――戦いから数日後――
朝の潮風が、島を吹き抜けていく。
水平線から昇ったばかりの太陽が、島の緑を柔らかく照らす。
港では朝の水揚げから戻った料理たちが威勢のいい声をかけあう。
アマツシマの朝――そこに、小さな影が一つ。
トキハ神社から丘の洋館へと続く山道。そこを、息を切らしながら小さな影が走っていた。
「はっ、はっ、はっ」
ジャージ姿のムァンが、息を切らしながら走っている。速度はお世辞にも早いとは言えないが、一歩一歩、確かに佐上を昇っている。
その後ろを、自転車を押しながらナナミが見守っている。
「ムァンさま~、あと少しっすよ~」
「はっ……はっ、はいっ!」
「いつも言ってますが、ゆっくりでもいいんで。タイムよりも走りきる方が肝心っすからね」
「はいっ」
声は小さいけれど、確かな返事。額に汗を浮かべながらも、着実に少女は走って行く。
「ま、そんなこと言うまでもない、か」
見守るナナミは、満足気に笑うのだった。
海からの風が道を吹き上がっていく。島の涼しい風は、ムァンの背中を押しているようだった。
◆◆◆
アンゲルスの襲撃後、ムァンは正式にアマツシマの一員となり、アンゲルスと戦うことになった。
さて、そこでまずやることになったのが、体力作りである。
なにせ、ムァンはつい先日までただの町娘であり、パイロットに耐えられる体力がない。
ムァンは当然だ、といったが。トキハはというと――
「いやほら、アタシとしてはそのほっそーい腕と脚が失われるのが嫌で……いや分かってます分かってます、戦うには筋肉が必要だもんね。つまり全部戦いが悪い。襲ってくるアンゲルスが悪い。アンゲルスマジ許すまじ」
――と、苦し気な顔で言っていた。
「トキハ様、ちっちゃい女の子大好きですもんね」
とは、ナナミの言葉である。トキハはまったく否定をしなかった。
しかし、感情で拒否をしても、トキハも元はパイロットである。そして、自分自身も一般市民からパイロットとなったさいにフィジカル面での課題を散々指摘されていたこともあり、結局は認めることになった。
◆◆◆
トレーニングが終わった後、ナナミと一緒に十分なストレッチと休憩。
それも終わると、ムァンはジャージから私服――トキハの趣味が入った、フリルを多用した服――に着替えて、屋敷を出る。
丘を下り、向かったのはトキハ神社。
――そこが、ムァンの島での仕事場所であった――
『島に馴染むには、パイロットだけをやってちゃダメだから』
そう言ったトキハがムァンに用意したのは、トキハ神社の管理であった。
とは言っても、慕われているトキハの神社を荒らすような人はいない。そして、現人神の日でもなければ、訪れる人もそう多くない。
見回りをして、掃除をして、足りない物を確認したり、時折訪れるもの好きの相手をしたり――ムァンの一日は穏やかに過ぎていく。
境内に風が吹く。
山と隣接する林から落ちてきた葉っぱが、参道を舞う。
箒で丁寧にはいて、綺麗にする。
それすら終わって、空を見上げた。
青い空に、ちぎれた雲が浮かんでいる。
(つい先日は、黒い穴が開いていたのが信じられない)
遠くから子供の声が聞こえてくる。
(この平穏さに身を委ねていると、苛烈な記憶が悪い幻であると錯覚してしまう……)
風が吹いた。海からの潮風が、ムァンの頬を撫でる。
肌触りは、この穏やかさも現実であると訴えていた。
◆◆◆
昼を過ぎた頃、来客があった。
メイド服姿のナナミが、差し入れのジュースと共にやってきたのだ。
「ムァン様、お仕事は慣れましたか?」
差し入れを受け取り、くぴくぴと飲みながらムァンは首肯する。そんな姿を、ナナミは笑っていた。
「こほん……お仕事、といっても、お掃除をして時々来る人に応対して……ナナミの家仕事の方がよっぽど大変ですよ」
「はは、それはそうっすけど」
ナナミはふと、ムァンから視線を外した。
その先にあるのは、鳥居。そして、その先に続くアマツシマの景色。
入り江を中心とした街並と、緑の島。
「島にはなれたっすか?」
「慣れたかどうかは分かりませんが」
じっと、目の前の景色を見て――
「綺麗だと思います」
――自然と、そう言葉が出ていた。
「今度時間があったら、街まで足を延ばしてみようと思います」
「いいことっす」
◆◆◆
夕刻、丘の上へと続く道を、赤いオープンカーが駆けて行く。
いう間でもない、操っているのはトキハである。
洋館へとつくと、慣れた様子で車をとめ、そしてドアを開ける。
「ただいま~」
軽く挨拶をして、中へ。
ちょうど、キッチンから包丁の音が聞こえてくる。
それを頼りに、トキハ進む。
キッチンには、ナナミが居た。
「疲れた~、ナナミ~、今日のご飯は~」
「匂いで分からないっすか?」
火にかけている鍋の蓋をあける、すると、一気に香りが広がっていく。
「う~ん、このミルクと鶏肉の香りは、シチューね!」
「はい、大当たり」
そうしていると、小さな足音が聞こえてくる。
騒がしいキッチンに、ちょこんとムァンが顔を出す。
それを見るなり、トキハは手を叩いた。
「そうそう、ムァン」
「どうしましたか?」
「あの本――アンタが前世の記憶を取り戻すきっかえになった本の出所、分かったわ」