ミレニアムの街へ入る手前で、声をかけられた。
「先生?」
振り返ると、茶色の革鞄を抱えた犬の住民が立っていた。
ベージュのチェック柄のジャケットに、えんじ色の蝶ネクタイ。垂れた耳の下から、丸い目がこちらを見ている。
シャーレへ事務用品を卸している業者だった。納品の際に何度か顔を合わせ、言葉を交わしたことがある。
”……こんにちは”
声を返すと、彼は足早に近づいてきた。
「先生、これはいったいどういうことなんだい? ニュースじゃ別の男が先生だって出てくるし、先生はそんな格好で……」
汚れた服へ目を落とし、それから先生の顔を見上げた。
先生は鞄の紐を握り直した。
”私にも、まだ事態が把握できていません。ただ、生徒たちは、今シャーレにいる別の男を私だと思い込んでいるようなんです”
「ええっ! そりゃ大変だ」
彼の目が大きく開いた。
聞き間違いを確かめるように口を動かしたが、先生を見つめる目は逸れなかった。
「先生。今のままじゃ、休むことも難しいだろう。とりあえずウチに来るかい?」
先生は返事をする前に、通りの向こうを見た。
道を歩いている生徒がいる。こちらにはまだ気付いていない。
”……いいえ。追ってきた生徒が、あなたの家まで来るかもしれません。ご迷惑がかかりますから、お気持ちだけ頂きます”
「そうか……」
彼は革鞄を抱え直した。
そのまま立ち去ろうとはせず、通り沿いのコンビニを指さした。
「せめて先生、今からコンビニで食事を買ってくるから、それだけでも受け取ってくれ」
先生は彼を見た。
自分を呼ぶ声にも、差し出された申し出にも、ためらいはなかった。
”……ありがとうございます。お願いします”
「すぐ戻るからね」
先生が建物の陰へ寄ると、彼はコンビニへ向かった。
戻ってきた手には、おにぎりとペットボトルの水が入った袋があった。
「足りなかったら、また言ってくれよ」
”十分です。本当に、ありがとうございます”
袋を受け取り、頭を下げた。
彼が通りの先へ歩いていくのを見送ってから、先生は水の蓋を開けた。
一口飲み、壁に背を預ける。
先生、そう呼んでくれる人がまだいる。ミカも居る。
――ならば、私は諦める訳にはいかない。
手の中の袋を開けて、おにぎりを一つ取り出した。
* * *
セミナーの部屋を訪ねると、いつもの声がありませんでした。
ノアさんは机に向かい、書類の一か所へペン先を置いたまま、もう片方の手でこめかみを押さえています。隣ではユウカさんが端末を操作しながら、別の書類へ署名していました。
「……邪魔でしたか」
「ケイ。ごめんなさい、気付かなくて。入って」
ユウカさんが顔を上げました。何度も遊びに来ている部屋ですが、今日は空いている椅子を勧められるまで、入口を離れられませんでした。
「ノアさん、具合が悪いんですか」
「少し、頭が痛むだけです。これを確認したら休みますから」
「その一枚、さっきから進んでないでしょう。私がやるわ」
「でも、先方をお待たせしていますし。先生に確認していただいた時は、この内容で……」
ノアさんのペン先が動きました。
日付と、その時交わした言葉が淀みなく続きます。私には覚えのない打ち合わせでした。ユウカさんは頷き、書類を引き取ろうと手を伸ばしました。
「ええ。だから、それで返しましょう」
「はい。ただ、今の先生のお話では…………――――事情が変わったのでしょうね」
ノアさんは余白へ何かを書きかけました。
「でもそれなら、あの時先生が確認されたのはどうし…………――――いいえ、そうではないはず…………――――それも違う。確か……」
ノアさんのペンが止まり、眉間に皺が寄っています。
私が椅子を引く音に、ノアさんは顔を上げようとしました。笑おうとした口元が強張り、机についた肘へ体重がかかります。
「ノア」
ユウカさんが肩を支えました。ペンを持つ手から書類を抜き、机の反対側へ置きます。
「もう終わり。返事も私がするから」
「……すみません、ユウカちゃん。覚えては、いるんですけど…」
「分かってるわ」
私は机の端の水を取り、ノアさんの手が届く場所へ寄せました。礼を言う声は小さく聞こえました。
「いつから、こうなんですか」
「例の騒ぎが始まった頃から。先生の話になると、特にひどくなるの。休んで少しよくなっても、仕事に戻るとまた……」
先生の話。
私はユウカさんを見ました。
「それ、私とアリス以外の周りの人が、みんな先生を別の人と取り違えていることと、関係があるんじゃないですか」
「ケイ、先生を別の人と…………――――先生は先生でしょう。今はノアの体調の話をしているの」
――またこれです。何度、誰に話しても、こうしてはぐらかされる。アリスも、モモイ達に何度訴えても同じだったと言っていました。
「だから、その――」
「別の、人……?」
ノアさんが呟きました。
伏せていた目が、先ほどの書類を探します。唇が動きましたが、何かを確かめる言葉になる前に、額を押さえる指へ力が入りました。
ユウカさんが私を振り返りました。
「ごめんなさい。その話は、今はやめて」
言い返しかけて、ノアさんを見ました。
苦しませたいわけではありません。けれど、何を言えば楽に出来るのかは、私にも分かりませんでした。
「……分かりました」
私は椅子を寄せ、机から落ちかけていたペンを拾いました。
ユウカさんがノアさんへ休むように言い聞かせる間、それを握って待ちました。
――先生の話になると、特にひどくなる?
さっきも、私が別の人だと言ったあと、ノアさんはまた額を押さえました。
これは、皆が先生を取り違えていることと関係があるはずです。
ノアさんは、昔の打ち合わせを詳しく覚えていました。日付も、先生の言葉も。
それなら、記憶を丸ごと取り替えられたわけではないのでしょう。
覚えているのに、誰のことだったかという答えだけがすり替えられている。
以前なら、名もなき神の技術が使われた際の干渉は感じ取れました。あの時も、私が気付いてアリスに警告出来ました。
けれど、今は何も感じません。手配情報の写真を見ても、周りの人がその顔を知らないと言っても。
この身体になってから、あの力が残っているかを確かめたことはありませんでした。
私は手の中のペンを見ました。指を開くと、掌に薄く跡がついています。
アリスが私にくれた贈り物です。この身体を得たことを、後悔しているわけではありません。
でも今、以前の私なら分かったはずのことが、分かりません。
アリスと私だけが、先生を間違えずにいる。私達に共通するのは、あの司祭達によって作られた存在だということです。
王女でなくなったアリスと、KEYでなくなった私には、あの技術による干渉を受け付けない性質だけが残ったのだとしたら。
誰かが、あの技術を使っている。そう考えれば、今起きていることの辻褄は合います。
……でも、感じ取れない私には、それを確かめることも出来ません。
今のノアさんに、これ以上尋ねるわけにもいきませんでした。
ユウカさんが書類を重ねるのを手伝ってから、私はセミナーを出ました。
* * *
「名もなき神の技術ですか」
ヒマリ部長は、私の話を聞いて端末から顔を上げました。
エイミも、部屋の奥からこちらを見ています。
「ノアさんの記憶は残っています。アリスも私も、先生が誰なのかは分かるのに、周りの人だけが取り違えているんです。誰かが、認識に干渉しているのではありませんか」
「あなた達が同じことを訴えている点は、気になります。ただ、あの時のような干渉を、今も感じているのですか?」
「いいえ。何も」
そう答えた途端、部長の眉がわずかに動きました。
私は続けました。
「以前なら感じ取れました。でも、この身体になった今も同じことが出来るとは限りません」
「……その点は、確認が必要ですね。以前の感覚がなくなったのなら、感知出来ないことだけで干渉の有無は判断出来ません」
やっと、話が通じました。
私は机へ一歩近づきました。
「そうです。先生を別の人だと思わされていることも、アリスと私だけがそうならないことも、あの技術による干渉なら――」
「私達が先生を取り違え…………――――あの時は、あなたが干渉を感知し、警告してくれました。今回は、その兆候がありません。先生の件まで同じ原因と考えるのは、推測を重ねすぎています」
さっき、部長自身が言ったばかりではありませんか。
「感じないことでは、判断出来ないのでしょう?」
「ええ。だからこそ、他の可能性も調べる必要があります。今の段階で、先生が別人だという前提から調査を始めることは出来ません」
「前提ではありません。私は、先生の顔を知っています」
「あなたがそう認識していることは、疑っていません。その認識がどうして私達と食い違うのかを、確かめなければならないんです」
また、私のほうです。
何度話しても、最後にはアリスと私が間違っている可能性へ戻っていきます。
「部長、先生に繋がるはずの番号にも電話しました」
知らない男の声がしたから、私は即座に「ごめんなさい、モモイの番号と間違えました」と言って切りました。
話し続ければ、私自身、あの男に何を口走るか分かりませんでした。
そのことを伝えても、部長は頷くだけでした。
「その通話履歴は残しておいてください。アリスが異変に気付いた経緯も、本人から聞く必要があります」
「私達だけでなく、他の人に何が起きているかも調べてください。ノアさんは、今も苦しんでいるんです」
「彼女の不調についても確認します。ですが、原因はまだ決められません」
椅子の背に置いた手に、力が入りました。
部長は、話を聞いていないわけではありません。質問もします。記録も残します。
それなのに、私が一番伝えたいところへ来ると、いつも話が戻ってしまいます。
「……調べれば、分かりますよね」
「そのための調査です」
私は手を離しました。
ここで言い合っていても、先生の居場所は分かりません。
部長が確かめてくれるのなら、私に分かることは伝えなければ。
アリスとは、先生を一緒に探しに行こうと話していました。でも、闇雲にミレニアムを飛び出しても、見つけられるとは限りません。
せめて、何処の自治区にいるのか。その目処が欲しいのです。
先生、今何処にいるのですか。
私もアリスも、あなたが誰なのか、知っています。
どうか、無事でいてください。