あかね1/2 作:直人猫
天道家の居間に、ほかほかと湯気をあげつつ、ボコボコと水泡を蒸すほど沸騰させられたお湯が入った鍋が、机の上に用意されていた。
それは、乱馬が頼み用意してもらったものであるが、想定の温度の二倍はあろう熱湯であった。
それを見つめ、顔面蒼白になる乱馬に悪気なくそれを用意したかすみが小首を傾げた。
「お湯を用意してってことだけど、これでいいのかしら?」
「うむ、用意ありがとう」
かすみの疑問の声に応えたのは、青ざめる乱馬ではなくその隣に座る恰幅のいい禿頭を手拭いで覆い、道着を見にまとった男性であった。
乱馬と共に机の対面に姿勢よく座るその男性に、あかねは訝しげに声をかけた。
あかねには、目の前の人物に見覚えはなかったが、『動き』に見覚えがあった。
泰然自若とした隙がない動き。
「あの…もしかしてさっきの、パンダさん?」
それは、先ほどあかねが相手が動きにくい状況を利用し、仕留めた脱法パンダのそれに違いなかった。
あかねの言葉に、男性はバツが悪そうに叩きつけられこぶができた頭を撫でる。
「いかにも。私は早乙女 玄馬。天道くんの若い頃からの親友だ。そして、こちらが『息子』の」
「早乙女 乱馬です」
そう言って頭を下げる、どう見ても女性の体の乱馬にあかねは脳の奥が赤く染まるような怒りを覚えた。
乱馬は、どう見ても女性である。それを息子、ということはどういう意味なのか?
その理由に、あかねは即座に思い至った。
そして、それを止めることなく口にしてしまう。
「っ! もしかして、貴方、乱馬ちゃんを男として育てたのか!?」
「えっ、いや、ちがっ…」
「おかしいと思ったんだ! 一人称や『歩き方』、『型』や『動き』もそれに服装も全て男性のもたのだった!
なんで、そんな事をしたんだ! 乱馬ちゃんは、ちゃんと女の子でーーーー」
「いやぁ、それが違うようだよ?」
今にも掴みかからんばかりのあかねを、そっと早雲が止める。
早雲は、判断に困るように苦笑していた。あかねは、そんは早雲を見て、疑問符を浮かべる。
「違うって…どういうこと?」
「先ほど、あかねも言っただろう? 早乙女くんは、あのあかねにのされたパンダなんだよ」
「あ…」
「いやぁ、あれは重い荷物と乱馬を持っていた上に、急に襲い掛かられて、驚いたからだからね!?
天道くん、それでマウントを取るのはやめたまえよ!?」
早雲の言葉にハッとなるあかね、顔を真っ赤にし己の失態を隠そうとする玄馬。
その様子に、改めて目の前の男性はパンダになっていた事実を思い出す。
そして、ついにその可能性に思い至った。
「つまり、その乱馬ちゃんも、『姿が変わった状態』ってこと?」
どこか、愉快げに皆の疑問を問いかけたのは、なびきであった。
乱馬が少女であったことから興味を失いつつあった彼女であるが、興味を再燃させている様子だ。
少しだけ机に身を乗り出していた。
「その通り!」
玄馬はその言葉の直後、無防備だった乱馬に躊躇なく沸騰しかけていた鍋の中身をぶちまけた!
誰も止める間もなかった。
乱馬の全身に盛大に熱湯が掛かる。
「うぁっちゃちゃちゃちゃ!?」
乱馬の悲鳴が上がった。
「「「「乱馬ちゃん!?」」」」
しかし、天道家の面々が動く前に、浴びせかけられた熱湯によって発生した湯煙から、『太い腕』が伸びる。
現れたのは、精悍な顔つきをした少年であった。
凛々しい眉に、整った顔立ち。髪型は、三つ編みにしたおさげ。
乱馬を男性にしたらこうなると言った出立の少年だった。
少年は、まるで熱湯を浴びたかのように顔を真っ赤にしつつ、全身から湯気をたちのぼらせて玄馬の襟首を掴んだ。
「何しやがる、このクソおやじ!!」
「ほれ、この通り。『息子の』乱馬だ」
「「「お、男になった!?」」」
目の前で、お湯を浴びた少女が少年になった。
その事実に、一同は驚愕するが玄馬の説明はそれに留まらなかった。
まるで、流れるような達人の動きで怒り、掴んでくる乱馬の手を取り決めると、そのまま掬い上げるように居間から庭へと投げ捨てたのだ。
そして、庭には水をたたえた池があった。
ばしゃーん!
飛沫をあげ、池に突っ込まされた少年は池から立ち上がる頃には、再び少女へと変貌していたのだ!
「だから、何しやがる!?」
「ああ、我が息子ながらなんと情けない姿か…」
「女になった…」
「へぇ〜」
自ら乱馬に熱湯を浴びせた後に、池に叩き込んだ玄馬はハラハラと男泣きする。
それに冷たい目を向けつつ、天道家の面々は怪奇現象を受け入れつつあった。
池から飛び出て玄馬に踊りかかる女になった乱馬。
玄馬は、乱馬が振るう拳を軽々と受け流しつつ、平然とした態度をとっている。
それどころか、乱馬の足を払いその場に転がす。
流石に、無差別格闘早乙女流の達人。まだまだ息子には負けないということか。
早雲は、乱馬の攻撃を巧みに躱す玄馬へと、天道家一同の疑問を投げかけた。
「それで、早乙女くん。一体何があったというのだね?」
「聞いてくれるか、天道くん! 我々の体がこのように奇天烈な事になったのは、中国でのとある荒行によるものなのだ!」
それから、玄馬の口から語られたのは荒唐無稽かつ頓珍漢な修行場と、その場での早乙女親子の非常識な振る舞いであった。
中国は青海省パヤンカラ山脈拳精山に存在する伝説の修行場と言われている『呪泉郷』。
乱馬と玄馬親子は、現地のガイドを雇いそこを訪れたのだそうだ。
呪泉郷は、大変危険でもう誰も使っていない呪われた場所だと言われていたが、玄馬や乱馬の目には広大な自然の中に足の踏み場もないほど無数の泉が湧いた場所にしか見えなかったという。
「ガイドは言っていた。呪泉郷では100以上の泉があり、そのすべてに悲劇的な伝説があると…」
そして、その話を聞きながらも玄馬と乱馬はそれを信じず、泉に突き立てられた竹竿を足場に組み手を行うという荒行を行った。
そして、あろう事か互いの攻撃で別々の泉に落ちてしまったのだと言う。
熊猫溺泉と娘溺泉。
それぞれ遥か昔にパンダと娘が溺れてしまったことで、以来そこで溺れた者が皆パンダと年若い少女の姿になってしまう呪われた泉だったのだ!
二人は、そこに落ちて以来、水をかけるとパンダと女に、お湯をかけると元の人間の男の姿に戻るようになったと玄馬は語った。
その話を聞いて、早雲とかすみ、なびきは納得した様子であった。同時に、あかねはどこか戸惑った様子を見せる。
「なるほど、噂に聞く伝説の修行場『呪泉郷』、その真の恐ろしさは謎とされていたが…こういう理由だったのか。
つまり、水をかけると女の子に、お湯をかければ男の子に戻る、と」
「男の子でもあり、女の子でもあるのねぇ」
「なんとまぁ、『どこかで聞いた話』だわ」
早雲のまとめに、かすみは穏やかに噛み砕き、なびきは懐かしむように苦笑してあかねを見た。
当のあかねは、反応せずに俯いている。
そして、かすみは恐る恐る玄馬に問いかけた。
「でも、おじさま…なんで、そんな場所で修行を?
危険だと分かっていたのでしょう?」
玄馬は、それに一冊の冊子を取り出す。
中国全土修行場目録と銘打たれたその書籍は、全て中国語で記載されていた。
それを見て取ったかすみは、真実に辿り着く。
「まさか、おじさま…中国語が読めなかったんですね?」
「いかにも!」
「いかにもじゃねーんだよ!?」
乱馬は、思わず玄馬の後頭部を殴りつける。
だが、父はピンピンとしておりあまり効いていなさそうなのが、腹立たしい。
そして、乱馬は、はたと気がついた。
あかね以外の天道家の面々に動揺した様子が一切見られないことに。
まあ、そう言うこともあるよね、といった具合に乱馬たちの体質を受け入れており、むしろ玄馬のすちゃらかな態度にこそ苦情を呈している。
「いや、あの…水をかぶると女に、お湯をかぶると男に戻るなんて変じゃないですか…?」
恐る恐る、乱馬が問いかけると天道家のあかねを除く面々は異口同音で答える。
「「「全然?」」」
「「えっ」」
これに驚いたのが早乙女親子であった。
てっきり、もっと憐れまれたり、はたまた許嫁の話が詐欺だったと怒られるのではないかと思っていたからだ。
特に玄馬は、その場合には早雲に泣きついて居候をさせてもらう気満々であったため、ほっとした様子を見せる。
その早雲は、ごく自然体に乱馬に近づくと、頭からやかんを用いて熱湯をかけた。
話の間にもう一つわかしておいた、熱々のものだ。
「どわっちちちちちぃ!?」
「ふむ、やはり興味深くはあるね。
水をかければ女になるが、お湯をかけると男に元に戻る、と」
「熱湯は勘弁してもらえませんかねぇ!?」
流石に熱かったのだろう、意気を荒げて抗議する乱馬であったが、早雲は大して気にも留めた様子がない。
それどころか、男に戻った乱馬の肩を気やすげに叩いた。
「よしよし。さしたる問題はないね」
そして、改めてそれぞれ娘を指し示し、乱馬へと紹介を始める。
「長女かすみ、19歳。次女なびき、17歳。三女あかね、16歳。好きなのを選んでくれ、君の許嫁だ!」
「正気かあんた!?」
まるで、自分の特異体質を受け入れてくれるかのような発言に乱馬は目を剥く。
早雲は、乱馬の気持ちを知ってかしらずか、首を傾げ疑問符を浮かべる。
「正気だが? 男だろうが女だろうが、君は君だろう?」
「いやっ、でもっ、娘さんたちは…」
「うん、今回はあかねに譲るわ」
「賛成、ぴったしだわ」
乱馬の言葉に、かすみとなびきはそっと未だに俯いていたあかねを押し出した。
そのことに、俯いていたあかねは驚いて顔を上げる。
「なっ、だ、だめだよ! そんなの、乱馬くんに悪いよ! 僕みたいなのなんか!!」
今度は、乱馬が首を傾げる番であった。
これでは、自分の事情以上にあかねにも問題があるように聞こえる。
むしろ、あかねのような美少女に、男か女かよくわからない生き物になってしまった自分が釣り合うとは思えなかったのだ。
「えっと、あかね、さん?は、可愛いと思うけど…」
正直、あかねは乱馬の好みドストライクであった。
やや垂れ目の整った容姿は、長い黒髪も相待ってどこか清楚な印象をうけるが、表情が明るくクルクルと変わることから少年のような印象も受けるアンバランスさなあった。
そして、無駄肉がなく引き締まった体はもちろん、至福のショートパンツから覗く足は眼福ものである。
胸がかなり小ぶりなのは残念だが、女になった自分の体に見慣れた彼としては胸の大小は気にしない。
しかも、これで武術の腕も乱馬と伍するのだ。
武道家の妻として、これ以上の存在はいないと言える。
そのあかねが、自分を卑下するような言葉を言うのが意外であった。
むしろ、自分が好感を持っている彼女が、自分を卑下することが気に食わなかった。
そして、乱馬のその言葉にあかねは少し辛そうに顔を歪める。
かすみは、気遣わしげにあかねに寄り添うが、あかねはそれを手を振り大丈夫と示すと、真っ直ぐに乱馬を見つめた。
乱馬の心臓がどきり、と跳ねた。
あかねから、どこか悩ましげな視線が向けられると、不思議と頬が熱くなっていく。
なぜ、あかねは自分を見つめるのだろうか? 自分の顔は、かなり美男子であるためそこを気に入ってくれたのだろうか? と思考が乱れていく。
彼は、自分に自信がありすぎるナルシストであった。
「乱馬くん、僕は…」
その艶やかな唇に目がいってしまう。
ああ、なぜあかねの唇は赤く、美しいのだろうか?
そして、その唇が吐き出した音はーー
「僕は、男なんだ」
「は?」
そんな、言葉だった。
目の前のあかねのことを乱馬は少女としか認識できなかった。
まさか、『生えている』わけでもあるまい。
まさかの意趣返しだろうか? そう乱馬が思っていると早雲がのんびりとした声で言う。
「別に君の境遇に当てこすってるわけでも、性同一性障害などと最近騒がれているものでもないよ」
所謂、女性性別であるが、男性の自意識を持っている人物…と言うわけではないのだという。
その言葉に、乱馬は違和感を拭いきれなかったが、なんとかそれを表に出さないように努めた。
尊大でデリカシーがない彼でもその程度の配慮は出来た。
早雲は乱馬のその様子を好ましげに見つめ、口髭の下の口元を穏やかに笑みの形に釣り上げた。
「あかねには、成人男性として生きた記憶があるみたいなんだ」
そして、その言葉は乱馬の顔に出さない努力を打ち消すような内容であった。
思わず、乱馬はギョッとしてあかねを見た。
彼女は、乱馬のその様子にどこか寂しげに微笑んだ。
その笑顔が、乱馬の胸に突き刺さった。
乱馬くんの性別変化に対しては、今作天道家の反応は原作以上にあっさりしています。
あかねちゃんで、慣れているんですね。