乾杯のために持ち上げたグラスを、美咲は宙で止めた。
「リーダー? お前が?」
拓也はメニューから顔を上げた。笑っている。その笑顔を見て、美咲もつられて口元を緩めかけた。
「うん。正式に決まったのは今日なんだけど」
「へえ。最近は女を上に置いた方が、会社も見栄えがいいんだろうな」
グラスの脚が指の間で滑った。慌てて持ち直すと、拓也が眉を寄せる。
「気をつけろよ。いい店なんだから」
美咲はグラスをテーブルに戻した。
窓の向こうでは、向かいのビルに明かりがともっていた。予約したときには、この夜景を二人で眺めたかった。仕事帰りに待ち合わせて、少し高い料理を頼んで、おめでとうと言ってもらう。それだけのつもりだった。
「女性だから選ばれたわけじゃないと思う。去年の案件も評価してもらえて」
「そういうことを真に受けるから、女は扱いづらいんだよ」
店員が水を注ぎに来ると、拓也の声が急に柔らかくなった。
「妻が昇進したんです。今日はそのお祝いで」
「それは、おめでとうございます」
美咲は頭を下げた。
知らない人からの祝福を、夫の隣で受け取っている。そのことが、うれしいより先に恥ずかしかった。
店員が離れると、拓也は美咲の方へ顔を寄せた。
「家のこと、これ以上おろそかにするなよ」
返事をしなければ、食事の間ずっと機嫌が悪くなる。
美咲は膝の上で両手を重ねた。
「……気をつける」
頼んだ料理の名前も、帰り道の夜景も、その夜はよく覚えていない。
ただ、言おうとしていた言葉だけが残った。
頑張ってよかった。あなたにも、一番に知らせたかった。
*
最初から、こんな夫だったわけではない。
結婚前、美咲が仕事の話をすると、拓也は最後まで聞いてくれた。うまく説明できない日には、分かるまで質問してくれた。
「結婚したら仕事、どうしようかな。忙しい時期は帰るの遅いし」
「やめたいの?」
「やめたくはない」
「じゃあ続けようよ。二人で暮らすんだから、二人で何とかすればいい」
美咲はその言葉を信じて、婚姻届に名前を書いた。
借りたマンションの名義は拓也だった。家賃も生活費も、おおむね半分ずつ。入居のときに必要だった敷金と礼金は、美咲の貯金から払った。二人で使う家具や家電も、美咲が多く出した。
そのことに不満はなかった。これから長く暮らす部屋だ。明るい色のソファを選ぶだけで、毎日が楽しみになった。
新婚の頃、魚を焦がしたことがある。
美咲がフライパンの底を見つめていると、拓也は隣からのぞき込んだ。
「すごい。見事に黒い」
「笑わないでよ」
「俺の焼く魚も、大体こんな感じ」
二人で焦げたところを外しながら食べた。皿を洗うのは拓也が引き受けた。スポンジの泡がシャツに飛び、美咲が指摘すると、彼はまた笑った。
何かを失敗しても、ここでは笑っていい。
その頃の美咲にとって、家はそういう場所だった。
変わり始めたのは、結婚して一年ほどたった頃だ。
納期前の仕事で帰りが遅くなった日、美咲はスーパーで唐揚げとサラダを買った。家にはご飯がある。味噌汁だけ作れば、温かい夕食になると思った。
拓也が先に帰っていたので、玄関から声をかけた。
「ただいま。ごめんね、遅くなって。すぐ用意する」
「それ、買ってきたの?」
袋から出したパックに、拓也の視線が止まった。
「うん。今日ちょっと間に合わなくて」
「普通の主婦なら、間に合うようにするだろ」
美咲は袋を持ったまま立っていた。
主婦、という言葉がうまく自分に結びつかなかった。今日も拓也と同じように会社で働き、二人の生活費を稼いできた。
「私も、今日は仕事が」
「母さんは働いてても、五品くらい作ってたよ」
拓也はテレビへ顔を戻した。
大声ではない。怒鳴られてもいない。その落ち着いた声が、美咲を言い返しにくくした。
パックを開ける音が、いつもより大きく聞こえた。
サラダを皿へ移し、唐揚げを温める。せめて買ってきたものに見えないように、付属の小さな容器は捨てた。
翌日は、いつもより早く会社を出た。
夕食を五品作ると、拓也は機嫌よく食べた。美咲はそれを見て、前日の自分が足りなかったのだと思い直した。
それからは、帰り道で献立を組み立てた。冷蔵庫の中身を思い出し、足りない材料を買い、残業のある日は前の晩に下ごしらえをした。
会社で夕方の打ち合わせが長引くと、話の内容より時計が気になるようになった。
同僚に「ここ、どう思う?」と尋ねられ、美咲は一瞬返事に詰まった。
今夜の副菜のことを考えていたとは言えなかった。
夕食だけではなかった。
休みの日に好きな番組を見ていると、「こういうのを見てるから考えが浅くなる」と言われた。母からの電話に出ると、「もう結婚したんだから、実家に頼りすぎるな」と言われた。
掃除を終えると、拓也は棚の端を指でなぞった。
「ここ、まだほこりあるけど」
「さっき拭いたんだけどな」
「じゃあ、拭いたつもりだったんだろ」
美咲は雑巾を取りに戻った。
言い返した後の長い沈黙より、もう一度拭く方が楽だった。
ある休日、友人から食事へ誘われた。
美咲は行きたいと答えてから、拓也へ予定を話した。夫は、せっかくの休みに置いていくのかと言った。
先週は友人と出かけていたよね。その一言が浮かんだが、口へ出す前に、休日に何をするかまで言い合うのは疲れると思った。
友人には、用事ができたと連絡した。
拓也はその日、ほとんど一人でゲームをしていた。二人の時間を楽しみにしていたわけではなさそうだった。
美咲は隣で雑誌を開いた。ページをめくるたび、自分なら今頃あの店にいたのかもしれない、と考えた。
後日、友人から写真が届いた。楽しそうだねと返すと、今度は一緒に行こうと返信が来た。
今度、という言葉にすぐ返事ができなかった。自分の予定なのに、まだ誰かの返事を待たなければ決められない。
そのことを、寂しいと思った。
出かける支度にも時間がかかるようになった。好きな服を着てから、拓也に何か言われそうな部分を探す。新しく買ったものは、値札を外してから見せた。
相談すれば否定される。相談しなければ、勝手に決めたと言われる。
何を選べば正解になるのか、美咲には分からなかった。
それでも、ときどき拓也は昔の顔をした。
疲れている日に肩をもんでくれた。雨の日には駅まで迎えに来た。人前では、美咲が仕事を頑張っていることを誇らしそうに話した。
そのたびに美咲は、まだ大丈夫だと思った。
優しい拓也が消えたわけではない。自分がもう少しうまくやれば、あの頃へ戻れるのかもしれない。
*
昇進のお祝いの夜から数日後、拓也が白い箱を持って帰ってきた。
「ほら。美咲の好きな店」
箱の中には、苺のケーキが二つ並んでいた。
美咲はすぐに笑えなかった。あの店で言われたことが、まだ喉に残っていた。
「この前は、俺も仕事で余裕がなかったからさ」
謝っているのだろうか。
美咲が顔を上げると、拓也はもう皿を取り出していた。
「コーヒー入れてよ。温かいうちに飲もう」
言いかけたことをのみ込んで、美咲はお湯を沸かした。拓也はコーヒーを待ちながら、美咲の椅子を引いてくれた。
久しぶりに、向かい合って食べる甘いものだった。
「忙しくなるんだろ。無理すんなよ」
美咲はフォークを止めた。
その一言が欲しかった。仕事を減らせでも、家事を増やせでもない、体を気遣う言葉が。
「うん。ありがとう」
今度は、本当に笑えた。
拓也が手を伸ばし、美咲の髪に触れた。その手を振り払いたいとは思わなかった。結婚してよかったと思った日のことを、まだ覚えていた。
食器を洗いながら、美咲は箱に残ったリボンを見た。
捨てるのが惜しくて、引き出しの隅にしまった。
翌朝、拓也は何事もなかったように言った。
「リーダーになったんだから、夕飯くらい段取りよくやれるよな」
昨夜の温かさが、指先からゆっくり抜けていった。
美咲は開きかけていた仕事の資料を閉じ、冷蔵庫の方を見た。
おめでとうは、まだ聞けていなかった。
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著者:さくらこ