もしも早瀬ユウカが彼女の美徳である思いやりや、他者への優しさを自分自身で否定したくなるような状況に陥ってしまったら、先生はどんな言葉をかけるだろうか?
というのを作者なりに解釈し、本作で取り入れてみることにしました。公式の足元にも及ばないでしょうが、よければどうぞ読んでいってください。
10月22日 午後
ノアは、膝の上で両手を重ねていた。
先生が部屋へ入ると顔を上げ、いつもの微笑みに似た形を作った。すぐに右手が浮き、こめかみの辺りで止まる。
「すみません。少し、このままで」
”うん。楽にしていて”
先生も椅子へ座った。
左脚を曲げきらず、足を少し前へ出す。ユウカがその動きを見て、椅子を寝台のそばへ寄せてくれた。
「これなら、届きますか」
”ありがとう”
今日もシロコ*テラーが送ってくれた。
出発前にはワカモとミユも交えて、二人の処置を終えた後の休息と、帰るまでの時間を相談した。
予定を越えるなら連絡する。迎えを待たずに一人で外へ出ない。そう決めて、こちらにも伝えてある。
机の上の箱は、二枚を示していた。
二十日にリオへ使った後、追加の使用もなかった。帰ってから充電していたので電池残量にも問題はない。
「先に、私の経過を説明するわ」
リオが記録を開いた。
処置以降は先生の認識は変わっていないこと。以前の記録と照合する限り失われた記憶や別の混乱は認められないこと。外からの信号を受けた後も、同じ問いへ答えられること。
ノアは時折目を閉じながら聞いていた。ユウカは横に座り、気になる箇所で説明を止めた。
窓越しに、ヒマリの声も届いた。
『確認出来たことと、まだ確認出来ていないことは、資料でも分けてあります。今日以降も観測は続けます』
ユウカは資料の最後まで目を通し、ノアのそばへ置いた。
先生はノアへ向き直った。
”貼るとすぐに力が弱くなる。普段なら平気な衝撃でも、怪我をするかもしれない。一分間は、貼ったものをそのままにしておく必要がある”
「その後も、二分ほどは休んでいるんですね」
”うん。急には戻らないから。痛みが止まるかも、今ここで約束は出来ない”
ノアの指がこめかみを離れた。
「……狐坂ワカモさんは、止まったんですよね」
”本人がそう言っていた。君にも同じように効いてほしいと思ってる”
ノアはゆっくり息を吐いた。
ユウカを見て、小さく頷く。
「お願いします。私も、受けたいです」
先生は頷いた。
”分かった。ここで見ているよ”
ユウカがノアの手元から筆記具を取り、机へ置いた。
「記録は、私が取る」
「後で、見せてくださいね」
「もちろん」
上着を脱いだノアが寝台に背を預けた。ケイが時刻を確かめ、リオは測定器のそばへ下がった。
先生は箱から一枚を取り出した。白い面が、指の動きに沿って柔らかく揺れる。
”腕に貼るね”
「はい。……直接、肌に貼っていただけますか。少しでも、よく効くなら」
ノアは自分で袖を肘の辺りまでまくり、先生へ腕を差し出した。
先生は手にしていた白い一枚を、その素肌へ押し当てた。
白い面が吸い付くと、ノアの肩が落ちた。寝台に置いていた手も滑り、ユウカが指先を受け止める。
「ノア?」
「……聞こえてます。少し、身体が重くなって」
声は小さかったが、問いへの答えになっていた。
ユウカは握り返す力を弱め、ノアの手を寝台の上へ戻した。そのまま、横に自分の手を置く。
「ここにいるから」
先生は貼付した面と、ノアの顔を交互に見た。
目元に入った力はまだ抜けない。彼女は時々唇を動かし、声にする前に息を吐いた。
時間を知らせるケイの声だけが、間を区切った。
「……私、ちゃんと返事してますか」
”してるよ”
「…ユウカちゃんにも?」
「してる。聞こえてるわ」
ノアは目を閉じた。
先生は手を伸ばしかけて止めた。貼付面を確かめ直す必要はない。手を膝へ戻し、呼吸を見て待つ。
「六十秒です」
ケイの声とともに、白い面が沈んだ。
ノアの肌の上で白く輝いていた光が、体の内側へ沈んでいく。最後の縁が消えるまで、先生は目を離さなかった。
ノアが目を開いた。
「……先生?」
”うん”
彼女は先生を見つめ、それから、部屋を見回した。
窓の向こうのヒマリ。記録を続けるケイ。すぐ横で手を置いているユウカ。
「音が……」
ユウカが身を寄せた。
「どうしたの?」
「静かです」
ノアは眉を寄せかけ、途中でやめた。
先生の顔へ視線を戻す。何かを確かめるように、ゆっくりと瞬きをした。
「先生のことを考えても、痛くない」
目尻から涙が一筋、頬へ落ちた。
ノアは拭おうとして腕を持ち上げるが動きは緩やかなままだった。ユウカがティッシュを取り、その頬へそっと当てる。
「よかった……ノア」
先生は、二人の手元を見た。
ノアが笑った。先ほど部屋へ入った時とは違い、息を詰めずに笑っていた。
「先生。またお会いできて、本当に嬉しいです」
”私もだよ”
言い終えると、喉の奥が詰まった。
先生は一度口を閉じ、それから続けた。
”待っていてくれて、ありがとう”
ノアは首を小さく横に振った。
「私だけじゃ、ここまで来られませんでした」
横にあるユウカの手へ、自分の指を寄せた。
ユウカはそれを見てから、先生を見た。口を開きかけ、まだ何も言わずにノアへ向き直る。
先生も答えを急がせなかった。
二分ほど経つ頃には、ノアは普段と変わらない様子で腕を動かしていた。
ケイに問われ、手足の感覚を答える。リオは、起き上がる前にもう一度状態を確認した。頭痛は戻っていないという。
ノアの視線が、先生の左脚へ落ちた。
椅子の前へ伸ばした脚を見つめ、それから、ゆっくり顔を上げる。
「これは…」
唇が止まった。
隣で記録を見直しているユウカへ目を向け、ノアは続きを口にしなかった。
持ち上がった手が、先生の顔の手前でためらう。先生が少し身を寄せると、指先が左の目元の外側へそっと触れた。
腫れは随分引いていた。薄く残った痣の縁を、ノアの指が押さないようになぞった。
「先生……」
その目に、また涙が浮いた。
先生は顔を動かさずに待った。ノアは何かを言おうと息を吸い、けれど、手を下ろしてユウカを見た。
「……先生。ユウカちゃんのことも、お願いします」
* * *
先生はユウカへ向き直った。
”分かった。いいかな”
「はい。ノア、本当にもう辛くないのね?」
「ええ、ユウカちゃんのおかげです」
ノアは微笑んだ。ユウカはその顔をしばらく見て、息を吐いた。
「……そんな顔しなくても分かってるわよ、ノア。〈早くやれ〉でしょ? まず終わってから話を聞かせてもらうわ」
ユウカも上着を脱ぎ、寝台の横の椅子へ置いた。
ノアの記録を机へ置き、ユウカは椅子へ移るノアに手を添えた。
ユウカは入れ替わって寝台に腰掛け、椅子に座る先生と向き合った。背後にはクッションが置かれている。ノアも寝台のそばへ椅子を寄せてもらった。
「記録、交代ですね」
「あなたはまだ休んでなさい」
「では、見ています」
ユウカは少し困った顔をして、それ以上は言わなかった。
先生が最後の一枚を取り出すと、ユウカはノアの腕へちらりと目を向けた。
それから自分も袖を肘の辺りまでまくり、素肌の出た腕を差し出した。
白い面が貼り付いた途端、ユウカの息が止まった。
すぐに細く吐き直し、支えにしていた手を寝台へ伏せる。先生は座ったまま待った。途中で彼女がこちらを見た時には、頷いて返した。
ケイが、残り十五秒と告げた。
「ユウカちゃん。この人を見ながら聞いてください…一昨日のお話を覚えていますか?」
ユウカはノアへ顔を向けた。
「えっ?そりゃあ覚えてるけど……ノア、急にどうしたの?」
「……ユウカちゃんのせいでは、なかったんです。きっと、すぐに意味が分かります」
ユウカの目が、ノアから先生へ移った。
先生はその視線を受け止めたまま待った。
「六十秒です」
白い面が、腕の内側へ沈んでいく。
ユウカの瞳が動いた。
「……っ。先生……せんせい、だ……」
”うん。ユウカ”
ユウカは顔を上げた。
目が合っても返事はなかった。視線が先生の左の目元へずれ、そのまま止まる。
薄く残った痣を見つめ、目を見開いた。
寝台へ手をつき、ユウカが立ち上がった。
膝がわずかに揺れる。先生も腰を浮かせかけ、左脇腹へ手を添えた。
ユウカが息を呑んだ。
先生の手元を見て、それから、曲げきれずに前へ出していた左脚へ目を落とす。
先生は座り直した。
ユウカは数秒、その場に立っていた。やがて寝台の縁へ手を戻し、ゆっくり腰を下ろす。
俯くと、髪に隠れて顔が見えなくなった。
”ユウカ、大丈夫かい。急に立ち上がったし、まだ身体が重いかもしれない。どうか、安静にして”
ユウカの肩が、小さく動いた。
「……そう、ですよね」
先生は返事を待った。
ユウカは膝の上を見たまま、口を開いた。
「先生なら、きっと……ノア、大丈夫かい。今は辛いかもしれないけど、どうか安静にして。私からも、何とか出来ないか考えてみるよって」
ノアが顔を上げた。
「そんな風に、言ってくださるんじゃないかと思ったんです。たとえ、すぐに結果なんて出なくても。苦しんでいるノアに、寄り添ってくれるんじゃないかって」
ユウカの指が、寝台のシーツを握った。
布に深い皺が寄る。少しして手が開き、皺だけが残った。
「ノアの容態については、何度か伝えました。でも……理由は毎回違っても、来てはくださらなくて」
”シャーレにいる、あの人に?”
ユウカは頷いた。
「自分の代わりに、生塩さんを介抱してあげてください。スナッチャーがミレニアムに現れたら、すぐに報告してください。……そういう言葉だけでした」
声が途切れた。
先生は口を挟まず、ユウカが続きを話すのを待った。
「私が何か先生の気に触ることをしちゃったのかもしれない。ごめんねって。ノアに謝っていたんです」
ユウカは横の椅子へ目を落とした。
脱いだ上着のポケットへ手を伸ばし、指先で中を探る。
「……それに、指名手配にあった、〈先生の名を騙る犯罪者〉の写真」
取り出した紙は、少しよれていた。
折り目を開くと、そこに先生の顔があった。
「ケイから、最初に話を聞いた後です。十二日の日中に、これを渡されました。どうか、もう一度よく見てくださいって」
ユウカは紙の端を撫でた。
「私よりも、ずっと先生との付き合いが長いユウカさんなら、何か分かるかもしれません。思い出してください。……そんな風に、頼まれたんです」
先生はケイを見た。
記録を取っていた手が止まっていた。彼女はユウカの手元を見つめ、小さく頷いた。
「その時は、違う人に見えました。何を言っているのか分からないって、退けたんです」
写真を持つ手が、膝へ下がった。
「でも、どこかで引っかかっていて。その日の夕方、一人の時に、もう一度よく見直しました。その時も、やっぱり違うって」
紙の角を、両手の指が挟んだ。
「先生が、このキヴォトスに着任した日からの付き合いなのに。この私が、見間違えるはずがない。この人は、先生じゃないって……納得していました」
「それと同時に、急に、この写真をもう見たくないっていう気持ちに襲われて……そこで、考えるのをやめてしまったんです」
ユウカは写真をこちらへ向けかけた。
途中で止め、もう一度、自分で見る。それから顔を上げた。
先生の顔と、手の中の紙とを、視線が行き来した。
「……私、どうしてそんな風に思ったんだろう」
写真が膝へ戻った。視線を落としたユウカの瞳の先には写真があるが、もっと奥にある何かを見ているようにも思えた。
「私は、これを…確かに見たはずなんです」
”ユウカ”
「今日だって、怪我をしているのは分かっていました。でも、見ていたのは脚だけです。歩いて大丈夫なのかなって、それだけで」
先生の脇腹へ向きかけた目が、床へ落ちた。
「お腹を庇う動きも、顔の傷も……今になって気付きました」
ユウカは写真の折り目を指で押さえた。
閉じようとして、手を止める。
「先生が、こんなに傷ついていたのに。私の目は節穴なのかな……ううん、私は、とんでもない薄情者なのかもしれませんね」
声が細くなった。
「私はいつだって、遠くから心配することしか出来ていなくて。舟の時に先生だけまだ上に残ってると聞いた時も、ついこの前、遠い海の向こうで戦っていると聞いた時も」
ユウカの顎が、少しずつ下がった。
ノアが手を伸ばし、写真を握る指のそばへ置いた。
「それなのに……今回は、心配することすら、出来ていませんでした」
一度、息を吸い直す音がした。
「私、自分で自分が信じられなくなりそうです。すぐ駆けつけられる場所で、先生に何かあったら……今度こそ力になりたい。そう、思っていたのに」
紙の端が震え始めた。
ユウカは片方の手でもう片方を押さえた。それでも、小さな音は止まらなかった。
先生は俯いたままのユウカに視線を向け、少しだけ呼吸を整えてから口を開いた。
”ユウカ。私は君を薄情な人間だと思ったことなんて、一度だってないよ”
ユウカは俯いたままだった。
先生はそのそばで、言葉を続けた。
”君は、初めて出会った時から、とても優しく、思いやりのある子だ”
ユウカの顔が、上がった。先生とユウカの視線がぶつかる。
”覚えているかな。私が着任した日。初めて指揮を執った日のことだ”
「……はい」
”君はミレニアムを代表して、連邦生徒会の対応を聞きに来ていたね。それが、シャーレの建物を取り戻すために、不良達と戦うことになった”
「よく、覚えてらっしゃいますね。でも、あの時は……場の流れで、そうなっただけで」
”うん。急に巻き込まれて、納得出来なかっただろうね”
先生は頷いた。
あの日のユウカの声を、覚えていた。痛いと怒っていたことも、その後で自分へ向き直ってくれたことも。
”それでも、自分も撃たれて痛がっていた君が、私には、戦場には出ないでください、安全な場所にいてくださいって言ってくれた”
ユウカの唇が開いた。
声は出なかった。
”まだ、会ったばかりの大人だったのに。君は私を気に掛けてくれた。指揮をすると言った時も、一番前に立って戦ってくれたね”
写真を握っていた指が、少し緩んだ。
”君がしてくれたのは、心配することだけじゃないよ。舟の時も、一緒に戦ってくれた。君が作戦を支えてくれたから、もう一人のシロコを、あの舟から下ろすことが出来た”
ユウカは先生を見つめていた。
”そうして私達の世界で生きることになったシロコが、今度は私を支えてくれた。だから、私は今日もここにいられる”
先生は、二人のそばに座ったまま続けた。
”君の優しさも、思いやりも、間違いなく誰かの救いになっているんだ。今だって、こうして私のために悲しんでくれている”
ユウカの眉が寄った。
何かを言おうとして、息だけが漏れた。
「そうですよ。ユウカちゃん」
ノアが、自分からユウカの手へ指を重ねた。
「今日まで…ずっと私を看病してくれました。ご自分の仕事だって、あったのに……私のぶんまで…がわってぐれたじゃ…ない…でずが…」
ユウカがノアを見た。
ノアは微笑もうとした。けれど、目尻に涙が溜まっている。
ノアは大きく瞬きした後に唇を結び、もう一度口を開いた。
「私の…し、親友が、薄情者だ、なんて…そ、そんな…ごど…あ゛りまぜん…」
ユウカの口元が歪んだ。
返事をしようとしても、声にならなかった。ノアの手を一度握り返すと、写真を膝に置き、両手で顔を覆った。
指の間から、嗚咽が漏れた。
「せんせい……っ、のあ゛……」
ノアも俯いた。
ユウカの肩へ手を添えたまま、もう片方の手で自分の目元を押さえる。息を整えようとして、かえって泣く声が大きくなった。
先生は手を伸ばした。
脇腹に響かないところまで身体を寄せ、机のティッシュの箱を二人の間へ置く。
それから席を離れず、膝に置かれた写真へ視線を落とした。
部屋にはしばらく、二人の泣く声が続いていた。
* * *
窓の光が、少し傾いていた。
ユウカが自分で水を飲めるようになり、ノアも涙を拭って顔を上げた。ケイとリオが順に状態を確かめる間、先生はそのそばに座っていた。
コップを膝へ下ろし、ユウカが背を伸ばした。
「もちろんシャーレに戻るんですよね…?先生。私にも、協力させてください」
”うん。頼りにしてる”
ユウカは頷いた。まだ赤い目で先生を見たまま、コップを机へ置く。
「ところで、今の生活はどうされているんですか。特にお金とか。治療も、食事もです」
”泊まる場所や活動費は、私に協力してくれている大人たちと契約して提供してもらっているんだ。食事も薬も、問題なく買えているよ”
「大人?…どんな方達なんですか?」
”色々と事情があってね、契約の内容もいずれきちんと話す”
ユウカは一度息を整え、頷いた。
「分かりました。でも、もしもまとまった額が必要なら私にも相談してください。二つ返事とまでは約束出来ませんが、私個人で運用している蓄えがそれなりにありますから」
”君のお金を使ってもらうなら、何のために、どれだけ必要なのか、一緒に考えたい”
「はい。どうか今あるお金を使い切る前に相談してくださいね。先生ってすぐ無駄遣いしちゃいますし」
”うん。相談するよ”
先生が頷くと、ユウカはようやく少し表情を緩めた。
ノアも返されたノートを開いた。筆記具を取る前に、まずユウカが書いたものを読んでいる。
「…大丈夫。昔のことを思い出してもあの変な音はもう聞こえない」
短く呟いた後、ノアは先生を見た。
「私も協力させてください。今なら、ちゃんと記録を見直せますから」
”お願いしたい。でも、本格的な調査は明日からにしよう。今日はゆっくりと休んでほしい”
「……はい。昨日はあの変な音がうるさくてほとんど眠れていませんし」
「分かりました。でもその約束、先生もですよ?」
ユウカが言った。
”そうさせてもらう。今日は、迎えを頼んである。帰ったらすぐ休むことにするよ”
先生は苦笑し、頷いた。
ユウカはコップを取り、両手で包んだ。ノアが隣で笑っている。
先生は二人が並んでいるところをもう少し見ていたかったが、帰宅することをシロコ*テラーにも伝えた。
出発前に、先生はシロコ*テラーとともに電波暗室の窓へ戻った。
ノアとユウカも、近くの椅子で報告を聞くことにした。
ヒマリが端末を持ち上げる。窓の脇のスピーカーから、声が届いた。
『お帰りになる前に、調査の進捗を。シャーレにいる方が使っている端末について、確認したことがあります』
先生は窓の前の椅子へ腰を下ろし、鞄へ入れかけた箱を膝へ戻した。
”あの人が、シッテムの箱の代わりに持っているもの?”
『ええ。先方との定例の連絡で尋ねました。本来の箱を奪われたため、カイザーに代替品を用意してもらった、と』
「代替機があるとは、私にも言ってた」
シロコ*テラーが隣で言った。
「先生のアカウントから返事が来た。あの箱の中にいた子のことを聞いたら、答えなくなったけど」
先生は箱の縁へ指を置いた。
画面には、残数ゼロの表示が出ている。
”こちらはずっと私が持っている。それなのに、モモトークも通話も、あの人が私のアカウントを使っているんだよね”
『はい。私との連絡も、以前から先生と連絡していた時のアカウントから来ています』
”私が使わせたわけじゃない。別の端末へ引き継ぐ操作もしていない。それなのにあたかも私であるかのように連絡が取れるなら……見た目通りの、普通のタブレットPCではないんだと思う”
先生は画面から顔を上げた。
『ええ。連絡手段を奪えるか、あるいは奪っている別の設備に繋がる仕掛けがある。どちらなのかは、まだ調べる必要がありますが』
ヒマリは端末へ目を落とし、続ける。
『カイザーから提供されたというのは、あちらの説明ですが…この部分について、私の方で搬入記録を手がかりに調査し、搬送元施設までは特定しました』
ヒマリが画面に地図を出した。一つの建物に印が付いている。
『ここは登記上カイザーインダストリーの完全子会社、ケルン産業機器が所有権を持つ工場でした。つまり、彼らの傘下にある施設から送られたことまでは確認出来ました』
『ここで問題の代替品とやらを製造、あるいは管理しているのだと思われます。確認出来たのは搬送経路と所有関係までです。工場の中で何をしているのか、代替品の機能もまだ突き止められていません』
”…通話やモモトークのアカウントと同じように、生徒達のすり替えにも、関係しているのかな”
『同じ仕組み…とまでは言い切れませんが、そこも調査に時間を割くだけの価値はありますね』
ヒマリが記録へ何かを書き加えた。
先生は、膝の上の箱を両手で持った。
本物はここにある。それでも向こうでは、別のものが代わりを務めている。
”誰が作って、何をさせているのか。お願いしてもいいかな”
『ええ。工場本体と関連施設も視野に入れ、今後も調査を続けます』
先生が頷くと、ヒマリは次の記録を表示した。
『砂狼さん。初日の通報についても、共有しておきます』
シロコ*テラーが窓へ一歩近づいた。
『ヴァルキューレへ侵入者の通報が入ったのは、十七時を数分過ぎた頃。小鳥遊ホシノさんが退出した後です。通報者は〈シャーレの先生〉本人であり、その時、外にいたことになっています』
「外に?」
『ええ。ですが、何処から侵入者の存在を知ったのか。その経緯は確認出来ていません』
”私は、執務室にいたままだった。ホシノを見送って、残りの仕事をしていたんだ”
ノアが記録へ目を向けた。
「…おや?」
ノアは、通報文にある「シャーレの先生と似た背格好で同じ服装」と侵入者の特徴が書かれている行に目を落とした。
「先生が部屋に残っていたなら、外から通報したのは、別の方ですよね…その方は、部屋にいる先生のお姿をどうやって確認したのでしょう」
『ええ、そこは私も気になっています。このあたりの詳細は当日の当番…小鳥遊ホシノさんに改めて尋ねる価値があるかと。退出後、今シャーレにいる方と接触した可能性もあります』
ノアは先生を見た。
先生は頷いた。あの時の執務室には、ホシノがいた。自分が説明するだけで信じられなくても、彼女が何を見たかを聞くことは出来る。
シロコ*テラーが先生を見て、それから記録へ視線を戻し、メモを取る。
「ん。時刻も、聞くことも覚えておく」
車へ乗り込み、拠点の二人へ帰ると知らせる。
ワカモの返事に続いて、ミユの安堵した声が聞こえた。
先生は通話を終え、座席へ身体を預けた。
窓の外では、建物の間を小さな機影が横切った。
配送機だろうか。見上げた時には看板の向こうへ隠れ、車が進むにつれて見えなくなった。
「疲れた?」
シロコ*テラーが尋ねた。
”少しね。でも、二人と話せてよかった”
「ん」
先生は鞄の上へ手を置いた。
まだ、取り戻せていない生徒が大勢いる。
それでも今日は、ノアが痛みを気にせず笑い、ユウカが自分を叱ってくれた。
帰ったら、そのことを留守番をしてくれたワカモとミユにも話そうと思った。
* * *
10月22日 夕方
車の音を聞いて、ワカモさんと一緒にお留守番だった私は側面の扉へ向かった。
足音が近づく。扉が開くのを内側の壁際で待ち、先生の顔が見えると、少しだけ身体を前へ傾けた。
「お、お帰りなさい……」
”ただいま、ミユ”
先生の後ろで、シロコお姉さんが通りを振り返った。
その肩越しに、遠くの建物が見えた。
屋上の縁に、小さな光が一つ浮いた。
…ッ!?
壁際へ身体を戻した。
…今のは、たぶん望遠レンズだ。
夕日を返した窓なら、あの位置に窓枠があるはずだった。けれど光は、屋上の縁から少しだけ上にあった。
もう一度見ようと思ったが、もう消えていた。
「……先生。中へ、入ってください」
先生は足を止めかけた。
私は先生の袖に触れ、扉の内側へ促した。シロコお姉さんも入ってから、外を指ささず、小さな声で場所を伝える。
「向こうの屋上で、何か光りました。こちらを見ていたのかも……しれません」
「人は見えた?」
首を横に振る。
光ったものの形も、人影も見えていない。誰のものかは、分からなかった。
それでも、先生達が戻ってきた時に、ここを見渡せる場所で光った。
私が任務でこの建物を見張るなら、あそこは候補になる。
「見つかっていたら……早ければ今夜にも、仕掛けて来るかもしれません」
口にしてから、扉を見た。
――今夜まで待ってくれるとも、限らない。
”ワカモにも伝えよう。ここを出るにしても、外の様子を確かめないと”
「ん。ミユは先生といて」
シロコお姉さんは扉を閉め、端末を取り出した。
私は先生と廊下を戻った。追いかけて、誰だったのか確かめたい気持ちはあった。けれど、先生のそばを空ける方が怖かった。
「その前に来ても、逃げられるように……しておきたいです」
”うん。一緒に確かめよう”
部屋へ戻ったら、まず転送器までの道を空けよう。
先生に何を持ってもらって、自分は何処に立つか。マスクも、すぐ手の届くところへ。
…もしもサキちゃんが今の私と同じ立場なら、先生の護衛として何をするだろうか。
私は先生の歩幅に合わせながら、順に考えた。
本作は、プロローグを書き上げた時点で、一応、結末の展開まで構想していました。
「ここまで決めておけば後はおそらくライブ感で最後まで書き切れるだろう…たぶん」と踏んでから、続けることにしました。
そして、正直に白状しますと、その時点では認知回復するミレニアムの生徒は二人だけ。具体的には、生塩ノアと調月リオのみとするつもりでした。
ところが、実際に書き進めていくうちに、生塩ノアはこういう状況に置かれたらどうなるか? 彼女の親友たる早瀬ユウカは何を考え、どのように行動するか?
……それをひたすら掘り下げ、作者の脳内で「思いつく中ではこれが最も妥当だな」と思える展開を突き詰めていったところ、気がついたらこれになりました。