シャーレの執務室で、男が地図を机の上に広げた。いくつかの通りに赤い線が引かれている。
「盗まれたシッテムの箱を取り戻していただきたいのです。持ち去った犯人も、連れてきていただけますか」
机を挟んで立つミカが、地図を覗き込んだ。
「箱と泥棒さん、両方だね。いいよ、先生」
男はミカへ微笑んだ。
「聖園さんならお願い出来ると思いまして。彼には聞きたいことがありますから、絶対に殺してはいけません。でも、どうしても抵抗するなら、実弾を使っても構いません」
実弾、と口にした時、その目から笑みが消えた。
ミカは男をまじまじと見つめる。
「でも、外の人を撃つなん…………――――それほど大切なことなの?」
「ええ。聖園さんなら出来ると信じています」
声が柔らかくなった。だが、地図へ目を戻すと、再び冷たい目つきになった。
「彼も、他ならぬ聖園さんにまで銃を向けられたら、きっと潔く観念することでしょう」
「えっ?先生、それってど…………――――う、うん。分かったよ」
「聖園さんには、監視カメラの映像から解析した逃走ルートと思われる地区の捜索をお願いしたいのです」
男の指先が、赤い線の途切れた一角を示す。
ミカはその場所を確かめると、携えていた銃に手を添えた。
「最悪は怪我させてでも、だよね?じゃあゴム弾でも別にいいでしょ?先生」
「ええ。それと、もう一人、広域の捜索も手配しています。その方と出会ったら、協力をお願いします」
「うん、私に任せてっ!」
聖園ミカは大きく頷き、地図を受け取った。
* * *
通りを車が横切り、先生は路地の壁に手をついた。
深く息を吸うと、昨日撃たれた背中が痛む。浅く吐き、呼吸を落ち着かせた。
壁の上から朝の日が差している。角を曲がるたび、監視カメラとヴァルキューレの姿を探す。休める場所は見つからない。
鞄を壁にぶつけないよう抱え直すと、中の箱が腕に触れた。
シッテムの箱。
昨夜取り出した白いものの感触は、まだ指に残っていた。
確かめられたのは、使わずに持ってはいられないということだけだった。
* * *
十時間前、深夜。先生は人通りの絶えた建物の裏手に身を寄せ、鞄からシッテムの箱を取り出していた。
画面にはシャーレのエンブレムと、その下に細い文字列がある。
CHARGED --:--:--/12:00:00 (2/2)
――エンブレムから――取り出――
とあったはずだ。指先でエンブレムに触れてみる。
画面に浮いた白い縁を右手でつまむ。薄いものが、確かな手触りを伴って離れた。
CHARGING 00:00:01/12:00:00 (1/2)
表示が変わっていた。
取り出したものは、手のひらから少しはみ出すほどの大きさだった。白い表面を傾けると、細かな光がきらきらと散った。
白いシールのように見えるが、裏返しても剥離紙らしいものはなかった。
軽く振っても何も起こらない。袖口、シッテムの箱、左手の甲、鞄、背後の壁へ順に触れさせたが、貼り付く様子もなかった。
――取り出すだけでは、何も起きないらしい。
三分が経った時だった。
指に挟んでいた縁が崩れた。
細かな光が手の甲に落ち、触れる前に消えていく。慌てて手のひらを差し出したが、すくい取れるものはなかった。
先生は空になった右手から、画面へ目を落とす。
CHARGING 00:03:03/12:00:00 (1/2)
少なくとも、取り出して貯めておくことは出来ない。
金髪の女性が残した言葉を思い返す。
画面から、取り出す。
生徒へ、貼り付ける。
貼り付けて、六十秒で完了。
その間、対象を守って。
生徒に貼れば、何かが起こる。だが、何が。
先生は残ったエンブレムに触れず、箱を鞄へ戻した。
* * *
「あっ!見つけた!」
明るい声がして、先生は顔を上げた。
路地の出口に、ミカが立っていた。
銃はまだ下を向いている。こちらを見る顔には、見知った相手を見つけた時の親しさがなかった。
「結構歩いたんだよ? 泥棒さん、逃げるの上手だね」
ミカもダメか。
先生は壁から手を離した。
「その鞄、こっちに渡してくれる? それから私と一緒に来て。先生が待ってるから」
自分へ向けて、先生が待っていると言う。
その声の屈託のなさに、返事が一拍遅れた。
”ミカ。まず、話を聞いてほしい”
「泥棒さん、悪いけどお話ならシャーレでやってほしいな。ほら、手を上げて?」
ミカの肘が上がった。
先生は銃口がこちらへ揃う前に、壁の陰へ踏み込んだ。すぐ後ろで乾いた音が重なり、路地の奥へ弾が跳ねていく。
「そっち、行き止まりじゃない?」
走り出すと背中が痛んだ。腕を振り切れず、息も続かない。このままでは振り切れない。
路地の途中、古い扉が半ば外れた建物があった。
欠けた石の上に、十字架が残っている。
先生が開口部を抜けると、中は廃教会だ。
高い天井の下、石敷きの中央通路を挟んで長椅子が並んでいた。椅子の並ぶ両側は、通路よりわずかに高い板張りになっている。石の柱の根元には剥がれた壁材が積もり、奥の側面にも小さな出入口が見えた。
身を隠す場所はある。先生は中央の通路を外れ、柱の向こうへ回った。
「もう。危ないから、止まってってば」
ミカが正面の扉をくぐった。
先生は柱の陰から、彼女の肩と銃の向きを見た。銃口が左へ流れる。身を低くし、右側の椅子の背へ移る。
銃声。柱の表面が弾けた。
止まれば、次の射線がそこに通る。
先生はミカの踏み替えに合わせ、次の柱へ入った。
見ているのは銃弾ではない。目線、腕、引き金を引く前の姿勢。その「起こり」から射線を読み、先に身体を外す。
「っ……」
背中の痛みで足が遅れた。
すぐ脇の椅子が鳴り、跳ねた弾が床を転がった。
「そんなに逃げたら、私も狙いにくいんだけど!」
弾倉の落ちる音がした。先生はその間に、奥の出入口との距離を詰めた。
だが、ミカが横へ出て出口を射線に捉えた。先生は椅子の陰へ伏せる。
また銃声。息が熱く、足元を見る余裕もなくなってきた。
やがて、銃声が途切れた。
「……どうしよう、買ってきた分、なくなっちゃった」
ミカは空の弾倉を抜いた。
今度に限っては、その隙に走り出せなかった。先生は柱に背中をつけないよう身を寄せ、息を継いだ。
ミカは新しい弾倉を取り出した。手が止まり、先生を見たあと、ゆっくりと装填する。
「…正直にいうとあまりやりたくないんだけど、次からは実弾になるよ」
「泥棒さん、ここからは本当に危ないんだから、もう諦めて降参して?」
”ミカ、君には悪いけどそういうわけにはいかないんだ”
「もうっ、こっちの気も知らないくせに…分からずやな泥棒さんだなぁ!」
先生が柱を離れると、銃口が足元へ下がった。ミカの指が一度浮き、また引き金にかかる。
先生は足を引き、柱の反対側へ逃れた。
一発。
さっきまで靴のあった場所で床板が裂け、木片が跳ねた。威嚇のつもりだろうが、少し遅れれば当たっていた。
「……もうっ、すばしっこい……あっ、そうか。じゃあこうすればいいや」
先生が次の椅子へ移ると、ミカは射撃をやめ、銃をスリングで右肩に掛けた。
空いた両手を長椅子の座面の下へ差し入れ、そのまま引き上げる。
脚の根元で固定金具が軋み、床板が浮いた。ミカの手は止まらない。
木の裂ける音が続けざまに響き、長椅子が床板ごと引き剥がされた。片手で持ち上げたその脚には、割れた板が金具で留まったままぶら下がっている。
――いや、ミカが力持ちなのは知ってたつもりだけどさ…ウソでしょ?
「ええっと。まずはあっちからだね。よいしょっと!」
長椅子が緩やかに宙を舞い、壁にぶつかって奥の出口を塞いだ。
「えいっ」
「うりゃっ」
次は柱の間。また床板が裂ける音がして、別の通路へ向き直っても、次の長椅子が先回りする。
椅子のなくなった場所へ足を出しかけ、先生は踏みとどまった。剥がれ残った床板が斜めに浮き、その先には床下の暗がりが覗いている。
穴を避けて足を置き直す。その間に、残っていた通り道へまた長椅子が落ちた。
壁際まで追い詰められたところで、最後の長椅子が片手で正面へ突き出された。
「はい、鬼ごっこにかくれんぼ、どっちもこれで終わり!」
手が離れ、最後の隙間も塞がった。ミカは銃を右肩から外した。
銃を左手に持ち直し、スリングをくるくると銃床へ巻きつける。
先生は一度、息を吐いた。
幼い頃から磨いた技も、生徒を相手にしては一時しのぎにしかならない。それ以前に、教師たるもの体罰など論外だ。だから使わずにきた。
けれど、今使わなければ、もう逃げられない。
投げて体勢を崩し、銃を取り上げる。起き上がる前にミカの脇を抜けよう。それだけの隙を作れればいい。
「それじゃあ、今度こそ…」
ミカは右手を先生の上着へ伸ばした。
先生はその手首を取り、身体を横へ入れた。
腕を引くのと足を運ぶのを合わせ、彼女の重心を足の外へ導く。
ミカの肩が動いた。
次の瞬間、引いていたはずの腕に、こちらの身体が持っていかれた。
「わっ。なに?」
靴底が床を擦る。背中に痛みが走り、先生は掴んだ手を離した。
再びミカの右手が伸びてくる。指が上着をかすめた。
先生は慌てて半歩引き、倒れた椅子の端を挟んでミカと向き合った。
技に入れたはずが、力任せに押し戻された。
「あー、なんかセイアちゃんが随分前にお喋りしてたな。今のが外の世界の…じゅうどう?ってやつなのかな」
――今の手応えでダメだったのなら投げるのは不可能。この調子では関節技で押さえ込むのも同じ結果だろう。
どうしても続けるなら瞬時に極めて関節破壊を狙うしかない。でも、それは成功失敗どちらに転ぼうと論外……手詰まりだ。
先生は鞄の口へ右手を入れた。
中で画面を上に向け、白いエンブレムを探す。充填を示す数字は、まだ十二時間に届いていなかった。
もう、あの女性の言葉を信じるしかない。
エンブレムに触れ、残る一枚を取り出し、左手に移して握り込んだ。
「なぁにそれ? シール?」
ミカは小さく首を傾げた。口元にはまだ笑みがある。
「さっきも言ったけど、そういうのは、大人しく捕まってからに――して!」
先生は伸びてきたミカの右腕を右手で外へ流した。全力を込めたのにわずかに動かすのが精一杯だ。
でもいい。こちらの左手が触れる距離まで動かせれば十分だ。
露出した右前腕に白い面を押し当てた。
今度は離れない。ミカの肌に吸い付いた。
先生は白い面に左手を当てたまま、右手でミカの右手首を取り、ミカの脇へ回った。
先ほどは押し返されたところで、腕が動いた。
明らかに抵抗が弱い。
実家の道場で、入門したての子を指導した時と大差ない手応えだった。
驚くより先に、身体が覚えている動きを続ける。肘の向きを定め、肩を前へ送る。
ミカの膝が床についた。
先生は彼女の斜め後ろで腕を押さえた。先生の背後には、先ほど追い詰められた壁が近い。
ゴトッ…
銃がミカの左手から滑り落ちる。
――遠ざけなければ。
先生が足を動かしかけた途端、ミカが先程と同じように肩を引いた。
押し返す力に合わせて踏みとどまり、腕を捻り込まず、立ち上がれない角度を保つ。
しかし、先ほどのように、こちらの姿勢を丸ごと崩す力はなかった。
「……えっ!?」
”ミカ、悪いけれど今から一分間は動かないで”
待った結果どうなるかは分からないが、今は六十秒、剥がさせずに待つしかない。
腕に貼り付けた白い面を直接押さえたまま、貼った瞬間からの秒数を数える。
「離して……!」
翼が羽ばたくと共にミカが背をこちらに動かす。羽毛が先生の袖を打った。
ミカの身体は動かず、拘束も外れない。
ミカは一呼吸置いた後、目を瞑る。わずかな掛け声とともに今度は翼が大きく開いた。もう一度、強く羽ばたく。
それでも身体は動かなかった。
「う、嘘!? どうして……っ!」
ミカがこちらを振り返った。目が大きく開き、口元が震えている。
「あなた…私に何をしたのっ!」
七。八。
翼の動きが途切れた。先生は足元の銃へ片足を伸ばそうとした。
そのために上体を支え直した瞬間、肩甲骨のあたりに痛みが突き刺さった。
息が止まる。
腕を離さないよう踏みとどまった。その間に、ミカの自由な左手が床へ伸びた。
「もうっ…はな…して…よっ!」
指が銃にかかる。
”まってミカ、銃は――!”
ミカは銃を掴み、無理やり身体を捻った。こちらへ向いた銃口が、立て続けに三度光った。
発砲音が反響し、壁で跳ねた弾が耳元を横切った。砕けた壁の石片が足元へ降ってくる。
ミカの脚が震えた。
「あっ……!」
太ももを覆う布に、小さな裂け目が出来ていた。
そこから赤いものが広がった。
銃が落ちる。
先生は今度こそ足を伸ばし、床の上を滑らせるように銃を蹴った。椅子の残骸の向こうへ入ったのを確かめ、ミカの脚を見た。
血が流れていた。
一発の跳ね返った弾で、布が破れ、その下の皮膚まで傷ついている。
腕に伝わる抵抗の弱さ。浮かなかった身体。
その間、対象を守って…守るというのは、こういうことだったのか。
”足を動かさないで。今、血が出ている”
「うそ……なに、これ……」
先生は傷ついた脚に体重が寄らないよう支え直した。
二十。
まだ四十秒もある。
ミカが身じろぎするたびに支え直し、腕の角度を保つ。浅い呼吸がすぐそばで続いていた。太ももから床へ、また血が落ちる。
三十七。三十八。
もっと早く銃を遠ざけていれば。
「い、痛…痛いよ…」
ミカの呼吸が細かく乱れていた。
先生は声を低くし、一語ずつ伝えた。
”ミカ、怖い思いをさせてごめん。でも約束の一分がたったら必ず離す。どうか、信じてほしい”
彼女の肩が、一瞬止まった。
「……勝手なこと、言わないでよ」
すぐにまた手首が動いた。
先生はそれを押さえた。こちらを見上げる目には、まだ怯えと怒りがあった。
四十六。
”終わったら、すぐに手当てする”
早くタオルを出したい。だが、また銃へ向かわれたら。
五十三。五十四。
ミカが唇を噛んだ。
先生は拘束を緩めず、彼女の顔から目を逸らさなかった。
五十九。
六十。
左手の下から細かな光がこぼれた。掌の縁に見えていた白い部分が、ミカの体へ沈み込んでいく。
ミカの手首から、抵抗が抜けた。
彼女は先生を見ていた。
瞬きを一つして、もう一度、顔を確かめるように目を上げた。
「……先生?」
昨日から、誰も自分へ向けて呼んでくれなかった声だった。
先生は腕を放した。
”うん”
「先生、なの……?」
”そうだよ。今、足を手当てするね”
膝をつき、鞄を引き寄せた。
ハンドタオルを取り出して畳み、傷口へ当てる。ミカの指が床を掴んだ。
”今朝、水道で軽く洗っただけだから、そこまで清潔じゃないかもしれないけど……ごめんね”
押さえると、白い布に赤が染みた。
先生は圧を緩めず、ミカの顔を見た。
彼女の視線が、床の銃へ動いた。
弾の跡が残る柱へ。それから、先生の身体へ戻る。
「私、先生を撃った」
”当たっていないよ”
「でも、撃った。さっきも、その前も……」
”ミカ”
呼ぶと、彼女は口を閉じた。
”今、何が起きているのか知りたい。話せるかな”
ミカは何度か息を吸った。
やがて、小さく頷いた。
「シャーレに、先生がいたの」
言ってから、彼女は首を振った。
「違う。先生じゃない人がいた。でも、私……その人のこと、先生だって思ってた」
「箱を盗まれたから取り戻してきてって。泥棒さんを、捕まえて連れてきてって頼まれて……それで、私」
”私も、昨日から急に、先生だと分かってもらえなくなった。ヴァルキューレにも追われている”
「昨日から……ずっと?」
”うん。理由はまだ分からない”
ミカは前腕を見る。もう白いものはなくなっていた。
「さっきの、シールみたいなものは?」
”RE:TEXT…と書いてあった。シッテムの箱から取り出したんだ。金髪の女性が画面に現れて、生徒に貼るように、と言っていた”
「その人が、助けてくれたの?」
”そうかもしれない。ただ、私も詳しいことは聞けなかった。六十秒の間は、貼った生徒を守るようにとだけ”
ミカが傷ついた脚へ目を落とした。
先生も、赤くなったタオルを見た。
”ごめん。意味が分かったのは、撃たれてからだった”
「先生のせいじゃないよ。私が自分で撃ったんだもん」
彼女はそう言って、タオルを押さえる先生の手に指を添えた。
「……変なの。あの人の顔も、言ったことも、ちゃんと覚えてる。今ならどう見ても全然違うじゃんって分かるのに」
「それなのに、今朝あそこにいた時は、あの人が先生だってことは疑わなかった」
”私を見た時も?”
「うん。名前を呼ばれても、私のこと知ってるんだなぁって。それだけで……」
ミカの声が途切れた。
先生は予備のネクタイでタオルを固定した。
先生は、白いものが消えた瞬間を思い返した。
声をかけても、押さえられた腕を取り戻そうとしていたミカ。六十秒が過ぎてから、初めて自分を呼んだ声。
RE:TEXTを使えば、戻せる。
少なくとも、目の前のミカは戻ってきた。
手当てを続けながら、二人は互いの知っていることを確かめた。追ってきた道。シャーレで渡された地図。箱が今は連絡にも使えないこと。
話し始めて三分を過ぎる頃には、ミカの声も手も落ち着いていた。
その時、サイレンの音が聞こえた。少しずつ大きくなっている。
先生と聖園ミカは互いに顔を見合わせた。目線で会話する。
――ヴァルキューレがここに来る。
「先生。私が止めるから、先に行って」
”ミカ、危険だ”
「大丈夫、私結構強いんだから」
ミカは奥の出入口を塞ぐ長椅子に手をかけた。
持ち上がる。先ほどは床から離れなかった身体で、長い椅子を横へずらしていく。
出口が開いた。
先生は彼女の脚を見た。当てたタオルには、まだ血の色が残っている。
”無理はしないで。必ず手当てを受けてほしい”
「うん。先生もね」
すぐ間近でサイレンがする。
先生は頷いた。開いた出入口へ身体を滑り込ませ、路地へ出る。
背後で木が床を擦った。振り返ると、ミカが長椅子を横倒しに押し込み、通路を塞いでいた。
先生と目が合う。ミカが小さく手を振った。
先生は走り出した。
* * *
先生の足音が遠ざかってから、私は椅子の残骸の向こうへ手を伸ばし、銃を拾い上げた。
それから、入口の方へ向き直る。
「聖園ミカさんですね。負傷しているんですか? こちらへ来てください。保護します」
先ほどのサイレンの車に乗っていたのだろう。ヴァルキューレの子が大声を張り上げる。
背後の出口は倒した長椅子で塞がれている。そこへ続く狭い通路に立った。
踏ん張ると、傷口がずきっと痛んだ。
「いったぁ…」
思わず顔をしかめる。さっきより力は戻っている。
普段なら被弾の怪我なんて数分でなくなるのにそこだけはちっともよくなってる気がしない。
「ねえ、聞いて。私達は皆騙されているの。あなた達が追いかけている人こそ、本物の先生なんだよ」
「…ミカさん?いったい、何を言っているんですか?」
「本当なんだって、信じてよ!」
「…………――――事情は署で伺います。まず武器を置いて、こちらへ」
先頭の子が一歩近づいた。
私は銃をスリングへ掛け、空いた手を見せた。
「悪いけど、そっちには行けない。今は、絶対にここを動かない」
「もしや、襲撃犯と遭遇したのですか?この荒れよう、周囲を確認させてもらいます」
ヴァルキューレの子が、私が長椅子で封鎖した出入り口の付近を探ろうとする。
私は、足の痛みを堪えながら少しだけ歩く。
先頭に立っていたヴァルキューレの子、その肩を押してわずかによろめかせる。
「今この教会を調べるのはもっとダメ。私の話を聞いて。それからにして」
「公務執行妨害になりますよ」
そんなこと、分かってる。
でも、今周囲をちゃんと探索されたら先生が捕まってしまう。
さっきまで私がしようとしていたことを、この子達がするだけだ。
――いや、違う。ヴァルキューレの人達は別に悪くない。
皆、騙されているんだ。
横から掴もうとしてきた子の手を押し戻す。
転びそうになった肩を支えて、それから入口の方へ返した。
「ごめんね。もう少しだけ」
反対側から伸びてきた腕を外す。傷が痛んだ。
あくまで私が捜査の邪魔をするから確保に人手が必要と思わせる、注目させるだけでいい。
全力で突き飛ばしたり、転がってる長椅子を掴んで振り回しちゃえば、もっと簡単なのかもしれない。
でも、そんなことをしに来たわけじゃない。
私は先生を捕まえに来て――。
――息が詰まった。
柱に残った弾の跡が見えた。あの陰へ逃げる先生を、私は撃った。
泥棒さんを捕まえるのだと、何の疑問も持たずに。
「聖園さん!」
「……聞こえてるよ」
何度も近づく子を押し留めた。警告はだんだん厳しくなり、外から増援を求める声がした。
もう数分は経っている。
これだけ時間を稼げば、先生は遠くに逃げられたはず。
私も、そろそろ…と足を引こうとした途端、痛みが走った。
「っ……」
これでは走っても振り切れない。それに、出口の外にも大勢いる。
――こうなったら。
小さく翼を動かすと、背中にいつもの手応えが返った。
よかった。さっき先生に押さえ込まれた時とは違う。今なら、いける。
高い天井の梁を見上げた。
上から逃げよう。
「ヴァルキューレのみんな!今から私、すっごい悪いことするよ。とっても危ないから上から落ちてくるものには注意してね!」
「何を――」
ヴァルキューレの子が叫ぶ声にあわせ、痛くない方の足へ体重を乗せる。
翼を広げた。大きく羽ばたかせる。
「ていっ!」
床を蹴る。伸びてきた手を下へと置き去りにして、梁の間を抜けた。
迫る天井へ、思いっきり拳を振りかぶってぇ…
「んんぅ…ええ〜いっ!」
天井へ向けて、振り抜くっ!
バギャァンッ!
板が割れ、光が差した。落ち始める前に穴の縁を掴む。
「聖園ミカさん、これ以上の捜査妨害は許容出来ません!」
「ただちに停止し、投降してください! 従わない場合は発砲します!」
ヴァルキューレの子達が丸盾で瓦礫を防ぎながら、拡声器を持っている子が最終警告を発してくる。
腕で身体を引き上げる。
「それじゃあねー!」
傷ついた足をぶつけないよう、屋根へ乗り越えた。
返事を待たず、反対側へ進んだ。
屋根の端まで行き、隣の建物を見る…届く。
痛くない方の足で踏み切り、翼で身体を押し上げた。
次の屋根へ降りる。着地の振動が太ももまで響いて、歯を食いしばった。
「このままでは逃げられるぞ!撃てっ!」
側面の路地にいたヴァルキューレの子の叫び声が聞こえる。
続けざまに下から複数の発砲音。背中と脇腹に、続けて衝撃が来る。
いったぁ!でも、体勢が崩れるまではいかない。
さっき脚に当たった時のような、体の奥深くまで弾丸がめり込んでくる感じとは違った。
空に留まってはいられない。屋根へ降りるたびに膝をついて息を継ぎ、また跳ぶ。
トリニティの方角へ。
翼が重くなってきた。
喉が乾いて、息を吸うと胸が痛い。脚のタオルがずれていないことを確かめ、それでも次の足場を探した。
シャーレで地図を指していた人を思い出す。
「彼も、他ならぬ聖園さんにまで銃を向けられたら、きっと潔く観念することでしょう」
他ならぬ、私にまで。
あの時は、私の強さを頼りにしてくれたんだと思った。私なら、殺さずに捕まえられるって。
でも、それだけなら。「聖園さんにまで」って、どういう意味だったの。
着地で脚が痛み、壁に手をつく。タオルはまだ傷を覆っていた。
先生は、自分を撃った私の血を止めてくれた。清潔じゃないかもしれないと、謝ってまで。
そんな先生に、私が銃を向けた。
名前を呼ばれても、話を聞いてほしいと言われても、撃つのをやめなかった。
……あの人は、先生がそうされるところを、分かっていて私を送り出したの?
私にまで撃たれたら、先生がもう逃げる気もなくすと思って?
――あの人は。私が先生に抱いている思いも、先生との絆も、先生を傷つけるために利用したんだ。
ホンット頭にくる。許せない!
銃を握る手に、力が入った。
このままになんて、しておけない。
ナギちゃんと、セイアちゃんに話さなきゃ。
トリニティの街並みに入った頃には、着地のたびに膝が折れそうになっていた。
最後の屋根から降りて、壁に手をつく。
もう一度翼を広げようとして、息が続かなかった。
通りの先に、見慣れた黒い制服の子達が並んでいた。
その真ん中に、ハスミちゃんがいた。
こちらを見つけても駆け寄ってはこない。周りの子達が、道を塞ぐように広がった。
「ミカ様、そこで止まってください」
私は壁から手を離せなかった。
「……ハスミちゃん」
「ヴァルキューレから通報を受けています。武器を置いてください」
振り向くと、後ろにも黒い制服が並んでいた。
足が痛い。翼を動かすだけで、息が切れる。
――これ以上は、無理、か。
私は銃を下ろした。
近づいてきた子へ渡すと、別の子が私の腕を取った。
「分かった。でも牢屋に入れる前にナギちゃんとセイアちゃんに会わせて」
ハスミちゃんを見たまま、手首を預けた。
先生、どうか無事でいて。