モラハラ夫の処刑日   作:桐山さくらこ

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あなたの許可はいらない

「母さん。何、この人」

 

 由美子がリビングへ入ると、拓也はすぐに近づいた。

 美咲の隣に立つ弁護士を見て、何が起きているのか気づいたらしい。

 

「美咲、勝手にここまで話を進めたのか」

 

 美咲は玄関を背にして立っていた。弁護士はすぐ近くにいた。必要なら、ここから出られる。そのことを確かめて、夫へ顔を向けた。

 

「相談して、準備をした。今日は、その話をする」

 

 拓也は由美子の方へ向き直った。

 

「母さん、聞いてくれよ。美咲が変なこと言い出してさ。俺だって仕事が大変なのに」

「座りなさい」

 

 由美子は静かに言った。

 拓也は立ったまま、美咲を指さした。

 

「あの友達だろ。あいつと会ってから、美咲おかしくなったんだよ」

「美咲さんが何を話したか、私は聞いています。あなたが何を言ったかも、聞きました」

 

 拓也の指が下がった。

 

「録音? そんなの、前後を切ったらどうとでもなるだろ」

 

 美咲は椅子へ座り、日記を開いた。窓を背にした拓也、その隣に由美子。美咲の横には弁護士が座った。

 いつもの食卓に四人がいる。食べたばかりの皿は片づけたが、味噌汁の匂いが少し残っていた。

 

「録音を始める前のことも、書いた」

 

 美咲は最初の惣菜の夜のページを示した。

 その夜の声は残っていない。後から思い出して書いたことも、日記には分かるようにしていた。

 

「お義母さんは、毎日五品作っていたって言ったね」

「それが何だよ。母さんはちゃんと家事をしてた」

「毎日は作っていません」

 

 由美子の返事に、拓也は口を閉じた。

 

「買ってきたものも使ったわ。あなたがおいしいって食べていた夕食にも、あったのよ」

「そういう細かい話じゃなくて」

「細かい話にして、美咲さんの毎日を責めたのは誰?」

 

 美咲はノートを見たまま、息を整えた。

 ずっと追いかけていた基準が、目の前で崩れていく。うれしいより先に、あの頃の自分が気の毒だった。

 

 次に、録音を再生した。

 仕事のことを知らないと笑う声。言われないと何もできないと責める声。その後で、妻が謝っている。

 

「夫婦なら、これくらいの喧嘩はするだろ」

 

 拓也が途中で口を挟んだ。

 美咲は再生を止め、顔を上げた。

 

「私が言い返した声、あった?」

 

 拓也はスマホを見た。

 

「私は喧嘩をしてたんじゃない。終わらせたくて、謝ってた」

 

 自分の声で言うと、胸の中にあったことが形になった。

 拓也は、それでも、傷つけるつもりはなかったと言った。

 

 美咲は、発熱した夜の音声を流した。

 食事を少し欲しい、と頼んでいる声は、自分の記憶より弱々しかった。

 その後の言葉を、部屋にいる全員が聞いた。

 

『生きてる価値ない。死ねば?』

 

 拓也がスマホへ手を伸ばした。

 美咲は端末を引き寄せた。弁護士が手を上げて制し、由美子がもう一度、座りなさいと言った。

 

「そこだけ聞いたら、そうなるけど」

「全部聞きました」

 

 由美子の声が固くなった。

 

「熱のある人が食事を頼んだ。それで、この言葉を言ったのね」

「俺だって、仕事で追い詰められてたんだよ」

「だから、美咲さんが生きていてはいけなくなるの?」

 

 拓也は母親を見た。

 いつものように自分をかばう顔を、探しているようだった。

 

「息子より、美咲の方が大事なのか」

 

 由美子の手が動いた。

 拓也が少し身を引く。けれど、その手は途中で止まり、テーブルの上へ戻った。

 

「息子だからこそ、こんなことを言っていいとは言えません」

 

 由美子は、自分の手を握った。

 美咲はその仕草を見ていた。母親であることをやめたのではない。それでも、息子の間違いを守ることは選ばなかったのだ。

 

 弁護士が書類を広げた。

 離婚の意思、別居、財産関係の確認、解決金の請求について、順に話した。

 

「三百万?」

 

 拓也は椅子を鳴らした。

 

「俺が養ってやったのに、今度は金を取るのかよ」

 

 美咲は明細を置いた。

 家賃と生活費の支払い。入居時のお金。家具や家電の購入記録。

 

「私も払ってきた。ここにあるのは、実際に出したお金」

「俺の方が収入は多い」

「私の負担がなかったことにはならないよ」

 

 美咲は言い終えてから、少し息をついた。

 収入の違いを持ち出されたら、そこで話を終えるしかないと思っていた。今夜は、終わらせずに事実を置くことができた。

 

 弁護士は、三百万円は美咲側の求める解決条件であり、協議がまとまらなければ別の手続きへ進むことを説明した。

 拓也が今すぐ署名をする義務がある、という話ではなかった。

 

「じゃあ、俺が嫌だって言えば終わらないんだな」

 

 拓也は美咲を見た。

 美咲は新居の鍵に、バッグの中で触れた。

 

「手続きが残っても、私は今日から別に暮らす」

 

 拓也の顔から、わずかな余裕が消えた。

 

「どこへ行くんだよ」

「住所は伝えない。連絡は、弁護士さんを通して」

 

 美咲は立ち上がった。

 拓也は寝室へ行き、クローゼットを開けた。大切な服と、いつも使っていたバッグがない。

 

「いつから準備してた?」

 

 美咲は寝室の入り口まで行かず、リビングから答えた。

 

「熱を出した、あの夜から」

 

 拓也が戻ってきた。

 

「待てよ。今まで優しくしたことも、全部忘れたわけ?」

 

 美咲の胸が痛んだ。

 焦げた魚。迎えに来てくれた駅。白いケーキの箱。

 忘れてなどいなかった。それがあるから、こんなにも時間がかかった。

 

「覚えてる」

 

 拓也は、その返事に近づいてこようとした。

 

「覚えてるから、次は戻ってくれると思ってた。でも、優しい日があっても、あの夜の言葉はなくならない」

 

 拓也は足を止めた。

 美咲は指輪を外し、テーブルへ置いた。

 指の付け根に白く跡が残っていた。

 

「私は、もう帰ってこない」

 

 玄関までの短い廊下を歩いた。

 後ろで拓也が何か言った。美咲は聞こえているのに、返事をしなかった。

 弁護士が先に外へ出て、由美子が美咲の横へ来た。

 

 靴を履くとき、手が震えた。

 由美子はそれを見ても、急がせなかった。

 

 ドアが閉じた。

 美咲はしばらく、開く音を待っていた。怒った拓也が出てきたら、どんな言葉で説明すればいいのだろう。

 

「行きましょう」

 

 弁護士の声で、顔を上げた。

 説明しきれなくても、ここから離れていい。

 美咲はエレベーターの方へ足を向けた。

 

 新しい部屋へ着く頃には、足も肩も重かった。

 由美子は入り口で、今夜何か必要なものはあるかと聞いた。美咲は水も食べ物も用意してあると答えた。それを聞くと、由美子は連絡してねと言って帰った。

 鍵を閉めた後、美咲は床へ座った。

 大事なことを言えたのだから、もっと晴れやかな気持ちになると思っていた。実際には、誰かをひどく傷つけたような気持ちも残った。

 奈緒へ、着いたよ、と送る。

 返事は、今日はもう休もう、だった。

 美咲はそれを読み、バッグから書類を取り出す手を止めた。今夜の会話を全部反省しなくてもいい。夫の返事を頭の中でやり直さなくてもいい。

 用意していた布団へ入り、明かりを消した。

 眠れるまでには時間がかかったが、寝室の外の足音を待つ必要はなかった。

 

     *

 

 翌週、拓也は会社で、妻に裏切られたと話した。

 家族のために働いたのに、友人にそそのかされた妻が金を要求してきた。黒川課長は、その話を聞いて同情した。

 

「最近の女は強いからな。大変だったな」

 

 拓也と同期の佐藤は、黙って聞いていた。

 大学時代からの友人で、結婚式にも出た。美咲の仕事を応援していると、拓也が自慢していたことも覚えている。

 

「美咲さんは、何て言ってるんだ」

「あいつの言うことは、信用できないよ」

 

 答えが返ってこなかった。

 

 その日、佐藤は、別の仕事の報告でも拓也の話に引っかかった。

 山本のせいで遅れたはずの案件について、資料の日付と説明が合わない。

 確かめようとすると、拓也は関係のない話を長く続けた。

 

 佐藤は、妻のことと仕事のことを混ぜて決めつけたくはなかった。

 ただ、どちらも本人の説明だけを信じていたことに、ようやく気づいた。

 美咲の話を聞く機会がほしいと、まず由美子へ連絡した。

 

 由美子からの返事は、短かった。

 

『美咲さんに確認します。あの子の話だけで、決めないでください』

 

 佐藤は読み終えて、机の上の資料へ目を戻した。

 自分が確かめるべきことも、まだ残っていた。

 




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著者:さくらこ
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