とある病院の屋上に灰色の髪の病院服の1人の青年が佇んでいた。
「はぁ、いつになったら治るのだろうかこの腕は…」
今日何回目かもわからないため息をつきながら青年、上条恭介は病院の柵に寄りかかる。ふと空を見上げれば彼の心とは反対にとても美しい青空が広がっている。今はこの青空さえも少し憎い。
「バイオリンが弾けなくなってどのくらい経ったのだろう。あんなことさえ無ければ...僕は...僕はこの手でバイオリンをまだ弾けていたのかな」
顔をぐちゃぐちゃに崩して虚空へ呟く。彼はバイオリニストであった。それも周りから神童と持て囃されるレベルには才能があった。しかし不慮の事故で片方の腕に深刻な怪我を負い二度とバイオリンが弾けない体になってしまったのである。それ以降彼の心は荒みきり全ての音楽がノイズなってしまうほどに曇ってしまった。
「はぁ、今日もさやかが来るのかな。来てくれるのは嬉しいんだけど...」
さやかとは彼の幼馴染である。彼女はいつもお見舞いに来てくれておりその度に恭介の好きなジャンルのCDを持ってきてくれている。しかし彼にはそれがストレスであった。弾けない音楽を毎日のように聞かせてくる。その度にバイオリンへの未練や事故が無ければという怒りが募っていく。彼女が嬉しそうに持ってくるものだから咄嗟に笑顔で対応しているがそれも限界が近い。
腕さえあればこの不満すらもバイオリンにぶつけて発散出来たのかもしれない。しかし腕は一向に動かない。
「なんで僕なんだ...!なんでなんで!」
やり場の無い怒りを柵へぶつける。柵へ必死にまだ動く腕を使って八つ当たる。また腕が動かなくなるのではないかという程に強く柵を叩く。叩いた腕は痛みを感じた。しかしこの痛みが今は安心感を与えてくれる。一通りぶつけた後、残ったのは虚脱感だけだった。ため息がまた出る。
その時一つ声が聞こえた。
「どうした、そんなに獣のように暴れていたら幸せが逃げていくぞ」
飄々とした声が語り掛けてくる。どこか調子づいた男の声。そこには身長は175cmくらいの白いワイシャツにライトブルーのテーラージャケットを着こんだ、黒いスラックスの20代くらいのミディアムレイヤーヘアの男であった。
「すいません、お恥ずかしいところを見せてしまい。ちょっと考え事をしてて、もう大丈夫ですので心配いらないです」
八つ当たりしていたところを見られてしまい顔を少し赤くしながら声をかけてくれた男の人に頭を下げて謝罪する。やってしまった。いくらストレスが溜まっていたとはいえこんな人がいるところであんなに怒りをあらわにするなんて、と恭介は反省した。顔を上げようとしたとき男が持っている一つのケースに目に入った。先細りになっていて全てが黒一色で構成されている高級そうなケース。それは恭介にはとても見覚えがあった。事故が起きる前まで肌身離さず持ち歩いていた大切なもの。楽しかったあの頃を象徴していたもの。そして今も尽きない欲望の中心。まさしくバイオリンケース。まさかこんなところで見ることになるとは思わずケースを凝視してしまう。一秒が1分にも10分にも感じるほどに衝撃を受けていた。
「そんなに驚いた顔をしてどうしたんだ?まさか俺の顔に見とれちまったのか?すまないが俺にそっちの趣味は無いんだ諦めてくれ。」
飄々とした声が耳に響いて現実へ戻る。
「すいません何でもないです。気にしないでください」
しばらく男は恭介を観察した後、察したかのように声をかた。
「このケースが気になるのか?良いだろう教えてやる。こいつはバイオリンケースと言ってな、バイオリンが入っているんだ。」
「はぁ...知ってます。」
「なんだ知っていたのか、で…何でそんな辛気臭い顔をしているんだ?」
「まぁちょっとした考え事です。気にしないでください。」
どんよりとした空気が辺りに漂う。赤の他人にこんな気を遣わせてしまうなんて自分はなにやっているのだろうと恭介は八つ当たりをしたことを少し後悔していた。ただただ時間だけが過ぎていく。空気が徐々に重くなっていく。そしてこの場にいることが耐えられなくなり早々に病室に戻ろうとした時、またどこか調子づいた声が恭介に語りかけてくる。
「お前、バイオリンを弾いているのか?」
先程とは打って変わって真剣な目をして問いかけてくる。
「いえ、バイオリンなんて一度も弾いたことなんて無いですよ。少し物珍しかっただけです。」
つい嘘をついてしまった。なぜかは分からない。きっと男の圧に耐えかねてしまったのだろう。
「嘘だな」
秒で看破されてしまった。
「何故嘘ってわかるんですか?」
「初めて会った俺ですら分かるほどに嘘をついている目をしていた。というより若干目も泳いでいたしな。それにこのケースがバイオリンケースというのを一目で見破ったからな。普通のやつならこいつがバイオリンケースなんて分かることがあまり無いからな。で、どうなんだ?」
そこには少し勝ち誇ったかのように語る男の姿があった。若干悔しさを覚えたがこれ以上誤魔化しても無駄だろうと仕方なく判断し諦めて正直に話すことにした。
「そうですね、嘘ついてました。バイオリン弾いてましたよ昔の話ですが」
「昔の話か。なぜやめてしまったんだ。お前からは少しばかり才能を感じる、この天才バイオリニストである俺が言うんだ間違いない」
「それは...」
男は心底疑問に思ったようで理由を問いかけてきた。男の質問に腸が煮えくり返るような感覚が沸いた。なぜやめたのか。その理由は明白、彼が一番分かっていることであった。この腕さえ治ってしまえば今すぐにでもバイオリンを弾きたい。でも一向に治る気配の無い腕。少し沈んだはずの怒りがまた沸いてくる。
「やめた理由なんて僕の格好を見れば分かると思うんですけど」
何とか怒りを抑えながら答える。
「生憎、俺は医者じゃないからな。いくら俺の審美眼を持ってしても誰がどの病気かなんて分からん」
「そうですか、じゃあ言いますけど僕は腕を怪我したんです。それでバイオリンが弾けなくなったんです。これで満足ですか」
半ば男に怒りをぶつけるように答える。
「なんだそんなことか」
「そんなことだって...!そんなことってなんですか!あなたには軽く見えてるんでしょうけど僕にとっては重大なことなんですよ...!それをそんなことって軽く片付けないでください!!」
抑えきれなくなり漏れ出た怒り全てを男にぶつける。周りの目なんて気にせず怒鳴った。自分でももはや制御不能であった。見ず知らずの人にこんなことをしてしまうみっともなさは感じた。しかしそれ以上に怒りが勝った。
「あなたはこんな目にあったこと無いから言えるんです。バイオリンを弾きたいのに弾けない。腕が動かないせいでやりたいことがずっっっっと出来ないんですよ!今でもあんな事故さえ無ければ弾けていたかもしれない、腕さえ動けば今すぐにだって弾きたいのにただベッドで眠ることしか出来ない!この苦しみがあなたにわかりますか!はぁ...あなたに言っても分からないでしょうね.......。あなたみたいなお調子者には」
今までに無いくらいの怒気を放った。それこそ学校の友達や幼馴染みのさやかにすら見せない程に。それも初対面の男に。
「ああ、分からんさっぱりな」
あっけらかんと言い放つ男
「腕が動かないからなんだ、そんなことで腐っているようじゃその才能はただ宝の持ち腐れだ。それにお前の言う通り俺はそんな目にあったことなんて一度もない。だが、もし仮にお前と同じような状況になったとしてもバイオリンを弾いていただろう。要するに俺の音楽への情熱はそんなものでは消えないということだ」
自信たっぷりと男は言い放つ。いったいその自信はどこから湧き上がってくるのか恭介は不思議に思うと同時に今目の前にいる男がどういう人間なのか興味がわき始めていた。しかし怒りを解放した影響か非常に疲労がたまっており、また猛烈に一人になりたい気分になったため病室へと向かおうとする。しかしまた声を掛けられる。
「そうだ、お前明日またここに来い。今日ぐらいの時間にな」
「なんでですか」
「俺のバイオリンの音色を聞かせてやる。特別サービスだ感謝しろよ。なにせこの俺の演奏が生で聞ける貴重な体験が無料で味わうことができるからな」
「いや、遠慮しておきますよ。今は音楽を聞きたい気分ではないし...」
「遠慮するなこんな機会なかなか無いんだからな」
この人話聞いてないなと恭介は頭を抱えた。
「そういや名前聞いてなかったな。俺は紅音也、1000年に1人の天才バイオリニストであり全ての人間の女の味方だ」
「僕は上条恭介って言います」
こうして恭介は病室へと戻っていった。その時後ろから”絶対来いよ、絶対だからな”という声が聞こえたが恭介はそっと耳に指を入れて聞こえないふりをしていた。
最後まで読んでいただき誠にありがとうございます。絶対音也や恭介が言わないセリフを言っておりますがお許しください。一応次回で終わりです。できるだけ最後まで付き合っていただけると嬉しいです。