10月16日
私は、扉が閉まる前にケイの手元を確かめた。
二室の外鍵は、彼女だけが持つ。通常の通電中は内側から開けられず、停電時には解錠する。電源設備は室外の管理区画にあり、室内端末からは操作出来ない。前室を通した物資の受け渡しと、有線の通信は、遮蔽を保ったまま使えた。
「私達が中止を求めた場合も、まず理由と記録を照合してください。急病や設備の異常なら、実験より救助を優先すること」
『ノアの容態が悪化した場合も、ね』
別室のリオが付け加えた。
ケイは、ユウカへの確認経路を示した。毎日の通信は続け、緊急の連絡は時刻を問わず取り次ぐ。エイミも確認して頷いた。
「認知に変化がなくても、一週間は続ける見込みです。その間の私達の指示が、今決めた手順と食い違った時には、遠慮なく指摘なさい」
「分かりました。回答は外にも保存します」
ケイが答え、扉を閉めた。
エイミの姿が、網目のある窓の向こうへ回る。二人の声は、ここからはスピーカーを通して届く。
最終受信と入室の時刻を記録し、私は最初の画像を開いた。
先生を選ぶ問いには、シャーレの先生を選んだ。続いて、事件以前に一緒に撮った写真を見る。
撮った日のことは覚えている。しかし、隣に写っている顔はスナッチャーのものだった。
写真を加工されたのか。保存していた原本と比較しても、該当する箇所はない。ならば、先生だと思ってい■相手の◇が――
――――この画像は比較資料として不適切だ。
削除を選び、確認にも同意した。画面から写真が消え、次の質問だけが残った。
『部長。今、何故消したんですか』
「調査に使うべきではない資料だからです」
『どの部分に問題がありましたか』
私は画像を開こうとして、空になった欄を見た。
加工の痕跡は見つからなかったはずだ。削除前に、そこまで確かめた。
「……同じものを、もう一度送ってください」
『外の原本は残っています。送ります』
写真が戻った。
その後も、決めた間隔で同じ問いに答えた。別の記録を添えられると、先生の真贋に近づいたところで、また資料を消した。ケイはその都度、削除時刻と再送時刻を記録して補充した。
二度目の回答まで終えてから、私はログを見た。
私が決めた手順を、私自身が妨げている。消した時には、調査の精度を守っているつもりだった。
それでも、次の問いには正しく答えられると思った。
* * *
10月17日
試験開始から二十四時間が過ぎた。
休憩と睡眠を挟みながら続けた問答の記録が、画面に並んでいる。写真の加工、保存先への介入、比較資料としての不備。昨日の私が挙げた理由は、どれもケイたちの照合に耐えなかった。
消した資料は戻される。同じ理由を持ち出せば、確かめた結果が添えられる。リオの記録にも、資料や手順への異議と、それを退ける確認結果が積み重なっていた。
それでも、先生だと感じる相手は変わらない。
次の写真にも、覚えている場所が写っていた。
私は削除の操作から指を離し、記憶との一致を順番に答えた。撮影された時期。同行者。先生と話した内容。
『では、この人が先生だという可能性は?』
ケイの問いに顔を上げた。
記録と記憶が同じ人物を示している。だとすれば、今シャーレにい■のは先◇では――
――――先生の真贋など、測るまでもない。
私は扉のすぐ手前まで車椅子を進めた。
――今すぐ外へ出て、誤った前提で組まれたこの試験をやめなければならない。
「この試験自体が非論理的です。中止とします」
扉を叩き、取っ手へ手を伸ばした。もっと近づけば届く。座面から腰を浮かせた途端、支えにしていた手が滑った。
身体が傾き、肩と膝が床に当たる。
扉はすぐそこだった。椅子へ戻るより、このまま進めばいい。
肘をつき、身体を引き寄せる。片手を伸ばして、扉の下部を叩いた。
「ケイ。聞こえているでしょう、中止すると言いま――」
言葉が途切れた。自分の息がひどく乱れている。
頬のそばに床がある。伸ばした指の先は扉で、車椅子は背後だった。
……何故、ここまでして出なければならなかったのか。
『反応が止まりました。部長、私の声が聞こえますか』
「……聞こえています」
『頭は打ってない? どこが痛い?』
エイミの問いに一つずつ答えた。肩と膝が痛む。手は動く。転んだ時のことも、その後に這ったことも覚えていた。
あの時は、間違いだとは少しも思わなかった。
『部長。次の信号が通り過ぎたら、私が入る。五分あれば、椅子に戻して出られるよ』
床に手をついたまま、息を整えた。
「……外で信号を受けたあなたを介して、こちらが再曝露する可能性を、検証しきれていません」
『放射線みたいに、私の身体からまた出るってこと?』
「可能性の一つとして、否定は出来ません。まず、自分で試します。本当に無理なら申し出ます。その時は、そうしてください」
『分かった。ここで見てる。無理なら言って』
車椅子の方へ向き直った。
少しずつ身体を寄せ、車輪を固定する。慣れた移乗と違い、座面が遠い。片手を掛け、もう片方で身体を支えても、腰が上がりきらなかった。
一度下ろす。それだけで、肩から指先まで震えた。
「ケイ。聞こえていますか」
『なんでしょうか、部長』
「数日前、私を間抜けと言いましたね…あの時の返答がまだなのを思い出しました」
『…あれは撤回しました』
「ええ、謝罪は受け取ります。しかし、撤回は認めません」
「これほど悪辣な仕掛けの存在を見落とし、あなたの訴えも退けていたとは…これで彼までシャーレへ引き渡していたらと思うと」
座面に掛けた手を休め、息を吐いた。
「なるほど、確かに間抜けです。〈全知〉の名折れですよ」
窓の向こうで、エイミが膝をついていた。
手を貸してほしいと言えば、来てくれる。ケイも鍵を持って待っている。
「……もう、一度」
位置を変えて腕を掛け直した。身体を引き上げ、座面の縁へどうにか腰を載せる。そこから深く座り直すまでにも、休まなければならなかった。
脚を戻して背もたれに身体を預けた時には、襟元が汗で湿っていた。
『よかった、座れたね。痛み、強くなってない?』
「今のところは。……記録は?」
『続けています。反応は、昨日の長いものより短くなっています』
私は、床を這っていた自分の手を見た。
昨日より短い、そのわずかな間に。この身体の扱いは誰より分かっているはずなのに、私は転落してなお退出を優先した。
指先の震えが収まるのを待ってから、乱れた襟を正す。
「この、そよ風さえも傷つけまいと息を潜めるほどの超天才病弱美少女に、こんな醜態を演じさせるとは……」
声を荒げる余力はなかった。それが、なお腹立たしかった。
「どこのどなたの仕業か存じませんが……これを仕掛けた方々にはその報いを受けていただきます。この私、明星ヒマリの名にかけて」
乱れた袖を直し終えたあと、正面を見据える。
どうせ聞こえはしないでしょうが、顔も知らぬ仕掛け人達に宣言しておきましょう。
「覚悟なさい…私は存外、根に持つ方ですよ」
* * *
同じ十七日、休んでいる私のもとに、リオの定期確認の音声が届いた。
別室から届く回答を、ケイが保存していく。リオも、過去の写真の人物とスナッチャーの顔が一致することは認めた。
『なら、私達が現在先生だと認識している人物は…………』
声が途切れた。
『――――ノアが悪化している。開けてちょうだい』
画面へ目を向けると、リオはもう扉へ向かっていた。
『新しい連絡が?』
『待てないわ。約束したでしょう、ヒマリ』
取っ手が動いた。開かないと分かると、リオは窓の方を向いた。
「容態を確認します」
ケイの手元では、ユウカへの照会が始まっていた。
リオのそばの測定器に出た反応も、昨日の長いものより短い時間で途切れる。彼女は取っ手から手を離さず、もう一度何か言おうとして、口を閉じた。
『……今の連絡は、私から頼んだもの?』
『はい。こちらから問い合わせています。新しい報告は、まだ来ていません』
リオは端末を確かめた。
やがて届いた返答では、ノアは休んでいる。頭痛は続いているが、直近の確認から著しく悪化した様子はないという。
『私にも、連絡は来ていないわ』
リオが低く言った。
『それなのに、悪化したと判断しましたか』
『ええ。今すぐ戻るべきだと、確信していた』
私は最初の退出要求を再生した。
約束を持ち出す言葉も、急いで解錠を求める声も、リオのものだった。ノアの不調は事実だ。そこへ、悪化したという確認のない判断が足されている。
『心配していることは、変わらないわ。でも、今の発言の根拠にはならない』
リオが椅子へ戻った。
「その区別も、回答に残しましょう」
私の転落の記録も、同じように残さなければならなかった。
昨日は、写真や記録の不備を挙げていた。確かめるたびにその理由が崩れた末に、私は試験そのものをやめようとし、リオは緊急時の退出条件が満たされたと確信した。
「……資料の問題では説明がつかなくなると、今度は、確かめること自体をやめる理由が出てくるのですね」
少なくとも、私達の記録ではそういう順序になっている。仕組みの内側まで分かったわけではない。二人の回答を消さず、時刻順に並べた。
* * *
10月17日 夜
写真の確認は続いた。
私が資料を消すと、外に保存された原本が戻ってくる。リオが試験の中止を主張すると、ケイがその理由を記録し、反応が止まった後に読み返してもらう。
答えに納得してしまった時には、反応はすぐに止まった。誤った判断まで消えたわけではない。私も、質問を終えた後まで、資料を除外した方が調査は正確になると思っていたことがある。
その説明が以前の回答と食い違うと示されて、初めて比較し直せた。
一方、確認を続けても説明のつかない時に長く出ていた反応は、昨日より短くなっていた。
退出を求めたリオが、扉へ着く前に足を止める。私は中止を断言しかけた言葉の理由を、言い終える前に探した。
それでも、次の写真で先生の真贋に踏み込めば、また判断が変わった。
「慣れて、抵抗出来るようになったのでしょうか」
そう口にしてから、車椅子から落ちた時の映像を見た。
退出しようとした時も、正しく考えているつもりだった。
「……それも、今の私には確かめられませんね。遮蔽の経過時間と、比較してください」
ケイが時刻を並べた。
私とリオの室内では、外からの信号は引き続き検出されていなかった。
* * *
10月18日 夜
私は入室した日と同じ問いに答えていた。
先生だと思う人物。事件以前の記録に残る人物。両者が一致しない理由。
昨日までなら、辻褄が合う説明を思いつき、その先を考える必要がなくなっていた。今日は、答えられない問いがそのまま残る。
測定器にも反応はなかった。
時刻とともに回答を保存し、別室のリオの回答を待つ。読み合うのは、二人とも提出してからだ。
その間に、エイミからノアの様子が届いた。
頭痛で仕事を休み、ユウカが付き添っているという。仕事に戻れても、先生とのやり取りを思い返すと手が止まり、続けられなくなるらしい。
別の通信を繋いで伝えると、画面の彼は黙って聞いていた。
『ワカモもそうだった。同じ方法で助けられる可能性はあると思う。ノアが望むなら、使いたい』
「原因はまだ断定出来ません。それに、私達は処置そのものを一度も測っていません」
『その前に、私で観測しましょう』
参加していたリオが言った。
『苦痛を止めてほしいと願う生徒に、最初の直接観測まで担ってもらう必要はないわ』
『君自身は、受けたいと思っている?』
『自分の判断に何が起きているのか知りたい。変えられるなら変えたいと思っている』
画面に映る二人を見た。
「遮蔽下での比較を終えてから、もう一度決めましょう」
了承を得て、来訪に必要なものを書き出した。
* * *
10月19日
映像越しに、エイミが寝台を少し動かした。ケイが脇へ椅子を置き、座ったまま腕を伸ばしてみせる。
画面を拡大する。彼が無理に身を乗り出さず、相手の腕へ触れられる位置だ。
部屋の前の観察区画に、機材が揃っていく。一般生徒と出入りが重ならない経路も、二人に確認してもらった。
予定表が埋まっていく中で、ノアの実施日はまだ空けておいた。
* * *
同じ日、入室から七十二時間を過ぎてから、私とリオは回答を揃えた。
最初の質問に、私はシャーレの先生の画像を選んだ。
ためらいはなかった。そう見えることまで偽る必要はない。
別室のリオも回答すると、ケイが事件以前の写真を表示した。先生と私が一緒に写っている。
『この時のことを覚えていますか』
「ええ」
エイミが「あの子達のことは残念だけど…私たちはどうにか帰ってこれたんだし、一枚だけ皆で撮っておこうよ。ほら先生も入って」と言って譲らず、先生も写真に収まってくれた。
先生は、あの子達を救えなかったことをとても悲しんでいた。隣で夕日を見つめる先生の目元が、少しだけ赤かったのを覚えている。
横に手配画像が並んだ。……同じ顔だ。私は元の写真へ目を戻した。写っている彼の目元にも、わずかに赤みが残っている。あの夕日を見つめていた先生の横顔と、同じだった。
『写っている人物は、こちらの人と同じに見えますか』
「……同じです。ですが、私にはまだ、シャーレにいる方が先生に思えます」
写真の先生と、手配されているスナッチャー。
顔は一致している。一緒にいた記憶を否定する理由もない。
……おかしい。記憶も写真も一致しているのに、私の中でだけ、人物が繋がらない。
だが、今度はそこで考えが逸れない。何処が合わないのか、一つずつ確かめられる。
『私も、記憶と人物認識が一致していない』
リオが答える。
『記録の改竄を疑うことは出来るけれど、それだけを採る根拠はないわ』
入室から七十二時間以上。信号の侵入は記録されず、今の私達にも、以前の反応は出ていなかった。
『一週間は観察するつもりだったけれど、変化は出たわ。外で受信した場合と比較したい』
「私はこちらに残ります。受信を測定で確認してから、同じ問いを」
『ええ。私が出るわ』
「では、次へ進みます」
『退室するわ』
私は室内に残り、リオが前室を経て外へ出るのを画面で見届けた。
外で待つエイミが椅子へ案内する。ケイは資料を映したまま記録を続け、同じ問いを繰り返した。
扉を出た途端に変わったわけではない。
やがて、廊下の観測機器とリオのそばの機器が、タワー由来の信号を捉えた。ケイが再び二枚の画像を示す。
『この記録を、どう考えますか』
『人物が一致している以上、私が先生だと思っている相手は…………』
声が止まった。
『――――写真の方がすり替えられた可能性を考えるべきね』
反応が現れた。
ケイが、退室前から資料を変えていないことを示す。
『あなたはこの写真に、不審な編集の痕跡は確認出来ないと答えています』
『記録自体が信用出来るとは限らないわ。送信元や保存先に手が入っているなら……』
ケイが新たな痕跡を発見したのかと問うと、リオは保存先を調べ直すべきだと答えた。根拠を求められても同じ説明を繰り返す。
反応は、再び十秒ほど続いた。止まってから、リオは自分の回答を読み返した。
私は退室前の回答を送る。同じ資料を前に、本人が自分の言葉で記したものだ。
『……同じ問いなのね』
「ええ」
『私が答えを変えた時に、反応が出た』
「記録されています」
リオの視線が、受信の前と後を行き来する。
やがて、彼女が口を開いた。
『昨日話していた、彼の使うRE:TEXTというものを受けたい。そのために、今のうちに頼んでおくことがあるわ』
『まだあの人がスナッチャーに見える。けれど、その感覚を根拠に、この記録まで捨てるべきではないわ』
『私は、ノアが悪化したと言って出ようとした。連絡さえ来ていなかったのに。それが必要だと、本気で思っていたのよ』
リオは、自分が退出を求めた時の記録を開いた。
『これからは、処置を受けずに済む理由を見つけるかもしれない。記録を消すか、到着を知らされた途端に逃げようとするか……今の判断を妨げるのは、私自身かもしれないわ』
リオは自らが入っていた電波暗室の方を見ながら、こう告げた。
『処置の準備が整うまで、また電波暗室に入ることにする、今日までと同じ運用で構わないわ』
ケイが、今の会話を記録しながら確認する。
『ノアさんの容態が悪化した場合は、外へ確認します。室内での急病や設備の異常なら、救助を優先します。処置を受ける意思も、直前に改めて確認します。それでよろしいですね』
『ええ。私が頼んだことだと、残しておいて』
リオは自分でも同じ内容を端末へ入力し、外の記録へ送った。
エイミが付き添い、先ほど出た前室へ戻る。ケイが扉を閉め、外から施錠した。リオが取っ手から手を離すところまで、私は画面で見届けた。
再入室の時刻が、最後に信号を受けた時刻と並んで記録された。
私は来訪の準備を進めている相手へ繋いだ。
遮蔽下では矛盾を検討し続けられたこと。外で受信したリオには、合理化と反応が再び現れたこと。
順に説明し、最後に付け加えた。
「ただ、隔離している間も、私達はあなたを先生だとは感じられませんでした」
彼は黙って聞いていた。
「信号が届かなくなってからも、誰を先生だと感じるかは変わりませんでした。矛盾を検討出来るようになることと、元の認識へ戻ることは、別のようです」
『止めるだけでは、元に戻らないかもしれないんだね』
「その前提で、手段を探す必要があります」
タワーを壊したわけでも、全員で確かめたわけでもない。
それでも、停止だけを頼みに作戦を進めることは出来なかった。
『分かった。リオの意思は変わっていない?』
『ええ。来てほしい。こちらで、あなた自身の測定もさせてください』
彼は頷いた。
『明日、向かうよ。移動のことは、こちらでも相談しておく』