黒服の言葉に続いて、扉が開いた。
入ってきた二人へ、先生は顔を向けた。先に立つ長身の姿には見覚えがある。
木製の人形を思わせる身体に、二つの頭部。人の顔なら表情を探すところへ、幾筋もの亀裂が走っていた。
”マエストロ。君もここにいたんだね”
「ええ。再びお目にかかれて光栄です、先生」
マエストロは身を折って一礼した。先生も小さく頷き、隣へ目を移す。
もう一人は部分的にしか特徴が一致しない。トレンチコートの大柄な男。
だが、初めて出会った時はステッキを持ち絵画を小脇に抱えた首なしの姿。次に出会った時はステッキが無くなり首より上の部分に叫んだ表情の絵画を抱えていたはずだ。
今度はこれまで以上に異様だ。首から上に古いテレビのような箱が載っている。
同じ相手がまた姿を変えたのか、それとも別人なのか。
顔を確かめようとすると、視線はその画面に行き着いた。相手は先生の前で足を止め、片手を胸元へ添えた。
「お初にお目にかかります、先生。ミスター・オーウェルとお呼びください」
”……初めまして、でいいのかな。私のことは、もう聞いているようだね”
「ええ。こうしてご挨拶出来る時を、楽しみにしておりました」
明るく、よく通る声だった。オーウェルは軽く両手を広げると顔のテレビ映像に巨大な目玉が映し出される。
「先生。私は此度の出来事の司会進行を承りました。これからの日々はいわば特別番組。あるいは劇場版とでも呼ぶべきものでしょう。どうぞお楽しみください」
”特別番組……?”
番組?誰が見るというのか?先生は相手の画面を見返す。
間違いなく自分へ向けた挨拶のはずなのに、その声はここではない場所に向けて喋っているかのようだ。
オーウェルは広げていた手を下ろし、マエストロの隣へ退いた。
二人が机の向こう側に席を取ると、黒服も先生の正面に腰を下ろし、長い指を組んだ。
「さて。お話を進めてもよろしいでしょうか」
窓のない会議室には長机と椅子が置かれ、天井から吊られた一つきりの照明が机の上を照らしていた。
光の届かない部屋の隅では、コンクリートの壁が暗がりに沈んでいた。
先生の傍らで、シロコ*テラーは壁にもたれずに立っている。
銃口こそ下を向いていたが、警戒を解いた様子はなかった。
「ここからは我々と先生との契約交渉です。彼女には、しばらく席を外していただけますか?」
「拒否する。先生を一人にはしない」
返事には、考える間さえなかった。
黒服が先生へ顔を向ける。判断を委ねるつもりらしい。
”彼女にも、ここで聞いていてもらう。構わないね?”
「先生がそうお望みなら。構いません」
先生も警戒を解いてはいなかった。背もたれへ体重を預けると、肩甲骨のあたりが鈍く痛む。
わずかに姿勢を直し、黒服を見た。
”その前に、現状について意見交換しよう。取引に応じるかは、それから決める”
「いいでしょう。観測者と当事者では見えているものも違う」
黒服はあっさりと頷いた。そして我々が観測する限りにおいてですが…と前置きした上で説明を始める。
「生徒達の記憶は失われていません。あなたと過ごした出来事も抱いた感情も残っている」
「歪められているのはそれらの記憶や感情と人物の結びつき。いわば配線です」
”私との記憶を、あの男との記憶だと思っている?”
「そうです。記憶の中にいる〈先生〉と現在シャーレにいる人物が結びつけられています。あなたへ向けられていた信頼まで含めてね」
「一方で、目の前に本物のあなたがいてもそれが記憶の中の人物と同一とは認識出来ない」
ホシノと電話した時の記憶が頭をよぎる。私の声を聞いても「声まで似せて。先生のふりをするなら、もっと上手にやってよね」と言い切った。
「知覚を遮断しているわけでも、別の姿を見せているわけでもありません。顔も、声も、記録も、彼女達には正しく届いている」
「ただし、現在繋がれている配線…植え付けられた人物認識と矛盾する情報に触れれば、その認識を維持するための説明が自動的に作られる」
先生は、いつか耳にした心理学の用語を記憶から掘り起こした。
”……認知的不協和が発生すると〈今シャーレにいる男が先生だ〉という結論を導ける合理化が起こる?”
「通常の心理反応と同一ではありませんが、構造は近いでしょう。矛盾があるから見解を改めるのではなく、その矛盾を直視せずに済む説明を作るということです。たとえ、その説明にはより大きな別の矛盾があろうとも」
黒服は一本の指を立てた。
「合理化が起こる際、生徒本人から特殊なエネルギー波が発生します。我々が観測したのは、その波です。外からの干渉が、その都度強まっているわけではありません」
「シロコさんから伺った写真の件でも、投稿の時刻と五人分の波の記録が重なっていました。もっとも、本人がそれをどのような感覚として受け取っているかまでは分かりません」
「ここからは、この構造を踏まえた推測です」
「おそらく合理化を行う材料は外からではなく内から。つまり生徒本人の知識、記憶、経験、価値観が使われています。ゆえに、矛盾へ直面した際の反応も、選ぶ行動も一人ずつ異なる」
”なら、あの男の命令へ無条件に従わされているわけではないと?”
「推測ですがね。質問も、異論も、代案も、拒否も可能でしょう。〈その指示は危険だ〉と判断することも出来る」
「しかし――〈そのような指示をする人物が、本当にシャーレの先生だろうか〉または〈シャーレの先生ではないはずの相手が、自分が先生として記憶する声や振る舞いと一致する〉。そうした矛盾に触れると、干渉によって合理化が行われる」
――そういえばミカも「今朝あそこにいた時は、あの人が先生だってことは疑わなかった」と言っていた。
「……卑怯な仕組みだ」
シロコ*テラーが低く言った。
「考えられなくするんじゃない。考えさせるだけで答えを封じる。最後は自分で選んだからと思わせたいために」
”それだけじゃない。あの子達の知識も、記憶も、大切にしているものまで、騙すために使っている”
先生は机の下で拳を握った。
”自分で選んだと思わせたまま、選べる答えを仕組みを立てた誰かにとって望ましいものへ固定する。それは、彼女らの自由意志とは言えない”
「我々の観点からも、好ましくありません」
黒服は静かに両手を開いた。
「どれほど多様な思考の過程を見せようと、結論が外から固定されているのなら、彼女達自身の選択を実際には観測出来ない。研究対象としての価値を著しく損ないます」
「同じにしないで」
「もちろんです、シロコさん。価値観の一致など期待しておりません。ただ、この仕組みを存続させるべきではないという一点では、同じ席に着けるようですね」
黒服の言い方は気に入らない。それでも、その一点を否定する理由もなかった。
”ワカモはどうなんだ?報道では、今シャーレにいる男へ銃を向けたと言っていた”
「彼女が干渉を脱したのか。認識を保ったまま敵対したのか。現時点の記録だけでは判別出来ません。少なくとも、再現条件の分からない例外を解決策には数えられないでしょう」
黒服はそこで言葉を切った。
「そしてもう一つ。これはキヴォトス全土に影響しています。これほど大がかりな干渉となれば命令を発し続ける中枢、そしてその命令を広域へ伝える中継設備がなければ成立しえない」
「そして、このような大掛かりな仕組みを正面からやれる経済力がある存在などカイザーグループぐらいなものでしょう。証拠はありませんがね」
”…場所が、分かるのかい?”
「干渉の分布から見て、D.U.区内に中枢――あるいは、少なくとも主要な中継器が存在する可能性が高い。ただし、現時点では正確な位置まで特定出来ていません」
”なら、こちらからも二つ出そう”
”一つ目、今の私は大人のカードを使えない”
黒服の顔で燃えている炎、それが一瞬大きく揺らめいた。
「……ほう?」
”事件が起きた時に割れた。箱が沈黙したのと、ほとんど同時にね”
「……なるほど。今日まで一度もカードを用いたと見られる反応がなかったのは、そのためですか」
”クレジットは信用だろう。私が先生として認められなくなって、その信用を失ったせいかもしれない”
先生はそこで、一度言葉を切った。
”ただの推測だよ。確かなのは、今は使えないということだけだ”
黒服は指を組んだまま、続きを待っていた。
先生は鞄からシッテムの箱を取り出し、黒服へ向けた。今は沈黙して真っ黒な表示となっている。
”二つ目はRE:TEXT。事件発生日からシッテムの箱で使えるようになった機能だ。これをミカに使った”
”そうしたら六十秒後、彼女は私を先生だと認識出来るようになった”
黒服の顔に浮かぶ亀裂が、わずかに角度を変えた。
「ほう。歪まされている認知の配線があるべき形へ戻ったと?」
”結果だけを見ればその通りだ。ただし、その六十秒間のミカは著しく力が衰えていた。本当に安全な方法だとは、まだ言い切れない”
「実に興味深い。ですが、それだけで全員を救えると考えるのは早計でしょうね」
”同感だ”
「では、我々に可能なことも明かしておきましょう。停止させるだけなら、今すぐにでも出来ます」
シロコ*テラーの指が、銃のグリップへわずかに沈んだ。
「先ほどカイザーが怪しいと申しましたが、経済力以外にも、もう一つ根拠があります」
黒服は説明を続ける。
「我々の見立てが正しければ、今回仕掛け人が使っている技術は我々が基礎理論を組み上げた技術の発展形です」
「我々がこの基盤技術を使う製品を売ったことがあるのはカイザーグループのみです。彼らが購入分からリバース・エンジニアリングしたとすれば辻褄は合う」
「そしてこのシステムの基盤となった技術を、遠隔から…どれほど距離が離れていようと機能不全にすることが我々には可能です」
「なら、何故やらないの」
シロコ*テラーが鋭く指摘する。
「装置を止めた後、生徒達がどうなるか分からないためです。我々が知っているのは基盤技術まで。それをどのように作り変え、彼女達へ作用させているのかは、まだ調べられていません」
”止めれば元に戻る、とは言えないんだね”
「その通りです。停止は出来ますが、その結果は保証しかねます」
先生は、机に置いた箱へ目を落とした。
ミカには認識が戻った。だが、あれは一人へ直接使った結果だ。
”なら、まず調べよう。止めた後まで確かめて、初めて解決だ”
「その間にも、干渉は続きます。それでも?」
”急がなければいけない。でも、何が起きるか分からないまま、全員に試すわけにはいかない”
先生は黒服へ視線を戻した。
”今は私だけが私として認識されなくなっている。でも、同じことを生徒へ向けられない保証はない。”
”誰かが、誰にも自分だと認めてもらえなくなる前に、安全に止める方法を見つける。二度と使わせないための方法も”
「困難な注文です。ゆえに、取引の余地がある」
提示された支援は、先生の想像を越えていた。
まず目を引くのがユスティナ聖徒会での実証実験をもとに改良され、生きた人間も複製出来るようになった新型ミメシス生成器。その使い切り式の先行量産品を八基。
あらかじめ登録した場所への片道限定、かつ連続使用は出来ないが持ち運び可能な転送器を一基。
潜伏拠点。億を超える活動資金。一般的な市販品であれば数時間以内に拠点へ届けられる調達網。ただし、戦車や戦闘機のような大荷物は相応の日数が必要。
”ずいぶんと大盤振る舞いじゃないか”
「貴重な実験場が失われかねないのです。解決に動くあなたへの支援を渋るなど、愚か者のすることでしょう?」
「……あなた達も、直接手伝えばいい」
シロコ*テラーが口を挟んだ。
「我々まで同行して、生徒達の警戒を更に強めたいのですか?」
「……それもそうか」
黒服は支援の説明を再開した。
ミメシスと転送器は実物を提示した上で使い方に関する簡単な説明が行われた。黒服がマエストロへ目を向けると、彼はゆっくりと頷いた。
先生はその動きを確かめてから、黒服の説明へ耳を戻した。
そして、安全な完全停止を成し遂げた後には、元となった技術を二度と再生産も再利用も出来ないよう、恒久的な措置を講じる。
「我々が提供するのは手段です。誰を救い、何を見つけ、どのように停止へ至るかまで代行するつもりはありません」
”それでいい。そこは私達がやる”
「では先生。あなたからは、何を差し出していただけますか?」
”仕掛け人とシステムの全容を突き止める。安全に完全停止出来る条件と方法も調べ、実現する。RE:TEXTについて分かったことは嘘偽りなく提供する。生徒の安全を損なわない範囲なら、観測と解析にも協力しよう”
「以前使用した際のことを、もう少し。先の説明だと力が衰えたとはいえ、あの聖園ミカを六十秒間押さえ込んだのですか?」
”実家が古武道の道場でね。投げや関節技、抑え込みは幼い頃から習っていた。それでも、RE:TEXTで力が落ちていなければ、押さえ続けるのは無理だったよ”
そして、その最中、跳ねた銃弾で彼女が太ももを負傷したことも伝えた。その傷は普段とは違い、先生がその場を離れるまでまったく癒えなかった。
”使えることと、安全に使えることを分けて考えたい。これは認知を戻せる切り札だけど、一時的に生徒を危険に晒す道具でもある”
「結構です。では、その慎重さを条文にも反映させましょう」
そこから先は、互いに一歩も譲らない確認が続いた。
一つ。生徒の神秘を広く観測するのは、システムが停止するまでの受動的な収集に限る。観測のために刺激を与え、危険へ誘導することは許さない。
二つ。意図しなかったという理由で、恐怖への反転やヘイローの破壊を免責しない。得たデータを生徒への加害や支配へ用いることも禁じる。
三つ。鍵となる物品を入手した場合、その所有権は先生に帰属する。ゲマトリアが調べる際は、先生あるいは先生が指定した生徒の立会いを必要とする。
四つ。解析から同じ技術を作り直すことは、ゲマトリア自身にも認めない。
五つ。RE:TEXTの観測は救助と作戦を妨げない場合に限る。観測のために生徒へ試す時は、分かっている危険を説明し、本人の同意を得る。
更に共有するのは、先生が把握した使用条件と結果まで。シッテムの箱そのものを渡すことも、内部への直接操作や分解、複製を認めることもない。
六つ。拠点の使用権と、データや解析成果の悪用禁止は、事件が終わった後も失効させない。
七つ。最後に、先生は強制停止について切り出した。
”私が生きている間は、さっきの方法を使わないでほしい”
「承知しました。では、あなたが死亡した場合には――」
”自動的に解禁はしない”
黒服の言葉を遮る。
”放置すれば取り返しのつかない被害が出ると判断出来て、RE:TEXTを含む、ほかの救済手段では間に合わない場合に限る。その上で、止める方が被害を抑えられると判断した根拠を、全部シロコへ見せてほしい。停止後の影響について、分かったことも、まだ分からないことも、検討した代案も”
先生は隣へ目を向けた。
”そして、彼女が自由な意思で明確に承認した場合だけにする。承認させるための嘘も、脅しも、精神への干渉も禁止する”
「先生。私は承認するとは言っていない」
即座に、硬い声が返ってきた。
”君に実行を選ばせたいんじゃない。黒服達だけで決められないようにしたいんだ。君が承認出来ない状態なら、実行も出来ないようにする”
「言い方を変えても同じ。私が拒めば手遅れになるかもしれない。承認した結果何が起きても、もう取り消せない。それを私が決めるんでしょう」
”……そうだね。その負担は残る”
正しく判断出来るから、などとは言えなかった。正しさだけで引き受けられる役目ではない。
”それでも、生徒の損害を大人の損得と観測結果の数字だけで決めさせたくない。最後に〈駄目だ〉と言える人が必要なんだ。今ここで、それを頼めるのはシロコ、君しかいない”
シロコ*テラーは答えなかった。伏せられた目が、机上に表示された条文を追っていた。
「しかし先生。あなたの死後、我々がシロコさんへの確認など取らないかもしれませんよ?」
試すような声に、先生は黒服を見返した。
”生徒への向き合い方では相容れない。でもこうやってわざわざ条件を詰める以上、君は守る人だと信用している”
「ほう。私を善人だと?」
”まさか。契約を交わしあうからには大人としての君を信用しているんだ。信用出来ない相手とは、どれだけ条件を増やしても契約などしないだろう?”
「……よろしいでしょう」
黒服の声には、微かな愉快さが滲んでいた。
”もう一つ、私から差し出せるものがある”
「伺いましょう」
”事件の解決を妨げない限り、私自身への観測や取材に応じよう。私が何を見て、何を考え、どう判断したのか。私の身体に何が起きたのか。知っていることには、嘘偽りなく答える”
「シッテムの箱そのものについても?」
”私が把握したRE:TEXTの使用条件と結果までは共有する。でも、箱そのものを渡すことも、内部へ直接触れさせることも認めない”
「結構です。では、あなたが恒久的に取材へ応じられなくなった場合には?」
”生きているなら、身体を害さない観測までだ”
「死亡していた場合は?」
先生はすぐには答えなかった。
――自分が死んだ後、その身体が誰の手に渡るのかは分からない。仕掛け人が何者で、何を目的としているのかさえ判明していない以上、利用する価値がないと決めつけることも出来なかった。
”……目的を果たす前に死んでいたら、肉体を直接解析することを認める。必要なら、解剖も含めて”
シロコ*テラーが目を見開いた。
”その代わり、君達には遺体を確保して、ほかの誰にも渡さず保全してもらう。遺体も、そこから得た成果も、生徒を傷つけたり支配したりするためには使わない。その禁止は事件が終わった後も残す”
「我々への対価であると同時に、第三者による利用を防ぐための保全措置でもあると? クックック…いうなれば、あなたご自身を資産と見立てた根抵当権ですか?」
”違う。条件付きの使用権だ。私を所有するわけじゃない。第三者へ渡すことも、好きに処分することも認めない”
「必要であれば解剖を含む解析を行う。それを認めるという理解で?」
”今言った条件を守るなら――”
「待って」
黒服の確認を遮ったのは、今度はシロコ*テラーだった。
「先生。あなたはさっきから自分が失敗した場合の話ばかりしている。私にその後を決めさせ、身体までこいつらに渡す。本当に生きて帰るつもりでいる?」
握られた彼女の手袋が、かすかに軋んだ。
「さっき、生徒達の卒業を見届けたいと私に言ったはず。あれは嘘?」
”嘘じゃない”
先生は椅子から立った。痛みを押して、彼女の正面まで歩く。
”生きて事件を解決したい。みんなの卒業を見届けたいし、その先も見ていたい。死んだ後を決めていることはその通りだが、死ぬつもりでいるわけじゃない”
「でも――」
”この契約は、安心して死ぬためのものじゃない。私がいないことを皆が深刻に傷つく抜け穴にさせないためのものだ”
逃げていた間、何人もの生徒を見かけた。
名前を知っていた。声をかけたことも、共に過ごした時間もあった。それでも呼び止められなかった。
顔を見られれば通報される。言葉を交わしても、自分が誰なのか届かない。
”誰に会っても、自分を自分だと認めてもらえない。誰にもこんな思いをさせたくない”
シロコ*テラーは、何も言わず先生を見つめている。
”仮に解決が叶わずこの命が尽きたとして、そうだとしてもみんなには少しでもマシな未来を残してあげたい”
一度、息を吸う。
”でも、一番良い結末の未来を作ってみせる。そこに私もいたいから”
それは義務でも、対策でもない。先生自身の、ただの願いだった。
長い沈黙の後、シロコ*テラーは握っていた手をゆっくり開いた。納得したようには見えない。それでも、条文を消せとは言わなかった。
「ではシロコさん。あなたを最終承認者として定める条項について、異議は?」
「……異議は、ない」
「承知しました。では先生。以上の全条件に同意なさいますか?」
”同意する”
「結構。履行の完了は、安全な完全停止の条件を解明し、それを達成した上で、恒久的な再発防止措置の遂行を双方が確認した時点としましょう」
机の中央に、契約の最終記録が浮かび上がった。
オーウェルも、画面の正面をその記録へ向けた。先ほどの朗々とした口上は挟まず、両手を机に置いている。
先生と黒服は、互いの実名を述べ、その名にかけて今ここに契約を結ぶと宣言した。
――黒服の実名って、そんな名前だったんだ。
そんな場違いな感想が一瞬だけ浮かび、淡い光とともに契約が刻まれる。
これは成立であって、完了ではない。ここから一番望ましい未来へ辿り着かなければならない。
シロコ*テラーは、宙に浮かび上がった契約記録を見つめたまま、小さく呟いた。
「でもね、先生……失敗なんて、させないよ」
先生は、何も答えなかった。
黒服が指を鳴らすと、契約記録が閉じられる。
「では先生。さっそくですが、そのRE:TEXTなるものを拝見させていただいても?」
黒服が黒く沈黙したシッテムの箱を興味深そうに見ながら告げる。
”…すまない、実は電池切れなんだ。だから使いたくても使えない”
黒服の動きがピタリと止まった。
「…先生、私は充電器も常に持ち歩いてるから安心して。黒服、コンセントは何処?」
黒服は黙ったまま、指だけ動かして部屋の隅にあるコンセントを指差した。
…とりあえず、三十分ぐらい充電してから、始めることにした。