10月17日
報告書を読み終え、私、月雪ミヤコは最初の頁へ戻った。
聖園さんは今もスナッチャーを先生だと認識している。記憶と記録を照合しても、他の生徒で捉えた反応は検出されなかったという。
異常はなかった、ということだろうか。そう読みかけて、注記で目が止まった。
今回の条件では反応を記録しなかった。それだけで、認識の正しさや、精神への影響がないことまでは保証出来ないという。
「先生。ミユにも、同じ検査をお願い出来ないでしょうか」
「霞沢さんにも、ですか」
「はい。本人は何ともないと言っています。ただ、私達が見ているだけでは分からないこともあると思います」
ミユを護衛から外さないでほしいと頼んだのは、私達だった。
普段どおりに話し、任務もこなしている。けれど、それだけで何もなかったと決めてしまっていいのだろうか。
「あの時、力が抜けた原因も分かっていません。聖園さんと比べれば、何をされたのか分かるかもしれません。明日の交代後なら、私達で付き添えます」
「分かりました。ミレニアムへ打診しましょう」
肩の力が少し抜けた。
ミユはきっと、自分のために手間をかけさせたと気にする。何もなければ、それが一番いい。そう説明しよう。
「それとは別に、月雪さんと空井さんにお願いしたいことがあります」
先生は検査手順の添付資料を示した。
「これは私と皆さんだけの話にしてください…実はミレニアムの中にも、スナッチャーの影響を受けた生徒がいるかもしれません。調査する側が奴に取り込まれていないか、確かめておきたいのです」
「…それなら、検査を任せてもよいのでしょうか」
「だからこそ、記録を共有してもらっています。検査は進め、接触の有無は先方の調査と分けて確認してください」
護衛の引き継ぎが済めば、二人で動ける。
私は承諾し、予定表へ書き込んだ。ミユの検査には付き添う。その後、サキと二人で接触の手掛かりを探す。
報告書を閉じる前に、道具についての聴取欄が目に入った。
――そこに記されていたのは、本人が回答を望まなかったという一文だけだった。忘れたのではなく、話したくないと。
ミユも、何かを知っていて黙っているのだろうか…唇を引き結び、報告書を閉じた。
まずは検査を受けてもらう。まだ何も聞いていないうちから、決めつけてはいけない。
* * *
10月18日 朝
端末の番号を見て、先生は椅子へ腰を下ろした。
ミユは挨拶の後、ほとんど息を継がずに話し始めた。
護衛交代後に検査を受けることになった。先生との連絡を知られずに済む自信がない。
それでも小隊に残りたい。皆を裏切りたくない。先生を撃つことも、皆に撃たせることもしたくない。
追加調査の依頼は、昨日ヒマリから聞いていた。その検査について話すにも、まず近くに誰かいないか確かめなければならない。
”ミユ。ひとまず落ち着いて。その検査なんだけど”
『…そういえば先生。私にしたのと同じことを他の皆にも出来ますか?』
”…一度に全員は、無理だ。でも順番になら可能だ”
『本当ですか!じゃあ先生。私、それに協力します』
『どうか、皆を元に戻すお手伝いをさせてください』
明るくなった声に返事をしようとした時、別の声が入った。
『――ミユ――今、誰と――』
……たぶん、モエの声だ。
傍にいるのかと確かめる間もなく、通話が切れた。
入口で足を止めたシロコ*テラーへ、モエらしい声が聞こえたと伝える。
先生はミユの番号を表示させたが、かけ直す前に指を止めた。着信音で注意を引くかもしれない。端末を見られている可能性もある。
”今は、こちらから鳴らさない方がいいと思う”
「ん」
湯の沸く音がして、シロコ*テラーが火を止めた。
渡されたカップにも口をつけられず待っていると、別の番号から着信があった。
『せ、先生……』
”ミユ? さっきはどうしたの?”
モエに聞かれ、皆が来ると聞いて逃げたという。
細切れの説明の最後に、声が震えた。
『先生。どうか匿ってください』
”そ、そっかぁ…”
向こうが静かになり、先生はすぐ続けた。
”分かった。迎えを出す。今、怪我はしていない?”
怪我も、見える追手もない。下水道を通って逃げ、携帯を切って公衆電話からかけている。
先生は住所と向かいの店名を書き取り、シロコ*テラーへ渡した。
「行ける」
地図を確かめた彼女が頷く。
電話の後ろに庇があるという。そこで待つよう頼み、迎えに行く生徒の髪と車の色を伝えた。危なくなったら隠れることを優先してほしい、と。
シロコ*テラーはもう車の鍵を手にしていた。
十三日の作戦後、移動の足が要ると買っておいた灰色の中古車だ。特別な装備はなくても、ミユを迎えに行ける。
”お願いするよ”
「ん。先生はここで待ってて」
扉が閉まると、先生は空いている椅子から荷物を下ろした。
* * *
ミユが身体を洗っている間に、先生は床の水を拭こうとしていた。
…左脚を曲げると痛むので、真っ直ぐにしたままで身体全体を動かし、汚れた場所へ雑巾を向ける。
隣室から出てきたワカモが先生の体勢を見つめ、続けて汚れ物の袋に目を留める。
「……本当に、こちらへ置かれるのですね」
”うん。皆を戻すために協力したいと、自分で言ってくれた”
ワカモは袋からはみ出したSRTの制服を見ていた。
”すぐに仲良くしてほしいとは言わない。でも、ここでは安心して休ませたいんだ”
「あなた様の望みは、承知しております」
言葉遣いは丁寧でも、視線は制服に留まったままだった。
シロコ*テラーの服を借りたミユが戻ってきた。余った袖を折る手が、ワカモを見つけて止まる。
そのまま数秒、ミユは動かなかった。
「何か?」
「……はっ! そ、そうでした」
ミユは慌てて頭を下げた。
「あの……狐坂さん。あの時、その……脚を押さえてしまって……申し訳、ありませんでした」
ワカモの指が袖の中で動いた。
「謝れば済むことだとは、思っておりません」
俯いたミユの視線が、床を拭く先生の手元で止まった。
「そんな、私がやります!」
ミユが屈み込み、雑巾へ手を伸ばす。先生は手を止めた。
”いいよ。今お風呂に入ったばかりでしょ?”
先生は雑巾を持っていない方の手を床につき、身体を支えながら次の汚れへ移動する。
「…先生のお心遣いを無駄にさせるおつもりですか? それより、お前に尋ねたいことがあります。こちらの机へ」
ワカモが地図を広げた机へ向かう。ミユは伸ばしかけた手を引っ込め、肩を縮めてその後を追った。
ワカモが尋ねたのは、逃走経路と追手のことだった。
「地上に出た後は、見つかっていないと思います」
「思います、ですか」
部屋の扉が開き、シロコ*テラーが入ってきた。
机の前で縮こまるミユへ目を向け、その傍まで来ると、代わりに答えた。
「迎えてからも後ろは見た。ついてきたものは見つからなかった」
「次も、あの車で逃げ切れるとは限りませんわ。待ち伏せされていたら?」
「別の道へ回る」
「回れなかった場合のことです」
ワカモの指が、地図上の交差点を押さえた。
「もっと頑丈な車を用意すべきかと。あなた様を乗せるのでしたら、なおさらです」
”防弾の輸送車を黒服に頼もう。荷物も積めるものがいい”
「別の滞在先までの道も確認しておきます」
「……ここも、出ていくんですか?」
ミユが椅子の背へ手を置いた。
”今すぐではないよ。でも、何かあった時に、行き先を探すところから始めたくはないんだ…っと”
床の掃除を終え、先生は雑巾を脇へ置いた。左脚を伸ばしたまま立ち上がろうとすると、ミユがすぐに傍へ来て、腕を支えてくれた。
ワカモは口を開きかけたが、二人を見て黙った。ミユに支えられ、先生は椅子へ腰を下ろす。
シロコ*テラーは二人の様子を見てから、お茶を用意しに向かった。ミユが先生の隣へ座ると、四人分のお茶をお盆に載せて戻ってくる。
机の上へお盆を置き、先生とワカモの前へカップを配った。ミユの前にも一つ置き、取っ手をその手元へ向けると、顔を覗き込む。
「熱いから、ゆっくり飲んで」
「……はい。ありがとうございます」
”ここにいていい。皆を助けるために何が出来るか、一緒に考えよう”
ミユは頷き、電源を切った端末を出した。暗い画面を見つめたまま、指を動かそうとはしない。
小隊から連絡が来ているかもしれない。確かめたいだろうが、この場で不用意に電源を入れさせるわけにはいかなかった。
先生はヒマリ達へ確認を頼むことにした。今後の連絡手段と、通話が切れた場合の取り決めも要る。
三日前に、そこまで話しておくべきだった。
紙へ書き出していると、ミユが肩へ手をやった。銃の帯を探すような動きだったが、すぐに膝へ戻した。
銃も装備も、部屋へ置いたまま逃げてきたと聞いている。
”装備も揃えよう。これから何が必要になるか、君の考えを聞きたい”
「先生のそばで動くなら……長い銃だけだと邪魔になると思います。近くで扱いやすい銃と、盾があれば」
市販の短機関銃と盾を候補に挙げ、長袖のジャージも一覧に加えた。制服は洗って乾かしておく。
覗き込むミユが何度か瞬きをしたので、先生はまず眠るよう勧めた。
「……はい。少し、休ませてもらいます」
ミユは両手でカップを包んだ。先生は書きかけの紙を脇へ寄せ、飲み終わるのを待った。
* * *
10月18日 11:00
廊下へ出ると、向こうの扉が開いた。
借り物の袖を折り直しながら、子ウサギが出てくる。眠る前よりは顔色が戻っていた。
私は部屋へ戻しかけた足を止めた。
「ちょっと、そこの子ウサギ」
「ひゃ、ひゃい! なんでしょうか……こ、狐坂さん」
肩が跳ね、両手が胸の前へ上がった。
あの夜、私の脚を押さえていた手だ。思い出すと、まだ腹の底が熱くなる。
「ワカモで構いませんわ。それに、別に捕って食いやしませんよ。先生とも約束しましたし」
それでも、子ウサギの手は下がらなかった。
私は構わず続けた。
「あなたは元SRTの生徒と聞きました。ならば、あの忌々しいFOX小隊の後輩ということになりますね」
「は、はい……」
「あの学校の生徒なら、何かしら技能を修めているはずです。あなたの専門は?」
「そ、狙撃です。今は、銃を置いてきてしまいましたが……」
「狙撃。なるほど……最長の成功記録は?」
「射線がきちんと通りさえすれば、ですが……二千二百ヤード、約二キロが自己ベストです」
私は口を閉じた。
子ウサギがまた肩を縮める。
「も、もちろん、いつでも同じように撃てるわけではなくて。銃や天候にもよりますし……」
「それは分かっています」
その距離で当てたことがある。それだけでも、確かめる価値はあった。
この子ウサギが眠っている間に、シロコさんへ転送器の使い方を聞いておいた。連れて帰れるのは、使う者ともう一人。機械も一緒に戻り、三時間は再使用出来ない。
彼女が引き受けられる役目も聞いた。先生の護衛にも、外へ出て人を連れ帰る役にも回れるという。
何故、先生と共に動く仲間をもっと増やしておかなかったのか。
そう尋ねると、彼女は少しだけ目を細めた。
「まずあなたを助けるって、聞かなかったから」
その返答に、すぐ次の言葉は出てこなかった。
――あの日は先生の名を騙る不届き者を成敗することしか頭に浮かばなかった。
今になって思えば、まずは本当の先生を探し出し、子ウサギどものような連中からお守りする算段を立ててからにすべきだったのかもしれない。
戦力を増やすこと自体には賛成だ、と彼女は続けた。具体を詰めてから改めて相談すると答えたところだった。
これまでは二人だった。
仮に私とシロコさんが相手を確保しに出れば、先生のそばを離れることになる。連れ帰った生徒が〈スナッチャー〉を見るなり発砲する可能性もある。
この子ウサギが遠くから相手を止め、私が連れ帰る。その間、シロコさんが先生のそばにいればいい。
この形なら先生が傷を押して出向く必要はなくなる。
「分かりました。あなた……名前を改めて教えなさい」
「は、はい。霞沢ミユです」
「よろしい、ミユさん。あなた、先生のお役に立つ気はありますね?」
「それは、はい。もちろんです」
今度は、返事がすぐに返ってきた。
「私に、先生をお守りするための策があります。今から説明しますから、ご協力を頂けませんか。私の部屋でお話ししましょう」
ミユさんは私の顔を見上げ、それから部屋の扉へ目を向けた。
「……はい。分かりました、ワカモさん」
私は扉を開け、先に中へ通した。
机の上に広げていた地図を端へ寄せる。足りない椅子を取りに行く前に、隣室へ声をかけた。
「シロコさん。先程のお話ですが、少しお時間を頂けますか」
* * *
相談を終え、私は書き留めた紙を折り、ペンと一緒に手に取った。ミユさんも自分の紙とペンを持って立ち上がる。
シロコさんと三人で部屋を出ると、先生は机に向かって何かを書いていらした。
私は先生の傍に立ち、後ろに二人が来たところで声をかけた。
「あなた様に、提案がございます」