「お前は、誰だ?」
”誰って、私だよ。シャーレの”
「それもそ…………――――いや、そんなはずはないだろう。氏名と所属を答えろ」
言いかけたカンナの口が、途中で止まった。
ほんの少し前まで、答えを知っているような顔をしていた。それが、瞬きをするあいだに消えている。
先生は自分の名前を告げた。所属も、彼女が何度も訪ねてきたこの場所も。
「…お前、その服装…まさか先生のつもりでいるのか?似てるのはせいぜい背格好ぐらいじゃないか」
カンナは銃を下ろさなかった。
”私が分からないのかい?”
「質問しているのはこちらだ! だいたい、お前がいま手にしているものは先生の所有物だろう!」
”これは私の…ほら、鞄だってこれだよ。サイズも。見覚えあるでしょ?”
先生は足元に置いてあった普段使いの鞄を持ち上げ、広げて見せながらシッテムの箱をぴったり合うサイズの窪みに滑らせる。
「そういえば、先生が前に…………――――これ以上はいい。署でじっくりと聞かせてもらうことにする」
カンナが顎を動かした。
「確保しろ。ただしそこの鞄に入っている端末を傷つけるなよ」
左右の生徒がゆっくりと近づいてきたため、先生は半歩机に寄った。
これは何かがおかしい。このまま署へ行けば説明出来るだろうか?
――いつもなら、それで済むはずだ。カンナは話の通じない相手ではない。
誤解がすぐ解けなかったのはイオリのアルバムを買いに行った時ぐらいだ。ちゃんと順を追って説明すればいい。
だが今の調子では説明の出発点にも立てそうもない。
自分の名前を聞いても、顔を見ても、彼女は目の前の私を知らない相手だと言う。
しかも、たったいま別の誰かから、自分の通報を受けたのだと言っている。
開かれた鞄の中から、わずかに見える画面が淡く光っている。
貼って、六十秒。
先ほどの説明が頭をよぎった。
けれど、生徒へ貼ると何が起こるのかも分からないものだ。守れという言葉まで添えられていた。
包囲されているここで、目の前の相手に使ったあと、その子を守り続けることなど不可能だ。
先生は肩紐を肩にかけ、開けたままの鞄へ左手を突っ込む。と同時に、最も近い生徒が、腕へ手を伸ばす。
――もはや、これ以上の問答は無意味か。
少なくとも、今は逃げるしかないな。
突っ込んだままにしておいた左手で鞄の中をまさぐる。硬質な筒の手ごたえ。…あった。
――随分昔の話になるけど、スズミから譲ってもらっておいてよかった。
先生は身体を半歩沈めた。指先が上着をかすめる。その下を抜けるように屈み、袖机の引き出しを開けた。
「おい…」
ヴァルキューレの生徒は袖机の前で屈んだ先生の手を捕まえようとするが、椅子に遮られて手が届かない。
その隙に、袖机の中の管理用キーを取り出し指に引っ掛ける。
「貴様、何をしている!」
すぐ隣のヴァルキューレ生徒が反対側から迫る。伸ばした手で肩を掴まれるが声に答える余裕はなかった。
鞄の中で既に掴んでいた閃光弾を取り出すと同時に、右手でピンを抜く。
そのまま、扉の方へ放り投げた。
「閃光弾だ!」
すぐ背中にいた方の生徒の叫び声と共に肩を掴んでいた手の感触が消える。先生は机の下へ飛び込み、扉から背を向けつつ目を閉じて耳を塞いだ。
瞼の向こうが白くなった。机の板を通しても衝撃が伝わる。
起爆タイミングが分かっている分、次の反応も早い。
直後、先生は立ち上がった。顔を背けているカンナの脇を抜け、入口へ向かう。
扉のそばの生徒が腕を広げたが、まだこちらを捉えきれていなかった。
肩が触れるものの、相手が倒れない方角へ身体をずらしつつ廊下へ出る。
――非常時専用の地下脱出路は、こっちだ。
右手の指に引っ掛けていた管理用キーをズボンの後ろポケットへねじ込み、本格的に走る体勢を作る。
全速力で走り出した背中へ、カンナの声が追いつく。
「逃すな! 追え! ゴム弾に限り発砲を許可する!」
先生は廊下の角へ飛び込んだ。
後ろで弾倉を交換する音が重なる。次の角を曲がる直前、振り返ると銃口が上がりかけていた。
身体を壁の陰へ引き込み、そのすぐあとに乾いた音が続く。
壁を叩いたものが床へ落ちる。
走る。
ここは見慣れた廊下だ。何処に柱があり、どの扉が開き、何処で道が分かれるか知っている。それだけが頼りだった。
曲がり角で向きを変え、大きな収納棚の陰を通り、階段室へ入る。
手すりを掴んで踊り場を回った。二段飛ばしで下りる。
上で扉が開いた。
「下だ!」
次の一歩を踏み出した時、背中に硬いものが叩きつけられた。
”ぐっ…!”
肩甲骨のあたりから、鋭い痛みが広がる。息が止まった。
足が段の端を踏み外しかけ、先生は手すりへ身体を寄せた。
ここで転んだり、止まったりしたら、本当に終わりだ。
歯を食いしばり、足を置き直して再び下りた。
地下の廊下は、上階より空気が冷たかった。
最後の曲がり角で速度を落とし、壁に背を寄せる。すぐに肩から痛みが走ったので、離した。
少しだけ顔を出してみると、非常経路の扉の前には、二人いた。
――既にここも押さえられているか。
先生は鞄に手を入れた。遠くから追跡の足音が近づいてくる。
――君達、びっくりさせるけどごめんね。
先生はそんな謝罪の言葉を心に浮かべながら、二つ目の閃光弾のピンを抜き、そっと扉の方へ投げた。
すぐに角の陰へ戻り、強く目を閉じ耳を塞ぐ。
瞼の向こうが再び白くなった直後、先生は駆け出した。腕で顔を覆った生徒の脇を抜ける。
もう一人の肩に鞄が当たり、紐が一瞬引かれたが、身体を斜めにしてすり抜ける。
扉を開く。暗い通路へ片足を入れる直前に再び鞄に手を入れた。そのまま手探りでピンを抜く。
――何度もごめんね、本当に。
全部で三つ譲ってもらったスズミお手製の閃光弾。その最後の一つを鞄から取り出すと同時にビル側へ軽く転がす。
「止まれ!」
追いついてきた生徒の声がするなか、先生は通路側から扉を引く。
閉まりきるまでの細い隙間から、数発が飛び込んでくる。足元の床が鳴り、顔の横で壁が叩かれた。
扉が閉じられた。
「うわっ!…」
その向こうで、三つ目の起爆音と生徒のうめき声がくぐもって響く。
――銃声が止んだ。よし、今のうちだ。
先生はズボンから鍵を取り出した。震える指で差し込み、回す。
無機質な回転の手応えを確かめたところで、向こう側から扉が強く引かれた。
「開かない! 管理用キーを――」
先生は二度、息を吸った。
――長く休むわけにはいかない。
鍵をしまい、地下通路の奥へ走り出した。
* * *
マンホールの蓋を軽く押し上げると、夕方の空気が流れ込んでくる。
先生は周囲を確かめてから身体を引き上げた。蓋を戻し、建物の陰まで歩く。
そこでようやく、大きく息を吸った。
背中が痛む。走っているあいだは押し込められていた痛みが、肩を動かすたびにはっきりと戻ってくる。
先生は顔をしかめ、鞄を反対側へ掛け直した。
――何なんだ、本当に。
シッテムの箱を取り出すが、画面の表示は変わっていない。
モモトークを開こうとして、指が止まった。通話も出来ない。連絡先の一覧そのものへ、たどり着けなかった。
”……そうか。これも駄目なのか”
生徒へ連絡すればいい。
その簡単なことに、別の手段が必要になっていた。
先生はシッテムを鞄にしまい、路地を歩いた。表通りから車の音が聞こえるたび、足を止める。
古い商店の脇に、公衆電話があった。
色褪せた案内板の下で、受話器だけが妙につやつやしている。
”今時、電話番号を直接覚えるなんて、記憶容量の無駄遣いだとか思ってたけど……ね……”
財布の硬貨を入れた。番号は考えるまでもなく指が覚えていた。
ホシノが帰ってから、まだ三十分も経っていない。いつもの経路なら、セントラル駅で電車を待っているころだ。
呼び出し音が続く。
『どちら様〜? ワタシワタシ詐欺?』
気の抜けた声が聞こえた。
先生の肩から、少しだけ力が抜けた。
”ホシノ、私だよ。今ちょっと大変なことになってて――”
『…あの、本当にどちら様?』
ホシノの声がわずかに強張っていた。思わず受話器を握り直す。
”ホシノ、だから私だって”
先生は自分の名前を告げた。返事がないまま、言葉を継ぐ。
”今ジョーク言ってる場合じゃなくなってて”
『何言ってるのさ、声まで似せて。先生のふりをするなら、もっと上手にやってよね』
さっきまで同じ部屋にいた。同じ声で話した。
先生は自分の名前も告げた。だが、返ってきたのは短い沈黙だけだった。
――ならば、こうしよう。
”さっきまでシャーレにいたよね。今日の当番だったでしょ。三十分も経ってないから、まだセントラル駅のあたりじゃない?”
『え、どうして分か…………――――だから何? 当番表でも見たの?』
声が更に硬くなった。先生は受話器へ顔を寄せた。
――これでもダメなら、今日やってもらった作業と、昼寝の申し出を却下した時の言葉だ。
”ちょっと――”
続きを口にする前に、通話が切れた。
耳元で、同じ高さの音が繰り返される。
先生は数秒間、そのまま立っていた。
当番表を見たとして、それだけでは駅のことまで分からない。ホシノなら気付くはずだった。
あの子は聡い。そういう細かな食い違いを見逃すような子ではない。
けれど彼女は、その先を聞こうとしなかった。
カンナもそうだった。分かりかけたように言葉を止め、それから、こちらを拒んだ。
受話器を戻す。
――もう一度かけるか?
別の生徒なら、話を聞いてくれるだろうか。
思い浮かぶ番号はいくつかある。けれど、つい先ほどまで一緒にいたホシノが駄目だったからにはほかの生徒も同じかもしれない。
少なくとも、説明すればすぐ終わるというような誤解ではなかった。
先生は電話から離れた。
ひとまず、今はここを離れよう。
表通りを避け、建物の間を進んだ。開いた搬入口の向こうに制服が見えれば引き返し、車の停まる音がすれば、路地の奥で通り過ぎるのを待った。
少しずつ、空の色が変わっていった。
店先の時計が十八時を示すころ、背後からサイレンが近づいてきた。
先生は走り出そうとしたが、ふとその先の道を思い浮かべる。
――ここの角を曲がってまっすぐ進むと、子ウサギ公園があるはずだ。
足が一瞬、緩んだ。
――駄目だ。あの子達のところへは行けない。
今の自分を見たら、あの子達は何と言うのだろう?
それを確かめるためだけに、追跡車両まで連れていくわけにはいかなかった。
先生は角を曲がるのをやめ、脇道へ入った。
程なくしてサイレンも向きを変える。建物の壁に反響する音が、再び背中へ重なってくる。
痛む肩を押さえ、D.U.地区のスラム街へ走った。
* * *
シャーレの執務室では、床に落ちた書類が拾い集められていた。
ヴァルキューレの生徒が通信機から手を離し、カンナへ向き直った。
「対象へのゴム弾一発の命中を確認しています。ただし、そのまま逃走を継続。建物外へ出たあと、現在位置を一時的に見失っています」
「所持品は」
「シッテムの箱と思われる端末を、鞄に入れて持ち去りました。周辺区域で追跡を続行中です」
「分かった。各班の配置を維持しろ」
カンナは窓際へ向かった。
そこには、一人の男が立っていた。
「先生。建物外へ逃走されましたが、現在も周辺区域を封鎖して捜索を続けています」
男が振り返った。
「生徒に怪我はありませんでしたか?」
「はい。全員無事です」
「そうですか。では、安全を優先して捜索を続けてください」
カンナが頭を下げた。
男は執務机へ歩き、椅子の背に手を置いた。机の端には、色の揃った付箋をつけた書類が三つの山になっていた。
ほぼ同じ背丈、やや線の細い体つき、柔らかい表情。
男は微笑んだ。
まるで。
ずっと以前から、そこが自分の居場所だったかのように。