由美子は、最初は息子をかばった。
「仕事で疲れていたんじゃないかしら。拓也、昔から言葉が足りないところがあって」
美咲はノートの角を指で押さえた。
予想していた返事だったのに、胸が縮む。自分が説明を間違えたのだろうか。言い方を変えれば、分かってもらえるだろうか。
「疲れている日だけではありません」
声が細くなった。
由美子はその声に気づいたらしく、言いかけたことをやめた。
「……ごめんなさい。続けて」
美咲は最初の惣菜の夜から話した。
何を作っても、何を選んでも、自分だけが間違えたことになる。言い返すと話が長くなるので、先に謝るようになった。
昇進を伝えた夜のことまで話すと、由美子はカップへ手を伸ばしたまま、飲まなかった。
「五品って、私が毎日作ってたって言ったの?」
「はい」
「そんな日もあったけど……毎日なんて、無理よ」
美咲は由美子を見た。
ずっと比べられていた家事の基準が、初めて具体的な生活の話になった。
「忙しければ買ってきたし、冷凍食品も使ったわ。あの子が好きなものを並べた日だけ、覚えているのかしら」
由美子は困ったように眉を寄せた。
美咲の努力が足りなかったのではない。もともと、一人の人間が毎日守れる約束ではなかった。
そう思っても、急には気が楽にならなかった。五品に届かせるため、眠る時間を削った夜が思い出された。
「録音も、聞いていただけますか」
美咲はスマホを置いた。
由美子へイヤホンを渡すと、その指がわずかにためらった。
最初の音声では、由美子は困った顔をしていた。
次の音声で、背筋が固くなった。
発熱した夜の録音を聞き終えると、由美子はイヤホンを外し、テーブルへ丁寧に置いた。
長い沈黙だった。
美咲は、その沈黙を埋めるために謝りそうになった。けれど、ノートを閉じずに待った。
「これを、美咲さんに」
由美子の声がかすれた。
「拓也が言ったのね」
「はい」
由美子は目を伏せた。
その顔を見て、美咲は初めて、話を聞く母親にも時間が必要なのだと思った。
育てた息子だ。結婚式の日、妻を守るように隣へ立っていた息子でもある。録音に残る声を、その姿と結びつけるのは簡単ではないだろう。
しばらくして、由美子が口を開いた。
「あの子、外ではいい顔をして、家へ帰ると私のせいにすることがあったの」
由美子は、自分の記憶を確かめるように話した。
友達とのことも、学校でうまくいかなかったことも、最後には母親が悪かったことになる。子どもだからと受け流した日もあった。
「大人になれば変わると思っていた。結婚したら、もっとしっかりするだろうって」
美咲は何も言えなかった。
由美子も、美咲に慰めを求めなかった。
「私が知らなかったことと、美咲さんが我慢しなきゃいけないことは、別ね」
その言葉を聞いて、美咲の肩が少し下がった。
「離婚したいと思っています。もう、相談も始めました」
由美子は目を閉じた。
美咲は待った。やり直せないのか、と言われたら、自分の意思をもう一度伝える。それだけは決めていた。
「分かりました」
由美子は目を開け、美咲をまっすぐ見た。
「戻ってあげてとは言わない。これを聞いて、言えないわ」
美咲はうなずいた。
何度うなずいても、次の言葉が出なかった。由美子が自分の前へティッシュを置いたとき、ようやく涙が落ちた。
カフェを出た後、二人は駅までゆっくり歩いた。
由美子は、息子へすぐに電話をしたい気持ちもある、と正直に話した。そんなことを言ったのかと問いただしたい。けれど、まだ同じ家へ帰る美咲が困るかもしれない。
「私の気が済む方へ、急いじゃいけないわね」
美咲は隣の横顔を見た。
自分が心配なのではなく、息子を叱って安心したいだけなのではないか。由美子も、自分の気持ちを確かめながら考えていた。
何でも正しくできる人が味方になるのではない。迷っても、こちらの事情を聞いてくれる人なのだと思った。
改札の手前で、美咲は次の相談の日を伝えた。由美子は手帳へ書き、今後の連絡についても確認した。
別れ際に、二人とも少し頭を下げた。
もう大丈夫だと言える日ではなかった。それでも美咲は、今日ここへ来てよかったと思えた。
*
由美子へ話したことは、すぐには拓也へ伝えなかった。
弁護士にも相談し、別居の準備を進めてから、同席して話す段取りにした。美咲は一人で拓也へ切り出さないと決めた。
準備が整う頃、結婚記念日が近づいていた。
その日付を手帳で見つけ、美咲は長くページを開いていた。
何年も前、同じ数字を見て、嬉しい予定を考えていた。
今年は、その日に終わらせる話をする。
悔しさより、寂しさが先に来た。
奈緒へそう話すと、友人は答えた。
「結婚してよかったって思った日まで、嫌いにならなくてもいいんじゃない」
美咲は、預けていた服を畳み直した。
昔の拓也を好きだった自分まで、間違いにしなくていい。その言葉で、ようやく昔の写真を袋へ入れられた。
新しい部屋の契約を終えた。生活に必要な荷物を移し、残すものと持っていくものを確かめた。
今のマンションで美咲が出した費用についても、明細をまとめた。使い続ける家具の扱いは、話し合いで整理する。思いつきで全部持ち出したり、腹いせに壊したりはしなかった。
離婚を求めること。財産関係を事実に沿って精算すること。解決金として三百万円を求めること。
弁護士と相談して、伝える条件を決めた。
どれも、今夜その場で決着するとは限らない。それでも、拓也の返事次第で美咲の決心まで取り消されるわけではなかった。
家へ帰ると、拓也が珍しく洗い物をしていた。
「最近、忙しそうだからさ」
美咲は玄関からその背中を見た。
スポンジを持つ手つきが、新婚の頃と同じだった。
「ありがとう」
感謝は嘘ではなかった。
そのことと、一緒に暮らし続けられるかどうかは、もう別だった。
拓也は洗い終えた皿を立て、振り向いた。
「俺だって、やるときはやるだろ」
美咲は小さくうなずき、寝室へ入った。
引き出しの隅に、ケーキの箱のリボンが残っていた。
指に巻いてみると、淡い色がまだきれいだった。
捨てるまで、少し時間がかかった。
*
結婚記念日の朝、拓也は夕食を楽しみにしていると言った。
「今日くらいは、ちゃんとしたもの食べたいよな」
美咲はカレンダーを見た。
赤い丸のついた日付は、もう料理の締め切りには見えなかった。
「今夜、話したいことがある」
「何?」
「帰ってから、落ち着いて話したい」
拓也は少し顔をしかめた。
「面倒な話なら、明日にしてくれよ。せっかくの記念日なんだから」
美咲は返事を急がなかった。
いつもの自分なら、すぐに、ごめん、と続けていた。その言葉を今朝は選ばなかった。
「今夜にしたい」
拓也は何か言いかけ、時計を見て家を出た。
ドアが閉じると、美咲は由美子と弁護士へ予定を確認した。バッグの中に必要な書類と、新居の鍵があることも確かめた。
夜、二人で食卓についた。
拓也は美咲が静かなことを気にしていたが、料理を食べ始めると、会社の不満を話した。
美咲は聞きながら、窓に映る自分の顔を見た。
笑って合わせていなかった。
食事を終え、拓也が椅子にもたれたとき、美咲はテーブルの上へ書類を置いた。
「離婚したい」
拓也は、聞き違いを確かめるように目を細めた。
「……何言ってるの?」
「私は、拓也と別れて暮らす」
美咲の声が震えた。
震えていても、言葉を引っ込めなかった。
「友達に何か吹き込まれた?」
拓也が立ちかけたとき、インターホンが鳴った。
美咲も立った。玄関へ歩く足の裏を、床の上ではっきり感じた。
ドアを開ける。
「遅くなって、ごめんなさい」
由美子がそこに立っていた。
隣には、美咲が相談していた弁護士がいた。
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著者:さくらこ