奈緒が来たとき、美咲は玄関の内側に座っていた。
鍵を開けてから、寝室へ戻る力が残らなかった。
「美咲」
奈緒がしゃがみ、顔をのぞき込んだ。
それを見た途端、美咲は泣きそうになった。ちゃんと顔を見てくれる人がいた。そのことが、今夜はこんなにもありがたかった。
「ごめん。こんな時間に」
「謝るのは後。今、どこがつらい?」
美咲が答える前に、リビングから拓也が出てきた。
「大げさなんだよ。寝てりゃ治るのに」
奈緒は美咲の肩を支えたまま、夫へ顔を向けた。
「受診させます。上着とバッグ、取ってもらえますか」
拓也は不満そうだったが、バッグを持ってきた。奈緒が言うと通る頼みが、自分には通らない。そのことを考える余裕も、美咲にはなかった。
靴を履かせてもらい、立ち上がる。玄関を出る瞬間、拓也の声が背中へ飛んできた。
「人に迷惑かけるなよ」
美咲は振り向かなかった。
奈緒の腕につかまり、エレベーターまで歩いた。
診察を受けた後、その夜は奈緒の家で休んだ。
水を飲めるか、食べられそうなものはあるか。奈緒は一つずつ尋ね、返事を待ってくれた。
枕元へ置かれたコップを見て、美咲は小さく言った。
「何か、手伝わないと」
「元気になってからでいいよ」
熱を出しているときに、休んでいていい。
知っていたはずのことを、美咲は友人の部屋で思い出した。
*
数日後、美咲は会社へ復帰する前に、奈緒と話した。
あの夜の録音を聞いてもらうためだった。
食事を頼んだ自分の声。箸を置く音。拓也の言葉。
短い音声なのに、再生が終わるまで美咲の手は冷えたままだった。
「離れたい」
イヤホンを外して、そう言った。
奈緒はうなずいたが、すぐに次のことを尋ねなかった。
「でも、何からすればいいのか分からない。部屋も拓也の名義だし、荷物もあるし。会社には何て言えばいいんだろう」
考えるほど、できないことが増えた。
奈緒は机の上のノートを、美咲の方へ押した。
「一つずつ調べよう。今日は、全部やらなくていい」
美咲は白い余白に、法律相談、と書いた。
決心をしただけで家を出られるわけではない。そのことを、責められずに受け止めてもらえた。
相談の日、法律事務所の入り口で、美咲は一度足を止めた。
夫婦のことを外へ持ち出すな、と拓也なら言う。美咲が何をしたかより、誰に話したかを責めるだろう。
ドアの前で、バッグの中のノートを握った。
ここまで来た理由は、その中に残っている。
弁護士は、まず美咲の話を聞いた。録音だけでなく、日記やメッセージ、受診した日の記録も見た。
「この日記は、いつから書いていますか」
「友人に相談してからです。その前のことは、後から思い出して書いた部分もあります」
「そこは区別しておきましょう」
美咲はうなずいた。
全部を強く言わなければ、分かってもらえないと思っていた。けれど弁護士は、分かることと分からないことを分けて、順に確認してくれた。
家賃と生活費の分担を話した。引っ越しのとき、美咲が出したお金のことも話した。
拓也は最近、美咲を養っているような言い方をする。その声が記憶の中から出てきて、美咲は途中で言葉を詰まらせた。
「収入は、拓也の方が多いので」
「収入の額と、実際にどちらが何を負担したかは、分けて確認しましょう」
弁護士の言葉に、美咲はバッグから明細を出した。
気持ちをうまく説明できない日にも、払った日付と金額はそこにあった。
離婚について、相手が同意しない場合の手続きも説明を受けた。録音があれば、すべてその場で決まるわけではない。時間がかかる可能性もある。
美咲は怖くなった。それでも、相談に来る前の怖さとは違った。
何が起きるか分からないまま、拓也の顔色を見るしかなかった日々とは違う。次にすることを、聞ける人がいた。
「本人に話す前に、安全に別居できる準備をしましょう」
美咲は、もう一つ項目をノートへ書いた。
事務所を出ると、奈緒が近くのベンチで待っていた。
美咲は隣へ座り、すぐには話さなかった。仕事の相談なら、要点をまとめて報告できる。自分の結婚のことになると、順番が分からなかった。
「聞いてもらえた?」
奈緒の問いに、美咲はうなずいた。
「私の話を、途中で間違いだって言わなかった」
言ってから、自分がそれほど怯えていたことに気づいた。
美咲の声が詰まると、奈緒はバッグから水を出した。飲み終えるまで、次の質問をしなかった。
まだお金のことも、部屋のことも決まっていない。拓也へ話す怖さも残っている。
それでも今日は、相談の椅子へ座り、自分の事情を話せた。
「何か食べて帰ろうか」
「うん。温かいものがいい」
奈緒が立つと、美咲も立った。疲れている日に、食べたいものを聞かれる。その小さなことが、久しぶりに自分を人の中へ戻してくれる気がした。
*
体調が戻って家へ帰ると、拓也はテレビを見ていた。
「よかったな。治って」
美咲は玄関で靴をそろえた。
心配した、と続くかもしれない。その期待がまだ自分の中にあることを、痛いほど感じた。
「で、今日の飯は?」
美咲はバッグを持ち直した。
言いたいことはあった。けれど今、ここで説明しても、安全に離れる準備はまだできていない。
「簡単なものを用意する」
何も言い返さなかったことを、もう自分の負けとは思わないようにした。
今夜を静かに過ごし、明日も出勤する。そのための返事だった。
通帳や身分証、仕事に必要なものを確かめた。思い出の品や大切な服は、少しずつ奈緒の家へ預けた。
録音と日記も、一つの端末だけに残さなかった。拓也の知らない場所へ写しを置いた。
部屋を探すための画面を開くと、予算に収まる候補は多くなかった。
それでも、一人で暮らせる部屋はあった。
窓の近くへ机を置けるだろうか。帰り道にスーパーはあるだろうか。考えているうちに、初めて胸の中へ、怖さ以外のものが入ってきた。
拓也が寝た後、美咲は由美子とのメッセージ画面を開いた。
相談したいことがあります、と入力する。
送信の上へ指を置き、動かせなくなった。
翌日、奈緒にそのことを話した。
「お義母さんは悪い人じゃない。でも、拓也のことを話したら、私が嫌われるかもしれない」
「話すかどうかは、美咲が決めていいよ」
「息子の方を選ばれたら?」
「そのときは距離を置こう。美咲が離れるのに、お義母さんの許可はいらない」
美咲は顔を上げた。
味方になってもらえなければ、離れてはいけない。それも、どこかで勝手に作っていた条件だった。
由美子へ話したいのは、許してほしいからではない。
優しく接してくれた人に、何も伝えずいなくなるのがつらかった。そして、拓也が家で何を言っていたか、知ってほしかった。
その夜、美咲は浴室でメッセージを送った。
『お義母さんに、二人でお話ししたいことがあります。拓也にはまだ、伝えないでいただけますか』
返事を待つ間、廊下で足音がするたびに顔を上げた。
やがてスマホが震えた。
『分かりました。拓也には言わない方がいいのね。いつなら会える?』
何があったの、とはまだ書かれていなかった。
美咲は画面を胸へ近づけ、息を吐いた。
*
待ち合わせたのは、由美子の家から離れた駅のカフェだった。
窓から午後の光が入り、近くの席では学生がノートを広げていた。
由美子は、美咲の顔を見て一瞬黙った。
「少し、痩せた?」
「この前、熱を出して」
「そうだったの。拓也は何も言わないから」
美咲はバッグを膝へ置いた。
ここで笑って、大丈夫ですと言えば、いつもの嫁に戻れる。
由美子も安心するだろう。二人とも、嫌な話を聞かずに済む。
それでも、美咲はノートを出した。
「今日は、大丈夫ですって言うのをやめたくて、来ました」
由美子の手が、カップの横で止まった。
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著者:さくらこ