10月20日
車が止まると、先生は左脚を外へ出し、座席の縁に手をついた。
身体の向きを変える途中で、脇腹が痛んだ。少し待ってから腰を上げる。
運転席から降りたシロコ*テラーと、迎えのケイが、その間もそばにいた。
「急がなくていい」
”うん。ありがとう”
ワカモとミユは拠点に残った。
出発前に四人で移動と現地での備えを相談し、帰る目安も、遅れる場合の連絡も決めてある。シロコ*テラーは車を移した後、連絡を受けてすぐ迎えに回れる場所で待つことになっていた。
「終わったら呼んで」
”途中でも、予定が変わったら知らせるよ”
彼女が頷くのを見て、先生はケイについて歩き出した。
段差のない通路の奥で、アリスが扉を押さえている。
「先生、お待ちしていました。椅子はこちらです」
”アリスも来てくれたんだね”
「はい。今日は、ケイと一緒にお手伝いします」
アリスは椅子の背に手を置き、先生が座るまで待った。
その横には寝台があり、枕と畳んだ毛布が用意されている。エイミが機材の配線を壁際へ寄せ、通路から足に掛かりそうなものを除いていた。
網目のある窓の向こうで、ヒマリが顔を上げた。
”こうして会うのは、久しぶりだね”
『こうして直接この目で見ても、やっぱり私には初対面の方とお会いしているように感じられます』
『ですが、あなたこそ本当のシャーレの先生であるという主張も〈あり得ない〉…そんな風に退けず、検討出来るようになっています』
”うん。こちらこそ、よろしく”
窓は開かない。ヒマリの声は、壁のスピーカーから届いていた。
彼女は室内の端末を操作し、先生の前にある画面へ測定の項目を送った。
最初に、先生自身の記録を取った。
怪我の具合、手当て、その後の痛み。RE:TEXTを使う時、自分の身体に何か変化を感じたか。分かることと、分からないことを分けて答えていく。
シッテムの箱には、二枚の装填が示されていた。
十八日以降も拠点で充電を続け、出発まで新たに取り出してはいない。
ケイが表示を記録する。先生はエンブレムに触れず、箱を手元に置いた。
準備が整うと、ケイは隣の電波暗室へ呼びかけた。
昨日の再入室時に、リオが自分で残した依頼を読み上げる。処置の準備が整うまで、外から鍵を掛けておくこと。退出する前に、改めて意思を確かめること。
「リオ。先生が来ています。処置を受ける意思に、変わりはありませんか」
『ええ。そのために出るわ。エイミ、付き添ってもらえるかしら』
「分かった」
ケイが解錠し、エイミが前室へ入った。
やがて出てきたリオは、先生を見ると、一度足を止めた。
挨拶を待つほどの短い間だった。リオは小さく頭を下げ、エイミの案内で寝台へ腰を下ろした。
「来てくれて、ありがとう」
”こちらこそ。昨日の記録は、見せてもらったよ”
「私もヒマリと同じように見えているわ。あなたの顔を見ても、やはり先生の名を騙る謎の男…スナッチャーだと思っている」
リオは自分の膝に視線を落とした。
「それでも、受けたい。昨夜のうちに決めたことよ」
先生は頷き、貼付後に起こることを、順に説明した。
急に力が抜ける。銃弾や衝撃に耐えられなくなる。弱っている間の怪我は、いつものようには治らないことがある。
「聖園さんの脚のように」
”そうだね。これまでの例では、六十秒で認知が戻った。その後、二分ほどかけて力が戻っている。途中で剥がれたり、貼った服を脱いだりしたら、おそらく失敗する。まだ確かめたわけではないけれど”
リオは上腕の袖を確かめた。
”同じ経過になるか、長く経ってどうなるかは、まだ調べている。分からないことも残っている”
「承知しているわ」
エイミが測定器を直したところで、画面の端に新しい線が走った。
「受信しました」
ケイが時刻を記録する。
廊下の機器も、リオのそばの機器も、タワー由来の信号を捉えていた。ヒマリのいる部屋では検出されていないと、通信越しに確認が返る。
リオも画面を見ていた。
「昨日は、この後で答えが変わったのね」
「はい。処置の前にも、変化があれば記録します」
ケイが機材台を脇へ寄せた。出入口の側に立ち、先生とリオの間を空ける。
アリスは寝台の反対側で、エイミと一緒に毛布を広げた。
”今の説明を聞いて、気になることはある?”
先生が尋ねると、リオはすぐには答えなかった。
毛布の端へ置いた指が、折り目をなぞっている。
「……先生なら、生徒が危ないと分かっていて、一人でそこへ行かせることはしないわ」
”うん”
「自分がどれだけ危険でも、助けに来てしまう。いつだってそう。私はあの時、アリスの命を奪うことがミレニアムのためには合理的だと決めつけた。そんな私でも見捨てない人だったからこそ、私は取り返しの付かない過ちを犯さずに済んだ」
先生は、彼女が顔を上げるのを待った。
「だから今も、先生を助けるべきだと思っているの。私に出来ることがあるなら」
窓の向こうで、ヒマリが手を止めた。
「でも、この処置を受ければ、私はあなたを先生だと思うようになる。今、先生だと思っている人を、違うと言うようになるのよね」
”これまでの三人は、そうだった”
「それは、先生を見捨てることにはならないのかしら。記録ではあなたが…………」
言葉が止まった。
先生は箱へ伸ばしかけていた手を戻した。
「――――そう、あなたを捕まえれば!」
リオが立ち上がり、先生の襟へ手を伸ばした。
先生は腰を浮かせ、手首を外へ導く。肘にも手を添えて身体の向きをずらす間に、リオが声を上げた。
「エイミ、手伝いなさい。先生のために!」
「いや、この人が先生って…………」
横から聞こえた声が途切れた。
先生は掴み直そうとするリオの手を避け、椅子の脇へ半歩動く。左脚で踏み直すと、脇腹まで痛んだ。身体を寄せて抑える、その一歩が出ない。
「――――それもそうか」
エイミが踏み出した。
「エイミ、いけませんっ!」
その両腕をアリスが脇から抱え、身を返す彼女とともに先生の前へ回り込む。
同時に、リオが腕を引いた。先生の手から抜け、そのまま扉へ向かう。
『スナッチャー!リオを止めて!』
追おうとした先生の足が止まる。その先へ、ケイが低く踏み込んだ。
リオの腰へ組みつき、横へ倒れる身体を支える。後頭部へ回した手が床との間に入り、靴底が扉の手前を滑った。
「離して――」
ケイが腰と腕を押さえた。
先生は寝台に手をつき、息を吐いた。
『リオの反応が止まりました』
リオはまだケイの手を外そうとしていたが、やがて動きを止め、扉と、その前にある自分の足を見た。
寝台の向こうでは、まだアリスがエイミを支え続けていた。
「エイミ、足を止めてください」
「捕まえないと……」
エイミがもう一度、腕を引く。
その力が緩んだのは、リオより少し後だった。
『…エイミの反応も止まりました。二人とも、そのまま、今のことを確認しましょう』
ヒマリの声が届いた。
「……これは」
「頭や腕は痛みますか」
ケイが尋ねる。
リオは首を小さく横に振った。
「いいえ。……私は今、ここから出ようとしたのね」
「先生を捕まえようとして、その後に、です」
リオの目が先生へ向いた。
先ほどまでと同じ顔だった。だが、伸びてきた手は、もうこちらを掴もうとはしていない。
観察区画に、誰の声もしない間が出来た。
床のリオが、ゆっくり息を吐く。
「……昨日、自分を閉じ込めておいて正解だったわ」
ケイは押さえる手を動かさず、続きを待った。
「処置を受けると決めていたのに、逃げる方が正しいと思った。あなたたちを振り切ってでも」
「昨日の依頼を、確認しますか」
「大丈夫、ちゃんと覚えているわ」
リオはケイを見上げた。
「ケイ…悪いけれど、このまま取り押さえておいて頂戴。また同じことをしないとは、言えないから」
それから、先生へ向き直る。
「スナッチャー。見苦しくて申し訳ないけれど、このまま処置をしてくれるかしら」
先生は、寝台に添えていた手へ少し体重を預けた。
左膝を深く曲げないようにして、彼女のそばへ屈む。
”分かった。今、痛むところや、息苦しさはない?”
「ないわ」
「私も、大丈夫」
寝台の向こうからエイミが答えた。
「アリス、もう離して」
アリスが力を緩め、腕を放した。エイミはその場で手を開き、先生を見た後、リオへ視線を移した。
「私も、捕まえた方がいいって思った。さっきまで準備を手伝ってたのにね」
彼女は肩の装備を外した。
銃を機材から離れた壁際へ置き、携行品も順に外す。アリスがそばへ行くと、その手に預けた。
「リオの部屋、空いてるよね」
「はい」
「また話を聞いて、邪魔したくなったら困るから。終わるまで入ってる。中の音声も切って」
エイミは長く説明しなかった。
ケイから鍵を受け取ったアリスとともに、前室へ向かう。入る直前に、振り返った。
「処置が終わったら出してね」
「はい。アリスが開けます」
扉が閉まった。
アリスは外から施錠し、室内へ送る音声を切った。窓越しにエイミと手を上げ合ってから、観察区画へ戻ってくる。
先生は箱を取ってもらい、床に置いた。
”ケイ。貼った瞬間に、力も頑丈さも落ちる。今の強さで押さえ続けると、筋を痛めるかもしれない”
「分かりました」
”関節は曲げ込まないで。身体を支えるくらいにしてほしい。リオも、痛かったらすぐ言って”
リオが頷いた。
ケイは胸や腹に体重を掛けない位置へ膝を移し、リオの腕を無理のない角度で床へ下ろした。畳んだ毛布をアリスが運び、頭の下へ差し入れる。
”腕に貼るよ。六十秒、そのままで”
「ええ。お願い」
エンブレムに触れると、白い一枚が現れた。
先生はリオの袖へ、直接押し当てた。
布の上に、白い面が吸い付く。
リオの肩が落ちた。床を押していた指から力が抜ける。ケイはその変化に合わせて手を緩め、腕が転がらないよう添え直した。
『開始を記録しました』
ケイが白い面を見て、一瞬目を見開いた。リオの腕を支える手は、そのままだった。
先生は貼付面から手を離した。
箱に残る表示は、一枚になっている。
「……身体が、重いわ」
”そのままでいい。呼吸は?”
「出来る。痛みもない」
声は細くなったが、返事ははっきりしていた。
先生は足を伸ばし直した。床に座ると、左脚の重みがようやく抜ける。立っている時には気にならなかった汗が、背中を伝った。
リオは先生の顔を見ていた。
その目が脇腹の辺りへ下がり、また戻る。
「さっき、そこを……」
”元からの傷だよ。少し動いたから”
「悪化させたかもしれないわ」
”終わったら、私も確かめてもらう”
ケイが顔を上げた。
「約束ですよ」
”うん”
それきり、先生は質問を重ねなかった。
呼吸を見て、白い面を見て、時刻を確かめる。
リオの指が時々動いた。ケイはそのたびに手元を見ていたが、押さえつける力を強めることはなかった。
『三十秒です』
リオは目を閉じ、また開いた。
アリスが隣室の窓を確かめ、こちらへ頷く。エイミは椅子に座っているという。
先生のすぐ前で、白い面が細かく光っていた。
これまでにも待った長さだった。それでも、息を数えていなければ、随分長く経ったように思えた。
『六十秒』
白いものが、袖の向こうへ沈んだ。
布地が残り、その下の腕が小さく動く。
リオが先生を見た。
目を見開いたまま、唇だけが動いた。
「……先生」
”うん”
「先生、だったのね」
先生は頷いた。
リオはケイに添えられている自分の腕を見た。それから扉へ目をやり、顔を戻した。
「私、あなたを……」
”今は、起きなくていい”
動きかけた肩が止まった。
リオは目を閉じた。眉が寄り、短い息が漏れる。
「私は先生を守ろうと思ったのよ。そのつもりだったの。本当よ」
”そう言っていたね”
「あなたを捕まえれば、それが出来ると思った。出来ないと分かったら、今度は逃げればいいと考えた。……どちらも、自分で考えたの。そのつもりだった」
ケイの指が、リオの腕から少し離れた。
先生は彼女が言葉を探す間、そばに座っていた。
「誰かを疑っている時だけ、気を付ければいいわけではないのね。先生を信じているつもりで、こんなことまで出来てしまう」
”だから、止めてほしいって頼んでくれたんだね”
リオがこちらを見る。
”昨日は鍵を預けて、今日はケイに頼んでくれた。エイミも、自分から部屋に入った。私一人だったら、二人を止められなかったよ”
「……それは、見ていれば分かるわ」
彼女の視線が、先生の伸ばした左脚へ向いた。
「そんな身体で来させたうえに、床にまで座らせてしまった」
”ここへ来ることは、みんなと相談して決めたんだ。ケイたちが手を貸してくれることも、分かっていたから”
「床で処置することまでは、決めていなかったでしょう」
先生は思わず吹き出してしまう。
”それは、そうだね”
ケイが小さく息を吐いた。
リオがわずかに息を漏らした。
笑ったのかと思ったが、その目の縁が濡れていた。
アリスへ目を向けてから、もう一度、先生を見る。
「あの時も、今日も……私を止めてくれて、ありがとう」
先生を見て言ってから、ケイとアリスへも顔を向ける。
「あなたたちも。……あのまま出ていかなくて、良かった」
ケイは一度、唇を結んだ。
「お礼は、エイミにも言ってください。待っていますから」
「ええ」
先生はアリスに頷いた。
アリスが窓の方へ行き、室内への音声を戻す。
「エイミ、処置が終わりました。今、開けます」
鍵の回る音がした。
前室から戻ってきたエイミは、まだ床にいるリオと先生を順番に見た。
「二人とも、そこから動ける?」
”私は、手を借りられると助かる”
「うん。リオは?」
「まだ、少し待ちたいわ」
エイミは頷き、先生のそばに膝をついた。
アリスもその隣にしゃがみ、先生を支える手元を見ていた。
先生を支えようとするエイミに、リオが声を掛けた。
「さっきは、巻き込んでしまってごめんなさい。部屋に入ってくれたことも、ありがとう」
「私も、自分でそうしようと思ったんだよ」
エイミは床に置かれた箱を避け、先生の腕を支えた。
「だから、入っておいて良かった」
先生は右脚から体重を掛け、エイミの助けで椅子へ戻った。
リオはその後も横になったまま、握った指を開いたり、腕を少し持ち上げたりしていた。
二分ほど経ったところで、力が戻ってきたと告げる。ケイが頭や肩、腕の痛みをもう一度確認し、アリスと一緒に寝台へ移るのを手伝った。
先生も痛む場所を確かめてもらった。
立ち上がる前より痛みが残っている。帰りは急がず、拠点で休むと約束すると、ケイはようやく測定用の画面へ戻った。
同じ画像と記録を、リオに示す。
彼女は先生の写る方を選んだ。以前の回答も読み、何処で判断を変えたかを、自分の言葉で説明した。
観察区画の機器が次の信号を捉えた後にも、問いは繰り返された。
答えは変わらなかった。
『今の質問では、以前のような反応は出ていません』
ヒマリの報告に、リオが頷く。
「受信後も維持されている。今、確かめられたのはそこまでね」
『ええ。経過も見ましょう』
エイミはリオの隣で、自分の両手を見ていた。
手を握り、開く。その手のひらを見つめたまま、口を開いた。
「……先に捕まえた方が効率的だって、そう思ったんだよ。…自分がいつ何をしでかすかも分からないって、なんか嫌だな」
エイミは先生へ顔を向ける。
「スナッチャーさんさ、悪いけど、今のやつ、まだ出来るなら私にもやってもらえない?次こそ私が部長達の成果を台無しにするかもしれないし」
先生が口を開くより早く、スピーカーから声が届いた。
『いいえ。あなたにはRE:TEXT以外の治癒方法の実験体となっていただきます』
エイミの手が止まった。
窓の向こうのヒマリを見る。
「……部長? 私、その実験を自分が邪魔するのが怖いから頼んでるんだけど」
『聞こえています。ですから、外でも安心して動ける方法を探すのです』
ヒマリは、リオが退室した時の記録を画面へ出した。
受信の前後に、異なる回答が並んでいる。
『遮蔽を続ければ、判断を押し戻す作用はいずれ切れる。ですが、外で再び信号を受ければ戻ってしまう。部屋を出ても受信せずに済む方法が必要です』
「…それは、そうだね。まさかこの部屋を丸ごと担ぐってわけにもいかないし」
『ええ。持ち運べる遮蔽を作るにしても、移動中まで防げるか、確かめなければなりません。機器で信号を測るだけでなく、あなた自身の反応も』
ヒマリが、先ほどのリオの測定結果へ画面を切り替えた。
『処置後のリオには、再受信しても以前の反応が出ていません。あなたにも同じ変化が起これば、遮蔽が成功したのか、処置のおかげで効かなくなったのか、反応から区別出来なくなります』
「だから、私はまだ治さないでおくんだ」
『その検証に協力してほしいのです。作用が切れるまでは遮蔽下で待つ必要がありますが、その後、外へ出て移動しても再曝露を防げるかを調べたい』
エイミは、先ほどまで自分が入っていた部屋を見た。
「部長は?」
『私はここに残ります。合理化が止まっても、記録と人物認識の食い違いは残りました。こちらを、RE:TEXTに頼らず解消する方法を探します』
窓越しにヒマリの目が先生へ向き、画面へ戻った。
『外へ出られる方法と、元の認識へ戻る方法。両方が必要ですから』
先生はエイミを見た。
「……そっか、確かに。今私が治っても、部長はまだそこから出られないもんね」
”エイミ。君は、それでいい?”
エイミはこちらを見て、口を開いた。
「…うん、そうだね。スナッチャーさん。今のお願いは取り消させて」
そしてヒマリのいる暗室側へ向けて言葉を続けた。
「部長、そっちを試そう。ずっと窓越しで話すのも非効率だし、私も外を出歩く方法は欲しい」
エイミは、そばにいるアリスへ向き直った。
「でも、さっきみたいになったら、また止めてもらうよ」
「はい。アリスも手伝います」
アリスが答えると、エイミは小さく頷いた。
「お願い。自分では、捕まえなきゃって思ってたから」
ヒマリが新しい記録を開いた。
今度はエイミも画面のそばへ寄り、試すものと、用意するものを一緒に確かめ始めた。
リオはミレニアムに残る。
先生は帰還予定を連絡し、迎えを頼んだ。
”ノアのことも、これから相談しよう。今日の経過を見ながら”
「ええ。ユウカにも説明するわ。分かったことも、まだ分からないことも」
リオは毛布を直した。
先生が立ち上がると、今度は手を伸ばさず、ケイがそばにつくのを見届けた。
「先生。帰ったら、休んで頂戴」
”うん。リオもね”
帰り際、先生はヒマリの窓の前で足を止めた。
『次にお会いするまで、こちらも進めておきます』
”頼りにしてる”
『……顔は違いますが、そんな言い方をする相手を、私は覚えています』
先生が顔を上げると、ヒマリは記録へ目を戻した。
画面の光が、窓の網目に細かく映っていた。
『ありがとうございました。今日は、無事にお帰りください』
* * *
同じ日、少し前。
搬入口の扉が開いた。
私は歩調を変えず、案内板の前を通ってサキに並んだ。
私達は着慣れたSRT制服を脱ぎ、ミレニアムの普通科生徒と同じ制服を着て校内に紛れている。
十八日にゲヘナの風紀委員へ常駐護衛を引き継ぎ、今は先生からの命令通り、ミレニアムの出入りを調べていた。
この服と合わせて発行してもらった仮IDで入れるのは共用区画までだ。その先の扉には、ここの生徒会…セミナーが発行する正規IDの認証がいる。
「おいミヤコ、何か見えたか?」
サキが案内板へ目を向けたまま尋ねた。
「……スナッチャーに似た人物が入りました」
片脚を庇う男の顔が、案内役の生徒のそばで一瞬見えた。
十三日の夜、ゴム弾を撃ち込み、手首に手錠を掛けた相手だった。
窓の反射には、灰色の車と、そこから降りる白髪の生徒も映っていた。
サキは扉へ向かわなかった。
案内板を読むふりをして、外へ戻る動線を確かめている。
私もそのまま歩き、角を曲がってからモエへ連絡した。場所、車の色、読み取れた番号。顔が見えた時間も添える。
『こちらRABBIT3、今ある機体を回す。少し時間ちょうだい』
「お願いします。こちらでも、出るところを見ます」
サキが周辺図を見せた。
「私は反対側へ回る。同じ出口を使うとは限らないからな」
「中には入りません。見つかれば、向こうも出方を変えます」
「ああ。ミユへの手掛かりを切らせるわけにはいかない」
私は頷いた。
ミユの検査は行われなかった。着替えも銃も置いたまま消え、端末にも繋がらない。
だが、スナッチャーがここへ来たなら。
ミユがあの男へ助けを求め、ミレニアムの誰かに匿われているなら、接触する機会があるかもしれない。
搬入口の奥は見えなかった。
私は扉を見張れる場所を選び、人と車の出入りを記録した。
荷物を降ろす車。空の台車を押して出てくる業者。案内役の生徒に呼び止められ、別の入口へ回る来客。
サキからは、反対側に該当する人物はいないと短い報告が届いた。
やがて、灰色の車が戻ってきた。
男を見送っているのは、白い髪の小柄なミレニアム生だった。先生から事前に共有された容疑者リストに、見覚えがある。記憶通りなら、天童ケイさんだ。
男は助手席へ乗り込んだ。
十三日に現れたドレスの生徒が運転席へ回った。男が身体を収めるのを待ってから、車が動き出す。
「モエ。動きます」
『こっちでも見えた。車は合ってる』
私は出口の時刻を記した。
サキへ合流地点を伝え、モエから届く報告を地図へ落としていく。
交差点から幹線道路へ。大型車の陰で一度見失い、その先でまた捉える。
『D.U.へ戻ってる』
「追えますか」
『全部は無理。見えるところを繋いでるだけだから』
次の報告まで、間が空いた。
私は画面を拡大し、最後に見えた交差点を確かめる。
モエが別の位置へ機体を回している間に、車が通れそうな道はいくつもあった。
『見えた。同じ車。今、送る』
映像には、屋根のある道路へ入っていく後部が映っていた。
その先で、また途切れた。
今度は戻らなかった。
住宅、倉庫、古い事務所。
地図の上には道が続いていたが、そのどれを通ったのかは分からない。見えなくなった場所を、帰った建物として扱うことも出来なかった。
『これ以上は、今の配置じゃ無理。出口も多すぎる』
「分かりました。見えたところまでで、記録を残してください」
合流したサキが、隣から地図を覗いた。
「この辺りまで戻ったことは、確かなんだな」
「はい。次は、ここから先を調べます」
このどこかに、ミユがいるかもしれない。
十八日の朝、必ず助けると伝えた。逃げられたからといって、その約束まで終わりにはならない。
私は、今日見た出入りの記録を開いた。
天童ケイさんの姿もあった。ミレニアムで何が起きているのか、まだ分からない。ミユを連れ戻すためにも、誰がスナッチャーと接触しているかを確かめる必要がある。
「サキ。時刻を合わせましょう。そちらで見えた車も、照合したいです」
「分かった。次に張る場所も決めよう」
最後に車を見た地点へ、印を置く。
そこから先の、まだ調べられていない区域を囲った。
スナッチャーが帰っていった街の一角が、手元の画面で淡く色づいた。