送し、カメラを切り替える。路地、交差点、建物の裏手。
どこにもミユはいない。
三日前、あの電話を聞いた後でシャーレへ確認した。先生はミユと話していなかった。
でも、相手も用件も分からない。普段の受け答えや任務には、おかしなところもなかった。それだけで洗脳されたと決めつけて、拘束したくはなかった。
一昨日も昨日も、なるべく一人にしないようにしていた。
そばで見ていれば、何かあっても止められる。次に電話をする時に、誰と何を話しているのか確かめようと思っていた。
もっと早く話を聞けばよかったのか。それとも、さっき電話をしているところで、声を掛けずに端末を取り上げてしまうべきだったのか。
今考えても、画面の中には戻ってこない。
「……勝手に、一人で決めないでよ」
次の出口へ、機体の針路を変えた。
* * *
蓋を閉めてすぐ、私は端末の電源を切った。
これだけで見つからなくなるとは思えない。でも、繋がったままにしておくのは怖かった。
梯子を下りると、鼻をつく臭いに息が詰まった。
狭い足場の横を濁った水が流れている。
モエちゃんなら、別の出口にもドローンを回す。
最初の梯子は通り過ぎ、曲がった角を頭の中で数えながら、出来るだけシャーレから離れた。
足場が細くなったところで、靴が滑った。
「あっ……」
壁に手をついたけれど、片脚が水へ落ちた。白いタイツが茶色に染まり、跳ねたものもスカートにかかる。
脚を引き上げると、靴の中に水が残っていた。足をつくたび、ぐじゅぐじゅと嫌な音がする。
しかも、靴の中に硬い何かが入ってしまった。壁に背を預けて靴を脱ぎ、水ごと振り落とす。
履き直す時、濡れた靴に触れた指まで汚れてしまった。
「うぅ……」
自分の身体から立ち込める臭いに思わず顔をしかめてしまうが、それでも歩いた。
頭上に蓋が見えるたび、まだ近すぎる気がして通り過ぎた。
一キロは歩いただろうか。脚が重くなった頃、ようやく一つの梯子を上った。
蓋を少しだけ持ち上げ、空を窺う。ドローンは見えない。耳を澄ませても、遠くの車の音だけだった。
外は知らない裏通りだった。
蓋を戻して軒下へ入る。風に吹かれると、濡れた制服の臭いが分かった。
銃の帯を探して、肩へ手をやった。
何もなかった。
銃も、通信機も、双眼鏡も、鞄も。今朝まで使っていたベッドの脇に、全部置いてきた。
昨日までは皆と離れずに先生を手伝える方法を探していたのに、今日は皆が私を探している。
連れ戻そうとしている…スナッチャーに〈洗脳〉された被害者として。
壁際にしゃがみ込み、モエちゃんを押した手を見つめた。
怪我をしていないだろうか…なんて今更気になってしまう。私が、自分で押したくせに。
「……ごめんなさい」
ここにいても見つかる。でも、どこへ行けばいいのだろう。
ポケットへ入れた指に、硬いものが当たった。
入れっぱなしの小銭が数枚。顔を上げると、表の通りに公衆電話の標識が見えた。
紙を開く。折り目は潰れていたけれど、番号は読めた。
まだ、かけられる。
上空と道の両端を確かめてから、受話器を取った。
硬貨を入れ、番号を押す。
出てください。お願いします。
『もしもし』
「せ、先生……」
それだけで喉が詰まった。
『ミユ? さっきはどうしたの?』
「モエちゃんに、聞かれてしまって……皆が来るって、それで、私……慌てて逃げているんです……先生。どうか匿ってください」
『そ、そっかぁ…』
胸が縮んだ。やっぱり、困らせて――
『分かった。迎えを出す。今、怪我はしていない?』
私が何か言おうとするより先に、迎えに来てくれることが決まっていた。
「怪我は、ありません……」
『よかった。今、追ってきている人は見える?』
「今は見えません……ドローンに追われて、下水道を通って逃げてきたんです。端末の電源は切ってあって……今は、公衆電話から……」
『そのままでいい。近くに住所の表示か、店の名前はあるかな』
通りの角の住所と、向かいの店の名前を伝えた。
先生は繰り返して確かめると、通りを見られる物陰がないか尋ねた。
「電話の後ろに、庇のあるところが……あそこなら、壁の陰から通りも見渡せます」
『じゃあ、そこで待っていて。白い髪の、前に話した生徒が迎えに行く。灰色の車だよ。危なくなったら、待つことより隠れることを優先して』
「はい……ありがとうございます、先生」
『うん。また後で』
迎えが来る。
その言葉を何度も思い返しながら、紙と残った小銭をしまった。
* * *
十数分後、物陰で待つ私の前に、灰色の車が止まった。
普通の自動車の運転席から、白い髪の人がこちらを見る。
「待たせたね。さぁ、乗って」
駆け寄ってドアを開ける。
……やっぱり、綺麗な人だ。近くで見ると、思わず目を合わせるのをためらってしまった。
けれど、座ろうとして、自分の服が目に入った。
「あの、その。服が、汚れてて…」
「そんなのいいから。早く」
「す、すみません……」
ベルトを留めると、その人はミラーを確かめて車を出した。
「端末の電源、切ってある?」
「はい。切ったままです」
「ん…よろしい。じゃあそのままで」
私も後ろを見た。追ってくるドローンは見つからなかった。
車内では、濡れたタイツと靴からの臭いがいっそう強く感じられて、出来るだけ身体を小さくした。
「……お迎えまでお願いしてしまい、すみません」
「先生はね、あなたが頼ってくれて、きっと嬉しかったと思うよ」
顔を上げると、その人は前を向いたままだった。
「……そう、でしょうか?」
「ん…先生の気持ちだから、あくまで〈きっと〉だけどね」
「でもね、あなたが本当にその気なら、誰にも見つからないところにずっと隠れ続けられるんだろうなって。少なくとも私はそう思ってる。
それなのに先生に電話した。どうか匿って欲しいと頼んだ。こうして先生の手伝いをしてる私が迎えに行ける場所で、迎えを信じて待っていてくれた」
ハンドルを握ったまま、その人は小さく息を吐いた。
「……それは、先生としてはとても嬉しいことだったと思うよ」
「でも……私、こんな馬鹿みたいな失敗して…お姉さんのお車までどろどろに汚しちゃって……」
「失敗の仕方なんて関係ない。先生は〈頼ってもらえるなんて、先生冥利に尽きる〉位言うよ」
「……そんなもの、でしょうか」
「そうだよ。だって先生だもの」
「…〈私の〉先生もそういう人だった」
「……?」
どういう意味だろう。横顔を見たけれど、お姉さんは前を向いたままだった。
* * *
着いた建物の前で、白い髪のお姉さんは周囲を確かめてから扉を開けた。
濡れた靴音を気にしながら廊下をついていくと、一つの部屋へ案内された。
「先生。連れてきた」
”ありがとう、シロコ。ミユ、よく来たね”
顔を上げて、立ち止まった。
左のこめかみから目元の外側に、まだ痣が残っていた。あの夜より薄くなっているけれど、私が銃床で殴ったところだ。
「先生、申し訳ありません。その、お顔の怪我も治っていないのに、またご迷惑を……」
”顔のことは、電話でも謝ってくれただろう。手当も続けているよ。それから、皆に連絡を知られた時のことも相談しておくべきだった。今日のことは、私にも責任がある”
「でも、私が……」
”まず、無事に来てくれてよかった”
俯いたまま頷いた。
捕まらずに来られた。それなのに、何かを失くした感じが胸から離れなかった。
「……本当は、小隊に残って、何か出来ればと思っていたんです。皆、私を助けるって言ってくれて……それなのに、逃げてきてしまって」
先生は黙って聞いてくれた。
私は震える声のまま、顔を上げた。
「こんな形になってしまって、ごめんなさい。でも、皆を元に戻すために、どうか私も協力させてください」
今度は最後まで言えた。
今朝お願いしたことは、逃げてきたからといって消えてはいない。
”私を頼ってくれてありがとう。事件の解決には君の力が必要だ。私こそ頼らせてもらうよ”
「……こんな私でも、お役に立てますか?」
”うん。何をお願いするか、落ち着いてから一緒に考えよう。ここにいる皆でね”
「はい……よろしく、お願いします」
鼻の奥がつんとした。拭こうとした手に汚れが見えて、慌てて下ろす。
先生の視線も、私の汚れたスカートと、茶色く染まった片脚のタイツへ移った。
”……まずは、着替えないとね。冷えるだろう”
「あ……す、すみません。床まで」
”床は拭けば大丈夫。お風呂はあっちだから入っておいで。それから、普通の服なら買えるから、この……シロコに相談して”
隣のお姉さん…シロコさんが頷いた。
「ひとまず、私の着替えを貸す。少し大きいと思うけど」
「ありがとうございます……あの、制服も、洗わせてもらえますか」
「ん…大丈夫。洗濯機もあるよ、後で場所と使い方を教える」
私は汚れたスカートの端をつまんだ。
銃も荷物も置いてきたけれど、この制服はまだ着ている。
――SRTの制服。皆と同じRABBIT小隊の一人であることの証。
もう一度先生へ頭を下げてから、お風呂へ案内してくれるシロコさんの後を追った。
シロコ*テラーは、元々いた並行世界のRABBIT小隊の一人ひとりと深く交流したことはなかったのですが、こうして直接関わることで、当時あった出来事を少しずつ思い出しています。
内容をはっきり思い出せる最後の報道を思うと、RABBIT小隊の隊員であるミユが先生を素直に頼ってくれたことは、とても嬉しいことでした。