奈緒に会う日は、帰る時刻を先に決めておいた。
夕食までには戻る。帰りに買い物もする。それなら拓也は、何も言わないはずだった。
カフェへ入ると、奈緒が手を振った。久しぶりに見る大学時代の友人は、昔と同じ笑い方をした。
「昇進したんだって? おめでとう」
美咲は椅子を引く手を止めた。
奈緒が不思議そうに首を傾ける。
「どうした?」
「ううん。ありがとう」
それだけの言葉で、目の奥が熱くなった。
慌ててメニューを開くと、奈緒は何も聞かず、焼き菓子の写真を指さした。
「これ半分ずつ食べない? 一人だと多そう」
小さくうなずいた美咲に、奈緒は店員を呼んだ。
仕事の話をした。最初の案件を任されたこと、年上の人へ指示を出す難しさ、でも挑戦してみたいこと。誰かが否定する前に話を終えようとしなくてもいい。そう気づくまでに、美咲はコーヒーを半分ほど飲んでいた。
「拓也さんも喜んだでしょ」
その問いに、フォークが止まった。
「忙しくなると家事が、って。心配してるみたい」
「美咲の体を?」
「……夕飯とか」
奈緒の顔から笑みが消えた。
美咲は急いでケーキの話をした。高い店で買ってきてくれたこと、疲れていると肩をもんでくれること。悪い話だけをすれば、拓也がひどい人のように聞こえてしまう。
「私も、最近余裕なくて。ちゃんとできてないから」
「ちゃんとって、何を?」
「家のこと」
「拓也さんは何を担当してるの?」
美咲は答えを探した。
ごみを出してもらうことはある。ただし袋をまとめて、玄関へ置くのは美咲だ。食器を下げてくれる日もある。ただし料理の品数が足りなければ、その日はやってくれない。
説明するほど、何かがおかしくなった。
「でも私より稼いでるし」
「生活費、半分くらいずつって言ってなかった?」
奈緒は責めるようには言わなかった。そのために、言葉を聞き流すことができなかった。
美咲はカップの取っ手を握り直した。
「機嫌が悪いときだけなの。ずっと怖いわけじゃない」
「機嫌がいい日があると、悪い日のことを言っちゃいけなくなる?」
美咲は奈緒を見た。
友人は返事を急がせずに待っていた。
「……そう思ってた」
口に出した途端、自分が毎日何をしていたのか、少しだけ分かった。
傷ついたことを話すのではなく、傷ついてはいけない理由を探していたのだ。
奈緒は、モラルハラスメントという言葉を出した。怒鳴ったり殴ったりしなくても、言葉で相手の判断や自由を狭めることがある、と。
美咲はその名前を、すぐには自分の結婚に当てはめられなかった。
拓也は自分を愛しているはずだった。優しい夜もあった。それまで否定されるようで、胸の中に小さな抵抗が起きた。
「今ここで、何か決めなくていいよ」
奈緒はバッグから小さなノートを出した。
「言われたことを、そのまま書いてみない? 後から、美咲が考えるために」
白いページには、何も書かれていなかった。
正しい妻になるための課題でも、別れるための命令でもない。自分が見たことを書いていい場所だった。
帰り際、奈緒は言った。
「つらいときに電話して。話がまとまってなくてもいいから」
美咲はノートをバッグの内側へしまった。
*
最初の日記は、三行だった。
帰宅した時刻。夕食の献立。拓也に言われた言葉。
『言われないと何もできないんだな』
夕食を作りながら洗濯物を取り込んだ日だった。畳む前の衣類がソファに置いてあった。それを見た拓也の言葉を、美咲は書き残した。
続けて『でも、私も片づけていなかった』と書きかけ、ペンを止める。
片づけていなかったことと、何もできない人間だと言われることは、同じなのだろうか。
答えは出なかった。ただ、その日は言い訳を書き足さずにノートを閉じた。
録音を始めたのは、その後だった。
責められていると、何を言われたのか分からなくなる。後から思い出そうとしても、最後に謝った自分の声ばかり浮かんだ。
話が始まったときに、スマホを置いてみる。安全に残せるときだけにする。奈緒と相談して、美咲は少しずつ記録を増やした。
ある夜、イヤホンで自分の声を聞いた。
『ごめん。そういうつもりじゃなくて』
低く平らな拓也の声の後で、美咲は何度もそう言っていた。
録音の中の妻は、怒っていなかった。夫を攻撃してもいなかった。途切れそうな声で、場を収めようとしていた。
聞き終えた後、美咲はイヤホンを外せずに座っていた。
この人を、誰かに助けてほしいと思った。
それが自分の声だと知っていても、そう思った。
再生を止めると、隣の部屋で拓也が笑っていた。
ほんの少し前に美咲を責めたことは、もう終わったらしい。妻にも笑い話へ加わるよう、声をかけた。
美咲はイヤホンをしまい、返事をした。
同じ夜の中で、こんなに違う時間を過ごしている。
夫が機嫌を直したら、妻の気持ちも元へ戻るはずだと、これまで自分も思っていた。戻らないことがあってもいいのかもしれない。日記へ書いたのは、その戸惑いだった。
その頃、義母の由美子から連絡があった。
『最近、疲れてない? 拓也と、うまくやってる?』
美咲は何度も画面を読み返した。
由美子は会えば優しい人だった。けれど、拓也の母親でもある。息子の悪口を言う嫁だと思われたくなかった。
『大丈夫です。仕事が少し忙しいだけです』
送信してから、ノートを見た。
大丈夫だと書いた指で、昨日つらかったことを記録している。その食い違いが、美咲を長く黙らせた。
*
拓也の帰宅が、さらに遅くなった。
会社で進めていた仕事がうまくいかないらしい。美咲が尋ねると、彼はネクタイを外しながら答えた。
「部下が使えないんだよ。俺が全部かぶる羽目になった」
「大変だったね」
「大変って、お前に分かる?」
美咲はそれ以上聞かなかった。
温め直した夕食を出し、食べ終わるまで待った。明日は早いので先に寝たいと言うと、夫は鼻で笑った。
「自分の仕事は大事なんだな」
眠る時刻まで、許可を求めるようになっていた。
仕事も家事も休むわけにはいかなかった。美咲は昼休みに買い物の予定を立て、寝る前に翌日の資料を読んだ。
リーダーとして最初の大きな案件を任されたばかりだった。職場で頼られることはうれしかった。家では、その喜びを言わないようにした。
喉が痛み始めた夜も、夕食を作った。
熱を測ると、思ったより高かった。翌朝、会社へ休む連絡を入れ、布団へ戻った。文字を読むだけでも頭が重かった。
夕方には、体温計に四十度という数字が出た。
拓也へ電話すると、まだ仕事中だと言われた。
「ごめん。今日は、ご飯作れない。何か買ってきてくれる?」
息を整えながら、それだけを頼んだ。
電話の向こうで、拓也がため息をついた。
「分かったよ。俺の分は適当に買う」
美咲は自分の分も、と言いかけた。だが電話は切れていた。
枕元に水は残っている。帰ってきたら、もう一度頼めばいい。美咲はそう思って目を閉じた。
玄関が開く音で目が覚めた。
リビングへ出ると、拓也は一つだけ買ってきた弁当を食べていた。自分の食事を用意する気力がなく、美咲は椅子の背に手をついた。
「私の分も、少し欲しい」
「ないよ。食欲ないんじゃないの?」
「何も食べてなくて。できれば、何か」
拓也は箸を置いた。
「こっちは一日働いてきたんだぞ」
分かっている。その言葉が口へ出そうになり、美咲はのみ込んだ。
今だけは、分かっていると答えるだけでは動けなかった。
「熱が高いの。起きてるのも、つらい」
「飯も作れないなら、妻として終わってるだろ」
美咲は夫の顔を見た。
冗談を言った顔ではなかった。
「生きてる価値ない。死ねば?」
テレビの中で、誰かが笑った。
拓也はまた弁当へ目を落とした。美咲が立っていることを、もう見ていなかった。
美咲は寝室へ戻り、スマホを手に取った。
奈緒の名前を押す。
呼び出し音が鳴る間も、謝る言葉だけが喉に浮かんだ。
けれど友人の声を聞いた瞬間、美咲は初めて、違う言葉を選んだ。
「お願い。来てほしい」
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著者:さくらこ