モラハラ夫の処刑日   作:桐山さくらこ

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今日は、これでいい

 佐藤に会う前、美咲は由美子へ一つ頼んだ。

 

「録音を、会社の人へ配らないでほしいんです」

 

 夫をかばうためではなかった。

 あの夜の自分の声が、知らない人のスマホの中で再生される。それを想像するだけで、体が固くなった。

 ただ、何も言わなければ、金目当てで夫を捨てた妻という話だけが残る。

 

 由美子は、佐藤に伝える内容を美咲と確かめてくれた。

 会うと決めた日も、途中でやめたくなったらやめていい、と言った。

 

 カフェで向かい合った佐藤は、すぐには事情を尋ねなかった。

 

「拓也から聞いた話を、俺もそのまま信じかけていました」

 

 美咲は生活費の分担を話した。入居費用も、多くの家具も、自分の貯金から出している。

 拓也の仕事をやめさせようとしたことはない。自分が仕事を続けたいと言うたびに、家のことを持ち出されたのだ。

 発熱した夜の言葉まで話すと、佐藤は目を伏せた。

 

「会社じゃ、奥さんを大事にしてるって、よく言ってたんです」

「知っています。私の前でも、誰かがいるときはそうでした」

 

 佐藤は、うなずいた。

 美咲はその顔を見て、言い過ぎたのではないかと一瞬不安になった。けれど、今話したことを取り消さなかった。

 

「夫を処分してもらうために、来たわけじゃありません」

「分かりました。録音は広めません。ただ、俺が聞いた嘘については、訂正したいです」

 

 佐藤は、自分の会社で報告の食い違いを調べていることも話した。

 山本という部下が責任を負わされた件について、記録を確認する。美咲の結婚の話とは別に、仕事の中で確かめる必要があることだった。

 

 後日、由美子を通して結果を聞いた。

 会社が確認したのは、虚偽の進捗報告や報告の遅れ、部下への責任転嫁だった。拓也は管理する役割を外され、内部業務を担当する部署へ異動したという。

 美咲は長く黙っていた。

 相手の失敗を聞いて、すぐに笑えるわけではなかった。それでも、自分が悪いという拓也の説明を、もう引き受ける必要はないと思った。

 

     *

 

 弁護士を通して、拓也から連絡が来るようになった。

 初めは、美咲が自分の人生を壊したという言葉だった。

 それがやがて、会いたい、助けてくれという言葉に変わった。

 

 美咲は夜中に、何度も画面を開いた。

 昔の拓也を、全部嘘だったことにはしたくなかった。今一人でいるのだと思うと、胸が苦しくなった。

 だが、読み返しても、自分が熱を出していた夜のことは書かれていなかった。

 会社で居場所がない。母が電話に出ない。家へ帰っても誰もいない。

 そこにあるのは、拓也が今困っていることだった。

 

 協議のために会った日、拓也は椅子から立ち上がり、突然床へ膝をついた。

 

「もう二度と、あんなことは言わない」

 

 美咲は息をのんだ。

 頭を下げる夫を、初めて見た。

 

「家事もやる。美咲は仕事を続けてもいい。だから戻ってきてくれ」

 

 続けてもいい。

 美咲は、その言葉のところで動けなくなった。

 拓也が顔を上げ、妻の返事を待つ。

 

「私の仕事を、どうして拓也が許可するの?」

「そういう意味じゃなくて」

「家事をすることが、私を連れ戻す条件になるのは、どうして?」

 

 拓也は立ち上がった。椅子へ戻るまで、何も言わなかった。

 

「私が戻らなくても、したことを認められる?」

 

 美咲は尋ねた。

 

「会社で話した嘘を訂正できる? 山本さんにしたことを、私が許すかどうかとは別に、謝れる?」

 

 拓也は口を開き、また閉じた。

 

「一度くらい、やり直す機会をくれよ」

 

 美咲は目を伏せた。

 一度くらい。その言葉で、待ち続けていた毎日が、何もなかったようになった。

 

「ケーキを買ってきてくれたとき、今度は大丈夫だと思った。優しくしてくれるたびに、もう一度信じたよ」

 

 拓也の顔を見た。

 

「あの一つずつが、やり直せると思って待った時間だった」

 

 それでも拓也は、美咲に見捨てられる自分のことを話した。

 美咲は最後まで聞いてから、戻らないと伝えた。

 夫を助けられない罪悪感が、なくなったわけではない。

 その気持ちがあっても、自分をまた同じ家へ戻さなくていい。今は、そう選べた。

 

     *

 

 条件の話し合いは、数週間続いた。

 拓也も別の弁護士へ相談し、記録を確認したうえで、協議に応じた。

 離婚への合意と財産関係の精算。解決金三百万円は一部を一括で、残りを分割で支払う。必要な連絡は決めた方法で行い、美咲の住所へ接触しない。

 署名の日、弁護士が最終の内容を読み上げた。

 

「これで、満足なのか」

 

 拓也が美咲へ聞いた。

 

「満足はできない。お金を受け取っても、言われたことは消えないから」

「じゃあ、何のためだよ」

「なかったことにして、終わらせたくない」

 

 美咲は書類の上へ目を戻した。

 これは裁判所が今ここで下した判決ではない。時間をかけて、二人の間で合意した条件だった。

 その条件を読み、美咲も自分の名前を書いた。

 

 役所で離婚届が受理されたとき、声を上げて喜ぶことはできなかった。

 外へ出ると、夕方の空が薄く色づいていた。

 美咲は弁護士へ頭を下げ、それから自分の手を見た。指輪を外した跡は、まだ少し残っていた。

 

 帰りの電車で、知らないアカウントからメッセージが届いた。

 

『俺の人生を壊して満足か』

 

 続いて、まだ愛している、返事がほしいという文が送られてきた。

 美咲は返信欄を開いた。

 あの夜、あなたが私に言ったことは、と打ち始める。

 でも、途中で指を止めた。

 

 説明は、もうした。録音も、日記も、本人の前で示した。

 これ以上分かってもらうことを、次へ進む条件にしなくていい。

 

 画面を保存して弁護士へ転送し、返信しないままアカウントをブロックした。

 電車の窓に映る自分は、思ったより疲れた顔をしていた。

 美咲はその顔へ、もう少しで家に着くよ、と心の中で言った。

 

     *

 

 新しい部屋に住み始めても、すぐには自由になれなかった。

 朝、先に誰かが起きていないか確かめた。洗い物を残して眠ると、夜中に目が覚めた。

 スーパーで唐揚げのパックを手に取っても、妻としてどうなのかという声が浮かび、戻してしまった。

 

 奈緒が来た日、そのことを話した。

 

「もう言われないって、分かってるんだけど」

「分かってても、怖いよね」

 

 奈緒は、早く忘れればいいとは言わなかった。

 その日は二人で惣菜を買った。美咲は皿へ移すか迷い、奈緒の顔を見た。

 

「パックのままでもいい?」

「もちろん」

 

 ふたを開ける小さな音を、美咲は聞いた。

 何も叱られなかった。

 

 仕事では、最初の大きな案件を進めていた。

 帰宅後も時計ばかり気にしていた頃より、同僚の話を聞けるようになった。分からないところは質問し、困ったことは早めに相談する。

 案件を終えた日、同僚がお疲れさまと声をかけた。

 美咲は、自分が役に立てたことを、遠慮せずに喜んだ。

 

 会社を出ると、いつものスーパーが明るく見えた。

 唐揚げとサラダ、煮物を選んだ。自分の食べたい分だけでいい。デザートの小さな箱を追加し、レジへ向かった。

 

 部屋の鍵を開ける。

 

「ただいま」

 

 返事はない。

 その静かさの中で、美咲は照明をつけ、好きな色のソファへバッグを置いた。

 夕食はパックのまま並べた。

 テレビをつけると、以前好きだった番組が始まったところだった。

 

 おかしくて、声が出た。

 笑ってから、玄関の方を見なかったことに気づいた。

 

 スマホが震えた。由美子から、旅先の写真が届いていた。

 一人で出かけた温泉の風景と、おいしそうな夕食。

 美咲は、楽しんでくださいねと返した。もう二人の話題の真ん中に、いつも拓也がいるわけではなかった。

 

 奈緒からも、明日は何か持っていこうかと連絡が来た。

 

『一緒に、お惣菜を買いに行こう』

 

 そう送って、美咲は唐揚げを一つ口へ運んだ。

 温かくて、おいしかった。

 

 法律上の結婚が終わったのは、役所へ行った日だった。

 けれど、何も悪くないのに謝り、拓也の機嫌を自分の責任にしていた暮らしを終えると決めたのは、結婚記念日のあの夜だ。

 夫の命を奪ったわけではない。

 自分の暮らしを決める権利を、夫の手から取り戻した。

 美咲にとっての処刑日は、そういう日だった。

 

 テーブルには、三つの惣菜と小さなデザートがある。

 数を増やすために、台所へ立つ必要はない。

 

「今日は、これでいい」

 

 美咲はそう言って、もう一度テレビへ顔を向けた。

 明日の買い物を、楽しみにしていた。

 




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著者:さくらこ
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